「想像を絶する巨大な軍隊が登場した。突如として、戦争は再び、人民の戦争となった。三千万人の人民の戦争である。彼らはすべて、自分たちのことを市民だと自覚していた。(中略)人民は戦争の当事者となった。政府や以前のような軍隊ではなく、国民全体の動向が戦争の帰趨を決することになった。戦争のために動員される国民のエネルギーや勢いをさえぎるものは何もなかった。」
(『戦争論』)
C. von クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz, 1780 - 1831)
軍人、軍事思想家。軍人としての経歴は、プロイセン王国の将校としてのもので、ベルリンの士官学校でシャルンホルストに教えを受けるところから始まる。ナポレオン戦争ではフランス軍の捕虜となるが、捕虜交換により釈放、ロシア戦線にも、ワーテルローの戦いにも参加する。
戦後、プロイセン軍の少将になり、士官学校の校長を勤めるかたわら、軍事理論書『戦争論』を執筆、死後、夫人の手によって刊行された。
クラウゼビッツは、ナポレオン戦争によって〈国民軍〉を発見し、そして驚愕した。
なぜなら、従来は職業軍人のものであった戦争が、一般大衆のものとなったからである。
その驚きは、ゲーテのそれにも共通する。
ゲーテは、その驚愕を
「この日、ここにおいて世界史の新しい時代が始まった」
と表現した(1792年9月20日の〈ヴァルミーの戦い〉について)。
ベネディクト・アンダーソンの言う「途方もない数の人々が(一風斎注・国民国家のために)自らの命を投げ出そうと」する時代の到来である。
ある意味において、近代民主主義の広がりは、国民軍の創設と軌を一にする。
「ヨーロッパ国際システムは、国家間の競争のシステムであり、この競争に伍していくためには、国力の充実と国内動員のいっそうの拡大・深化が欠かせなかった。それには国内人民からの協力が必要となった。そして、そのことがまた大衆の政治参加を促すことになった」(長尾雄一郎「戦争と国家」)
からである。
そして、クラウゼヴィッツも、プロイセン当局に対し国民軍創設を図るべきだと訴えた。しかし、当局(=宮廷)は、その動きに危惧の念を覚えていた。
「このような要求は大衆の政治参加の動きにつながるものである」
と警戒したのである。
参考資料 クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』(岩波書店)
加藤朗、長尾雄一郎ほか『戦争―その展開と抑止』(勁草書房)
(『戦争論』)
C. von クラウゼヴィッツ(Carl von Clausewitz, 1780 - 1831)
軍人、軍事思想家。軍人としての経歴は、プロイセン王国の将校としてのもので、ベルリンの士官学校でシャルンホルストに教えを受けるところから始まる。ナポレオン戦争ではフランス軍の捕虜となるが、捕虜交換により釈放、ロシア戦線にも、ワーテルローの戦いにも参加する。
戦後、プロイセン軍の少将になり、士官学校の校長を勤めるかたわら、軍事理論書『戦争論』を執筆、死後、夫人の手によって刊行された。
クラウゼビッツは、ナポレオン戦争によって〈国民軍〉を発見し、そして驚愕した。
なぜなら、従来は職業軍人のものであった戦争が、一般大衆のものとなったからである。
その驚きは、ゲーテのそれにも共通する。
ゲーテは、その驚愕を
「この日、ここにおいて世界史の新しい時代が始まった」
と表現した(1792年9月20日の〈ヴァルミーの戦い〉について)。
ベネディクト・アンダーソンの言う「途方もない数の人々が(一風斎注・国民国家のために)自らの命を投げ出そうと」する時代の到来である。
ある意味において、近代民主主義の広がりは、国民軍の創設と軌を一にする。
「ヨーロッパ国際システムは、国家間の競争のシステムであり、この競争に伍していくためには、国力の充実と国内動員のいっそうの拡大・深化が欠かせなかった。それには国内人民からの協力が必要となった。そして、そのことがまた大衆の政治参加を促すことになった」(長尾雄一郎「戦争と国家」)
からである。
そして、クラウゼヴィッツも、プロイセン当局に対し国民軍創設を図るべきだと訴えた。しかし、当局(=宮廷)は、その動きに危惧の念を覚えていた。
「このような要求は大衆の政治参加の動きにつながるものである」
と警戒したのである。
参考資料 クラウゼヴィッツ著、篠田英雄訳『戦争論』(岩波書店)
加藤朗、長尾雄一郎ほか『戦争―その展開と抑止』(勁草書房)