2016年11月15日(火)
「駅前でバナナが売ってた」式の子どもの物言いを、「バナナを売ってたんだね」と修正したのはもう20年も前になる。当時は子どもにありがちの「てにをは」の勘違いだと思っていたが、どうもこれが市民権を得つつあるようで。インターネット上である買い物をしたとき、アンケート画面の中に「この商品が売っているのをどこで知りましたか?」という質問があり、そういえば最近同種の表現を一再ならず見たことを思いだした。
むろん、僕などは60年近く身にも耳にも染みついた基本原則を変更する余地は全くないが、世間では次第に定着していくのかもしれない。「バナナを売ってる」と言えば、「誰が?」と聞きたくなる。「売る」という他動詞に「売られる」という自動詞の機能をもたせ、この部分の違和感を埋めている理屈かもな。そういえば英語の場合、「売る」を意味する"sell"には「売れる」という用法もあるよね。"This dictionary sells well." (この辞書はよく売れる)
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あの車内広告は何だっけ、国語検定?「あまりのことに相手が訂正すらできないような間違いをしないように」というキャッチフレーズで、たとえば「領収書の御宛名は?」「カミサマでお願いします」・・・上様(うえさま)でしょという落ちなんだが、ときどきそういうことはあるし我が身にも覚えがあったりする。
過去一週間以内のことだが、どこで誰が言ったことか思い出せない(最近これが多い)。それこそあまりのこと、しばらく意味が分からなかったのね。「今回は手応えあり、大丈夫ですね」というようなこちらの励ましに、相手が「〇〇〇でないと良いんですけど」と答えたのだ。それで会話は終了、語り手が立ち去って数分後に突然思いあたったのである。
「ジボレでないと良いんですけど」
だよね、「ジボレ」って言ったんだよね、「ウヌボレ(自惚れ)」のつもりで?仰天すると同時に感じ入ったのは、彼がこの言葉を耳からでなく目から学んだらしいことだ。僕にはあり得ない、ある種の勉強家、かもしれない。
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それで思い出したが、「吐き気」のことを「おえつ」と表現する人にこれまで何人か出会った。たぶん、吐き戻す(しそうになる)のを擬音表現で「おえっ」と言う、そこから「おえつ」になったのだろうと想像する。だとすれば「自惚れ(ジボレ)」とちょうど対照的に、耳から入った勘違いというわけだ。しかし「嗚咽」と書きながら「むせび泣く」動作を思い出してみると、喉元にこみ上げてくるものを抑え込む感じが何となく共通していて面白い。食道からであれ気管からであれ、こみあげるものを抑えようとすると「おえっ」という音/声が出ちゃうわけですね。
Ω