2016年11月2日(水)
土曜日に羽田を発って西へ向かう際、愛知県あたりではるか下方にロールパンの形をした雲がまばらな群れを成してゆっくり動くのが見えた。雲の落とす影が雲の後を少し遅れて付いて動く。写真の左が西、右が東、雲の下、西寄りの地上に湖のような黒いしみが見えるのが影である。午前の陽射しを受けて西寄りに影ができ、それが雲につれて動いている。理の当然だが無性に楽しくなる。
雲が動くにつれて野や街が日蔭に入り、日向に出、また日蔭に入る。パノラマ模型を見ているようだ。CGになる前の機関車トーマスの、あののどかさだ。
クモノヒナタ、クモノヒカゲ、名前みたいだ。雲野が姓で日向・日影が名、磯野家の御親戚に、そんな名前の一対の双子がいたらどうだろう?日影はかわいそうか、ひかげものではね、夏の日蔭は本当はきもちのよいものだけれど。
他愛もないことを考えるうちに早くも着陸態勢に入ったが、いつもと違って南側に大きく回り、重信川を見下ろしつつ陸側から進入した。羽田・松山便はずいぶん使ったが、こういうことは初めてのように思う。風向きのかげんなのだろうけれど。
水曜日の復路、今度は一面の雲海である。富士山の頭だけ見えているのだが写真ではわかりづらい。拡大してもわかるかどうか、ひきくらべて人間の眼というものはつくづくよくできている。
「お隣、失礼します」 → 素早く立ち上がる
「荷物、大丈夫かな」 → 頭上のキャビネットに先に置いていた鞄の向きを素早く変える
「どうもお騒がせしました」 → 素早く座る
すべての動作が素早く機敏で無駄がないが、この間まったく無言・無表情な長身痩躯の元青年(?)が帰路の隣人。身体的原因で声が出ないわけではないことが、ある事情で確認され、となるとハッキリ言って不気味である。不思議なことに、松山へ往復する便の隣人がごく普通の感じの良い人であった記憶がほとんどない。どう解釈したもんでしょうね。
空港からの京急線、国際ターミナルから一団の観光客が乗り込んできた。男女とりまぜ7人ほど、色の黒い人が混じっているがアジア系の黒さであり、そのような顔立ちである。マレー人ではない、タイ人とも違う、中国系の顔立ちではない、さてどこだろうと考えた。一様に穏やかな表情で、長旅を経て目的地に着いた喜びと緊張を表すにも大声を出さず、小川のせせらぎのような柔らかい言葉を交わしながら静かに談笑している。
隣が空いて座った小柄な女性にどこからか尋ねたら、「ヴィエト・ナム」と答えた。「ホーチミンから?」「ううんハノイ、来たことあるの?」「ない、ぜひ行ってみたいけれど」
前にも経験したことだが、ホーチミンやハノイの名を知っているだけでベトナム人は非常に嬉しそうにし、来たことがあるのかと聞く。日本人がベトナムの都市名を知っていることをまるで予測しない様だ。これも前に書いたことだが、ベトナム人に出会うと僕の側にはいつも独特の感動が湧く。彼の国の人々が日本に観光旅行する平和な状況が、本当に訪れていることが、未だに信じられないのである。あなた方の父母はあなた方の国土と名誉を守るためにどれほどの凄惨を体験し、どれほどの犠牲を払ったことか。私たちの嘉手納から巨大なB52がハノイ上空へ連日往復し、途方もない量の鉄と火薬と化学物質をあなた方の頭上に降らせたのだ。それでもあなた方は生き抜き勝ち抜き、負けて生き抜く日本人の国をいま笑顔で訪れている。ハノイの名、サイゴンあらためホーチミンの名と由来を、どうして忘れることができるだろう?
マレー人もタイ人もベトナム人も、みな穏やかな表情なのに穏やかさの質が少しずつ違う。違うけれどもみな柔和だ。柔和な顔・・・その言葉、どこかで聞いた、きょう聞いた・・・思い出して笑い出した。エホバの青年だ。
内外の顔見知り以外、郵便・宅急便配達でなければ立ち寄る人もない静かな田舎家を、高齢夫婦二人住まいと知りながら定期的に訪れる人々があり、これがエホバの証人の伝道チームである。決まった顔ぶれの女性二人がときどきやってきて、聖書の話をさせてくださいともちかける。忙しがる理由もない父は、畑仕事の合間に存分に語らせて聞き流している。伝道の相手としてはたぶん最悪だ。聖書にふれたことのない人々なら入信する可能性もあるだろうが、こちらはこちらで同じ聖書に則って確たる信を築いているから、アプローチが「成功」する確率は他のどこよりも低いのである。ただ、もう何年も続いているこの人々の訪問ぶりを見ていると、そうした効率の観念はどうやら度外視しているらしい。mission だから愚直に続け繰り返す、それだけのようだ。父は端的に「あの人たちは、エラい」と表現する。
午前中そろそろ空港へ向かおうかという頃合いに、初顔の青年男性が訪ねてきた。いつもの女性二人からどのぐらい話が伝わっているか、「うちはキリスト教ですが御存じですか?」と確認したら、「そうですか、道理で柔和なお顔をしていらっしゃる」と曰(のたも)うたのだ。自分の性根はよくよく分かっているから、お世辞にでも「柔和」などと言われると心の尻が痒くて仕方がない。ただ彼の即答のうちに、柔和であるべきことを知らされて思わず背が伸びるのである。柔和なのは地上に影を落として移ろう雲、そしてヴィエト・ナムからの旅行者であるあなた方のその微笑のほうだ。
祝福あれ、地を受け継がれよ!
μακάριοι οι πραεις, ότι αυτοί κληρονομήσουσιν την γην. (マタイ福音書 5:5)
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