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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

今日のことば(60) ― 吉田健一

2005-12-22 12:34:31 | Quotation
「文化は一片の標語ではない。それは多くの人間が生活して長い年月を重ねていくうちに、石に苔が生(む)すように何とはなしに作られる。」
(『乞食王子』)

吉田健一(よしだ・けんいち、1912 - 77)
評論家、英文学者、小説家。ご承知のとおり、政治家吉田茂の長男。文藝評論から英文学論、随筆から小説まで幅広い著作がある。入手し易いものとしては『吉田健一集成』(全8巻/別巻1。新潮社刊)がある。

上記の引用に表れた吉田の文化観は、精神文化をともにする共同体を "Nation" としたドイツ流のものとは対照的だ。
領邦国家の統一が悲願だったドイツは、その根拠に「ドイツ語」を基礎とした精神文化を置いた。制度としての「国語」「国文学」「国民文化」である。
近代日本における「文化」も、ドイツ型に近いものとして長らく考えられてきた(新カント派の「文化主義」の影響もある)。

これに対して、吉田の文化観は、英米のそれに近いもので、「それぞれの〈民族〉に固有の生活様式」というニュアンスがある。

それを別の面から照らし出すのが、篠田一志の回想で、
「あの人は、ゲルマン的なものを全く受け付けず興味を示さないんだよ。トーマス・マンのいい翻訳が出たので貸したのだけど、全く読めなかったのですぐに返して来たよ」
というもの。

そのような生活文化的な文化観が、食と酒を愛するという吉田の態度にもつながってくる(今日の「グルメ」とはいささか違う)。
たとえば、『私の食物誌』の次のような一節であろう。
これは実際に食べたことはないが京都の寺などで夏にやる米の食べ方に就て聞かされた話で、それは確か米を先ず炊いてから渓流の清水に浸して洗い落せるものは凡て洗い落し、その後に残った米粒の冷え切った核のようなものを椀に盛って勧めるというのだった。京都の酷暑を冒して食べに行ってもいいという気持にさせるもので、まだそれをやったことがなくても氷見の乾しうどんの味でその話が久し振りに頭に浮んだ。

参考資料 吉田健一『私の食物誌』(中央公論社)
     鈴木貞美『日本の文化ナショナリズム』(平凡社)

今日のことば(59) ― 廣瀬淡窓

2005-12-20 17:41:51 | Quotation
「我邦(くに)の人は書を読むこと多からず。故に見識なくして、人の真似をすることを専一と心掛けるなり。是を名づけて、矮人観場(わいじんかんじょう)といふ。」
(『淡窓詩話』)

廣瀬淡窓(ひろせ・たんそう、1782 - 1856)
江戸時代後期の儒学者、教育者、漢詩人。
筑前福岡の亀井南冥・昭陽父子の塾に学ぶ。1805(文化2)年、故郷の豊後日田に私塾(後に「咸宜園(かんぎえん)として発展・拡大)を開く。門人は3000人にも及び、能力別等級・試験による昇級などの教育法により、高野長英・大村益次郎ら多くの英才を育てた。
漢詩人としての著作に『遠思楼詩鈔』『淡窓詩話』がある。

当時の用語で「書」といえば儒学あるいは漢詩文の書物。もちろん、俗文学と称された「読本」「黄表紙」などは含まれていない。
それはともかくとして、現在でも、小説やノン・フィクション、週刊誌などに目を通す人は多くとも、専門書にまで手を出す人は、さほど多いとは思われない(出版界の不景気は、まだまだ続くであろう)。
それが原因であるとは言わないが、「人の真似をすること専一」なことは間違いない、当時からの日本人の通弊。

「現実主義」とは標榜していても、それが「現実追認」であるなら、「人の真似をすること」とさほどの変りはない。大勢に従う、という意味では同一と言っても良い。
また、「同調圧力」が強いのも、別に先の戦争中だけのことではない。

その意味からすれば、「矮人観場」は、江戸時代から変っていないのではないか。

参考資料 『江戸詩人選集9 広瀬淡窓/広瀬旭荘』(岩波書店)

今日のことば(58) ― 熊沢蕃山

2005-12-19 11:38:11 | Quotation
「食足らざるときは、士貪り民は盗す、争訟やまず、刑罰絶へず、上奢り下諂(へつろ)ふて風俗いやし、盗をするも彼が罪にあらず、これを罰するは、たとへば雪中に庭をはらひ、粟をまきて、あつまる鳥をあみするがごとし」
(『集義和書』)

熊沢蕃山(くまざわ・ばんざん、1619 - 91)
江戸時代前期の儒学者。中江藤樹に師事し陽明学を修める。備前岡山藩主池田光政の執政を務める。引退してからの後半生は不遇で、京都・吉野・明石・大和郡山・下総古河と転々とする。その間に、思想家として蕃山学を確立した。主な著作に『集義和書』『集義外書』『大学或問(わくもん)』がある。

上記引用は、河上肇『貧乏物語』よりの再引用。河上は、蕃山のこの部分を引き、「経済を改善しなければ道徳は進まぬ」と結論づける(孟子のことばに「恒産なくして恒心なし」がある)。

河上の描いた1910年代(「今日多数の人々が貧乏線以下に沈淪している」)とは異なり、中産階級が日本社会の多数を占める現在では、まず、古典的な「貧乏」は一掃されたかに見える。
しかし、道徳は進んだかと言えば、そうは言えないだろう。

それでは、河上の描いた図式、
  経済的な貧乏→道徳的な低下:経済的な貧乏根絶→道徳的な向上
が成り立たないのか?

蕃山のことばを借りれば、日本社会は単に「士貪り」「上奢り」の状態にあるだけではなかろうか。
つまり、全世界規模で見れば,依然として「経済的な貧乏」は一掃されてなどいない。ただ、日本社会が、従来の「民」「下」の状態から、「士」「上」の状態になったということに過ぎないのではないのか。
  
「今日多数の人々が貧乏線以下に沈淪している」という世界状況を忘れてならない。

参考資料 河上肇『貧乏物語』(岩波書店/絶版)

今日のことば(57) ― W. シェイクスピア

2005-12-18 10:29:38 | Quotation
「われわれは/夢と同じくはかない身、そしてわれらが小さき生は/眠りによって幕を閉じる。」
"We are such stuff/As dreams are made on, and our little life/Is rounded with a sleep."

(『テンペスト』)

W. シェイクスピア(William Shakespeare, 1564 - 1616)
イギリスの劇作家、詩人。経歴の必要もあるまい。

この『テンペスト』(1611 - 12) は、シェイクスピアの最後の作品で、この悲喜劇を書き上げた後、中部イングランドの故郷に戻り、幸せな余生を過ごしたという。

主人公は、かつてはミラノ大公だったプロスペロ。現在は、絶海の孤島に追放の生活を送っている。ヒロインは、彼の娘ミランダ。このほかに、人間以上の能力を備えた妖精エーリエル、人間以下の野蛮な怪物キャリバンが、島には住んでいる。
プロスペロは、自らを追放した弟のアントニオとナポリ王アロンゾに復讐しようと図るのだが……(ピーター・グリーナウェイ監督作品『プロスペロの本』が、『テンペスト』を元にしている。ちなみに映画音楽は、マイケル・ナイマンの担当)。

『テンペスト』というタイトルの由縁は、この作品冒頭で、プロスペロがエーリエルに命じて起こさせた大嵐から。

さて、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第17番には、『テンペスト』の名が付けられている。
とは言っても、これはベートーヴェン自身の命名ではなく、弟子のシントラーがこのピアノ・ソナタについて尋ねた時に、シェイクスピアの『テンペスト』を読むようにと答えられたことから。

とは言うものの、このピアノ・ソナタ、別に標題音楽ではないから、それを理解するのに、シェイクスピアの作品が役立つものではない(作品世界が似ているとも思えないしね)。
得てして、音楽作品につけられた名称というのは、そのようなもので、特に作曲者本人が付けたものでも、内容を表していることはめったにない。

まあ、それも当たり前の話で、音楽のように抽象的な藝術を、「ことば」で表現すること自体が、かなり無謀なこと。作曲者に、弟子なり聴衆なりの理解を助けてやろうという意図があるとしても、まずは効果があったためしはない。

やはり、音楽は音楽として、劇作品は劇作品として享受すればいいだけのこと。
劇を鑑賞するのは、今すぐは無理としても、エレーヌ・グリモーの演奏するピアノ・ソナタでも聴いてみましょうか("Credo", DG)。

参考資料 P. ミルワード著、安西徹雄訳『シェイクスピア劇の名台詞』(講談社)

今日のことば(56) ― A. メイエ

2005-12-17 12:23:34 | Quotation
「言語というものは伝統的な社会制度である。人間の意志は間断なく言語活動に介入する。フランス語とか英語とかドイツ語とかの共通語の選択は、住民の意志によって行われたものである。」
(『ヨーロッパの諸言語』)

A. メイエ (Paul Jules Antoine Meillet, 1866 - 1936)
フランスの言語学者、イラン・アルメニア学者。ソルボンヌ大学で F. ソシュールおよび M. ブレアルの影響を受ける。1905年からはコレージュ・ド・フランスで、印欧語の歴史と構造に関して教鞭をとり後進を育て、20世紀の言語学に大きな影響を与えた。

上記引用の『ヨーロッパの諸言語』は、1918年に書かれたもの。
当然のことながら、第一次世界大戦後のヨーロッパの状況を踏まえている。
言語的には、
「オーストリア-ハンガリー帝国が解体し、ソビエト連邦が成立する一連のできごとの中で、言語地図もまた大きく書きかえられなければならなかった」(田中)
時代状況があった。

「『住民の意志による』『共通語の選択』とメイエが言うとき、かれの念頭にはアルザスの言語問題がある」(田中)
ドーデーの『最後の授業』は、普仏戦争当時の状況であったが、逆のことが第一次世界大戦でもあった(普仏戦争では、フランス語からドイツ語への転換が行われ、第一次世界大戦では逆に、ドイツ語からフラン後への転換がなされた)。

メイエは、アルザスの人びとは「自らの意志によってフランス語を話したい、そしてフランス国民でありたいと願っている」と、ドーデーの話を裏付ける言説を述べているが、実際には「アルザス語*」という固有の言語を守りたいという運動を、今なお行っているという。
*アルザス語:「ドイツ語の方言で、アレマン語に属し、文学ドイツ語(文字言語)からかなり離れた言語」(メイエ)

さて、「言語」が「民族」を決定づけるものだとすれば(「日常的に日本語を使用している集団」=「日本人」)、自らのアイデンティティーをどの言語に求めるかは、自らの意志で決定することも可能である。
それが、必ずしも「日本語」として括られる「言語」ではなく、「沖縄語」であったり「大阪弁」であったりしても良い(井上ひさし『吉里吉里人』を参照)。
そう考えてみると、「言語」「民族」、そして「民族国家」(「国民国家」とも)というのは、かなりフィクショナルな存在であることに気づくことだろう。

現在のフィクション(大きな物語としての「国家」)に対して、より個人的な物語(小さな物語としての「集団」)を対抗させることは、思考的には(精神衛生の上からも)必要なことだと、小生は考えるのだが,いかがだろうか。

参考資料 A. メイエ著、大野俊一譯『ヨーロッパの諸言語』(三省堂)
     田中克彦『ことばとは何か―言語学という冒険』(筑摩書房)

今日のことば(55) ― 永井荷風

2005-12-16 08:08:43 | Quotation
「文学の神髄はつまる処虚偽と遊戯この二つより外はない」
(『新帰朝者日記』)

永井荷風 (ながい・かふう、1879 - 1959)
彼についても、今さら、彼の経歴を説明する必要もないであろう。

「新帰朝者」とは、1903(明治36)年から1908(明治41)年まで、アメリカとフランスに滞在し、帰朝したことを意味する。
1908年には『あめりか物語』、翌1909年には『ふらんす物語』とこの『新帰朝者日記』とが書かれた。

さて、上記引用の内容は、今日ではそんな立場もあるね、程度で済ませられるが、当時としては、「新帰朝者」としての立場でもなければ、そうそう簡単に発表できる内容ではなかった。
というのも、当時の一般的な文学観は、「生真面目」としか言いようがないもので、それは、「自然主義文学の基を確立した」との評価のある、島崎藤村『破戒』が1906(明治39)年、田山花袋『蒲団』が1907(明治40)年の作品であることを考えれば、その一端を理解することができるだろう(ちなみに評論の面では、花袋『露骨なる描写』が1904年の発表)。

「虚偽」とはフィクション性、「遊戯」とは実験性/前衛性と言い換えることができようか(ただし、「遊戯」にはもう少し広い意味を持たせたいが、今適当な言い換えが思い浮かばない)。
荷風の実際の作品に、そのような面のありやなしや、ということになると、いささか躊躇せざるをえないが、「遊戯」の面は、彼の次のようなことばを思い浮かべればよいか(「〈つむじ曲がり〉の効用」 その10参照)。
以來わたしは自分の藝術の品位を江戸戲作者のなした程度にまで引下げるに如くはないと思案した。その頃からわたしは煙草入れをさげ浮世繪を集め三味線をひきはじめた。(『花火』)

参考資料 永井荷風『新帰朝者日記』(「現代日本文学大系23永井荷風集(一)」筑摩書房)

今日のことば(54) ― 網野善彦

2005-12-14 00:04:37 | Quotation
「意識的に出家・遁世して、自己の定住集団から離脱し、遍歴生活に身をゆだねる人びともあった。(中略)中世後期以降にさかんになった社寺参詣・物見遊山のための巡礼や旅行も、定住の日常からの一時的な離脱であった。(中略)いったん共同体から脱出・離脱した人びとは、まさしく〈まれひと〉であり、〈異人(ことひと)〉にほかならなかった」
(『日本論の視座――列島の社会と国家』)

網野善彦 (あみの・よしひこ、1928 - 2004)
歴史家。専攻は日本中世史・日本海民史。東京大学文学部卒業後、澁澤敬三によって設立された日本常民文化研究所(現在は、網野氏の尽力により、神奈川大学日本常民文化研究所に引き継がれている)に勤務、中世の漁村史についての研究を始める。
その後、東京都立北園高校教諭、名古屋大学助教授、神奈川大学短期大学部教授、同大学特任教授などを歴任、日本中世史・日本海民史の研究を続ける。
遍歴民(定着民の反対語)=非農業民から見た日本の歴史について論じ、歴史家のみならず多くの人びとに示唆を与えた(時代小説家の隆慶一郎の著作、映画『もののけ姫』に与えた影響は、よく知られている)。
主な著作に『蒙古襲来』『無縁・公界・楽』『異形の王権』『日本の歴史をよみなおす』『日本社会の歴史』などがある。
ちなみに、宗教学者の中沢新一は甥に当たる(中沢『僕の叔父さん 網野善彦』を参照)。

小生、現在「道のアジール*」ということを、網野氏の著作から示唆を受けて、考えている。
これは、中世において、街道や辻・宿などが一種のアジールであった、という事実から、その意識は、近世まで残っていたのではないか、という発想である。
*アジール:「俗世界の法規範とは無縁の場所、不可侵の場所という意味。(中略)通常神殿や寺院、教会などがこれにあたる。宗教的、呪術的に特殊な聖域と考え、俗世界で犯罪を犯しても、アジールに逃げ込めば聖的な保護を与えられ、世俗権力による逮捕や裁判を免れるという一種の治外法権のような性質を持った」(Wikipediaより)

その一端を、本ブログ『〈道行〉雑考』に記した。
しかし、本来の目的は、この概念によって「ええじゃないか」*の本質が明らかになりはしないか、ということである。
*「ええじゃないか」:「1867(慶応3)年8月から翌年4月ころまで、江戸以西の地でおこった大衆乱舞。御陰参(おかげまいり)の変形ともいう。伊勢神宮のほか、諸宮の御札が降り、歌詞に『ええじゃないか』のはやしをつけて、集団で町や村を練り歩いた。名古屋におこり東海・近畿・南関東・四国へ波及。前年までの一揆・打毀(うちこわし)に続く世直し要求を宗教的形態で表したものといわれ、倒幕派は、大衆の混乱助長にこれを利用したといわれる」(角川・第二版『日本史辞典』)

『日本史辞典』にあるような「世直し要求」と「宗教的形態」とが、どのような機序で結びつくのか、また「倒幕派の利用」説が正しいのかどうか、というのが、目下のところの課題である。

網野氏の研究成果は、意外と射程が遠くまで及んでいるのではないか、という気がする。一般的には、中世史の範囲で語られ勝ちであるが、それだけではなく、近世、場合によっては近代に至るまで、役立つ成果ではないのか。
また、網野氏の述べた所説は、心性のレベルで言えば、今日のわれわれの無意識あるいは半意識の底にあるものにまで言及しているとも思える。

まだ、小生の考えも道半ば。
網野氏の著作を読みながら、ああでもない、こうでもない、とやっているところである。

参考資料 網野善彦『歴史としての戦後史学』(日本エディタースクール出版部)
     中沢新一・赤坂憲男『網野善彦を継ぐ。』(講談社)

今日のことば(53) ―トリン・T・ミンハ

2005-12-12 07:54:22 | Quotation
「普遍的知識を打ち立てようとする近代のプロジェクトは、1つのもの(光)のために別のもの(闇)を排除することで、文明/未開、進歩/退歩、改革/停滞という自己満足的な二分法に埋没してしまった。しかし、合理性と解放を推進する植民地主義的な考え方が衰退し始めるにつれ、明らかになったことがある。それは、近代のプロジェクトをその発生源においてもう一度見直さなければならないということだ」
(『女性・ネイティヴ・他者』)

トリン・T・ミンハ (Trinh T. Minh-ha, 1952 - )
現代アメリカの作家、作曲家、映像作家。ヴィエト・ナム生れで、1970年にアメリカに移住。イリノイ大学で作曲と民族音楽学、そしてフランス文学を学ぶ。現在は、カリフォルニア大学バークレー校教授。映像作品に『ルアッサンブラージュ』『姓はヴェト,名はナム』『核心を撃て』、ポストコロニアリズム関係の論文も多数ある。

上記の引用は、そのポストコロニアリズムに基づく、近代的思考の「見直し」に関する言説。

近代的思考は、19世紀の「社会進化論」によって、その科学的な〈まなざし〉を非西欧社会にまで広げていった。つまり、原始―未開―文明という図式である(コロニアリズムの原形を1492年のコロンブスの「アメリカ発見」の置く考え方もあるが、社会科学としての「原始社会」への〈まなざし〉は、明らかに19世紀に起源をもつ)。
また、〈近代家族〉*というモデルも同様。

*近代家族:ヘテロセクシュアリティを基礎とし、夫婦愛・親子愛によって結ばれ、子育てに重点をおく核家族であり、さらにまた、「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という固定的な性別分業を組み込んできた。


以上のような19世紀に始まる諸制度は、実質的な崩壊を見せているのだが、それに代わる理論的支柱(モデル)を、いまだに見出せないでいる(代替する枠組みとしては、構造主義的人類学や、ポストコロニアリズム、ジェンダー論等、さまざまな提示がなされてきたのであるが、現実に定着するには到っていない)。

それどころか、旧態依然たるゼノフォビア的言説(「嫌韓流」)や疑似科学的な言説(「男脳と女脳」)が、まかり通っているのが現状。

「小さいけれど強い政府」というのは、どうやらこのような土壌の上に成り立つようなのだ。
「改革」と称するものの実態が何であるのかを見極める上からも、近代的思考の「見直し」が必要なのではなかろうか。

参考資料 トリン・T・ミンハ著、竹村和子訳『女性・ネイティヴ・他者』(岩波書店)
     斎藤美奈子『物は言いよう』(平凡社)

今日のことば(52) ―夏目漱石

2005-12-11 06:12:38 | Quotation
「日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行かない国だ。それでゐて一等国を以て任じている。さうして、無理にも一等国の仲間入りをしやうとする。だから、あらゆる方面に向かつて、奥行きを削つて、一等国だけの間口を張つちまつた。なまじい張れるから、なほ悲惨なものだ」
(『それから』)

夏目漱石(なつめ・そうせき、 1867 - 1916)
今さら、彼の経歴を説明する必要もないであろう。

ただ、バイオグラフィーで押さえておきたいのは、彼の生家が「旧幕時代の有力な町方名主(なぬし)であった」ことと、「幼くして養子にだされた」ことである。

第1の点からは、実際の政府からの待遇はともかくとして、「戊辰戦争で敗れた諸藩の出身の人物が、藩閥、軍閥の階層秩序から排除された」(山口昌男『〈敗者〉の精神史』)という、野党意識を漱石に持たせたことが挙げられよう(学問や文藝の世界は、比較的、排除の論理が働いていなかった)。
その野党意識に、精神的なエネルギーを与えていたのが、第2の「養子」体験なのではないか。
その意識は、実際の西欧を見ることによって、「明治」に対する、より鋭い批判性を持つようになった。

ただ、他の新帰朝者たちと違って、漱石が複雑なのは、彼は西欧へもその批判性を向けていたことである。ヴィクトリア朝イギリスへは、愛憎両面を持った態度で終始する。特に、スペンサー流の社会進化論へは、倫理的な反撥を持っていたものと思われる。
そもそも「一等国」という概念そのものが、「弱肉強食」の国際社会というものを前提にしているのである。

上記のような、「明治」へのシニカルな批判性は、既に『猫』の時代から見られる(『猫』では、世の中の風潮である「金銭万能主義」への倫理的な批判もある。金満家の「金田」に対する態度を見よ)。

今では有名になった、漱石の癇癪は、このような「現実社会」と彼の「自己」との齟齬から生じていたのではないだろうか。

参考資料 山口昌男『〈敗者〉の精神史』(岩波書店)

今日のことば(51) ― H. ハイネ

2005-12-10 06:23:47 | Quotation
目下、なんという変化が、われわれの物の見方や考え方に起ろうとしていることか! 時間と空間という基本概念すら当てにならなくなった。鉄道により空間は殺され、われわれに残るは時間のみ」
(『ルテーツィア』)

H. ハイネ (Christian Johann Heinrich Heine , 1797 - 1856)
ドイツの詩人。デュッセルドルフのユダヤ系布地商の家に生まれる。1819年から1825年まで、ボンを初め、ゲッティンゲン、ベルリンの各大学で学生生活を送る。その間に文学に目覚め、1821年処女詩集を刊行、卒業後出版された『旅の絵 第1巻』で名声を博した。
フランスの7月革命(1830)に感激、「ぼくは革命の子だ」との意識の下に奮起するが、ドイツでの革命はならず、1831年にフランスに亡命する。
上記引用の『ルテーツィア』は、パリ時代のハイネの作品で、フランスの政治・藝術・民衆生活について書いたもの。

「鉄道」は、他の産業革命の産物と同様、システムとして存在している。
そこには、普通「鉄道」として考えられるハード面だけではなく、順調に運行させるために必要なソフトのシステムがある。
たとえば、ダイアグラム、安全性確保のための保守点検整備、距離と時間と重量に関係させた料金体系、などなど。

その中で、もっと大きな影響を社会に与えたのが,「時間」の観念ではないだろうか。
ハイネが語っているような、移動に必要な「時間」が急激に短縮されたことだけではなく、定時運行に伴う「時間/時刻」の考え方も変化した。
今までは、「朝昼夜」程度の大ざっぱな「時間」の切り取り方は、「時分」による正確なものに変らざるを得なくなる。
鉄道は、そこに働く人びとのみならず、乗客にも「時刻」の観念を強いることになる(「時刻」を守らなければ、目指す列車に乗れないのだ!)。

それを証拠づけるのが、時計の普及で、1890年代にはアメリカン・ウォッチ・カンパニー ウォルサム工場の生産量は、年間100万個に達したのである。

参考資料 ハイネ著、井上正蔵ほか訳『ハイネ 世界文学大系78』(筑摩書房)