散日拾遺

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怒りと笑い ~ 序説のそのまた事始め

2016-11-09 08:54:53 | 日記

2016年11月9日(水)

  火曜日の朝

  水曜日の朝

 ・・・一見大きな変化はないようだが、酢酸はせっせと仕事をしている。僕も今週はあくせくと右往左往し、昨8日(火)は今年度の我孫子まほろば出講で「笑い」について怪しげな話をしてきた。

 

 「笑い」というのは今後ぜひ究めたいテーマで、今回その準備作業の機会をもらった形である。まだ練れていないから、我孫子に向かう電車の中でもあれこれの思いが泡沫のように湧いてくる。酢卵みたいだ。泡が湧けば湧くほど、「笑い」の問題が9月19日以来の「怒りの制御」の話ともつれあってくる。しかもこのもつれあった塊全体が、「脱依存/今ここへの集中」さらにはマインドフルネスなどと密接不可分なのである。人生は偶発事の寄せ集めではなく、筋のあるもののようで面白い。

*

 エスプリとユーモアの違いについて、下記のような文章が手許にある。

 「ある日わたしがあるイギリスのレディにむかって、この問題(=エスプリとユーモアの違い:石丸註)について苦労していることを話すと、彼女は驚いて言った。

 『複雑なことは何もないじゃありませんか、これ以上簡単なことはありません。もしあたくしが<あたしはでくのぼうです>といったら、それがユーモアなんです。またもしあたくしが<あなたはでくのぼうです>といったら、それがエスプリなんです。』

 彼女の言葉は真実からそんなに遠くないことが、おいおいにわかるであろう。」

(アンドレ・モロアによる1958年3月の講演。河盛好蔵『エスプリとユーモア』(岩波新書)P.127より)

 とてもいい話なのだが、聞き手に即、分かってもらうには少々難がある。というか話し方が難しいのだ。そこでふと、若者言葉と会話体でいったらどうかと思いついた。

 「あんた、バカじゃないの?」

そう決めつけられて、

 「おまえに言われたくないよ」と切り返すのがエスプリ、

 「自分でもそんな気がする」とボケるのがユーモアである。

これなら分かりやすいし、大きく外れてはいないはずだ。

 モーロアが言うとおり、エスプリは頭の良さと反射神経が身上だが、ユーモアは自分をバカに見せる度量が要る。ユーモアの人になりたいと願いつつ、なりきれない自分の器の小ささを思う。何しろこれは良いネタだと思ったが、残念ながら話し損ねた。

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 怒りと笑いの互換性ということが、ずっと気になっている。これは病理的な方から考えるのがわかりやすく、たとえば躁病で観察される上機嫌と易怒性の危険な相互転換などは良い例である。昨日は秀吉を例に引いてみた。

  「人は儂を猿に似てるというが、どうも参った」とボヤき、曽呂利新左衛門だか誰だかに「殿下が猿に似ているのではなく、猿めらまでが殿下の御威光を慕って顔を似せ参らせるのです」と返されて大いに喜んだというような、愉快な笑いに満ちた秀吉の陽。関白秀次に腹を切らせたうえ妻妾こども侍女乳母とりまぜ39人を三条河原で芋のように斬り殺させた、あるいは自分になびかぬ山上宗二の耳鼻そいで打ち首にした悪鬼のごとき怒りの陰。陽と陰は同じ秀吉の両面であって別のことではない。大きな笑いと大きな怒りは巨大な感情エネルギーの発露として容易に相互変換される。そのことは躁状態の病理の中で、古くから知られたことである。

 頭を冷やすよう心がけつつ、少し建設的な方角から考えてみるに、怒りと笑いはともに対象/状況をコントロールしようとする意志に関わっている。自分の優位を確認しようとする意志と言ってもよい。秀吉の「陰」の事例二つは典型的な例で、思い通りにならないならば存在を認めないという形でどこまでも自己の大を主張するものだ。笑いはもちろんこれとは違うが、不思議と似たところがあるのは、笑う側は相手を笑うことによって心理的に優位に立てるということである。現実を変えることはできないが、現実を心理的に克服することができる。

 実は昨日の会場で、話し損ねた「良い笑い/悪い笑い」の項について目ざとく質問した来聴者があった。(ブログ御愛読ありがとうございます m(_ _)m)この件がこれに関わっている。現実にも優位に立っているものが、その優位を確認して悪乗りに笑うのが「悪い笑い」で、これはあらゆる差別の現場で頻繁に観察される。差別する側が差別される側の弱さ・欠け・不安・悲嘆をあざ笑う、人として最悪の笑いである。弱い者が正しい者であるとは限らないという難しさはあるものの、一般に強い立場の者は弱い立場の者を笑ってはならない。これ、人倫の基(もとい)ではあるまいか。

 いっぽう、ほぼ常に痛快な「良い笑い」は自分自身を笑う笑いである。秀吉の陽の逸話はこれまた好例で、変えようもない自身の猿面をきれいに笑い飛ばし、しかも皆が笑える形に仕あげているのが素晴らしい。「あたくしはでくのぼうです」の見事な実践例で、ユーモアの人でありたいというのはこういう仔細なのである。

 しどろもどろだね、もう少しすっきり話せるようにしたい。赤塚不二夫で始め、水木しげるで終わった全体の構成は、それなりに気に入っている。二人とも人生の早い時期に生き地獄に放り込まれながら捨て身の笑いでしたたかに生き返った、稀代の生活者である。

    

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