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一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
読んだ本の書評をお送りいたします。
活字中毒者のアナタのためのブログです。

最近の拾い読みから(125) ―『歌舞伎―過剰なる記号の森』

2007-03-01 15:21:18 | Book Review
ここに一個の古典主義者がいる。
「もともと私は古典というものは、簡単なものでも面白いものでもまして気軽にわかるものでもないと思っている。古典は難解で、退屈で、複雑で、晦渋(かいじゅう)なものである。何百年の歴史をもつものだからそれが当たり前なのである。」(「口上―舞台と人生」)

それは團十郎がパリ公演にて、フランス語の口上を行なうのとは、まったく逆のいき方を示している。
とは言え、渡辺保が持たんとしているのは、一国の伝統や藝術に閉じこもることではなく、世界舞台藝術の一つとして、歌舞伎を俎上に載せることである。
いかなる国や地域の藝術であろうとも、「古典は難解で、退屈で、複雑で、晦渋(かいじゅう)なもの」なのであるから。

章見出しをみれば、渡辺の意図がある程度は分るだろう。
いわく、
 「I 身体」「II 劇場感覚の体系(システム)」「 III 戯曲」
ここには、「藝談」や「伝統美学」「團菊爺いの昔語り」などではなく、古典藝能である「歌舞伎」を、世界舞台のことばで語ろうとする意思が見て取れる。
「戯曲の言語、身体の言語、型の言語。
この三つの言語が渾然一体となって歌舞伎の舞台をつくる。これを現代劇と比較すれば戯曲の言語、身体の言語は現代劇にも存在するが、型の言語というものがない。現代劇は型がないからである。そのかわりに演出の言語が存在するという人がいるかも知れない。しかし型は演出とは違う。その違いは三つの言語の関係にある。
演出は、戯曲とも役者の身体とも深くかつ緊密にかかわっている。
それに対して型は、戯曲の言語から独立し、しかし役者の身体言語とは深くかかわる。かかわりながら時にはその身体言語さえこえることがある。
これを要するに演出が戯曲や役者の身体を無視しては成立しないのに対して、型はそのいずれをも無視することさえあって、舞台の上であらゆる言語をこえる力をもっている。」
などの一節に指摘された現象は、おそらく歌舞伎のみならず、伝統的な舞台藝術では、世界各地で見られることなのではあるまいか。

著者が「私には解説書や入門書を書く資格はほとんどない」と述べているとおり、本書はその類ではない。
前提条件として、かなりの舞台藝術に対する知識・体験を必要とする書物であるが、それなりに得られるところは多いと思われる。
けっして一般向けではなく「開かれたものではない」書であるが、歌舞伎を通して、舞台藝術に関する考察を深めたい人には、かなりの示唆を与える書籍であろう。

渡辺保
『歌舞伎―過剰なる記号の森』
ちくま文庫 (元版・新曜社)
定価:1,155 円 (税込)
ISBN978-4480080936

最近の拾い読みから(124) ―『大本営が震えた日』

2007-02-20 10:22:21 | Book Review
一言で表せば「太平洋開戦秘話」ということになるだろうか。
「昭和16年12月1日皇居内東一の間で開かれた御前会議において、12月8日対英米蘭開戦の断を天皇が下してから戦端を開くに至るまでの一週間、陸海空軍第一線部隊の極秘行動のすべてを、事実に基づいて再現してみせた作品である。」(本書「解説」より)

開戦司令書を持った参謀が、中国での航空機事故で行方不明になるという「上海号事件」から始まり、日本郵船の客船〈竜田丸〉の12月8日の航海、マレー半島上陸作戦のための大船団の秘匿航海、などなど、エピソードの積み重ねで、太平洋開戦前夜が描かれる。

ただし、元版が1968(昭和43)年刊行と、30年以上も前の作品であるから、構成・文体の面では、吉村作品としては物足りないものがある。
淡々と事実を述べる文体であることに、後の作品と変りはないのだが、視点が日本側のみに置かれているため、平板な印象にもなりかねない(特に「失敗した辻参謀の謀略」でのピプン首相の描き方など)。

それはさておき、私たちは、この戦争がどのような結末を迎えたかを知っているため、「何という無駄な努力を」との徒労感が先立つのであるが、これが仮に勝ち戦であったとすれば、本書に出てきた人びとの行動は、ある種のヒロイックなものとして讃えられるのであろうか。

本書解説(泉三太郎)によれば、
「奇襲による以外に勝算のおぼつかない大作戦を、ハワイからマレー半島にいたる太平洋の各地域で同時進行させるためには、長い準備期間と慎重敏速なスケジュールの消化が要求される。それぞれの現場でときに発生する齟齬を埋めてゆくためには、個々の人間の生命などは、虫けらのように見棄てられてゆく。ばかばかしいほどのエネルギーを結集して進行してゆくこの歴史のドラマの結末が、日本の敗戦で終わることはすでに歴史上の事実となっているだけに、そのむなしさと徒労感が読者の上に重苦しい圧力となって覆いかぶさってくる。目的と結果の不一致は、吉村作品に一貫して流れるモチーフであり、それは作者の無常観とはなれがたく結びついている。」
となるのだが、その無常観は、後期の作品に比して、本書ではやや希薄なのではなかろうか。

むしろ、ビッグ・プロジェクトでの個人の有り様、というものを焦点に置いた作品に読み取れるのだが。

吉村昭
『大本営が震えた日』
新潮文庫
定価:620 円 (税込)
ISBN978-4101117119

最近の拾い読みから(123) ―『紀文大尽舞』

2007-02-17 06:20:31 | Book Review
戯作者志願の江戸町娘お夢は、突然に隠居した豪商紀伊国屋文左衛門の「勃興と遊蕩、そして没落を描いた一代記ものをものにしよう」と、彼に「密着取材」するのですが、彼の行動には謎めいたものが多く、ついには命まで狙われることになります。

はたして、紀伊国屋文左衛門の実像はどのようなもので、本当は何をしようとしたのでしょうか。

というのが、主なストーリーです。

ここまでのご紹介だと、従来の能天気な米村作品と同じだと思われる方もいらっしゃるでしょう(かつて『エレキ源内 殺しからくり』を取り上げました)。けれども、主人公が若い行動的な娘である点は同じなのですが(たとえば、大名の姫君を描いた『おんみつ蜜姫』、茶屋の看板娘を主人公にした『錦絵双花伝』など)、この作品は短調の旋律が基に流れている、という点で、かなり様相を異にしています。
また、紀文の背景にある「陰謀」が、大がかりでリアルな点も、米村作品としては異色なところ。

その点は、実際の作品に当って確認していただくこととして、ここでは、本作に、広い意味での「メタ・フィクション」性があることを指摘したい。

これは、主人公が「戯作者志願」であることとも関連しているのですが、後半部分、何のために皆がお夢の戯作『紀文大尽舞』を読みたがるのか、という謎にも密接なつながりが出てきます(ちなみに、『紀文大尽舞』とは本書のタイトルであると同時に、お夢の戯作の題名でもあります)。

著者の意見が、かなり反映していると思われる、お夢の戯作論を引いておきましょう。
「戯作ってのはな、この書物を読んで生業(なりわい)の得にしようだの、少しは利口になるかもしれない、なんて思うようなセコい野郎のためにあるじゃないんだ。てめえで本を買える金持ちには金勘定の合間の暇潰し、貸本屋で借りる貧乏人には世知辛い現実(うつつ)を逃れて束の間の極楽で遊ぶための手軽な楽しみ、どんな暮らし、いかなる身分にあろうとも、読めば別の世界で遊べる妙法楽、読み終えるまでは蓮の花の上で肘枕をしている心持ちなれる、楽しい玩具なんだ。立身出世に目が眩んだ野暮天野郎のお役に立てるためにあるもんじゃねえ。」
同感であります。

このような「メタ・フィクション」性とストーリーを絡み合わせたところが、本書のお手柄、と言っておきましょう。

米村圭伍
『紀文大尽舞』
新潮社
定価:1,890 円 (税込)
ISBN978-4104304042

最近の拾い読みから(122) ―『真田密伝』

2007-02-16 10:10:43 | Book Review
鈴木輝一郎の「怪著」(半分は褒めことば)であります。

タイトルのとおり、真田一族の興亡を真田昌幸、信之・幸村を中心に描いたものですが、けっして「歴史小説」ではありません。何しろ、とてつもない真田十勇士が登場し、それも本人が明示しているように、キャラクター設定が立川文庫による、というものだから、お分かりのことと思います。

しかのみならず、「密伝」というのは(おそらく著者の造語でしょう)、単なる忍術の秘伝ではなく、真言密教を基にした「オカルト」的な術なのですから、この小説での幸村でなくとも「眩暈(めまい)と頭痛」がしてくる。

何しろ、清海入道の弟、伊三入道などは、
「護摩壇で大麻を焚いて羅利乱利発破(らりらりぱっぱ)となっている」
のですから(この本で、活躍する場面はあったかしら)。
その他、徳川秀忠の夢の中に侵入して、関ヶ原での戦いに不参させるべく、上田城攻撃を図らせてみたり、信之・幸村兄弟が、八面六臂に変身して戦いを繰り広げるとか、奇想天外。
「怪著」たる由縁であります。

けれども、鈴木輝一郎の「怪著」、このようなオカルト風味の戦闘の合間に、意外と正確な歴史知識が挟まれています。
「本来ならばまず弓矢・鉄砲などを打ちかけて相手をひるませ、しかるのちに槍衾(やりぶすま)を敷いて突き進み、最後に騎馬武者が出て徒士(かち)を蹴散らすというのがいくさの手順」
とか、
「刀術は護身術に属するもので、いくさ場の用としてはあまり期待されてはいない。」
など、の記述がそうです。
本の内容からは、いい加減そうに見えて、案外と勉強しているのね。

また、本気なのか、それとも冗談なのかは分りませんが、アフォリズムのような科白を登場人物(ほとんどが、真田昌幸と幸村)が吐くのも、特徴の一つ。
「栄光と不可能は同じ場所にある。目前に不可能があれば、そこに栄光がある」
「事実は一つでも真実は人の数だけあり、現実は人に関係なく存在する」
「本職か素人かは結果が決める。地位とは、結論ではなく状態だ」
など、など。

その他、ちょっと下品な笑いを含めて、この「怪著」ぶり、誰ぞに似ている、と思いましたが、清水義範に近いのじゃないかしら。
ということで、著者略歴を見ましたら、鈴木輝一郎は「1960年岐阜生まれ」とのこと(一方、清水は「1947年名古屋生まれ」)。
どうやら、東海圏生まれの作家の戯作性というのは、近いものがあるようですな。

鈴木輝一郎
『真田密伝』
角川春樹事務所
定価:1,995 円 (税込)
ISBN978-4894569331

時代小説に「いちゃもん」【その1】

2007-02-12 07:32:44 | Book Review
以前、「時代小説の用語について」「三田村鳶魚翁、ふたたび。」「時代小説と小説の reality」などで、時代小説における「時代考証」に関して述べました。

基本的な小生の立場は、その小説世界の reality を支えているものは、「時代考証」(用語の時代性を含めて)である、ということです。
したがって、その時代らしからぬ用語や出来事は、どのような小さなことであろうとも、そこから小説世界の reality が崩れていくことになりかねないよ、と指摘したわけ。
「このように、歴史小説での「小説としての reality 」を保障するものとして、何を最重要視するかは、作家によって異なりますが、いずれにしても些細な事柄が大きな reality を支えていることは、お分りになったでしょう。

ここでも繰り返せば、
 「神は細部に宿り給う」
  (Der liebe Gott steckt im Detail)
わけです。」
と再度書き付けておきましょう。

さて、今回のテクストは高橋三千綱の『空の剣-男谷精一郎の孤独』です。

この人の場合、弱点は、江戸の地理感覚がないことなのね。
略歴を見たら「大阪生まれ」とありましたから、おそらく東京の地理にも詳しくはないのでしょう。

ここからは東京ローカルな話題になりますので、ご興味のない向きは飛ばしてください。

さて、若き男谷精一郎は、本所番場町(現在の墨田区東駒形1丁目)の親元に暮らしています。
ところが、ある日、死んだと思っていた実の母親が、秩父に健在でいることを聞かされます(精一郎は長男なんだけど、妾腹の子なのね)。
そこで、本所番場町から秩父に「武者修行」という名目で赴くわけですが、その道筋が妙なのです。

大川橋(吾妻橋)を渡るところまでは良いでしょう。しかし、そこから南に向い、蔵前を通っていく、というのはどうでしょうか。
そして、
「浅草御門の手前を西に折れ、神田川沿いに上って湯島の聖堂を見下ろす道を斜めに入る。そこはもう中山道に通じる道で、なだらかな坂を上って本郷の町屋を抜けると加賀様の屋敷に出る。」

つまりは、浅草橋の辺りから佐久間河岸を通り、昌平橋の所で本郷通りに入り、東大前を通っていったということね。

それはいいんだけども、これ飛んでもない遠回りなのね。
タクシー・ドライバーなら、乗客からクレームがつくよ。
江戸時代の人なら(今日でもそうでしょうね)、大川橋から西に進み、東本願寺の所で折れて、新寺町(現在の浅草通)を真直ぐ上野に向い、お成り道(現在の中央通)に入って、下谷広小路(現在の上野広小路の交差点)で右に折れて湯島の切通しを抜け(現在の春日通)、今日の本郷3丁目の交差点に至る、というのが順当な道筋じゃあないかしら。

この作者、地図を見ているんだろうけど、登場人物を動かしたい道筋しか見えていないみたい。

同様なことを、他のテクストにも見かけますが、もうちょっとしっかりと地図を見ていただきたい。
江戸のほとんど主要な道は、今日でも生きているのだから(昭和通や明治通のように、関東大震災後に出来た道はあったとしても)。

高橋三千綱
『空の剣-男谷精一郎の孤独』
集英社
定価:1,995円 (税込)
ISBN978-4087744095

最近の拾い読みから(121) ―『広瀬中佐の銅像』

2007-02-08 06:22:56 | Book Review
今回は小説の読後感ではなく、この作品に出てくる「仮名(かめい)」について。

内容は、
「戦後「戦犯銅像」として撤去処分を受けた広瀬中佐の銅像。他の銅像が復活するなかで、中佐の銅像だけが行方知れずに…。銅像消失の謎と戦後の美術界の混迷を描く小説。」(「MARC」データベースより)
ということで、美術界(特に彫刻界)の戦争との関係とがテーマ。

ですから、実在の人物が、どうしても登場してくる。たとえば、東郷青児や藤田嗣治といった人びとですね。
しかし、これらの人びとに関しては、歴史的な事実しか述べられていないので、実名登場となるわけです。
「東郷青児は従軍看護婦像で戦争画家失格のレッテルを張られた。結果的に戦争に協力しなかった希少な一人であった。」

「東郷青児と対極にあったのは藤田嗣治だった。戦争画で最も腕を振るったのは藤田嗣治である。」
といった具合。

けれども、メインテーマである彫刻については、贋作問題を含めてフィクションの部分も含まれている。
そういう意味では、微妙にモデルとなった実在の彫刻家(物故)の、名誉毀損となる可能性もある。

ということで、次のような「仮名」が使われているわけです。

「老大家」であり、「和気清麻呂、小村寿太郎、大隈重信*、後藤新平、渋沢栄一等の銅像を制作」した彫刻家は、
  葉桜行夫
その兄で、「明治天皇銅像、広瀬中佐・杉野兵曹長群像、日本橋装飾像獅子麒麟などを制作」した彫刻家は、
  石鍋君男
となっています。
*早稲田大学構内の銅像も、その一つです。

これは、既にお分かりのように、朝倉文夫とその兄渡辺長男(わたなべ・おさお、1876 - 1952) がモデルになっているんですね。

面白いというのは、その「仮名」の付け方。
「あさくら・ふみお」→「はざくら・ゆきお」
「わたなべ・おさお」→「いしなべ・きみお」
こう並べてみると、「音」をできるだけ活かすようにしているのが、理解できます。

まあ「仮名」の付け方には、アナグラムあり、漢字の置き換えあり、といろいろな方法がありますが、このような「音」の重視というのは、なかなか珍しい。
作者は、俳句か短歌をやっているか、音楽愛好家なんじゃないかしら。

ということで、今回はモデル小説での「仮名」の付け方、という話題でした(こちらもご参考までに)。

もりたなるお
『広瀬中佐の銅像』
新人物往来社
定価:1,995 円 (税込)
ISBN978-4404029867

最近の拾い読みから(120) ―『〈食べもの神話〉の落とし穴―巷にはびこるフードファディズム』

2007-02-07 06:27:24 | Book Review
「発掘! あるある大事典」騒動で、TV局の番組制作体質が問題になったようですが、本当に問われるべきは、視聴者を含めての「フードファディズム」のようです。

「フードファディズム」(Food faddism) という用語は、この国では著者が最も早くから、一般に知らしめるようにしていたみたい。本書の前作『〈食べもの情報〉ウソ・ホント』(ブルーバックス。1998年刊行)の時点から、逸早く「フードファディズム」の問題点を指摘していた。

それでは「フードファディズム」とは、どのような意味・内容なのでしょうか。
本書の序章から引けば、「フードファディズム」とは、
「食べものが健康や病気に与える影響を誇大に評価したり信奉すること」
で、次の3つのタイプに分類できるそうです。

1. 健康効果をうたう食品の爆発的な流行
 つまりは、「それさえ食べれば、健康トラブルなんでも解決」という売り方ですね。
 今回の「納豆騒動」は、このタイプでしょう。

2. いわゆる健康食品(あるいは栄養補助食品)
「他の努力はいっさい不要で、〈それ〉を食べ(飲み)さえすれば『元気になる』『若返る』『病気が治る』(中略)ように言いつのること」
であります。
 昔で言えば「不老長寿の仙薬」といったところでしょう。

3. 食品に対する不安の煽動
1. 2. がポジティヴな発言だったのに対し、こちらはネガティヴな言説ということになります(とは言っても、「非難攻撃し排斥する一方で、ある食品を体によいとして推奨したり万能薬視したりする」)。
自然食品愛好程度ならまだいいのですが、「普及品は危険だらけ。安全なこちらの製品を」となると、結構、罪が重いことにもなる。

2003年刊行の本書で既に、今回のような問題が起こりうることが指摘されているのも注目すべきでありましょう。
ちょっと長めですが、「フードファディズム」という視角から、どのように見えるかを示す意味で、ここに引用しておきます。
「人気テレビ番組が飽きもせずに取り上げる『これを食べると◯◯によい』という〈体によい情報〉も、食に対する不安をいたずらに煽動する〈体に悪い情報〉も、ともに『食べものや栄養が健康や病気に与える影響を過大に論ずる』という意味でフードファディズムといえましょう。〈体によい〉を言い立てる情報も問題ですが、〈体に悪い〉として不安をやたらにあおる情報の発信も無責任です。フードファディズムが実害を伴わなければ、おかしなことを言っている、困ったことだ、と思うだけで済ませることもできますが、健康被害をもたらしたり、詐欺的商法に悪用されることもあるだけに放置できません。」

また「ある食品を体によいとして推奨したり万能薬視したりする」ことが不可能である以上、「発掘! あるある大事典」的なデータの捏造は構造的に避けられないといえるでしょう。
それは、TV局および番組制作プロダクションの体制よりも、もっと根深い問題(=フードファディズム)が世間に蔓延している、ということを示しているのでしょう。
「一つの妖怪がこの国を徘徊している-フードファディズムという名の妖怪が」
といったところでしょうか。

この機会に、食品と健康の問題に関して、啓蒙的にまとめられた本書をお勧めします(前著『〈食べもの情報〉ウソ・ホント』と併せてどうぞ)。

高橋久仁子
『〈食べもの神話〉の落とし穴―巷にはびこるフードファディズム』
ブルーバックス(講談社)
定価:945円 (税込)
ISBN978-4062574181

最近の拾い読みから(119) ―『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』

2007-02-05 05:55:39 | Book Review
前回は小説で、高橋由一と三島通庸との関係を見てみました。
ここでは、研究書でこの二人の対立・共鳴の具合を探ってみましょう。

そういう意味では、もりたなるおの小説『山を貫く』とは、いささかイメージが違っています。というのも、あくまでも小説では、事実そのままよりは真実を追究することが目的となるため、「対立」というドラマティックな要素を前面に押し出す方が効果的だからです(小説は、この研究書の後で出されたことは、文末「参考文献」で分る)。

本書の第一部が「歴史の中の高橋由一」と名づけられた高橋由一論。その中に収められた一編に「画家と土木県令」という部分があります。
もちろん、画家というのは高橋由一、土木県令というのは三島通庸のこと。

さて、このパートでは、三島県政での進歩性が述べられています。
「三島の県政は結局、あの民権派議員たちのセンセーショナルな批判をはるかにこえて、さまざまの劇を生みながらも確実な恩恵を県民にもたらしつづけてきたのである。」
として、
「三島が築いた基幹道路の大半は今日の県内国道の基礎となっている」
状況を、紹介しています。

その進歩性の元になった情熱に、高橋由一も惹かれた、というのが著者の見解。
著者は由一の言(明治17年10月22日付、仙台発書簡)、
「実に三島老の熱心は凡人の及ばざる神力と云ふてよし。……度量大なる人也。宮城人民も昨今に至り同老を敬慕して止まずと宿主の話し、尤(もっとも)の次第也」
を引き、
「自然に挑戦し、自然の資源を開発するこのダイナミックな人力の営為に接して、由一はついにあの矮小な浮世絵的自然観の枠を脱して、明治日本にふさわしい風景画の新乾坤を開き、日本風景画史上に一期を画するにいたったのである。」
と述べています。

しかし、それでもなお、明治の近代化は、このような形でよかったのかどうか、という疑問が、小生には残るのですが(上からの「開発独裁」による近代化。こちらもご参考に)。

芳賀徹
『絵画の領分―近代日本比較文化史研究』
朝日新聞社
定価:2,345円 (税込)
ISBN978-4022595126


最近の拾い読みから(118) ―『山を貫く』

2007-02-04 11:35:43 | Book Review
『花魁図』や『鮭図』で知られた高橋由一は、1828(文政11)年の生まれ。
ですから、明治洋画界でも、川上冬崖(1827 - 81)と並んで、ごく初期の作家ということになります。

佐野藩の江戸屋敷で生まれ、最初は狩野派の絵画を学んでいました。ですから、洋画の技法を学んだのは、その後、個人的にチャールズ・ワーグマンの指導を受けたり、幕府の蕃書調所画学局で冬崖に手ほどきを受けたりしてからということになります。

その転向の元には、一種のカルチャー・ショックがあったのね。
「ある友人から『洋製石版画』を借覧し、それが『悉(ことごと)ク皆真二逼(せま)リタルガ上二、一ノ趣味アルコトヲ発見シ、忽(たちま)チ(洋画)習学ノ念ヲ起シ』た」(芳賀徹『絵画の領分』)
そして、
「これを契機に由一は、それまでの狩野派修業を捨てて、洋画の迫真美の追及に踏み込んだのであった。」(芳賀、前掲書)

そのカルチャー・ショックの内実が、どのようなものであったかを知る手がかりとして、その蕃書調所画学局にいた時に残された有名なことばがあります。
「絵事(かいじ)ハ精神ノ為ス業(わざ)ナリ、理屈ヲ以テ精神ノ汚濁ヲ除去シ、始テ真正ノ画学ヲ務ムベシ」(『高橋由一履歴』より)。

このようなあり方を指して土方定一は「幕末洋画最後の、明治洋画最初の『巨人』」と呼んでいます。
けれども、むしろ芳賀徹が「洋画道の志士」といった表現の方が当っているみたい。

本書の高橋由一は、「土木県令」と呼ばれ、また自由民権運動を強権弾圧したことで「鬼県令」ともいわれた、三島通庸(みしま・みちつね、1835 - 88)との絵画(具体的には『栗子山隧道図(西洞門)』)をめぐっての、対立拮抗関係を描いています。
つまり「絵事ノ精神」を枉げずに、三島通庸に主導された土木工事の記録画を描くという、一種「綱渡り」のような絵事が、どのようにして行なわれたか、がメイン・テーマとなってきます。

そもそもが、高橋由一にとっての洋画は、日本的な湿気の多い風景を描くのに適しておらず、
「土木事業の隧道があり橋梁があった。あれこそ由一が目指す西洋画の、絶対の題材」
だったのです。
けれども、三島自身の行なった事業は、
「そのための賦役、賦課は、住民を苦しめた。土木県令は収奪の鬼県令とされ、悪評きわまる感があった。(中略)国民の人気はゼロに等しい。施政下にある県民の多数は、通庸を忌み嫌うこと蛇蝎の如くである。」
そして、その感情は、在野の画家由一のものでもあった(一方で、「信念を貫く人」という、三島と由一との間の共通点もある! 実にねじれた関係ではあります)。

このような矛盾に、どのように由一は立ち向かったのか。
敷衍すれば、明治における「在野の近代化」とは、どのようなものなのかに思いを馳せることもできるでしょう。
それを、小説という形式で、ビビッドに描いているのが、本書の価値だと思います(論文を絵解きしたような小説ではない)。

*本書のもう1つの主題に、当時の画壇情勢(フェノロサや岡倉天心らの押し進めていた日本画復興運動によって、西洋画が排斥されつつあった)を描くということもありますが、そちらに関しては、今回は省略しました。

もりたなるお
『山を貫く』
文藝春秋社
定価:1,631 円 (税込)
ISBN0784163136103

最近の拾い読みから(117) ―『エレキ源内 殺しからくり』

2007-01-12 08:29:00 | Book Review
この作者独自の「ファンタジー+時代小説」です。
「ファンタジー」というのは、まず「ありえない/奇想天外」な趣向であること。
この作品でいえば、主人公が平賀源内の一人娘〈つばめ〉であることが、それを支える骨子となっています。

その一人娘が、
「源内秘宝を巡っての、大田直次郎(狂歌師・四方赤良)、娘武芸者、黒頭巾の一団、軽業一座、忍者…入り乱れての大騒動」(「BOOK」データベースより)
を繰り広げる、というストーリー。

個々の展開でも、「聖護院蕪組」なる朝廷の影組織あり、源内が発明した「磁石(じせき)天火」(電磁誘導の原理による発電機)あり、と登場するガジェットも、いかにもファンタジーらしい。

とは言え、「時代小説」の骨格はキチンと押さえているのが、また、この作者の特徴でもあります。

発端が、「第十代将軍徳川家治の嫡子、家基の不可解な死」から始まり、田沼意次と一橋治済(はるさだ/はるなり)との政治的な確執あり、それにも続く陰謀と裏切りありと、この辺は歴史的な事実が述べられています。

その「ファンタジー」と「時代小説」とのミックスの具合が、著者の腕の見せ所、ということになるでしょう。

その点では、本作品は、後半に、北欧神話の「オージン」「トオル」などまで出てきているところが、何とも異質。
まるで、昔々の東映時代劇映画を見ているような感じがします(『旗本退屈男』のような、何でもありの世界)。
別に作者はそれに居直っているわけではないのでしょうが、いくら平賀源内の世界とは言え、ちょっとこれはやり過ぎではないでしょうか。

ちょっと鼻白む部分のある本作ではありますが、構成や文章自体は、それなりの独自のものがあり、上手いものです。
特にお勧めするわけではありませんが、このような傾向のものもあり、というご紹介のつもり。

米村圭伍
『エレキ源内 殺しからくり』
集英社
定価:1,890 円 (税込)
ISBN4087753424