goo blog サービス終了のお知らせ 

一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(50) ― C. von クラウゼヴィッツ

2005-12-09 04:45:44 | Quotation
「想像を絶する巨大な軍隊が登場した。突如として、戦争は再び、人民の戦争となった。三千万人の人民の戦争である。彼らはすべて、自分たちのことを市民だと自覚していた。(中略)人民は戦争の当事者となった。政府や以前のような軍隊ではなく、国民全体の動向が戦争の帰趨を決することになった。戦争のために動員される国民のエネルギーや勢いをさえぎるものは何もなかった。」
(『戦争論』)

C. von クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz, 1780 - 1831)
軍人、軍事思想家。軍人としての経歴は、プロイセン王国の将校としてのもので、ベルリンの士官学校でシャルンホルストに教えを受けるところから始まる。ナポレオン戦争ではフランス軍の捕虜となるが、捕虜交換により釈放、ロシア戦線にも、ワーテルローの戦いにも参加する。
戦後、プロイセン軍の少将になり、士官学校の校長を勤めるかたわら、軍事理論書『戦争論』を執筆、死後、夫人の手によって刊行された。

クラウゼビッツは、ナポレオン戦争によって〈国民軍〉を発見し、そして驚愕した。
なぜなら、従来は職業軍人のものであった戦争が、一般大衆のものとなったからである。
その驚きは、ゲーテのそれにも共通する。
ゲーテは、その驚愕を
「この日、ここにおいて世界史の新しい時代が始まった」
と表現した(1792年9月20日の〈ヴァルミーの戦い〉について)。

ベネディクト・アンダーソンの言う「途方もない数の人々が(一風斎注・国民国家のために)自らの命を投げ出そうと」する時代の到来である。

ある意味において、近代民主主義の広がりは、国民軍の創設と軌を一にする。
「ヨーロッパ国際システムは、国家間の競争のシステムであり、この競争に伍していくためには、国力の充実と国内動員のいっそうの拡大・深化が欠かせなかった。それには国内人民からの協力が必要となった。そして、そのことがまた大衆の政治参加を促すことになった」(長尾雄一郎「戦争と国家」)
からである。

そして、クラウゼヴィッツも、プロイセン当局に対し国民軍創設を図るべきだと訴えた。しかし、当局(=宮廷)は、その動きに危惧の念を覚えていた。
「このような要求は大衆の政治参加の動きにつながるものである」
と警戒したのである。

参考資料 クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』(岩波書店)
     加藤朗、長尾雄一郎ほか『戦争―その展開と抑止』(勁草書房)

今日のことば(49) ― 福留 繁

2005-12-08 01:40:29 | Quotation
「海軍の対米戦に対する判断は、中堅将校や青年将校の中には、主戦論も必勝論もあったであろうが、少くとも責任当局や上層部においては、避戦論に一致しており、その理由とするところは、勝算なしというにあった。」
(『海軍の反省』)

福留 繁(ふくとめ・しげる、1891 - 1971)
海軍軍人。海兵40期、海大24期卒。海兵では山口多聞、宇垣纏、大西瀧次郎らと同期。ハンモック・ナンバー144人中8位というのだから、軍事官僚組織でのエリートである。1933(昭和8)年、大佐となり連合艦隊首席参謀の職に就く。その後、連合艦隊首席参謀、軍令部作戦課長、連合艦隊兼第一艦隊参謀長を歴任。

海軍エリート軍人の「反省」。
しかし、政治責任は、そのようなところにはない。
開戦を決定づけたのは、「避戦論に一致して」いたにもかかわらず、「ノー」と言えなかったか/言わなかったことにある。

近衛内閣の海軍大臣だった及川古志郎は、首相の諮問に対して
「よくわかりませんので、首相にご一任申し上げます」
と言って、開戦責任を放棄した。

東条内閣の大本営政府連絡会議(昭和16年11月2日開催)では、永野修身軍令部総長は(海軍大臣は嶋田繁太郎)、
「戦機は後には来ない。今がチャンスだ」
と言ったという。

軍事官僚の「反省」は、この程度のものなのである。

そして、64年前の今日、対米戦が開始された。

参考資料 半藤一利『昭和史』(平凡社)

今日のことば(48) ―― 澁澤龍彦

2005-12-07 02:25:05 | Quotation
「もしかしたら、ノスタルジアこそ、あらゆる藝術の源泉なのである。もしかしたら、あらゆる藝術が過去を向いているのである。」
(澁澤龍彦『記憶の遠近法』)

澁澤龍彦(しぶさわ・たつひこ、1928 - 87)
評論家、仏文学者、小説家。明治時代の実業家渋沢栄一の一族(栄一の従兄弟の系統)に生まれる。マルキ・ド・サドを含め、ヨーロッパの異端の研究・紹介を進める。その過程で、訳書『悪徳の栄え』をめぐり、1960(昭和35)年に〈サド裁判〉が起こった。小説作品には『高丘親王航海記』(遺作)などがある。

ここでの「ノスタルジア」とは、単なるレトロ・スペクティヴな指向を言っているのではないだろう。
むしろ、エミール・シュタイガーの言う「叙情の本質は、思い出("Erinneurung" =過去の記憶)に似ている」との指摘に近いであろう。

われわれが藝術に感動するのは、その作品が、どうやらそのような「源泉」(「本質」)に触れてしまうからのようである。
それを、小生は「無意識に限りなく近い場所、過去の記憶と感情が詰まっている場所」と呼んで、説明してみたい気持があるのだが……( F. シュミット『交響曲第4番』に即しての説明を、「一風斎の趣味的生活/もっと音楽を!」で展開する予定)。

――天竺にはね、わたしたちの見たこともないような鳥けものが野山をはね回り、めずらしい草木や花が庭をいろどっているのよ。そして空には天人が飛んでいるのよ。そればかりではないわ。天竺では、なにもかもがわたしたちの世界とは反対なの。私たちの昼は天竺の夜。わたしたちの夏は天竺の冬。
(澁澤龍彦『高丘親王航海記』より)

参考資料 澁澤龍彦『高丘親王航海記』(文藝春秋)

今日のことば(47) ―― 桑原武夫

2005-12-06 01:30:22 | Quotation
(小さん(三代目?)の藝には)「私が一流の藝術には不可欠だと思う一要素、ぬるっとした艶っぽさ。内分泌という言葉がふと頭にうかんでくる、そうした感じのものに欠けていて、これを至藝などといっている江戸ッ子文化とは、薄くはかないものだという気がした」
(富士正晴『桂春団治』「序にかえて」)

桑原武夫(くわばら・たけお、1904 - 88)
仏文学者、評論家。福井県敦賀に東洋史学者の桑原隲蔵(くわばら・じつぞう)の長男として生まれる。京都帝国大学文学部卒業後、東北帝国大学などの教職を経て京都大学人文科学研究所の教授となる。スタンダール、アラン、ルソー等の紹介・研究のほか、〈俳句第二藝術論〉などで有名。

問題は、東と西との藝風の差である。

東のさっぱりした藝に対して、西のこってりした藝。
小生など、まず連想するのが絵画で、小出楢重(こいで・ならしげ)の作風。
小出は大阪島之内の商家の出で「大阪の土着性や美意識を盛り込んだ彼独自の洋画を描いた」と評される画家である。

関東者にとって、このような作風は、良く言えば「こってりした」、悪く言えば「くどい」ということになる。
確かに、こうした美意識があることは認めるが、趣味ではないのが正直なところ。
しかし、油絵という絵画手法に、あるいは西洋の美術に、このような粘着質のものが根底にあるのも確かなところ(現代俳句を西洋的な意味での、本格的な藝術ではないとした〈俳句第二藝術論〉にも通じるところがある)。
東京出身の岸田劉生(銀座に〈楽善堂〉という薬屋を経営していた岸田吟香の四男)は、そのような美感を「でろり」と表現した。

風呂上がりの体を、初夏の風に吹かれるような〈さっぱり感〉を良しとする東の美意識に、欠けているところがあることは認めざるをえないだろう。
これも悪く言えば「追及心や徹底性」に欠けるということにもなる(音楽では、ベートーヴェンなどの、ソナタ形式の徹底性に辟易することがないわけではない)。

キップリングのことばを、あえて誤解するならば、「東は東、西は西」なのであるが、「ついに相会うことはなし」"east meets never west" ではなく、それぞれの半球が合体するところに、生まれてくるものを期待したいところなのだが……。

参考資料 富士正晴『桂春団治』(講談社)


今日のことば(46) ―― 杉田玄白

2005-12-05 01:15:28 | Quotation
▲杉田玄白肖像
(早稲田大学図書館蔵)

「かのターヘル・アナトミアの書にうち向いしに、誠に艫舵(ろかじ)なき船の大海に乗り出だせしが如く、茫洋として寄るべきかたなく、ただあきれにあきれて居たるまでなり。」

(『蘭学事始』)

杉田玄白(すぎた・げんぱく、1733 - 1817)
蘭法医。若狭小浜藩医甫仙の三男。幕府奥医師西玄哲に蘭法外科を学ぶ。1765(明和2)年藩奥医師となり、同年3月、前野良沢・中川淳庵などと千住小塚原で刑屍体の臓器観察を行い、クルムスの『ターヘル・アナトミア』(ドイツ人 J. Kulmus"Anatomische Tabelle" の蘭訳書)の正確なことを知る。同志とその書の翻訳を行い、1774(安永3)年、『解体新書』を刊行。
上記引用は、玄白の回顧録『蘭学事始』から、翻訳を開始した当初の状態を述べたものとして知られる。
翻訳にあたっては、実際の中心者は前野良沢で、玄白はいわばプロデューサー役である、との説が有力。

さて、西洋の科学技術の導入には、次のような類型があるといわれている。

1.拒絶型(現状維持論)
「西洋技術の摂取が技術にとどまらずさまざまな分野を欧化するのを恐れて、新たな導入を認めない」(安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』)
とするもの。
保守的・反動的と思われがちであるが、きわめてまっとうな認識であり立場である。
前回見たように、技術の導入は、それに伴う思想の受容を必要とする。表面の技術だけを導入するだけで、思想に変化を起こさせまいとする「和魂洋才」などは、実際にはありえない。
したがって、思想の変化を拒否するなら、技術を導入する必要なし、とするのが当然なのである。

2.折衷型(選択的摂取論)
「風俗・言語など本邦の制度の根幹にかかわる分野の欧化を防いで、有用の西欧技術のみを摂取せよ」(安達、前掲書)
とする。
これは、上記「和魂洋才」型の摂取といってもいい。
明治維新前後(また、それ以降も)の摂取は、ことごとくこれであろう。
実務的な態度と思われようが、実は危うい部分が多々ある。本来なら取り入れるべき基本的な思想を抜きにしているため、本質的な理解が不十分であったり、改良・発展に限界があったりするからである。
つまりは、思想も含めた形での「システムとして科学技術」という理解が不十分なのである。

3.全面輸入型(全面的摂取論)
「有用であれば何でも摂取する」(安達、前掲書)
というもの。
「有用であれば」という限界がついているところは、2.の類型とほぼ同様。あえて、分類する必要もないくらいであるが、具体的な導入事例を分類する場合に必要になる概念。
多くは、鉄道や通信のような、新規産業の場合に見られた。
ここでは、システムとして導入せざるを得なかったために、さまざまな変化が必然的に起った。
端的な例としては、鉄道の導入による「時間観念」の変化である。
ほぼ2時間(「刻」。あるいは1時間「半時」、30分「四半時」)という時間単位が、急に時分単位とならざるをえないのである。

このような類型から見ると、杉田玄白における西洋医学の導入は、どうであったのだろうか。

参考資料 杉田玄白『蘭学事始』(講談社)
     安達裕之『異様の船―洋式船導入と鎖国体制』(平凡社)
     海野福寿編『技術の社会史3』(有斐閣)

今日のことば(45) ―― 高橋由一

2005-12-04 00:00:11 | Quotation
▲『丁髷姿の自画像』

「絵事(かいじ)ハ精神ノ為(な)ス業ナリ、理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除去シ、始テ真正ノ画学ヲ勉ムベシ」
(『由一履歴』)

高橋由一(たかはし・ゆいち、1828 - 94)
洋画家。狩野派に絵画を学ぶが、嘉永年間(1848 - 54) 西洋石版画に触れ西洋画を志す。1862(文久2)年、蕃書調所画学局に入局、川上冬崖に指導を受ける。1873(明治6)年画塾天絵楼を開き、後進の指導に当たる。1881(明治14)年と1884(明治17)年、県令三島通庸の委嘱で山形・栃木などの新道を写生した。近代日本最初の洋画家として知られる。

日本画の世界から見れば、西洋画は理屈の絵画だった。
遠近法が、その一番端的な例であろう。
たとえ見よう見まねで北斎が遠近法的な絵画を描いたとしても、そこには理屈の上での嘘がある。つまりは、理屈を知らないから、パースペクティヴに狂いが生じている(それを面白いと見ることとは、まったく別問題)。

そのような見方からすれば、従来の狩野派の絵画などは、まったく「精神の汚濁」そのものとしか映らなかっただろう。そこにあるのは、旧態依然たる絵手本の模写でしかない。

引用は、高橋由一、洋書調所(蕃書調所が改称)在籍当時のことば。
由一は調所画学局のあり方に不満を抱き、改善を盛んに主張した。しかし、かえって周囲からは「憎マレ者」「大邪魔者」との定評を受けてしまう。

ある日、一人の上司が由一に意見して、
「君ハ終始理屈ニ富メリ(理屈が多い)、其思想好カラザルニアラズ(考え方が間違っているわけではない)、然シナガラ理屈ヲ吐ク寸隙ニモ(理屈を言う暇があったら)写法ヲ研究スルガ得益ナラン(写生の一つでもして技量の向上に努めたらどうだ」
と言った。
それに対して述べたのが、上記のことばなのである。

由一は、
「西洋絵画の理論を知らなければ、技量の向上すらありえない。なぜなら、西洋絵画とは、そのような理屈/理論の上に成り立った絵画だからだ」
と言いたかったに違いない。

背後にある理論を抜きに、表面の技術のみを学んできたのが、日本の近代化である。
しかし、根源のところを押さえていた高橋由一のような人物がいたということを、われわれは忘れてはならないであろう。

参考資料 芳賀徹『絵画の領分』(朝日新聞社)

今日のことば(44) ―― 福沢諭吉

2005-12-03 00:00:48 | Quotation
「法を設けて人民を保護するはもと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と云ふべからず。政府若し人民に対し其保護を以て御恩とせば、百姓町人は政府に対し年貢運上を以て御恩と云はん」
(『学問のすゝめ』)

福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1834 - 1901)
啓蒙思想家、教育者、ジャーナリスト。
大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学を学ぶ。1860(万延1)年咸臨丸で渡米、帰国後幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳にあたる(後、外国奉行翻訳方に出仕)。1862(文久2)年には、幕府外交使節に同行、渡欧する。1866(慶応4)年、自らの率いる塾を芝新銭座に移し、慶応義塾と名づける(三田に移転したのは、1870(明治4)年)。
『学問のすゝめ』初篇は、1871(明治5)刊行。偽版を含めて20万部以上を売るという、明治初期の大ベストセラーとなった。

発生時の武士にとって「御恩」と「奉公」というのは、双務的なものだったが、近世以来、「御恩」は主君から臣下に対する恩恵のように捉えられてしまった。
つまりは、与えられなくても当然、与えられれば感謝すべきものだったのである。
その観念が、明治初期にも残っていたため、政府による人民の保護は、恩恵的なものと、政府は無論のこと、当の人民にも思われていた。

そのような観念が間違ったものであることを述べたのが、上記引用。
ちなみに「年貢運上」とは、広く「税金」と考えればよいであろう。

さて、現在、「グローバル化」という美名の元に、リバタリアニズム*(Libertarianism)が跳梁跋扈しようとしている。

一方、自立した市民の合意による「公」の構築には成功したとはとても言えないが現状である。「国家」の名による「公」意識ではなく、市民の名による「公」意識が薄い状態で、リバタリアニズムがはびこった場合に何が起きるかは自明のことである。

老人医療費の負担増を皮切りにした、弱者切り捨ては既に始まっている。

*リバタリアニズム:「自由至上主義」、「新自由主義」とも。個人に他の自由を侵さない限りにおいて最大限の自由を認めるべきであるとする、自由に最大の価値を置く個人主義的な立場。公正に価値を置くリベラリズム、慣習、共同体に価値を置く共同体主義と対立する。
以上は、政治思想、政治哲学上の定義であるが、経済的には、
「市場での競争のメリットを生かすために、政府は民間経済活動への介入を小さくし、従って政府の規模は小さくなる。いわば経済効率を高めるために、自由競争をどこまでも優先する立場である。結果として勝者と敗者が明確になるので、国民の所得配分が不平等化する可能性を容認する。福祉を重視すると人々は怠惰になるとして、福祉政策をミニマムにする立場」(橘木俊詔 たちばなき・としあき、朝日新聞2005年11月2日夕刊より)
である。


参考資料 福沢諭吉『学問のすゝめ』(岩波書店)

今日のことば(43) ―― C. ツックマイヤー

2005-12-02 00:03:14 | Quotation
「この都市はあくことのない貪欲でいろいろの才能と人間のエネルギーをむさぼり食い、嵐のような力で、ほんものとにせものの別なく、あらゆる才能をのみ込んでしまう。(中略)批評も苛烈で画一主義には反対であったが、質を求める上で公平であり、質のすばらしさには大いによろこんだ。ベルリンは未来の味がした。」

C. ツックマイヤー(Carl Zuckmayer, 1896 - 1977)
ドイツの劇作家。第一次世界大戦に従軍後、ハイデルベルクで自然科学を学ぶ。表現主義の影響を受け、戯曲『十字路』を1920年に発表。以後、演劇活動に入り、M.ラインハルトのドイツ劇場にも参加。1926年からオーストリアのザルツブルクに住むが、1938年、ナチスのオーストリア合邦(Anschuluss) 後、アメリカに亡命。戦後はヨーロッパに戻り、晩年までスイスに住んだ。

上記引用は、戦間期、1920年代のベルリンについて述べた一節。
〈ヴァイマール文化〉を代表する都市となったベルリンである。
「つい先頃までのベルリンは、政治・経済上のドイツの中心ではあっても、誰もが認める〈ドイツの文化的首都〉ではなかった。そのベルリンがついに〈文化的首都〉の地位を不動のものにした」(脇『知識人と政治』)
のである。

今、K. ヴァイルの楽曲をテレサ・ストラータスが歌うアルバム "Stratas Sings Weill" を聴いている。
このような歌を耳にすると、頽廃と洗練、狂熱と沈思が交錯する戦間期の雰囲気を感じ取ることができる。
「二十年代は今日、若者たちにとってロマンティクな時代である。ただし、このロマン主義の最後の自由な森の歌を彼らのために奏でたのは、森のホルンではなく、サキソフォンだった」(B. E. ヴェルナー)

今日、われわれが「自由な森の歌」と思っているものは、「死の舞踏」ではないと誰が断言できるのか?

参考資料 ピーター・ゲイ著、亀嶋庸一訳『ワイマール文化』(みすず書房)

今日のことば(42) ―― S. ツヴァイク

2005-12-01 06:36:26 | Quotation
「戦争は一つの伝説であり、それがまさしく遠くにあることが、戦争を英雄的でロマンティックなものにしたのである。彼らは戦争を学校の教科書や、画廊の絵画のパースペクティヴで眺めていた。それは金ピカの軍服を着た騎兵のまばゆいばかりの突撃、いつも勇敢に心臓の真只中を射ちぬく致命的な弾丸であり、出征の全体が敵を粉砕する勝利の行進であった。(中略)ロマンティックなものへの足早な遠足、荒々しい男らしい冒険 ―― 一九一四年当時、戦争は単純な人々にこのように思い描かれていた。」
(『昨日の世界』)

S. ツヴァイク(Stefan Zweig, 1881 - 1942)
オーストリアの作家、評論家。裕福なユダヤ系商人の子として、ウィーンに生れる。哲学や独・仏文学を修めた後、叙情詩人として文学活動を始める。
第一次世界大戦中はスイスに亡命、ロマン・ローランと親交を結び、自由と平和のために発言した。戦後、『ジョゼフ・フーシェ』『マリー・アントワネット』『エラスムスの勝利と悲劇』などの伝記小説を次々に発表する。
ドイツでナチスが政権を握ると、1934年イギリスに亡命、その後1940年にはアメリカ、そしてブラジルに移る。1942年、未完の作品『バルザック』を残し、妻とともに自殺した。

「私が物語るのは、私の運命ではなくて、ひとつの世代全体の運命である」と語るツヴァイクの『昨日の世界』は、第一次世界大戦開始直後の民衆の動きだけではなく、多くの知識人の感情をも伝えている。

「この最初の群衆の出発には、なにか堂々たるもの、感動的なもの、そして魅惑的なものさえ含まれており、それから脱することは困難であった。(中略)幾千、幾十万の人びとは平和の時においてもっとも感じていなければならなかったこと、すなわち彼らは一つであるということを感じたのであった。」

「生まれながらの世界市民、現代のエラスムスをもって認ずる」ツヴァイクでさえ、戦争騒ぎの熱狂からは無縁でいられなかったのである。

さて、問題は1914年のドイツだけのことではない。
1894(明治27)年の、1904(明治37)年の、そして1941(昭和16)年の日本はどうであったか。

「身体の奥底から一挙に自分が新しいものになったような感動を受けた」(伊藤整)

「戦勝のニュース胸轟くを覚える。何という巨きな構想・構図であろう。アメリカやイギリスが急に小さく見えて来た。われわれのように絶対信頼できる皇軍を持った国民は幸せだ。」(青野季吉)

「戦争より恐ろしいのは平和である。……奴隷の平和より戦争を!」(亀井勝一郎)

さて、来る2006年の日本は、如何なるものか。

参考資料 シュテファン・ツヴァイク、原田義人訳『昨日の世界』(みすず書房)
     脇圭平『知識人と政治ードイツ・1914~1933ー』(岩波書店)

今日のことば(41) ―― T. パラケルスス

2005-11-30 06:38:04 | Quotation
「ただ外部をしか見ないというのは農夫のやり方だ。内なるものを、隠されているもを見ることこそ医師の課題なのだ。」
(『オープス・パラミールム』)

T. パラケルスス(Theophrastus Paracelsus, 1492? - 1541)
スイスの医学者。本名は、テオフラトゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバトゥス・フォン・ホーエンハイム (Theophrastus Philippus Aureolus Bombastus von Hohenheim)。
ルネサンスと宗教改革の時代、人体を化学的にとらえ、「病気」は無機物の服用で治療できるとして、鉛や銅などの金属の内服薬やチンキ剤などを作った。「医科学の祖」と言われる。
その生涯で、大半を逃亡(伝統的医学の改革者は「当局への反抗と侮蔑的態度」の廉で、大学を追われた)と遍歴で過ごしたが、実際の治療を数多く行い、同時に著作や手稿も大量に残した。
その非伝統的な/革新的な実験的態度から、ファウスト博士のモデルの一人とも言われる。

科学技術の進展は、人類に何をもたらすのか。
かつて、それには「進歩」と答えれば用が足りた。
しかし、現在、生活の利便性と同時に、科学技術は効率的な人類の殺戮方法をももたらすことが明かになっている(と同時に自然の破壊方法も)。
その長いリストの最後の方には、「核兵器」「化学兵器」「細菌兵器」といったものが挙げられる。

パラケルススにおいて、人間存在は宇宙(コスモス)を忠実に模した小宇宙(ミクロ・コスモス)だった。であるから、医師自体も、患者もミクロ・コスモスの一部であり、医師は神を代行して知と力を発揮し、自然を助け、病気を治療する。
「内なるもの、隠されているもの」とは、コスモスの秩序=ミクロ・コスモスの秩序を知ることを意味する。

信仰の問題は、さて置いて、ここにあるのは、機械論的な自然観・人間観への反措定である。
「科学の知は、その方向を歩めば歩むほど対象もそれ自身も細分化していって,対象と私たちとを有機的に結びつけるイメージ的な全体性が対象から失われ、したがって、対象への働きかけもいきおい部分的なものにならざえるをえない」(中村雄二郎『哲学の現在』)
のである。

科学技術が、機械論的な自然観によって、人類を滅ぼすに到る道を切り開いたとするなら、非機械論的な自然観の可能性を確かめる必要が充分にあるだろう。

参考資料 大橋博司『パラケルススの生涯と思想』(思索社)
     *上記引用は、本書から行なった。