ここに一個の古典主義者がいる。
それは團十郎がパリ公演にて、フランス語の口上を行なうのとは、まったく逆のいき方を示している。
とは言え、渡辺保が持たんとしているのは、一国の伝統や藝術に閉じこもることではなく、世界舞台藝術の一つとして、歌舞伎を俎上に載せることである。
いかなる国や地域の藝術であろうとも、「古典は難解で、退屈で、複雑で、晦渋(かいじゅう)なもの」なのであるから。
章見出しをみれば、渡辺の意図がある程度は分るだろう。
いわく、
著者が「私には解説書や入門書を書く資格はほとんどない」と述べているとおり、本書はその類ではない。
前提条件として、かなりの舞台藝術に対する知識・体験を必要とする書物であるが、それなりに得られるところは多いと思われる。
けっして一般向けではなく「開かれたものではない」書であるが、歌舞伎を通して、舞台藝術に関する考察を深めたい人には、かなりの示唆を与える書籍であろう。
渡辺保
『歌舞伎―過剰なる記号の森』
ちくま文庫 (元版・新曜社)
定価:1,155 円 (税込)
ISBN978-4480080936
「もともと私は古典というものは、簡単なものでも面白いものでもまして気軽にわかるものでもないと思っている。古典は難解で、退屈で、複雑で、晦渋(かいじゅう)なものである。何百年の歴史をもつものだからそれが当たり前なのである。」(「口上―舞台と人生」)
それは團十郎がパリ公演にて、フランス語の口上を行なうのとは、まったく逆のいき方を示している。
とは言え、渡辺保が持たんとしているのは、一国の伝統や藝術に閉じこもることではなく、世界舞台藝術の一つとして、歌舞伎を俎上に載せることである。
いかなる国や地域の藝術であろうとも、「古典は難解で、退屈で、複雑で、晦渋(かいじゅう)なもの」なのであるから。
章見出しをみれば、渡辺の意図がある程度は分るだろう。
いわく、
「I 身体」「II 劇場感覚の体系(システム)」「 III 戯曲」ここには、「藝談」や「伝統美学」「團菊爺いの昔語り」などではなく、古典藝能である「歌舞伎」を、世界舞台のことばで語ろうとする意思が見て取れる。
「戯曲の言語、身体の言語、型の言語。などの一節に指摘された現象は、おそらく歌舞伎のみならず、伝統的な舞台藝術では、世界各地で見られることなのではあるまいか。
この三つの言語が渾然一体となって歌舞伎の舞台をつくる。これを現代劇と比較すれば戯曲の言語、身体の言語は現代劇にも存在するが、型の言語というものがない。現代劇は型がないからである。そのかわりに演出の言語が存在するという人がいるかも知れない。しかし型は演出とは違う。その違いは三つの言語の関係にある。
演出は、戯曲とも役者の身体とも深くかつ緊密にかかわっている。
それに対して型は、戯曲の言語から独立し、しかし役者の身体言語とは深くかかわる。かかわりながら時にはその身体言語さえこえることがある。
これを要するに演出が戯曲や役者の身体を無視しては成立しないのに対して、型はそのいずれをも無視することさえあって、舞台の上であらゆる言語をこえる力をもっている。」
著者が「私には解説書や入門書を書く資格はほとんどない」と述べているとおり、本書はその類ではない。
前提条件として、かなりの舞台藝術に対する知識・体験を必要とする書物であるが、それなりに得られるところは多いと思われる。
けっして一般向けではなく「開かれたものではない」書であるが、歌舞伎を通して、舞台藝術に関する考察を深めたい人には、かなりの示唆を与える書籍であろう。
渡辺保
『歌舞伎―過剰なる記号の森』
ちくま文庫 (元版・新曜社)
定価:1,155 円 (税込)
ISBN978-4480080936