散日拾遺

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もう泣かなくともよい

2018-07-08 07:10:00 | 日記

2018年7月8日(日)

 東京は蒸し暑い7月が戻ったが、広島・岡山はじめ広い地域に甚大な被害、愛媛・高知・岐阜を中心に要警戒が続き、倉敷では救出作業が難航している。幸い当該地域に住むゼミ生らは皆無事と分かった。愛媛では父方の祖母の里(大洲市・肱川流域)と、母方の祖母の里(旧北条市・河野川下流)がいずれも痛打を受けている。

 この朝与えられたのは、ルカ福音書7章11-17節、「ナインのやもめ」の一人息子をイエスがよみがえらせる場面。

 13節「憐れに思い」(新共同訳)は少々言葉が弱い。σπλαγχνιζομαι は σπλαγχνον(腸)に由来し、腸(はらわた)がかきむしられるような強く深い情動・同情を意味する。「深い同情を寄せられ」(口語訳)の方が、説明的ながら原意を汲んでいる。

 同節「もう泣かなくともよい」が核心である。κλαιω は声を挙げて泣き叫ぶ様で、静かに涙を流す δακρυω と対置される。単に「泣くな」「泣くのをやめよ」ではなく、「もう(これからは)泣かなくともよい」とあるのが大事なところ。単にこの日この時、一度の奇跡で終わりではなく、主が死そのものを滅ぼすために来たからには、今後二度と死を嘆かなくともよいということである。口語訳では「泣かないでいなさい」とあり、やはり(これからは二度と)が含意されているが、なぜそう訳せるか?

 原文は、"μη κλαιε." つまり現在命令法であり、アオリスト命令法 "μη κλαισον." ではないところがポイント。現在・一回の「泣くな」ではなく、反復・継続の「泣かずにいよ」が正しいのだ。

 πιστευε.   信じ続けよ、信仰を保て。
 πιστευσον. いま信ぜよ、信仰をもて。

 「もう泣かなくともよい」は、いくらか意訳に流れた観があるものの、名訳かもしれない。待ち焦がれた母親の顔を見たとたん、堰が切れたように子どもが泣き出すのを「ごめんね、もう泣かなくてもいいのよ」となだめる場面が彷彿される。

 いずれにせよこの場限りで完結するのではない、今後くり返され未来へ続いていく慰めの始まり、そのような意義がこの場に託される。岳父の月命日の学び、被災地に慰めあれかし。

***

 ところで散日(さんにち)は、仏教で法会結願(ほうえけちがん)の日を意味するのだそうである。そうとは知らずたいへん失礼、何とぞ御海容願います。散日(さんじつ)亭主人、頓首敬白。

Ω

 

【ルカによる福音書 7章11~17節】

 それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。
 イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。
 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。