散日拾遺

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「ゲーム依存は精神疾患」〜 ICD改訂の余波

2018-07-02 08:16:21 | 日記

2018年7月1日(日)

 これも忘れないうちに。

 23日の土曜日に帰京し、翌日曜日はここ数年の恒例に従って千葉のS教会/幼稚園で話をさせてもらった。その顛末を本日発行のC.S.通信に書いたので転載する。一石二鳥。

 それにしてもこのタイミングでのICD改訂、毎度のことながら教材を準備する立場としてはアタマが痛い。この件、余波というより主たる結実か。大変な問題になることは間違いない。既に大変になっているがもっと大変になる。

 ほんとにほんとに大変だ。

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ゲーム依存をどう防ぐか

石丸昌彦

 「子どものゲーム依存をどう防ぐか」

 先日ある教会の牧師さんから、このテーマで講演してほしいと依頼を受けました。
 ゲーム依存は大きな社会問題となりつつありますが、そういう病名が存在するわけではありませんし、私自身もゲーム依存を治療した経験などありません。教会幼稚園の園児たちにゲーム依存が流行している訳でもないでしょうが、牧師さんは真剣そのものです。
 仕方なく、「専門ではないけれど勉強と思ってやってみます」などと言いながら引き受けたところ、講演の数日前に新聞をみて驚きました。

 「ゲーム依存は精神疾患 ― WHOが認定」(朝日新聞6月19日朝刊1面)

とあるではありませんか。

 国際連合の専門機関であるWHO(世界保健機関)が作成し、世界中で使われているICD(国際疾患分類)というマニュアルの改訂にあたって、ゲーム依存症にあたる「ゲーム障害」が新たに認められることになったのです。つまり「病気」として公に認知されたわけです。
 ゲーム依存は日本など限られた地域の問題かと思っていましたが、ICDがとりあげたということは既に全世界的な問題である証拠です。恐ろしい時代になったもので、これではもう「専門外」と逃げるわけにはいきません。牧師さんの着眼の鋭さに感心しながら、手もちの知識を総動員して話を組み立てました。

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 そもそも依存症とは何なのでしょう? ただ「好き」というのと、依存しているのとは、どう違うのでしょうか?
 最大の違いは、本人がそのことを主体的にコントロールできるかどうか、というところにあります。ほどほどの時間でやめられるか、ゲームを優先して生活リズムを崩していないか、熱中するあまり他の大事なことをおろそかにしていないか、ゲーム以外のことや人が目に入らなくなっていないか等々。
 何だそれだけのことか、と思われそうですが、「それだけのこと」が守れない大人たちを、私たちは毎日目撃します。満員電車の中で体を避けようともせず、肘が当たろうが荷物が邪魔しようがおかまいなし、杖をついた人が前に立っても目つさひみもくれずにゲームのキーを叩き続け、駅に着けば画面を見たまま顔も挙げずに降りていく、そんな姿は珍しくありません。
 同じく恐いと感じるのは、一部の赤ちゃん連れのお母さんです。抱っこされた赤ちゃんがつぶらな瞳でお母さんを見つめているのに、お母さんの視線は赤ちゃんではなくスマホに吸いついています。首が折れそうなほど赤ちゃんがそり返り、隣の人が思わず手を伸ばしそうになっても、肝心のお母さんは気がつきません。
 何と危ない、そしてもったいないことでしょう。こうして失った時間は後からでは取り返しがつきません。こうしたお母さんの姿を日常的に見て育った子どもがゲームに依存し始めた時、「やめなさい」という言葉にどんな説得力があるでしょうか。

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 先の新聞記事は、全国で成人421万人、中高生52万人にゲームやインターネット依存の疑いありとの厚労省の調査結果を紹介し、それになのに政府は対策をとっていないと批判します。
 それは事実でしょうが、政府の対策を待っているわけにはいきません。インターネットにせよゲームにせよ、使うのは個人であって誰に強いられるわけでもありません。そういう意味ではお酒の問題、いわゆるアルコール依存症と同じですし、お酒の問題以上に家庭のあり方と関連が深いのです。進行するのも回復するのも家庭が主な舞台ですから、家庭の中、大人の側にしっかりした防波堤を築かなければなりません。
 そのためには、子どもが中高生になってからでは遅いのです。牧師さんが憂慮したのは、実は幼稚園児ではなく園児の父母の姿でした。講演当日、食い入るように話を聞くお母さんたちの姿を見て、そのことに思いあたりました。

(続く)

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