一風斎の趣味的生活/もっと活字を!

新刊、旧刊とりまぜて
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最近の拾い読みから(185) ―『東京セブンローズ』

2007-10-06 04:56:36 | Book Review
いくつもの側面から捉えることのできる小説です。

時代は、1945(昭和20)年4月から翌1946(昭和21)年4月までの、丸一年間。舞台は東京、ということになります。
この時代と場所を、根津宮永町の団扇屋の主人・山中信介が、どのように過ごしたかを、彼の日記体で克明に描いていきます(8・15前後に関して、主人公が「思想犯」として刑務所にいたために、記述が省略されているのは、戦前と戦後とを画然と分けるためか?)。

したがって、第一の側面は「風俗小説」。
時代風俗について、実に情報量が多い。
どこを切り取ってもいいのですが、時代のファッションから物価、食糧事情、新聞の論調、などなど。巻末の参考資料を見ても分るように、情報満載です。
ここでは、ちょっと笑ってしまう部分を引用。

1945年5月の三越百貨店に関して。
「『どの階も空地ばかりだ。おまけに売り物ときたら、マナイタだのスリコギだの下駄だの木工品だけじゃないか』
『それでも高島屋さんよりは揃っておりますよ。高島屋さんは全階、軍刀売り場ばかりですから』」

その多くの情報を、日記体の中で、説明臭くなく扱っているのは、井上ひさしの手腕というものでしょう。ただし、若干、それが破綻している部分もある。また、日記体=一人称小説であるため、社会的な上層部や中間層には、目が届き難い点がありますが、これはやむを得ないでしょう。

第二の側面は「日本人論」。
とは言っても、大所高所に立った抽象的なものではなく、敗戦を挟んでの、その信条や感情の変りやすさ、を突いています。
「つい、この間まで神と崇め奉っていた超絶的な存在を、そう簡単に下がかった冗談の種にしていいのだろうか。そうしていいのは、あの時代にも、天皇は神ではないと主張していた者だけではないのか。天皇を現人神(あらひとがみ)と思い、他人(ひと)にもそう思えと強制してきた者が、どんな動機があったにせよ、そば屋で天丼でも誂えるかのようにあっさりと簡単に、天皇かマッカーサーに宗旨を変えて、その上、かつての神を笑いを誘うための小道具にしてしまっていいのだろうか。ひょっとすると日本人は何も本気で信じていないのではないか。そのときそのときの強者に尻尾を振ってすり寄って行くおべっか使いに過ぎないのではないか。」

第三の側面は「日本語論」です。
このテーマに関して、ストーリーの上では、「日本人がローマ字を使い充分にアルファベットに慣れたところで外国語を採用する」という計画を企んでいる、GHQ 言語課ホール少佐の「陰謀」を、いかにして打破するか、という冒険小説的(あるいはコンゲーム小説、推理小説?)な展開を使っています。
この部分が小説後半の山場であり、タイトル「東京セブンローズ」の謂れが明かになる部分でもあります。

以上のほかにも、見方/読み方はいろいろありうるでしょう。
そのような多面的な見方/読み方のできる、井上ひさしのテクストでありました。

なお、小生の指摘した第一、第二の側面について書かれた小説は多々ありますが、第三の側面について書かれた小説は数少ないのではないでしょうか。

井上ひさし
『東京セブンローズ』(上)(下)
文春文庫
定価 670+620 円 (税込)
ISBN978-4167111212、978-4167111229


『吉里吉里人』に目を通していたら、次のような一節がありました。
 作中人物の科白ですが、おそらくは井上ひさしの歴史叙述についての考え方でもあると思われます。『東京セブンローズ』を読むための御参考に、ここに引用しておきます。(2007年10月7日追記)
「自分が生きた時代の事件、人間、思潮、雰囲気、なにかとても大切なあるもの、ちっぽけな、とるにたらない人間だと思われている奴のすばらしさ、偉大な人間だと信じられている奴のみにくさ、自分たちの時代にはなにがおもしろいとされていたか、その時代の人びとはなにを考えていたのか、並べ立てれば際限(きり)はないが、とにかく作家は書かねばならぬと思ったことをそれぞれの流儀で書きつづり、同じ時代の人びとに示し、後世へ残す、もっとも残るものはごくわずかだけど、そうしてその作家がどんな日常を送っていたかによって〈書かねばならぬもの〉が自然(ひとりで)に決まってくる」