江戸人の発見した「悪」の魅力というのは、次のような登場人物に現れています。
近代的解釈でニヒリストとして描くこともできる民谷伊右衛門(鶴屋南北『東海道四谷怪談』)、浜松屋の店先で小気味よい啖呵を切る弁天小僧菊之助(黙阿弥『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』いわゆる『白浪五人男』)、江戸のピカレスク・ロマン『天保六花撰』、などなど。
社会心理学的には、観衆には「しがらみ」となっている「善―悪」という道徳律、その彼岸にある人物に喝采をおくるという面もあるでしょうね。
でも、これらの「悪人」たちが、現在でも魅力を失っていないのは、なぜなのでしょうか。
前回は、そこにユングのいう「影(シャドウ)」の存在を読み取ってみたわけです。
その傍証となるのが、これらの魅力ある「悪人」たちが、現代の作品にどのようにパラフレーズされているかということ。
特に『天保六花撰』の登場人物たち(河内山宗俊、片岡直次郎、金子市之丞,森田屋清蔵、暗闇の丑松、三千歳)が登場する小説には、半村良『講談 碑夜十郎(いしぶみやじゅうろう)』、『藤沢周平『天保悪党伝』、北原亞以子『贋作天保六花撰(うそばっかりえどのはなし)』などがありますから、比較してみると面白いかもしれない。
これは小生の今後の課題として、例によって続きを再掲載します。
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「夢独特の記憶のしかた」を考察する手がかりになるのが、「臨死体験」です。
ただし、前もってお断わりしておきますが、小生は、「臨死体験は『死の間際に見た脳の幻覚である』」という「脳内現象説」を採っていますので、誤解なきよう。
また「臨死体験は『あの世の証明である』」とする「死後の世界実在説」の方と、論争するつもりもありませんので、そのような方は、この記事はお読みにならないようにお断わりしておきます(なぜなら「信念」について論争することは不毛だからです)。
「臨死体験」談には、文化による偏りがあることはよく知られているところ。
日本なら「三途の川で船頭さんに追い返された」、キリスト教圏なら「キリスト様に会った」など。これが、キリスト教徒が「三途の川」に行ったなどと語ったという話は聞いたことがない。
その一方、かなり文化圏が違っていても共通していそうなのが、「あたり一面のお花畑」という話。しかし、砂漠に暮す人びとが、そう語るかどうかには疑問がありますけれど。
また、「暗いトンネルを抜けた」とか「光に向かって行った」とか「体から魂が抜けるのを見た」というのは、文化を問わず、かなり共通しているようです。
これらは、脳が一定の状態(例えば、側頭葉という脳の一部分が刺激される、とか、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分が刺激される、とか、脳内が酸欠状態になるとエンドサイコシンという脳内麻薬が発生する、などの説がある)になった場合に起る幻覚のようです。
しかし、その幻覚を「臨死体験」後に他人に語る場合には、変容を受けて(というよりは本人の意識で既に変容を受けて)、「三途の川」「キリスト様」「お花畑」「離魂」という情景となっている。
それに照らし合わせてみると、われわれが Ur-traum で受けた〈刺激→反応〉が、覚え易い記憶になる場合には、文化的な変容や人類共通の変容(ユング的な〈原型〉であり、エリアーデ的/神話的な〈モチーフ〉による)を受けているのでは、と考えられます。
小生、それを前意識で、と述べましたが、あるいはもっと違った説明がありうるのかもしれません。特に、神経生理学的に適切な用語があるのかもしれない。
いずれにしても、「臨死体験」を科学的に分析することは、「夢」の記憶/変容メカニズムを明らかにすることにつながるようです。
近代的解釈でニヒリストとして描くこともできる民谷伊右衛門(鶴屋南北『東海道四谷怪談』)、浜松屋の店先で小気味よい啖呵を切る弁天小僧菊之助(黙阿弥『青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)』いわゆる『白浪五人男』)、江戸のピカレスク・ロマン『天保六花撰』、などなど。
社会心理学的には、観衆には「しがらみ」となっている「善―悪」という道徳律、その彼岸にある人物に喝采をおくるという面もあるでしょうね。
でも、これらの「悪人」たちが、現在でも魅力を失っていないのは、なぜなのでしょうか。
前回は、そこにユングのいう「影(シャドウ)」の存在を読み取ってみたわけです。
その傍証となるのが、これらの魅力ある「悪人」たちが、現代の作品にどのようにパラフレーズされているかということ。
特に『天保六花撰』の登場人物たち(河内山宗俊、片岡直次郎、金子市之丞,森田屋清蔵、暗闇の丑松、三千歳)が登場する小説には、半村良『講談 碑夜十郎(いしぶみやじゅうろう)』、『藤沢周平『天保悪党伝』、北原亞以子『贋作天保六花撰(うそばっかりえどのはなし)』などがありますから、比較してみると面白いかもしれない。
これは小生の今後の課題として、例によって続きを再掲載します。
「夢独特の記憶のしかた」を考察する手がかりになるのが、「臨死体験」です。
ただし、前もってお断わりしておきますが、小生は、「臨死体験は『死の間際に見た脳の幻覚である』」という「脳内現象説」を採っていますので、誤解なきよう。
また「臨死体験は『あの世の証明である』」とする「死後の世界実在説」の方と、論争するつもりもありませんので、そのような方は、この記事はお読みにならないようにお断わりしておきます(なぜなら「信念」について論争することは不毛だからです)。
「臨死体験」談には、文化による偏りがあることはよく知られているところ。
日本なら「三途の川で船頭さんに追い返された」、キリスト教圏なら「キリスト様に会った」など。これが、キリスト教徒が「三途の川」に行ったなどと語ったという話は聞いたことがない。
その一方、かなり文化圏が違っていても共通していそうなのが、「あたり一面のお花畑」という話。しかし、砂漠に暮す人びとが、そう語るかどうかには疑問がありますけれど。
また、「暗いトンネルを抜けた」とか「光に向かって行った」とか「体から魂が抜けるのを見た」というのは、文化を問わず、かなり共通しているようです。
これらは、脳が一定の状態(例えば、側頭葉という脳の一部分が刺激される、とか、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分が刺激される、とか、脳内が酸欠状態になるとエンドサイコシンという脳内麻薬が発生する、などの説がある)になった場合に起る幻覚のようです。
しかし、その幻覚を「臨死体験」後に他人に語る場合には、変容を受けて(というよりは本人の意識で既に変容を受けて)、「三途の川」「キリスト様」「お花畑」「離魂」という情景となっている。
それに照らし合わせてみると、われわれが Ur-traum で受けた〈刺激→反応〉が、覚え易い記憶になる場合には、文化的な変容や人類共通の変容(ユング的な〈原型〉であり、エリアーデ的/神話的な〈モチーフ〉による)を受けているのでは、と考えられます。
小生、それを前意識で、と述べましたが、あるいはもっと違った説明がありうるのかもしれません。特に、神経生理学的に適切な用語があるのかもしれない。
いずれにしても、「臨死体験」を科学的に分析することは、「夢」の記憶/変容メカニズムを明らかにすることにつながるようです。