散日拾遺

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墜落と冤罪と / ネアンデルタール人の虚像と実像

2018-07-31 15:02:51 | 日記

2018年7月30日(月)

> 墜落した飛行機の燃えた残骸に、さらに燃料をかけて焼却するようなものだ。

 気づいた人もあるだろうが、この結句は、S先生から勧められて読んだ下記の本を踏まえている。

青山透子『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』河出書房新社 (2017)

 この件は依然として謎だらけであるが、何か非常に大事なことが隠されているのは間違いない。つれあいは数名の同窓生を亡くした。坂本九さんの令嬢はうちの教会学校の生徒だった。神経科学のコミュニティは塚原仲晃(つかはら・なかあきら)という俊英を失った。

 同僚の無念を晴らしたい一心でここまで肉薄した著者に脱帽、『JFK』のジム・ギャリソンに対するのと同質・同水準の敬意を抱く。これは偶然ではなく、両者が対峙させられている見えない力が、実は基本的に同じものではないかという気がする。

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 6月中だったと思うが、数年前に関西地方で起きた冤罪についてのドキュメンタリーを見た。こういう番組が作られる間は、TV報道の無残な劣化にもどうにか目をつぶっていられる(http://katchan55.com/news/1873/ ほか)。ただし御巣鷹山の「事件」の際は、墜落当夜に現場近くの住民らがTV局に電話して墜落地点に関する誤報を指摘したのに、政府や県関係者同様とりあげるものがなかったという。

 冤罪の件、無実をきわどく証明してのけたのは被疑者のお母さんで、気の遠くなるような量の防犯カメラ映像を丹念に見直した末、遂に決定的な場面を発見した。このお母さんが、「平和で安全な日本という国に暮らせて幸せだと、ずっと思っていた。浅はかだった。」と呟く姿、記憶の中に永久保存である。冤罪は証明されたが、300日を超える不当拘留に対する賠償請求は棄却された。

 この国は住民を守らない。少なくとも、住民を守ることを最重要の存在意義とはしていない。立法も行政も、司法までもがそう思わせる。

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 試験監督で御一緒した松浦秀治先生は自然人類学者、そうと伺ってはせめて一言、教えを請わざるべからず。教わった、教わりましたよ。

 ネアンデルタール人が死者を埋葬したことが知られており、死者の周りに他所で摘まれた花が手向けられていたとの説、僕も「心の起源」に関する話の中で引用したことがある。松浦先生によれば、これがどうも怪しいらしい。埋葬したのはおそらく事実、ただし花は埋葬の時点でなく、ずっと遅れて出土物に混入した疑いがあるという。

 死者に花をたむける心をネ人がもっていたとすれば、詩的にも科学的にも興味深いことだから「なぁんだ残念」だが、がっかりすることはない。ネ人の遺骨の中には、片腕を失いながらその後も生きながらえたと見られるものがあるという。このことはとりもなおさず、重い障害を負った個体を他の者が ~ 存在する価値のないものとして排除するのではなく ~ 支えて生かしたことを意味している。

 死者の埋葬の風習とともに、困難を抱えた生者の扶助もネ人において存在していた。ネアンデルタール人は我々の祖先ではなく別系統とするのが既に常識となっているが、いずれにせよである。

 それにつけても冤罪(かづけ)の酷さよ

Ω