散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
コメント歓迎、ただし仕事関連のお問い合わせには対応していません。

旅とバカンスと夏休み

2018-07-24 07:09:11 | 日記

2018年7月23日(月)

 結果からいえば猛暑のピーク、熊谷が41.1℃を記録して高知四万十から王座奪還、東京都内も39℃越えの最悪の日になったが、教授会ならともかくTV収録をすっぽかすわけにはいかない。新木場のホームでぼんやり、というより朦朧と立ち尽くしていたら、白人の男女連れに何やら訊ねられた。珍しいぐらい英語の通じない相手なれど、「ディズニーランド?」と聞いたら激しくうなずいたから一件落着。イタリアはパレルモから来たのだそうだ。舞浜に着き、長身の男性は「アリガトウゴザイマス」、小柄な女性は「アリベデルチ」と言いながら弾んで降りて行った。

***

 客の減った車内でスマホのニュース画面を見ていたら目に入った。東洋経済新聞、フリーライター国末則子氏の署名記事である。

「フランス人がバカンスと旅行は別と考える訳 ~ バカンスではあえて不便な生活をする傾向も」

 タイトルを見た途端に膝を打ち、それで十分ながら念のため一部転記。

 フランスは、夏のバカンスシーズンの真っ盛り。フランス人は海辺へ出かけて寝そべったり、ぼっーと海を眺めたりするなどしてバカンスを過ごすことが多い。私は最近まで、フランス人が好む休暇の過ごし方といえば、「何もせず、のんびりすること」と思っていた。ところが、それだけではないことが次第にわかってきた。

「バカンス」はのんびり、「旅行」はぎっしり

 たとえば、フランス人の知人家族は約1週間の日程で日本へ来て、ある日は明治神宮と原宿の辺りを観光し、渋谷のスクランブル交差点を見に行った。次の日から京都と奈良の寺社を見て回り、富士山を見るために河口湖へも日帰りした。毎日、予定がぎっしり詰まっていて、のんびりする暇はないようだった。日本人の観光旅行とあまり変わらない感じである。

 休暇中なのに、慌ただしく過ごしていいのだろうか。日本をよく知るフランス人女性に疑問をぶつけてみた。

 彼女が言うには、「あなたの知人は日本へ旅行をしに来たから、過密スケジュールだったのです。フランス人は、バカンスと旅行を区別して考える。日本人は、バカンスと旅行は同じだと思っているかもしれないけれど」

https://toyokeizai.net/articles/-/230171?display=b

***

 この区別は重要で、僕らの忘れがちなことを思い出させてくれる。バカンス vacances はもちろんラテン語由来、英語の vacant 「空の、空虚な」、vacancy 「空所、空虚」などと同根で、日常的な仕事も娯楽も放擲して心の中を空にするのが原義と思わる。

 これとセットないし並行関係にあるのが「安息日」で、この日に日常の手の技を止めよというのは、とりもなおさず心と魂を空虚にせよとの意、空にしなければ、恵みを湛える器が器の用をなさないというのである。安息日は本来、小バカンスなのだ。バカンスが安息日の延長上にあると言ってもよい。フランス人がそういう言い方・考え方をするかどうかは知らないが。

 安息日などと言っては日本の社会に通じないから、せいぜい「バカンス」が問われるようになると良い。土日を旅・娯楽に費やしているか、それともバカンスに充てているか。休暇の消化日数ではない、必要不可欠な「空虚」を回復し得ているかどうかを問う。

 自分のことを言うなら、僕はせっかくの休暇を旅に充てる気がしない、バカンスばっかである。旅で学ぶことは比類なく大きいのだから、もう少しそちらに回せばいいのだが、ともかく物ぐさ、ナマケモノなのである。これはこれで要指導。

 イタリア人は旅とバカンスを区別するだろうか?スペイン人は?この種のことでは、どうもラテン系の人々の挙動が気になる。さっきの2人はもちろん旅の途上、それとも頭を空っぽにしてくつろぐアクティブ・バカンス・・・そんなのあるかな。

***

 日本人の夏休みの多くは、旅にもバカンスにもなってないかもしれない。「お金貯めて3日泊まるのが夏休み/週刊誌読んでやってくれば数珠つなぎ」。中島みゆき「あたいの夏休み」は1986年の曲だが、昭和の昔話と嗤えるかどうか。

 歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000701/l004118.html

 音源 https://www.youtube.com/watch?v=b0P7bUoFgKc

Ω

 

 


「不安」に関する問答

2018-07-22 09:47:13 | 日記

2018年7月22日(日)

 「このように社会適応上、必要かつ有用な心理現象であるとはいえ、不安が強すぎたり長く続いたりすれば、それ自体が苦しい症状となってくる。不安の原因がはっきりしなかったり、原因が簡単に解消できないものであったりする場合は特に苦痛が大きくなる。そのように量的または質的に通常の範囲を外れた不安は、精神疾患の経過の中できわめてよく現れる。そのパターンには、下記のようにさまざまなものがある。

① 不安の成り立ちは合理的なものであるが、不安の程度が強くて苦痛なもの(適応障害など)

② 特にこれといった理由が見あたらないのに、不安や恐怖が生じるもの(パニック障害、全般性不安障害、恐怖症など)

③ 不安が独特の形で加工され、特有の症状を生じるもの(ヒステリー、強迫性障害など)

④ 他の精神疾患にともなって、強い不安が現れるもの(統合失調症、うつ病など)

⑤ パーソナリティの問題のために、不安を生じやすく、不安に対する耐性が低いもの(境界性パーソナリティ障害など)

 このように、不安の問題はあらゆる精神疾患に関わって生じると言っても過言ではない。」

拙著『改訂版 今日のメンタルヘルス』P.181

 手前味噌だが少々工夫した箇所で、気に入ってもいる。この部分について受講者とやりとりがあった。

***

【質問】

 とても興味深く学ばせていただいております。

 「このように、不安の問題はあらゆる精神疾患に伴って認められると言っても過言ではない。」とありますが、ここでの不安に、精神疾患を患うことで生じるであろう2次的な不安(仕事のこと、生活のこと、将来について、家族のことなど)も含むのでしょうか。

【回答】

 興味深く学んでいらっしゃるとのこと、嬉しく存じます。

 当該部分はさしあたり、直前に列挙した各種の精神疾患に伴う不安に限定した記述でした。これらの不安はきわめて不快なものであり、それを軽減・除去することは治療の目標のひとつです。

 一方、この部分の記載をさらに広げて「日常生活には何らかの不安がつきものだ」ということも可能でしょうが、そのように健康な範囲内の不安はP.179-181にも記した通り、安全に生きていくために必要な警告信号です。こうした「正常な不安」を除去してしまうことはできませんし、除去すべきでもないでしょう。

 そこであらためて考えてみますと、御質問にある「精神疾患を患うことで生じるであろう2次的な不安」には、しばしばこの両者が混在するのではないかと思います。実際には両者を弁別するのが難しい場合も多いでしょうが、考え方としては「取り除くべき病的な不安」と「抱えて生きていくべき健康な不安」を区別しておくことが重要だろうと思います。

  有意義な御質問をありがとうございました。引き続き勉強を楽しんでください。

 ***

 Kuchibue 君・イザベルさんらとの勉強会で学んだ多くのことの中に、「不安」に関することが多く含まれている。

 そのひとつが「不安をすべて取り除こうとしてはならない」ということだ。不安は一種の警告信号で、身体レベルでの「痛み」に似たところがある。痛みという感覚がなかったらどんな恐ろしいことになるか、ごくまれに存在する(したことのある)先天的に痛覚が欠如した人々についての報告や、それに劣らず痛ましいハンセン病の患者さんたちの事例が雄弁に語っている。ハンセン病では病原体が知覚神経を選択的に侵す結果、進行するにつれて痛覚が麻痺してくる。煮え湯に手をつけても分からず、灼熱するストーヴにもたれても気づかない。結果は説明するまでもないだろう。

 もしも生まれつき「不安」というものが欠けていたり、成長過程で「不安」という信号の生かし方を学び損ねたりすると、精神と行動のレベルで類似の恐ろしい結果を招来することになりかねない。ここまではわかりやすい話。

 ここで問題にしたいのは、精神疾患に伴う質的・量的に異常な不安を治療する過程の中で、病的な不安からの解放を目ざして努力を続けるうちに、いつの間にか目標が「あらゆる不安から解放される」ことにすり替わってしまいがちなことである。

 正しい目標は「適度の不安を適度に抱えて生きる生活への復帰」であり、そのことを随時に確認しながら作業を続けなければならないが、とりわけ治療が長期にわたって難航する場合「どんな不安も、もうこりごり」という気もちに陥るケースは少なくない。あらゆる不安を強迫的に取り除こうとするのは、あらゆる痛みを回避しようとすることと同じく、痛ましくも自身を追いつめる愚行でしかない。不安を主症状とする病態の、見逃せない随伴効果である。

 昨今批判の高まっているベンゾジアゼピン系抗不安薬は、その利き味が快適であるだけにこうした「およそ不安をもつことへの過剰な恐れ」を助長しやすく、常用量依存の厄介さもそこにある。

***

 敬愛するN先生が、「この不安はいつまで続くんですか?」という問いに的確に答えてくださったことを思い出す。1988年9月のこと。

 「わかりきったことを訊くない」

 とN先生、

 「生きてる限り続くんや」

Ω 


45年後の歯車交換@商店街の自転車屋

2018-07-21 17:28:44 | 日記

2018年7月21日(土)

 高校時代にはマニアックな学友がいろいろあり、それらの指導で真空管アンプを自作したり、自転車をパーツから組み立てたりした。どちらも主に1973年のことで、秋にはオイルショックがあり高度成長に最初の翳りが差した転換の年だった。

 自転車の方はこの20年ばかり、田舎の家の三和土(たたき)の高い梁からぶら下げてあったが、手入れして使おうと昨夏いったん東京に運んだ。経年劣化が最も顕著なのは案の定タイヤまわりで、商店街の自転車屋のおばさんができる限りの手当てをしてくれたが、すぐまた空気が漏れだした。一目見て「無理」と言わないのが、おばさんも商売以前に自転車好きの証拠である。

 しばらく放ってあったのを、いよいよタイヤを新調しよう、ついでに愛車を見てもらおうかと点検していたら、ディレラー(derailer? 変速装置のカナメの部品)あたりで異音がし、見れば歯車の歯が欠けている。油をさしながらチェーンを回すうちにまた一枚欠けた。金属パーツばかりの中で、これだけがプラスチックのようである。

 まだ暑い夕方に、前後ともパンクしたタイヤをいたわりながら急坂を商店街まで押して上がった。半年前の奮闘ぶりを残念ながらおばさんは覚えていない。事情を話したら、「うーん、もう部品がないかも」と首を傾げ、「ちょっと呼びますから」と電話でおじさんに召集をかけた。通常対応はおばさん、ややこしいのはおじさんという決まりらしい。ライオンみたいだ。

 5分ほどでのっそり現れたおじさん、しばらくチェーンを回してみてから店の奥に入って何か確かめ、「部品交換で行けそうです」と穏やかに宣言した。「つまり、ディレラー交換?」「いえ、歯車だけ。」

 これにはちょっと感動した。おばさんが「部品がないかも」と言った時てっきりディレラーのことかと思い、「ない」なんてことあるかと半信半疑だったが、おばさんも端から歯車のことを言ってたのだ。「部品を換えると高くつきます、買い替えたほうが」式商法が横行してるこの時代に、御年45歳のディレラーの歯車を交換してくれるとは、何て嬉しいこと!

〈後輪のギアとリア・ディレラー:https://ja.wikipedia.org/wiki/変速機(自転車)>

 タイヤは安全に関わるから、こちらは考えずにチューブごと一式、新調依頼。「フレンチバルブで、サイズは二分の一、ただ、アメ横があるかどうかは分かりません」「了解です、なければ黒で」

 「アメ横」の謎は、昨秋おばさんと話していて44年ぶりに氷解した。軽量化のためにタイヤの側面を飴ゴムで張ったものを「飴横」と言うのだが、たぶん自転車好きの間でしか通用しない。その昔、中野あたりの自転車屋さんと電話で話していて、何でタイヤをアメ横から取り寄せるのかとフシギに思ったまま時が過ぎた。おばさんが今のおじさんとおんなじ口調で「まだアメ横があるかどうかは、定かじゃない」(奥ゆかしい言葉遣い!)と言った時、「アメヤ横丁」ではなく「飴ゴム側面」の意味かと天啓がくだったのだ。

 「ただ、少し日数をいただきますが」「どのぐらいでしょう?」

 内心で週単位を予想し、夏の帰省に間に合うかしらんと算段していたら、

 「いちばん遅いと木曜日になります」「え、来週の?」「はい、早ければ月曜日」

 それはおじさん、「待つ」とは言いませんよ・・・

 自転車をあずけ、地元に商店街のある豊かさを感じつつ西陽の坂を下る。帰宅後まもなく、御嶽海が堂々の寄り切りで初優勝を果たした。45年前の名古屋場所は新横綱輪島を退けて琴桜が5回目の優勝、帰り関脇の大受が史上初の三賞独占を果たし、場所後に大関昇進を決めている。

 「大受」の四股名は、論語衛霊公の「君子は小知すべからず、大受すべし」に依るのだそうだ。西郷どんみたい。

Ω

 


カジノ法成立の日/ベルツの忠告

2018-07-21 09:38:11 | 日記

2018年7月20日(金)

 統合型リゾート(IR)実施法(いわゆるカジノ法)が衆院を通過し、今夜にも成立の見込みである。最近めっきり「美しい国」というフレーズを聞かなくなったのも道理、愛する祖国がまたまたババっちくなることだ。誰のためにもならない悪法と言いたいところだが、誰かの「ため」にはなるのであって、だからこそ強く圧力をかける「誰か」がいる、それが薄気味悪い。首相は早晩代わるだろうが、カジノとそれにまつわる権益のしがらみははるかに永続して、後世に頭痛の種を残すだろう。

 ちょうどこの日、一人の若者が「ギャンブル依存症」で外来を受診した。もっぱらこれを主訴とするケースを診るのは実は初めてで、カジノ法成立当日というのが彼にも僕にも「記念日的」である。もっとも「ギャンブル依存症」というのは送り込んできた親の見立てであり、本人は自分に何が起きつつあるか今のところ不得要領である。親はよく分かっているかといえばこれまた別の問題があり、息子の行動が「抑圧されたものの回帰」である可能性に想到していない・・・のかもしれない。

 岡目八目、構図自体はどこの家庭にもあることで、あらためてあれやこれや考えさせられながら、帰りは新宿でS社のT君と軽く暑気払いした。先週は村上康成さんに「すっかり問診されちゃいましたね」と言われ、今日は今日とて「先生と話してると、つい自分のことを喋っちゃって」と言われる。どうも恐れ入るが問診などというものではない。人ひとりの人生には必ず聞くべきもの、価値あることが詰まっている。それを聞かせてもらうのは半端な自説を開陳するよりずっと、遥かに面白い。ちなみに村上さんは、御自身の描く魚たちそっくりのキラキラクリクリした瞳の持ち主である。

***

> 筆力がイマイチで読みづらかったですが、事実は小説より奇なり。ビゲロウとフェノロサが仏教徒に改宗するくだりが面白い一冊です。

 Wolfyさん、ありがとう。守備範囲広いですね。ぜひ読んでみます。

 日本国で耶蘇教徒として暮らすことには少数派の小気味良さがありますが、こうしてやって来た人々が仏教徒に改宗する話には、これまた鏡像的な痛快さがあったりします。フェノロサは魔女の街セーラムで、スペイン移民の子として不完全燃焼の少年期を送った背景があったようですけれど。

 『お雇い外国人』で知ったのですが、当然ながら宣教師フルベッキをはじめとする正統的なキリスト教徒ばかりが来たわけではなかったのですね。とりわけ面白いのはモースで、彼の講義にはほとんど毎時間のように聖書的創造説への批判や揶揄が含まれていたそうです。当時売り出し中の進化論を宣教師的な熱意で解説すれば、自ずとそうもなるのでしょう、どうやらモースはこのスタンスのためにアメリカで求職に苦労したことがあったらしい。

 とはいえ、そもそも聖書になじみのない日本の学生は、モースがむやみに力こぶを入れる理由が、すぐには分からなかったでしょうね。問題はそこから、事情が分かった後の学生らの姿勢ではなかったかと思います。「欧米には聖書的創造説と科学的進化論があり、呆れるほどお互いに仲が悪い」と記述するところまでは良いとして、そこに至る経緯を歴史的に再構築・追体験する労を惜しみはしなかったか。角逐葛藤の末に代価を払って生み出された成果産物だけを易々と享受するのは、一見利口のようできわめて底の浅い、学問そのものを貶める行為だと思います。三次元の構造物を平たく押しつぶし、二次元の見取り図としてハンディに持ち歩こうというようなものです。

 この種の底の浅さは未だ至るところに幅を利かしており、たとえば C. Rogers のカウンセリング理論の持ち込み方なんかは好例だと思いますが、これは手前味噌かもしれない。ともかく日本人の教養の中で歴史が抜け落ちがちだというのが事実だとすれば、それは偶発事ではなく構造的なものではないか。

 何を言いたいのか Wolfy さんはよく御承知ですから多弁は無用、『お雇い外国人』でも紹介されているベルツ(E. von Bälz)の忠告を転記してオシマイにします。過去の話だったらいいんですけどね。

「日本人は、学問を目して一の機械となし、年から年中、其れから其れへと夥しい仕事をさせ、また無制限に何処へでも運搬し、そこにて働かし得るものと考えて居るのである。是れは間違いである。西欧の学界は機械に非ず、一の有機体にして、他のすべての有機体と等しく其の繁殖には一定の気候、一定の雰囲気を要するのである。(中略)人々は外人教師より、今日の学問の『結実』のみを探らんと欲した。然るに彼等は先ず種子を蒔かんと考えたのであった。この種子が芽を吹き、日本に於ける学問の樹が人手を借らずに発育するように、又この樹に正しく手入れして、愈々新しく愈々うるわしき果実を着けるよう欲したのであった。然るに日本人は教師から最新の収穫を受け取る事で満足して仕舞ったのである。この新しき収穫を齎す根元の精神を学ぶことをせずに。」

『お雇い外国人 - 明治日本の脇役たち』P.206-8

https://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・フォン・ベルツ

Ω


日本に骨を埋めたお雇いの人々

2018-07-20 06:57:57 | 日記

2018年7月19日(木)

 梅渓昇『お雇い外国人 ー 明治日本の脇役たち』

 まだ読みかけだが、戯れに第2章「功績を残した人びと」で言及された人物を列挙してみる。

***

フルベッキ 米(G.H.F. Verbeck)政治・法制度、宣教師 ※

ボアソナード 仏(G.E. Boissonade)法制度

ロエスレル 独(H. Roesler)法制度

ジュ・ブスケ 仏(A.C. Du Bousquet)軍事(陸軍)・外交 ※

ドゥグラス 英(A.L. Douglas)軍事(海軍)

デニソン 米(H.W. Denison)軍事・外交 ※

キンドル 英(T.W. Kinder)貨幣制度

シャンド 英(A.A. Shand)銀行制度

ワグネル 独(G. Wagener)殖産興業 ※

ダイエル 英(H. Dyer)工業・工学教育

エルトン 英(W.E. Ayrton)電気工業・工学教育

ラグーザ 伊(V. Ragusa)美術

フォンタネージ 伊(A. Fontanesi)美術

コンドル 英(J. Conder)建築 ※

モルレー 米(D. Murray)教育行政

モース 米(E.S. Morse)生物学・科学哲学

フェノロサ 米(E.F. Fenollosa)美学・哲学 ※※

***

この17人のうち、※を付した5人は日本で亡くなった。

フルベッキ(1830-98):赤坂葵町の自宅で心臓麻痺のため急逝。葬儀は芝日本基督教会で行われ、青山墓地に埋葬。

ジュ・ブスケ(1837-82):日本女性と結婚し3子をもうけた。日本政府との契約が満期完了した後もフランス領事として留まり麻布鳥居坂の自宅で他界。青山霊園に埋葬され、墓碑には「治部輔」と刻まれる。

デニソン(1846-1914):終生、外務省顧問として日本の外交に貢献。築地の聖路加病院で死去の後、青山墓地に埋葬。墓碑は盟友・小村寿太郎の墓の近くに建つ。

ワグネル(1831-92):後半生の25年を独身で過ごし、産業発展に貢献。講演では常に日本語を用い、日本の風土を愛した。遺言に従って青山墓地に埋葬。

コンドル(1852-1920):11日前に亡くなった妻と共に護国寺に埋葬。

※※を付したフェノロサ(1853-1908)の場合は、ひときわ印象痛烈である。1896年以降、京都に住んで仏教を学ぶなどしていたが、1908年に美術研究のため渡英し帰国の直前に急逝した。遺骨はいったんロンドンに葬られた後、生前の希望に従って翌年三井寺境内に移葬され今日に至る。

***

将東遊題壁

釈 月性

男児立志出郷関
学若無成死不還
埋骨豈惟墳墓地
人間到処有青山

 釈月性(1817-58)は幕末期の尊攘派僧侶。周防大島で浄土真宗の寺の住職を勤める傍ら攘夷論・海防論の喧伝に余念なく、吉田松陰などとも往来があった。

 「骨を埋(うず)む豈(あに)惟(た)だ墳墓の地のみならんや」の転句が切っ先のように鋭いが、これを実行して日本に骨を埋めた異人らが近代日本の勃興を支えてくれたと知ったら、攘夷坊主の月性先生、何と言ったことだろうか。

 同胞とは誰のことかとあらためて思う。血統も生地も異にしながら、才能と生涯を捧げて労苦を共にしてくれた「外国人」か、それとも・・・?


https://ja.wikipedia.org/wiki/月性

Ω