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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(40) ―― A. ミッチャーリッヒ

2005-11-29 03:02:27 | Quotation
「ある集団が禁欲的で高潔な理想に依拠している時代には、同時に激しい攻撃的傾向が高まり、それが内部、あるいは外部の敵(《反革命派の人びと》)に投射されるのが観察される。ひとたび偏見によって、敵の上に危険な連中だというレッテルが貼りつけられると、自分がもっている攻撃性は、合法的な正当防禦とされ、公然と発揮されることになる。」
(『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』)

A. ミッチャーリッヒ(Alexander Mitscherlich, 1908 - 82)
ドイツの心理学者。ハイデルベルク大学精神分析学・精神身体医学教授、フランクフルト大学心理学教授を歴任。1960年以来フロイト研究所所長を兼任。
戦後ドイツの精神分析学の中心的存在だが、心理学のみならず、社会学や動物行動学も議論の展開に応用するなど、幅広い観点を持っている。1969年には、ドイツ出版協会から平和賞を受賞した。
夫人は、心理学者のマーガレーテ・ミッチャーリッヒで、『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』は彼女との共著。
「ミッチャーリッヒ曲線」で知られるドイツ人化学者の A. ミッチャーリッヒ (1836 - 1918) とは同姓同名の別人。

上記引用の『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』は、ファシズムの社会心理学的考察。
過度に抑圧された「前社会的な状態に留まっている過剰な衝動の残余」が、時として、代償作用としてスケープ・ゴート(「犠牲の山羊」)を求めることになる、と説く。ここでは、ナチ体制下におけるユダヤ人排斥が主なテーマであるが、それ以外にさまざまな社会現象を、この原理で説明することができる。
前近代における日本社会では、「村八分」「憑き物筋」など、西洋においては「魔女狩り」など
また、現代においては、アメリカでの「赤狩り=マッカーシー旋風」、ソ連での「トロツキスト狩り」など。
外国人排斥(ゼノフォビア)などは、ほとんど、このパターンということができるだろう。
しかし、「禁欲的で高潔な理想に依拠している時代」ならざる現代においても、異質なものを排撃する傾向は、同じパターンを踏むようだ。

E. フロムの『自由からの逃走』と併せて読まれることをお勧めする。

参考資料 A .& M. ミッチャーリッヒ著、 林峻一郎/馬場謙一訳『喪われた悲哀 : ファシズムの精神構造』(河出書房新社)
     アレクサンダー・ミッチャーリヒ著、竹内豊治訳『攻撃する人間』(法政大学出版局)
     A.ミッチャーリヒ著、小見山実訳『父親なき社会―社会心理学的思考―』(新泉社)

今日のことば(39) ―― K. ケレーニィ

2005-11-28 06:16:41 | Quotation
「神話の出来事は世界の根底を形づくる。というのは、一切が神話の出来事を基礎とするからだ。神話の出来事はアルカイ(始源)である。神話の出来事が常に老いることも尽き果てることも知らず、克服されることもなく残っているころ、つま底知れぬ太古のある時代、永遠に繰り返される再生によって不滅の姿を現わす過去のある時代に、一切の個別的特殊的なものが特に自己の拠り所とし、また自己形成の原点とする、あのアルカイである。」
(『神話学入門』)


K. ケレーニィ(Karl Kerenyi/Ka'roly Kere'nyi, 1897 - 1973)
ハンガリー生れの神話学者。ブダペスト大学でギリシア哲学を学んだが、1929年のW. F. オットーとのギリシア旅行を契機に、比較宗教学と社会史とを結合させる方法を模索し始める。一方、K. G. ユングとも親交を結び、現代心理学の成果をも知ることになる。
彼の神話に対するスタンスは、上記引用をより端的に示した、
「神話はものごとを説明するためではなく、『基礎づける』(begrunden)ために存在する」
という語にもっとも良く表れているであろう。
ギリシア神話に関する著者として『プロメテウス:ギリシア人の解した人間存在』(法政大学出版局)『ギリシアの神話 英雄の時代』『ギリシアの神話 神々の時代』(中央公論社)、神話学に関しては『神話と古代宗教』(新潮社)などの他に、『物語創作と神話学:トーマス・マンとの往復書簡』などが邦訳されている。

ともに〈アルカイ〉を目指した、ドイツ・ロマン主義の視線が、中世ドイツや古代北欧神話に向ったのに対して、一方、ハンガリー生れのケレーニィのそれが、ギリシアに向ったのは興味深い。それは、単にギリシアに旅したから、という理由ではない。
ユングとの親交に見られるように、そこにはヘレニズムに源流をもつ文化こそが、西欧思想の根底である、という確信めいたものがありそうだ(ユングは、グノーシス主義への関心から、ヘブライズムへその対象を広げていったが)。

このことは、人類全体のアルカイなるものは、理念形としてはあるものの、実際に研究対象にするのはきわめて困難であることを示しているようだ(心理学とても同様。〈集合的無意識〉なるものを想定するにしても、それは〈個別文化〉的無意識の地層に厚く覆われているから)。

参考資料 ケレーニィ/ユング、杉浦忠夫訳『神話学入門』(晶文社)

今日のことば(38) ―― 岸田日出刀

2005-11-27 03:30:22 | Quotation
▲岸田日出刀設計の東京大学安田講堂

「『モダーン』の極致を却ってそれら過去の日本建築その他に見出して今更らに驚愕し、胸の高鳴るのを覚える者は決して自分丈けではないと思ふ。」
(『過去の構成』)

岸田日出刀(きしだ・ひでと、1899 - 1966)
建築家、建築学者。1959(昭和34)年まで東京大学で建築意匠学を講じていた。
代表的な設計作品には、東京大学安田講堂(1925)がある。
岸田自身はモダニストではないが、その流れには共感・理解をもっていた(装飾過多の〈様式建築〉に対する反撥)。
上記引用は、1929(昭和4)年刊行の写真集の編集意図を述べたもの。
丹下健三は、
「わたしもまだ学生のころでしたが先生(註・岸田日出刀)の『過去の構成』には非常に感銘をうけました」
と座談会で述べている。

岸田の意図は、
「純粋な日本建築は簡素なものであり、よけいなかざりつけはぜんぜんない。シンプルな構成美を誇っている。つまり、モダニズムの建築は、日本の伝統美とつうじあう一面をもっている。その意味では、正統性のあるデザインだ」(井上章一『つくられた桂離宮神話』)
という点にあった。

このような考え方は、後に広く実際の建築に応用され、吉田五十八の「現代数寄屋建築」などにもつながる。

なお、井上の前掲書では、桂離宮の「美」の第一の発見者は、ブルーノ・タウトではなく、岸田ら、先見の明のある日本人建築家であったことを明らかにしている(それだけが、主なテーマではないが)。

参考資料 井上章一『つくられた桂離宮神話』(弘文堂)
     井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社)

今日のことば(37) ―― 齋藤緑雨

2005-11-26 00:00:10 | Quotation
「それが何(ど)うした。唯この一句に、大方の議論は果てぬべきものなり。政治といはず文學といはず。」
(「萬朝報」明治31年11月6日)

齋藤緑雨(さいとう・りょくう、1867 - 1904)
小説家、評論家、随筆家。本名は賢(まさる)。正直正太夫、江東みどり、緑雨醒客、登仙坊などの筆名もある。明治法律學校中退。新聞界に入り、「今日新聞」「東西新聞」「国会」「萬朝報」などを渡り歩く。1879(明治22)年の『小説八宗』以降は批評家として、1881(明治24)年の『油地獄』以降は小説家としても知られる。1897(明治30)年『おぼえ帳』以下の短文隨筆集、1898(明治31)年『眼前口頭』以下の警語集(アフォリズム集)を書き始める。初期の批評では激しい罵倒を行い、あちこちから反感を買った。晩年に至っても新聞で筆禍事件をたびたび起した。

齋藤緑雨は、貧窮の中で亡くなった。「貧」に関するアフォリズム、
「按ずるに筆は一本也、箸は二本也。衆寡(しゅうか)敵せずと知るべし。」(「青眼白頭」)
は良く知られている。
そのほか、政治・風俗・文学とその筆の対象は多いが、中でも、次のようなアフォリズムは、後の芥川龍之介の警句集『侏儒の言葉』を思わせるものがある。
「軍人の跋扈を憤れる人よ、去つて淺草公園に行け、渠等(かれら)が木戸錢は子供と同じく半額なり。」(「萬朝報」明治31年11月12日)
――「軍人は小児に近いものである。(中略)この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似ている。(中略)わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔わずに、勲章を下げて歩かれるのであろう?」(『侏儒の言葉』「小児」)

参考資料 齋藤緑雨著、中野三敏編『緑雨警語』(冨山房)

今日のことば(36) ―― 内田魯庵

2005-11-25 00:08:28 | Quotation
「我々は高等遊民其の物を決して国家の為に恐れるものではない。たゞ、高等遊民を恐れて、高等の智識に走らんとする国民の大勢を抑へんとするものあるを恐れるのである。」
(『文明国には必ず智識ある高等遊民あり』)

内田魯庵(うちだ・ろあん、1868 - 1929)
小説家、翻訳家、評論家、随筆家。本名は貢(みつぎ)、幼名は貢太郎、別号は不知庵。1887(明治30)年以降は、魯庵の名で知られた。若くして『罪と罰』を翻訳、『くれの廿八日』『血ざくら』などのほか、多くの小説を書いたが、1901(明治34)年から丸善株式会社に入社、図書顧問として輸入図書の大半に目を通したといわれる。この丸善には終生務め、雑誌『學鐙』の編輯にも当たった。また、書誌学者としても重んじられた。

国民に有用性を求める、明治日本のような「一流国に追いつく」ことが目標の国家にとって、「無用」としか思えない「高等遊民」の存在が増えることは、「亡国の兆し」としか考えられなかった。
したがって、高等教育機関での学問と言えば、国家の官吏として必要なものが主流。文学などは、「高等遊民」をつくるだけの無益な学問視されていたのである(柳田國男にとって、民俗学は「経世済民」の学の1つであるという意識が抜けきらなかった。彼は、東京帝大法科大学卒業後、農商務省に入省。その後、法制局参事官、貴族院書記官長を務めたという官僚生活を送っている)。

このような官学アカデミーに対峙する知識人として、「高等遊民」という存在を捉えることができよう(官学アカデミーの内部にありながら、「高等遊民」の積極的な価値を認めていたのが夏目漱石)。

このような構造に、旧幕臣系の知識人という存在が重なり合ってくるのが、明治という時代の特徴の1つ。内田魯庵も、幕臣内田正の長男という、準「旧幕臣系の知識人」と呼んでもいい存在である。

山口昌男によれば、
「近代日本の諸学(人類学・考古学・民俗学・美術史……)は、学校のようなタテ型でない趣味や遊びに根ざした市井の自由なネットワークに芽吹き、魯庵はその象徴的存在だった」
という評価になる。

参考資料 山口昌男『内田魯庵山脈―〈失われた日本人〉発掘』(晶文社)
     山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)

今日のことば(35) ― E. ホブズボウム

2005-11-22 00:44:59 | Quotation
(『伝統の創出』とは)「過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のことである」
(『創られた伝統』)

E. ホブズボウム(Eric Hobsbawm, 1917 - )
英国の歴史学者。ウィーンとベルリンで幼少年期を過ごし、1933年に英国に渡る。
ケンブリッジ大学キングス・カレッジで学び、博士号を取る。ロンドン大学、スタンフォード大学などで教職に就き、1982年に引退。

「伝統」と言われているものが全て、本当に昔から人びとによって受け継がれてきたものだろうか。本書は、イギリスの例(スコットランドのタータンチェックやバグパイプ、英国王室の儀礼など)を挙げて、それが近代になってから人工的に造り出されたものであることを明らかにしている。
*「創られた伝統」と「生きた伝統」とを区別する必要性もある。ホブズボウムは本書の序論において、伝統社会における慣習(custom) を「本物の伝統(genuine tradition) 」または「生きた伝統」と呼び、その強靭さと融通性についても述べている。

本邦においても、大相撲や武士道といったものは、明治になったから創出されたものに他ならない。また天皇制においてもしかり。
今日、天皇制として漠然と考えられているものの多くも、歴史的経過を見れば、近代天皇制に基づくものであって、それは明治になってから、近代国家創出とともに「創られた伝統」である。

本書は、そのような「伝統」の見直しを、われわれに迫ってくる。

参考資料 エリック ホブズボウム、テレンス レンジャー著、前川啓治、梶原景昭訳『創られた伝統』(紀伊國屋書店)

今日のことば(34) ― S. ホームズ

2005-11-21 00:00:11 | Quotation
「音楽を演奏したり鑑賞したりする能力は話す能力よりずっと前から人間に備わっていたのだそうだ。音楽を聞くと微妙に心を動かされるのはそんな点に原因があるのだろう。ぼくたちの魂には、世界がまだ出来かけのころのぼんやりした記憶がわずかに残っているのだから」
(『緋色の研究』)

S. ホームズ(Sherlock Holmes, 1854 - ?)
英国のヴィクトリア時代(ヴィクトリア女王の治世:1837 - 1901) を中心に活躍した私立探偵。事務所兼自宅は、ロンドンのベーカー街211Bにあった。
彼の友人の医学博士ワトソンには、コナン・ドイル(1859 - 1930) という小説家の知人がいた。ワトソン博士がドイルに話した、ホームズの冒険譚が長編小説や短編小説集となり、一世を風靡したのは有名な話である。冒頭引用の『緋色の研究』もその長編小説の1冊である。

さて、引用した音楽観は、小説中ではC. ダーウィン(1809 - 82) の説として話されているが、音楽の起源論はともかくとして、かなり音楽の本質を突いていると、小生は思う。
「今日のことば(6)」で取り上げたE. シュタイガーによれば、「叙情詩は〈思い出〉と構造が似ている」という。〈思い出〉といっても、単なる個人的なものではなく、ユング的な用語を用いれば、〈集合的無意識〉に近い記憶のありよう。
つまり「世界がまだ出来かけのころのぼんやりした記憶」である。
禅家では、「父母未生以前の本来の面目」と称する。

そのような無意識/記憶に触れるよすがとしての音楽、という考えは、ホームズが音楽にかなりの造詣をもっていたことの1つの証しであろう(ちなみに、ホームズは、16世紀ネーデルランド楽派の作曲家オルランド・ディ・ラッススのモテットに関する研究論文を著している)。

参考資料 コナン・ドイル著、 延原謙訳『緋色の研究』(新潮社)
     小林司、東山あかね『真説シャーロック・ホームズ』(講談社)

今日のことば(33) ― E. サイード

2005-11-20 00:33:43 | Quotation
「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式(スタイル)なのである。」
(『オリエンタリズム』)

E. サイード(Edward W. Said, 1935 - 2003)
パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。
エルサレム生れ。エジプトのカイロで幼年時代を過ごす。ハーバード大学で修士号・博士号を取得。コロンビア大学、ハーバード大学などで教職を続ける。

上記の引用のように、アジアや中近東の創られたイメージが、欧米諸国の植民地主義・帝国主義を正当化してきた、と批判、「ポスト・コロニアリズム」理論を構築していった。
9・11同時多発テロ後は、アフガニスタンやイラクへの武力行使に反対する論陣を張る。

さて、翻って日本の近代史を考えた場合、複雑な位相に立っていることが分る。
1つは欧米諸国からのオリエンタリズム的な視線を受け、また、もう1つは台湾・朝鮮などを植民地として、宗主国としての視線をその地域に投げかける、というオリエンタリズムの「客体」であるとともに、「主体」でもあったわけだ。
そのねじれた視線が、近代史の解明をやっかいにしているし、多くの言説にも混乱んを引き起こしている。
例えば、われわれは、アジア・太平洋戦争において、被害者でもあり、また加害者でもあるわけだが、ある場合には、前者の立場が前面に出、またある場合には、後者の立場が前面に出るといった具合である。

さて、その腑分けの手がかりにサイードの理論は役立つのか。それとも、われわれなりの「オリエンタリズム」批判を形づくらなければならないのか。

参考資料 E. サイード著、今沢紀子訳、板垣雄三、杉田英明監修『オリエンタリズム』上・下(平凡社)
     本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波書店)

今日のことば(32) ― B. アンダーソン

2005-11-19 11:28:41 | Quotation
「もっとも小さな国ですら、その成員は大半の自分の同胞を知ることも彼らに会うことも、彼らについての話を聞くことさえないだろうが、それでも彼らが一体であるというイメージは各人の心の中に生きている」
(『想像の共同体』)

B. アンダーソン(Benedict Richard O'Gorman Anderson. 1936 - )
比較政治学者、アジア研究者。東南アジア(特にインドネシア)を専門対象としている。コーネル大学政治学部教授。
中国雲南省生れ。ケンブリッジ大学、コーネル大学で修士・博士号を取る。1965年からコーネル大学で教職に就く。
著書『言葉と権力』では「中国で生まれ、3つの国(中国・イギリス・アメリカ)で育てられ、時代遅れの発音で英語を話し、アイルランドのパスポートをもち、アメリカに住み、東南アジアを研究する」と自己紹介している。

『想像の共同体』では、国家を「イメージとして心に描かれた想像の共同体である。そしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なものとして想像される。」と定義したことで知られる。
つまりナショナリズムとは、民族意識の覚醒などではなく、何もないところから「国民」を発明するための操作に過ぎないとする。
そして、その発明に際して決定的な役割を果したのが、出版印刷業資本主義(print capitalism) であると指摘するのである。

その所説に異論はあったとしても、「近代国家=国民国家(民族国家)」について、あるいは「ナショナリズム」について、真摯に考える人にとっては、必読の書とも言えよう。

参考資料 ベネディクト・アンダーソン著、白石さや、白石隆訳『想像の共同体』(NTT出版)
     関曠野『民族とは何か』(講談社)

今日のことば(31) ― 岡倉天心

2005-11-18 04:42:45 | Quotation
▲天心の弟子、下村観山が描いた画稿(東京芸術大学所蔵)。

「アジア人ひとりひとりの心臓は、彼らの圧追によるいいようのない苦しみに血を流していないであろうか?ひとりひとりの皮膚は、彼らの侮蔑的な眼の鞭の下でうずいていないであろうか?

ヨーロッパの脅迫そのものが、アジアを鞭うって、自覚的統一へみちびいている。アジアはつねに、その巨体をうごかすのに緩慢であった。しかし眠れる巨像は、あすにも目覚めて、おそるべき巨歩をふみだすかもしれない。そして、八億三千万の人間が正当な怒りを発して進むならば、そのひと足ごとに地球は震動し、アルプスはその根底まで揺れ、ラインとテームズは恐怖にさかまくであろう。」

(『アジアの覚醒』)

岡倉天心(1862 - 1913)
明治時代の美術行政家、思想家。本名は覚三。
フェノロサに哲学を学び、彼の日本美術研究を手伝う。大学卒業後、文部省に入り、明治23(1890)年、東京美術学校校長に就く。明治31(1898)年、美術学校騒動で下野、日本美術院を開き新日本画運動を行ない、横山大観、菱田春草ら近代を代表する日本画家も育てる。明治38(1905)年、ボストン美術館東洋部長となる。『東洋の理想』『茶の本』などの英文の著書を通して、アジアの文化、思想を世界に発信した。

『東洋の理想』の冒頭で「アジアは一つ」"Asia is one." と言った人物だ。このことばには、いくつもの問題があるのだが、それはさて置く。

今、言いたいのは、日本の近代美術に与えた影響のことだ。
歴史において1人の人間に大きな責任ありとするのは、いささか酷な話だが、今は彼を代表とする「ある制度」と考えておいていただきたい。

さて、天心の責任というのは、ある程度進んでいた近代美術の流れを、強引に自分の美意識ないし価値観の方向に引っ張っていってしまった、ということだ。

日本画の分野でいえば、江戸琳派はかなりのレベルで近代性を示していた。浮世絵にしても北斎を代表とするように、西欧の遠近法や陰影法を技術として獲得していた。したがって、明治初期の西欧文化との本格的な出会いによって、自主的に達成できたものがあったはずだ。
それを明治政府の美術行政に携わっていた天心は、狩野派主流の方向にもっていってしまった。

また、洋画を排斥する余り、東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)から洋画の教育課程を排除した。したがって、本格的な美術を学ぶには、帰国した美術家につくか、自らが留学しなければならなくなった。
日本画、洋画という垣根が生じたのも、天心の美術行政に起因するだろう。

以上のことが、日本の近代美術を偏ったものにした。

一つは、美術においても派閥を作り、自らの派閥を主流化しなければならないという意識を、画家達に植え付けたこと。それは、ややもすれば美術における技芸ではなく、発言力の大きさを重要視することともなったし、権威主義的な傾向をも生んだ。

二つ目は、新しい傾向を国外に求め、それをいち早く持ち帰った者が、権威となれるという、輸入依存体質である。
先程述べたような、日本画・洋画という特異なジャンル分けを生んでしまったことも、日本美術特有の世界を形作った。

天心の評価は、生前の美術行政の面ではなく、死後、「アジアは一つ」という発言が、「大東亜共栄圏」を裏付けるものとして、誤読されることによって高まっていった。
そして、未だに、美術の面での功罪を含めた、等身大の天心像は描かれていないような気がする。