日本のイスラーム (Islam in Japan)

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「ズフド(自制)とは?」 アハマド・アッリファーイー師の『神助受けし明証』より 

2010年02月18日 | ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ
アッサラーム アライクム。
皆さんに平安あれ。

本日は【ウラマーゥ(学者先生たち)に学ぶ】から
『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』拙訳を一部ご紹介いたします。

これはヒジュラ歴578年(西暦1181年)に亡くなられた、
イラク出身のアハル・ル・バイト(預言者ムハンマドさまのご家族)かつ大学者、
イマーム・アハマド・アッリファーイーの著作として知られるものです。

ダマスカス留学時代の後期にムハンマド・タウフィーク・アルブーティー博士(ムハンマド・サイード・ラマダーン・アルブーティー博士のご子息)が
マスジドで講義してくださった日々が懐かしく、また各項目も比較的短めなため、
これなら私にも少しずつ訳せるかもと思ってこの本を選びました。

念のために申し上げておきますが、私は決してリファーイー教団の回し者ではありませんし、日本でタリーカを広めるつもりは毛頭ありません。
ただ願わくはスーフィーと呼ばれる先達が(似非スーフィーではなく本物であれば)いかにまともで
むしろ私たちムスリム皆が見習うべき道を歩んでおられたかの一端を少しでもご紹介できたらと思っております。

では、前置きはこれぐらいで。一回の訳文は短いですが、気長にお付き合いください。

           ☆   ☆   ☆   ☆   ☆


慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において
我らが主アッラーにこそすべての称讃あれ。
我らが指導者ムハンマドさまとそのご家族、ご教友全員に最高の祝福と平安がありますように。

筆者たるアハマド・アッリファーイー師(アッラーのお慈悲あれ)は、『アルブルハーン・アルムアイヤド(神助受けし明証)』という著作の中で言われました。
願わくは至高のアッラーがかの先生を通して私たちにとって役立つものをお恵みくださいますように。
そして学びの友として共に学ぶ皆さんを通しても、役立つものをお恵みくださいますように。アーミーン(そうありますように)

↑これは古来よりイスラーム学のキブラとされしシャーム(狭義ではダマスカス、広義ではシリア地方)で教わった伝統的な学習スタイルで、
勉強会にてテキストとする書物を読む前に至高のアッラーへ捧げる祈りとなっています。
無論これはいわゆるアダブ(礼儀)とされるもので、義務ではないですので誤解なされませんように。


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慈愛あまねく慈悲深きアッラーの御名において

アッラーに讃えあれ。かの御方の本質に相応しき称讃を十分満足されるほどに。祝福と平安がかの御方の創られしものたちの指導者にありますように。
ご教友やご家族、そしてシャリーアとハールの徒(表面的にも内面的にもイスラームの教えに則ろうとする人たち)として彼ら先達に従った者たちアッラーのご満悦がありますように。
さらには私たちおよびアッラーの敬虔なしもべたち皆に平安がありますように。


ズフド(自制)、ニーヤ(意思)の解放、内面の純化


諸君、自制こそ至高のアッラーを目指す者たちの最初の一歩である。
その基本はタクワーであり、それはアッラーを恐れることであり、英知の頂に掲げられるものである。
そしてそれらすべてを集約するもの、それこそは霊魂の先導師かつ高貴なる指導者であるラスールッラー(アッラーの御使い)~アッラーの祝福と平安あれ~によく従うことなのである。

従順の道はじめは、「まことに行いはすべて気持ち次第である」とのお言葉(訳注:ハディース 教友ウマル・ブン・アルハッターブに遡るイマーム・アルブハーリーとムスリムの伝承)の実践として、良き模範を示すことである。
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)がある人にどのように言われたかを思い返されるがよい。

「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつジハードを望む人はいかがでしょうか。」とその人が尋ねたところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
人々はどよめき、「アッラーの使徒さま(アッラーの祝福と平安あれ)のもとへ戻って(もう一度尋ねて)ください。きっとあなたは誤解したのでしょう。」と言った。
その人が(戻って)、「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつ、アッラーの道におけるジハードを望む人はいかがでしょうか。」と言ったところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
また人々はどよめき、「アッラーの使徒さま(アッラーの祝福と平安あれ)のもとへ戻って(もう一度尋ねて)ください。」と言った。
その人が(戻って)、「アッラーの使徒よ、この世の利益を求めつつ、アッラーの道におけるジハードを望む人はいかがでしょうか。」と三度目の質問をしたところ、
ラスールッラー(アッラーの祝福と平安あれ)は、『その人に報奨はありません。』とお答えなされた。
これは信頼に足る伝承者たちが伝え、正しき伝承と判断したものである。
(訳注: ハディース 教友アブー・フライラさまに遡るものとしてイマーム・アハマドとアブー・ダーウード、アルハーキムが伝承)

この話や類似のものから我々が知り得るのは、行いの結果は気持ちによって美しくも醜くもなるということである。
だからアッラーとは善なる意思でもって接しなさい。
そして動の状態にあっても静の状態にあってもかの御方を恐れてお怒りをこうむらないように自らの身を守りなさい。
それから聖典(クルアーン)とスンナの中にある、比喩的で幾重にも解釈しうる表現(ムタシャービフ)の字面ばかりにこだわることから、諸君の信条を守るのだ。
なぜならそれこそが不信仰(クフル)の根源の一つだからである。至高なる御方は、このように仰せられている。
『ところが心中に曲がった邪な思いを抱く者たちは、フィトナ(騒乱)を求め、解釈を求めてその(クルアーンの)中の比喩的なものに付き従おうとする。』(第3・イムラーン家章第7節)



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