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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

『三四郎』を読む。その三

2005-04-17 08:22:09 | Criticism
ここで唐突に,「丸の内」ということばが何の説明もなく放り出されているのは、現実の人物「夏目漱石」の意識/無意識が働いてしまっている、という気が小生にはしてなりません。
もし、これが「三四郎」の意見だとすれば、何らかの説明が加えられていたはずです。「こんなことに驚いたんですよ」という提示が、読者の共感を生むことを作者は計算していた。そして、それが「都市小説」としての「問題提示」にもなっているのですから、余計説明が必要なのです。
「都市小説」としての骨格が揺るがないとすれば、この部分は漱石個人のタブーに触れるものがあったに違いありません。
にもかかわらず、小説作者・漱石としては、「丸の内」に言及せざるをえなかった。
なぜなら、登場人物「三四郎」は絶対に驚く情景であるし、都市小説としては扱わざるをえない場所だったからです。
このようなアンビバレンツな反応を起こさせるもの、それは何だったのでしょうか。
遠回りになりますが、「丸の内」の明治になってからの歴史を、次回でたどってみましょう。

『三四郎』を読む。その二

2005-04-15 08:42:45 | Criticism
「三四郎が東京で驚いたものは沢山ある。第一電車のちんちん鳴るので驚いた。それから其ちんちん鳴る間に、非常に多くの人間が乗つたり降たりするので驚いた。次に丸の内で驚いた。尤も驚いたのは、何処迄行ても東京が無くならないと云ふことであった。」
これが「二」の冒頭。
東京の印象が「沢山ある」中で、第一印象が「電車のちんちん鳴る」こと、第二に「丸の内」、第三に挙げられていて最も印象深いのが「何処迄行ても東京が無くならないと云ふこと」という一節です。
この一節を東京小説としての観点から分析してみよう、というのが今日の課題です。

最も問題になるのが、第二の「丸の内」。何に驚いたのかが明記されていない。取っ付き様がない、ぶっきらぼうな一文です。そこで、これは最後に回すことにします。
第一印象の「電車のちんちん鳴る」という表現ですが、これは漱石の韜晦(単なる江戸っ子特有のテレなのかもしれない)というか、一種のジョークのように思える。
大事なことを言う前に、ジョークを提示するというのは、落語の骨法から学んだとおぼしい。
ですから肝心なのは、その後にある一節「非常に多くの人間」というところでしょう。これは、第三の「何処迄行ても東京が無くならない」と照応している。
当たり前のことかもしれませんが、ここでは大前提として、
(1)多くの人間が暮らしている。
(2)広大な地域を占めている。
という都市の特徴の二点を述べているわけです。
このような特徴は、三四郎が出てきた福岡県京都(みやこ)郡真崎村にも、高等学校のあった熊本にも見られない。初めての体験だったから「驚いた」わけです。

ここで、東京に関する年表を確認しておくと、まさしく、これに当たるのが、「市区改正」事業の実施(例えば、明治40年には、日本橋周辺で、今日の中央通の拡幅が行われる)であり、それに関する官民を問わない多様な論議なのです(論議の中で、最も注目すべきは、幸田露伴の『一国の首都』でしょう。明治34年の刊行です。内容はともかく、漱石が『三四郎』を書くに当たって目を通していた可能性は強い)。
そのような「市区改正」と「東京論ブーム」の中で、『三四郎』が書かれたということは、忘れてはならないでしょう。しかも、発表媒体は新聞なのですから、ジャーナリスティックな観点を必要とする小説でもあったわけです。

さて、それでは「丸の内」とは、どのような意味をもつ表現だったのでしょうか。
次回では、この分析をしてみましょう。

『三四郎』を読む。その一

2005-04-13 00:44:17 | Criticism
漱石の『三四郎』を改めて読んでみて、明治40年代の東京をヴィヴィッドに描いた都市小説の傑作であるとの感を強くしました。
何年前、何十年前になるでしょうか、初めて読んだ時には、主人公たち、三四郎と里見美ね子との関係が興味の中心だったので、小生、迂闊にも都市小説としての側面はほとんど無視していたようです。

書き出しで、即、われわれ読者は山陽線の列車に乗っていることになります。「主人公と伴に」ではなく、〈主人公=読者〉という主客が未分明の状態に置かれるよう、慎重に描かれていることにお気づきでしょうか。

「うとうととして目が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。」

われわれ読者は、小説を読み出すと同時に、小説内世界で目を覚ますのです(筒井康隆『虚人たち』の冒頭「今のところまだ何でもない彼は何もしていない。」との距離は、思われるほど大きなものではない)。
しかも、その感じを表すのに、現在形が使われている。これが一層、現実感を与えます。

もし、この書き出しが「~話を始めていた。」となると、それが「回想」なのか、「完了」なのか、はっきりとしない。意味の違いは、文脈に係っているために、判断をペンディングにしたまま、先へ読み進めなければならないのです。
それが現在形であるために、意味は明らかです。小説内世界における「たった今/今現在」、主人公/読者が気付くと「話をしている」。

ここで主語が使われていないのも巧みなところ。〈主人公=読者〉という感を与えるための、もう一つの工夫なのだと思います。
以下、第1段落のすべての文は、「現在形」で「主語」を省いているのです。
このようにして列車に乗せられたわれわれ読者は、いろいろな小事件(この女との一夜、「髭の男」との問答)を体験しながら、東京に入って行く。

「その晩三四郎は東京に着いた。髭の男は分れる時まで名前を明かさなかった。三四郎は東京へ着きさえすれば、この位の男は到る処に居るものと信じて、別に姓名を尋ねようともしなかった。」

この項、次回へ続けます。

なおテクストには、最も入手しやすい新潮文庫版を使っています。したがって、現代かなづかいであることをご了承ねがいます。
また、「里見美ね子」の「ね」は「示」ヘンに「爾」ですが、blogの表示では出ないようなので、ひらがなにしてあることをご承知おきください。

『夢十夜』のもつ近代性

2005-04-06 13:15:25 | Criticism
「こんな夢を見た。
 六つになる子供を負つてる。たしかに自分の子である」
と始まっているのが、漱石『夢十夜』の「第三夜」である。
この子は、盲目の青坊主で、しかも「さとり」の妖怪のように、こちらの思ったことをすべて分ってしまっている。
怖くなった「自分」は、どこかに捨てようとするのだが……。

前にご紹介した新関公子『「漱石の美術愛」推理ノート』には、聖クリストフォロスの伝説が背景にあるとの指摘があった(聖クリストフォロスの伝説とは、川を幼子キリストを負って渡る聖者に関するもので、芥川の『きりしとほろ上人伝』でも扱われている。西欧では旅人の守護聖人)。
しかし、漱石の場合、聖クリストフォロスの伝説とは異なり、背負っているものに「正」の符号は一切付されていない。むしろ、完全に「負」の存在なのである(「負」が「正」に転化することもない)。
「こんなものを背負つてゐては、此先どうなるか分らない」
というのが、「自分」の気持を表す端的な表現なのだ。

「其小僧が自分の過去、現在、未来を悉く照らして、寸分の事実も洩らさない鏡の様に光つてゐる」。
むしろ、無意識の部分にまで根を張っている「良心」の象徴が、この「小僧」なのではないのか
(フロイト流に言えば「超自我」。もっとも、漱石はフロイトを読んではいないが、「良心」や「倫理」にこだわりのある漱石のこと、読めばきっとなるほどと思ったであろう)。

そして、「超自我」が掘り当てたものは、
「今から百年前文化五年辰年のこんな闇の晩に、此の杉の根で、一人の盲目を殺したといふ自覚が、忽然として頭の中に起つた。おれは人殺であつたんだなと始めて気が附いた途端に、背中の子が急に石地蔵の様に重くなつた」
という自覚、人間存在が持つ「罪」=「原罪」の自覚であった。

この話、日本の怪談仕立て(盲目の子供、石地蔵、杉の根方、青田の中の道、と道具立てが日本風)であるので、一見すると古風に思えるが、実は近代人の自意識のドラマであったのである。
それがかえって、心理の底を覗いたような「怖さ」を与えているのではないのだろうか。