2018年7月2日(月)
順境の日には楽しめ
逆境の日には考えよ
(『伝道の書』7章14節、口語訳聖書)
機知・叡智が感じられてよく思い出す言葉だが、いざ逆境に直面して、考える頭など働くものだろうか。むしろ順境の日にこそ驕ることなくよくよく考えておき、逆境の日にはひたすら耐えるものではあるまいか。
・・・などと考える自分は、おおかたぬるま湯の順境にある。爆弾も降ってこず、地雷を踏むおそれもなく、三食の憂いなく、逆境とはほど遠い。ならばこそ、今のうちに考えておくべきだろうか。
ところで…
順境には楽しめ
逆境にはこう考えよ
(『コヘレトの言葉』7章14節、新共同訳聖書)
出たよ翻訳問題。こう考えよとはどう考えよというのか、内容はさておき、考える方向が指示されているのと否とでは、まったく意味合いが違ってくる。
順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ
人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた、と。
戻って口語訳、
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。
神は人に将来どういうことがあるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
悲観的な予定調和とでも呼びたくなるようなコヘレト特有のけだるい「迷」調子で、どういう顔をして読んだらよいのか当惑するのは同じだが、口語訳は後節との結合がやや緩く、まだしも勝手に何かを「考える」余地が留保されているようである・・・そうでもないのかな。
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旧約の翻訳問題を考える度に、必ず思い出すのが牧師ドン・ハウランドの言葉である。ある日の Lectors meeting で、箇所がどこだったか忘れたが旧約のテクストを前にして、「どう感じるか」とドンが聞いた。メンバーの一人二人がめいめいの考えを述べたところで、ドン先生、眉根を寄せた。
"I urge you to feel."
低くよく響く彼の声が今でも耳底に残っている。『燃えよドラゴン』("Enter the Dragon")の冒頭でブルース・リーが弟子の頭を叩(はた)いて言ったのと、同じ台詞なのが面白い。
"Do not think. Feel!"
これ、診察室や教室でもなじみの風景で、考えを述べることは簡単だが、「どう感じるか」と聞かれて直ちに感じたことを語れる人は少ない。質問に答えたつもりで大概は考えを語っており、「考えじゃなくて感じたことを」と促されてもハッと気づくのは十中二三、考えと感じの違いが分からず当惑する姿が多い。それぐらい日頃から「感じる」ことの表面を「考え」で厳重にコートしているということらしい。「考える」と「感じる」を自在・適切に使い分ける能力は、成熟と練達の証である。
ともかく、旧約の多義性を読みほぐすには「感じる」作業が不可欠だとドンは言った。旧約ヘブル語はそういう性質の言葉だというのである。意味の曖昧さに辟易するか、自由度の高さを楽しむか、何しろ律法の人間離れした細かさ・強迫性が解釈の自由度の高さと同居しているのが、旧約の呆れた魅力といえようか。
いっそ「逆境の日には感じよ」と言ったらどうなる?
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スタインベックは『エデンの東』で旧約言語の多義性をカラクリに使った。創世記4章7節、アベルに殺意を燃やすカインへの主の言葉:
「どうして怒るのか、どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」(新共同訳)
「支配せねばならない」(口語訳では「治めねばならない」)と訳されたこの箇所が、実は多義的だというのが主人公の悩みどころ/楽しみどころである。スタインベックが timshel と転記した決め言葉は、「支配せねばならない」という訳の他に「支配するであろう」との訳が可能であり、さらには「支配するかしないかは汝次第」と訳すことができるという。
この点をめぐる神学的(?)な煩悶がどうやら『エデンの東』の中心的なテーマで、主人公は死の床にあってこのテーマを罪の息子キャルに託すのだが、ジェームズ・ディーン主演の例の映画ではきれいさっぱり省略されている。
何しろ面倒なこと、新約ギリシア語とはかけ離れて感性の動員を強いられる、強迫的にして多義的な厄介きわまる古典を戴いたことが、ユダヤ人の活発な文化活動の一つの源泉ではないかと思われる。
הֲלוֹא אִם-תֵּיטִיב, שְׂאֵת, וְאִם לֹא תֵיטִיב, לַפֶּתַח חַטָּאת רֹבֵץ; וְאֵלֶיךָ, תְּשׁוּקָתוֹ, וְאַתָּה, תִּמְשָׁל-בּוֹ.
תִּמְשָׁל が問題の言葉・・・たぶん、そうだ。
Ω