さてそれで、スシラ ブディ ダルマのそもそもの書き出しが何とカルマについての記述から始まっています。
そうしてこれらの文章の意味は一読しただけではよく分からないのですが、詳細に読み進めると分かってきます。
そういう訳で以下、第1章 シノム 3節~11節から引用、検討していきましょう。
『3、まずここから説明を始めよう。
オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、直ちに生命のバイブレーションが感じられる。
それは広がって全身を被い、まもなく心にとっては非常に奇妙に思える動きを引き起こす。(注5)
4、この状態は実際、心にとってはまことに奇妙なものである。
なぜならそれは思考で作り出せるようなものではなく、思考の影響をもはや受けていないある感覚(Rasa)によって受け取られ直接確認される事実だからである。(注5)
5、この事実を受け確認したならば、引き続き自分の内部で実際には何が起こっているのかをよく感じるようにせよ。
そうすれば正しい道への指針が得られよう。
さらには、真の内部自我(Diri Pribadi)の本来の姿が明らかになるであろう。
6、それゆえに、あなたは自分がこれまで常にどのような欠陥を荷ってきたかを知るであろう。(注1)
それは子供を授かる以前にあなたの両親が行ってきた行為によって生じてきた欠陥である。(注2)
7、この状態はまことに驚くべきものである。
なぜなら人間としての地位(注:ジャスマニJasmaniと呼ばれるレベル)にふさわしい特性の中で、あなたに欠けているものが何であるかが示されるからである。
それらの特性が欠如している為によりたかく昇る、つまり完成の領域(注:ロハ二Rohaniと呼ばれるレベル)に達する可能性は微々たるものになっている。
8、子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。(注3)
また深く考えるならば、これは少しも例外的な事ではない。
それどころか誰もが経験する事である。
何故なら第一に、ほとんどの人はこれから起こる事柄を前もって知る事は出来ないし、
第二に何と言おうと人間は人間でしかないからである。
人間の状況はたやすく変化し、感情をかきたてる状況によって容易に影響を被る。
それゆえ、欠陥の出所が確かに親にあるとしても、子供が親を責める事は何の役にも立たない様に思われる。(注2)
9、親の中には、身の処し方を完全なものにしようと懸命に努めている人たちがいるかもしれない。
将来、自分の子供たちが優れた性格を持ち、人生に立派に対処していけるようにと望んでのことである。
しかし、努力が誤った方向へ向けられている為に、彼らの希望は叶えられない。(注4)
10、従ってそのようなやり方をしない方が良い。
とりわけ、望んでいるものを作り出す為に、もっぱら意思を強め集中するような仕方であれば、なおさらである。(注4)
なぜなら、得られる結果は、ハート(Hati)から生まれた空想の産物以外の何物でもないからである。
11、それゆえ親にとって何よりも必要な事は、多少なりともジワ(Jiwa)に関する事(クジワアン:kejiwaan)を意識することである。
そうすれば後に子孫から非難の的にされる様な事にはならない。』
(注:kejiwaanはke(接頭語)+Jiwa(名詞)+an(接尾語)という合成語で、Jiwaに関連したもの、という意味になります。
ついでながら、クバティナンkebatinanとはジャワ的な神秘主義にジャワ人が与える名称であり,「内」を意味するアラビア語からの借用語バティンbatinを語根としている。
このコトバもke(接頭語)+batin(名詞)+an(接尾語)と分解でき、「内」batinに関連したもの、という意味になります。
これを意訳するなら「内面の道」とでもなりますか。)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注1
さて最初からいとも簡単に自分の真の内部自我(Diri Pribadi)、これは真我とでもいうべきものであり、生まれてからこの方獲得してきた人格、ペルソナではなく、いわゆる「本来の自己」のことなのですが、「それが分かる」とバパは言うのです。
しかしながら実際の会員の状況はそう言う様には推移してはいない様です。
ラティハンの道は下り坂ではなくのぼり坂であって、少なくとも自分の欠点を見つめてそれを正そうという気持ちは必要でありましょう。
そしていわゆる「自分の欠点」に気がつく、それに対して自覚的になる、ということはそれなりの時間が、ラティハンの積み重ねが必要になっている様です。
注2
バパは「それらの欠点の出所は両親の行為の結果である」としています。
これがバパが主張するカルマ論の基本になります。
そうであれば、「これから両親になるであろう人たちをラティハンで浄化しなくてはならない」というのがバパの最終目的の一つとなるのです。
これがバパが提唱する「よい子供が生まれる事により、良い人類が誕生し、地球に平和がもたらされる。」という人類救済のストーリーにつながっていく事になります。
又それはバパにとっては「人類がつみ重ねてきたカルマを逆回転させて消し去る」という壮大な計画の表明でもあります。
しかしながら他方でバパは「全ての人はリンカネーションしている。」という立場をとります。
そうすると、生まれてくる子供のJiwa(魂)のレベルというのはその子供が前世までの生活で到達したレベルである事になります。
そうしてそれはまさにその子供の責任であり、その子供の行動の結果によって決まったものです。
そうしてその子供のJiwaがどのようにして生まれてくる事になる人体に宿るのか、ということについてはバパは「両親の内部感覚のレベル、それは両親のJiwaのレベルが決めるものでもありますが、それに見合った子供のJiwaが引き寄せられて宿るのだ」と主張されます。<--リンク
そうなりますと、確かに両親の行為によって決まるであろう両親たちのJiwaのレベルがありますが、他方で子供自身がもっている子供責任によるJiwaのレベルもあります。
そうして人が生まれる、ということは両親と子供、その2つのJiwaのレベルの一致によるものでありますから、一方的に「両親の行動の結果によって子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況、そこに発生している間違いの総量(カルマ)の受け渡しが決まる」という事にはならないと思われます。
このようにその状況を詳細にみていきますと、そこには両親と子供の間に一種の相互依存関係があることが分かってきます。
そうであればバパが言う様に一方的に「子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況は全て親の責任である」とは言えなくなります。
つまり「子供は今いる状況、一定の間違い(カルマ)を背負っている責任を免責されない」ということです。
しかしながら、そうなりますと議論が複雑になります。
それでバパはここでは一応子供に対しては「親の責任ではあるが、仕方ないものとして現状を容認せよ」、「そうしてそこから歩き始めよ」という立場をとります。
それに対してリンカネーションを認め、「子供のJiwaのレベルは前世までのその子の責任である」としても、子供はいずれにせよ「今ある所から歩きだす他に道はない」のでありますから、最後の結論は結局のところバパの言及と同じことになりそうです。
注3
『子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。』
そのようにスシラ ブディ ダルマは言うのですが、なぜ自分では取り除けないのか、どうする事もできないのか、という事を説明したトークがあります。
それで以下は(3月13日,1965)トークからの、カルマとその解消についての引用になります。
『・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。
そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。
それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。
それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・』
さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。
注4
ジャワの伝統のなかには「人は努力をすることによって、良い子孫を得る事ができる」というものがある様です。
しかしながら、バパはそのようなやり方には賛成しないのです。
「それはGumelaring Jagad(宇宙の重層性)です」の第44節と第47節の1を参照してみてください。<--リンク
以下はそこからの引用です。
『(44)節
良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。
これは「良い子をどうやって生み出すのか」という方法の問題に帰着します。
生命の種は、チピタ cipta(感情の頭)からプラマナPramana(最高物質)までの父親からのものであり、性交渉中の父親の感情によって、母親の子宮に生命の種子が落ちる。
父親のチピタciptaは新しく生まれた子供の基本的な性格になるので重要です。
父親のチピタcipta/マインドが平和で神聖なときにカップルが性行為をすることができれば最高です(ジャワ語で Lejar)。
・・・・・
子供は良い性格を持つべきであり、常に神を崇拝することを熱望していなければなりません。
性交渉の時間も重要です。最高のものは、深夜から日の出までです。
あなたの魂を浄化し、性行為をする前に祈ることが賢明です。
・・・・・
(47)節
・・・・・
真夜中、多くの人が眠っているとき、あなたは荘厳に彼を崇拝する。
あなたの体は清潔で、あなたの体はきれいで、あなたの心ははっきりしており、平穏です。
あなたはマット/床に座っています。
心の集中によって体の9つの穴を閉じます。
全てをわすれ、そこには彼しかいない。
厳粛に瞑想し、静かに吸い込んで呼吸することによってあなたの呼吸を制御してください。
あなたは鼻のピークを見ます。
彼に全面的に降伏させる。
あなたは少なくとも1時間真夜中にそれを行うべきです。
うまくいけば、神秘的なシグナルやメッセージ(sasmita gaib)があります。
・・・・・
(注:彼とは超越者、あるいは「唯一の神」とジャワで呼ばれている存在のことです。
ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。<--リンク)』
さてバパは「やり方がまずい」といっているのであって、
『良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。』
というジャワの伝統的な考え方には大賛成なのであります。
そうして、そのためには従来の方法ではなくラティハンによるべきである、というのがバパの主張になります。
そうであれば第1章シノムの9節、10節は「ラティハンへのいざない」と取るべき文章となります。
注5
3節と4節はオープンとそれに引き続いて起きてくる事柄についての説明です。
『オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、・・・』と簡単に書かれていますがまずは頭脳が考える事をやめる事などは、他の方法ではそんなに簡単には実現できない事です。
それは「無心」と言われる様な状況であって、瞑想を実習する人たちが何年もかかってようやく到達する心理的な状態でしょう。
どうしてそんな事がいとも簡単におこるのか?
それがラティハンの秘密であり、神秘であります。
まあしかし、今話したいのはそこではありません。
注目すべきは『思考が感覚(Rasa)から切り離されると、』という記述についてです。
ここで言っている『感覚(Rasa)』は五感のことではありません。
もともと五感というのは思考とは別物であります。
そうして思考と五感がくっつくとしたら、それは幻覚の世界でありましょう。
正常な状態とは思えません。
さてそれで、Rasaというのはインドネシア人にはなじみ深い表現なのでしょうが、英語にも日本語にも相当するコトバがなく、仕方なく翻訳者は feeling 感覚と訳しています。<--リンク
そうしてより正確にはRasa Diri 内部感覚という表現になります。
以下上記リンク先より引用します。
『もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」となります。
そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。
こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。
しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。
「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。
これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。
実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。
そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。』
そういう訳でここは「内部感覚の中に起こっている思考がオープンによって止まり、思考の影響が内部感覚の中から消えると・・・」という様に理解されます。
こうしてスシラ ブディ ダルマに書かれている文章の意味を理解する、ということはなかなかに骨の折れる、難しい事である、というのが分かるのであります。
さてそうではありますが、そのような難しい込み入った話などはオープンを受けてラティハンを始める事に当たっては、「まあ知っていても損は無い」くらいの話であります。
そのような「知的な理解」にはかかわりなく「全托する事」によってオープンは起こり、ラティハンは始まるのでありました。
追記
feeling を「感覚」と訳している内はいいのですが、「感情」の訳をあてている所が日本語訳で多く見受けられます。
「情感」であればまだましですが、「感情」の訳は違うと思われます。
「感情」はRasa(Feeling)ではなくHati(Heart)の働きでありましょうから。
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そうしてこれらの文章の意味は一読しただけではよく分からないのですが、詳細に読み進めると分かってきます。
そういう訳で以下、第1章 シノム 3節~11節から引用、検討していきましょう。
『3、まずここから説明を始めよう。
オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、直ちに生命のバイブレーションが感じられる。
それは広がって全身を被い、まもなく心にとっては非常に奇妙に思える動きを引き起こす。(注5)
4、この状態は実際、心にとってはまことに奇妙なものである。
なぜならそれは思考で作り出せるようなものではなく、思考の影響をもはや受けていないある感覚(Rasa)によって受け取られ直接確認される事実だからである。(注5)
5、この事実を受け確認したならば、引き続き自分の内部で実際には何が起こっているのかをよく感じるようにせよ。
そうすれば正しい道への指針が得られよう。
さらには、真の内部自我(Diri Pribadi)の本来の姿が明らかになるであろう。
6、それゆえに、あなたは自分がこれまで常にどのような欠陥を荷ってきたかを知るであろう。(注1)
それは子供を授かる以前にあなたの両親が行ってきた行為によって生じてきた欠陥である。(注2)
7、この状態はまことに驚くべきものである。
なぜなら人間としての地位(注:ジャスマニJasmaniと呼ばれるレベル)にふさわしい特性の中で、あなたに欠けているものが何であるかが示されるからである。
それらの特性が欠如している為によりたかく昇る、つまり完成の領域(注:ロハ二Rohaniと呼ばれるレベル)に達する可能性は微々たるものになっている。
8、子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。(注3)
また深く考えるならば、これは少しも例外的な事ではない。
それどころか誰もが経験する事である。
何故なら第一に、ほとんどの人はこれから起こる事柄を前もって知る事は出来ないし、
第二に何と言おうと人間は人間でしかないからである。
人間の状況はたやすく変化し、感情をかきたてる状況によって容易に影響を被る。
それゆえ、欠陥の出所が確かに親にあるとしても、子供が親を責める事は何の役にも立たない様に思われる。(注2)
9、親の中には、身の処し方を完全なものにしようと懸命に努めている人たちがいるかもしれない。
将来、自分の子供たちが優れた性格を持ち、人生に立派に対処していけるようにと望んでのことである。
しかし、努力が誤った方向へ向けられている為に、彼らの希望は叶えられない。(注4)
10、従ってそのようなやり方をしない方が良い。
とりわけ、望んでいるものを作り出す為に、もっぱら意思を強め集中するような仕方であれば、なおさらである。(注4)
なぜなら、得られる結果は、ハート(Hati)から生まれた空想の産物以外の何物でもないからである。
11、それゆえ親にとって何よりも必要な事は、多少なりともジワ(Jiwa)に関する事(クジワアン:kejiwaan)を意識することである。
そうすれば後に子孫から非難の的にされる様な事にはならない。』
(注:kejiwaanはke(接頭語)+Jiwa(名詞)+an(接尾語)という合成語で、Jiwaに関連したもの、という意味になります。
ついでながら、クバティナンkebatinanとはジャワ的な神秘主義にジャワ人が与える名称であり,「内」を意味するアラビア語からの借用語バティンbatinを語根としている。
このコトバもke(接頭語)+batin(名詞)+an(接尾語)と分解でき、「内」batinに関連したもの、という意味になります。
これを意訳するなら「内面の道」とでもなりますか。)
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注1
さて最初からいとも簡単に自分の真の内部自我(Diri Pribadi)、これは真我とでもいうべきものであり、生まれてからこの方獲得してきた人格、ペルソナではなく、いわゆる「本来の自己」のことなのですが、「それが分かる」とバパは言うのです。
しかしながら実際の会員の状況はそう言う様には推移してはいない様です。
ラティハンの道は下り坂ではなくのぼり坂であって、少なくとも自分の欠点を見つめてそれを正そうという気持ちは必要でありましょう。
そしていわゆる「自分の欠点」に気がつく、それに対して自覚的になる、ということはそれなりの時間が、ラティハンの積み重ねが必要になっている様です。
注2
バパは「それらの欠点の出所は両親の行為の結果である」としています。
これがバパが主張するカルマ論の基本になります。
そうであれば、「これから両親になるであろう人たちをラティハンで浄化しなくてはならない」というのがバパの最終目的の一つとなるのです。
これがバパが提唱する「よい子供が生まれる事により、良い人類が誕生し、地球に平和がもたらされる。」という人類救済のストーリーにつながっていく事になります。
又それはバパにとっては「人類がつみ重ねてきたカルマを逆回転させて消し去る」という壮大な計画の表明でもあります。
しかしながら他方でバパは「全ての人はリンカネーションしている。」という立場をとります。
そうすると、生まれてくる子供のJiwa(魂)のレベルというのはその子供が前世までの生活で到達したレベルである事になります。
そうしてそれはまさにその子供の責任であり、その子供の行動の結果によって決まったものです。
そうしてその子供のJiwaがどのようにして生まれてくる事になる人体に宿るのか、ということについてはバパは「両親の内部感覚のレベル、それは両親のJiwaのレベルが決めるものでもありますが、それに見合った子供のJiwaが引き寄せられて宿るのだ」と主張されます。<--リンク
そうなりますと、確かに両親の行為によって決まるであろう両親たちのJiwaのレベルがありますが、他方で子供自身がもっている子供責任によるJiwaのレベルもあります。
そうして人が生まれる、ということは両親と子供、その2つのJiwaのレベルの一致によるものでありますから、一方的に「両親の行動の結果によって子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況、そこに発生している間違いの総量(カルマ)の受け渡しが決まる」という事にはならないと思われます。
このようにその状況を詳細にみていきますと、そこには両親と子供の間に一種の相互依存関係があることが分かってきます。
そうであればバパが言う様に一方的に「子供のJiwaのレベル、内部感覚の状況は全て親の責任である」とは言えなくなります。
つまり「子供は今いる状況、一定の間違い(カルマ)を背負っている責任を免責されない」ということです。
しかしながら、そうなりますと議論が複雑になります。
それでバパはここでは一応子供に対しては「親の責任ではあるが、仕方ないものとして現状を容認せよ」、「そうしてそこから歩き始めよ」という立場をとります。
それに対してリンカネーションを認め、「子供のJiwaのレベルは前世までのその子の責任である」としても、子供はいずれにせよ「今ある所から歩きだす他に道はない」のでありますから、最後の結論は結局のところバパの言及と同じことになりそうです。
注3
『子供であるあなた方ははっきりとこれらの欠陥に気がつくが、しかしどうする事もできない。
自分の内部自我(Diri Pribadi)にふりかかった事をただ受け入れる他はない。』
そのようにスシラ ブディ ダルマは言うのですが、なぜ自分では取り除けないのか、どうする事もできないのか、という事を説明したトークがあります。
それで以下は(3月13日,1965)トークからの、カルマとその解消についての引用になります。
『・・・・・
この先祖から別の者に、また別の者に、そして最終的にあなたに届いた間違い。
だからあなたの現在の状態はそういうもののすべての継続です。
そのように作られた間違いは繰り返し起こり、まだ限界に達していません。
そしてそれらがあなたに届く時には、それらの間違いあなたの個性に浸透し、それはしばしばカルマと呼ばれますが、それらはあなたの元々の自己の一部であるかのように感じられます。
それは砂糖とその甘さのようなものです。
あなたが甘さを砂糖から取り除くなら、それはもはや砂糖ではありません。
この場合、あなたの外観は砂糖ということですが、あなたの存在に浸透した間違いはその甘さになります。
それで、あなた自身の力であなたの存在における過ちを取り除きたいなら、それはあなた自身の自己を取り除くことを意味します。
そうして、それは死ぬことを意味します。
・・・・・
私たちがしなければならないことは、私たちの個性の中に入ったそのような間違いを取り除くことです。
そうすれば 私たちの個性は、最初にあったように元に戻ります。
つまり、それは再び完全な人間の個性になります。
しかし、もしそれを強制するなら、私たちは死ぬでしょう。
・・・・・』
さてそういうわけで、「そのような間違いを安全に、かつ速やかに解消するにはラティハンによるしかない。」というのがバパの主張になります。
注4
ジャワの伝統のなかには「人は努力をすることによって、良い子孫を得る事ができる」というものがある様です。
しかしながら、バパはそのようなやり方には賛成しないのです。
「それはGumelaring Jagad(宇宙の重層性)です」の第44節と第47節の1を参照してみてください。<--リンク
以下はそこからの引用です。
『(44)節
良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。
これは「良い子をどうやって生み出すのか」という方法の問題に帰着します。
生命の種は、チピタ cipta(感情の頭)からプラマナPramana(最高物質)までの父親からのものであり、性交渉中の父親の感情によって、母親の子宮に生命の種子が落ちる。
父親のチピタciptaは新しく生まれた子供の基本的な性格になるので重要です。
父親のチピタcipta/マインドが平和で神聖なときにカップルが性行為をすることができれば最高です(ジャワ語で Lejar)。
・・・・・
子供は良い性格を持つべきであり、常に神を崇拝することを熱望していなければなりません。
性交渉の時間も重要です。最高のものは、深夜から日の出までです。
あなたの魂を浄化し、性行為をする前に祈ることが賢明です。
・・・・・
(47)節
・・・・・
真夜中、多くの人が眠っているとき、あなたは荘厳に彼を崇拝する。
あなたの体は清潔で、あなたの体はきれいで、あなたの心ははっきりしており、平穏です。
あなたはマット/床に座っています。
心の集中によって体の9つの穴を閉じます。
全てをわすれ、そこには彼しかいない。
厳粛に瞑想し、静かに吸い込んで呼吸することによってあなたの呼吸を制御してください。
あなたは鼻のピークを見ます。
彼に全面的に降伏させる。
あなたは少なくとも1時間真夜中にそれを行うべきです。
うまくいけば、神秘的なシグナルやメッセージ(sasmita gaib)があります。
・・・・・
(注:彼とは超越者、あるいは「唯一の神」とジャワで呼ばれている存在のことです。
ちなみに「唯一神」はトークでは「Tuhan Yang Maha Esa」と書かれています。<--リンク)』
さてバパは「やり方がまずい」といっているのであって、
『良い行動を持つ人々 - 世界中のすべての人々が良好な行動を取っているなら、誰もが幸せになるはずです。』
というジャワの伝統的な考え方には大賛成なのであります。
そうして、そのためには従来の方法ではなくラティハンによるべきである、というのがバパの主張になります。
そうであれば第1章シノムの9節、10節は「ラティハンへのいざない」と取るべき文章となります。
注5
3節と4節はオープンとそれに引き続いて起きてくる事柄についての説明です。
『オープンの結果、頭脳が考える事を止め、思考が感覚(Rasa)から切り離されると、・・・』と簡単に書かれていますがまずは頭脳が考える事をやめる事などは、他の方法ではそんなに簡単には実現できない事です。
それは「無心」と言われる様な状況であって、瞑想を実習する人たちが何年もかかってようやく到達する心理的な状態でしょう。
どうしてそんな事がいとも簡単におこるのか?
それがラティハンの秘密であり、神秘であります。
まあしかし、今話したいのはそこではありません。
注目すべきは『思考が感覚(Rasa)から切り離されると、』という記述についてです。
ここで言っている『感覚(Rasa)』は五感のことではありません。
もともと五感というのは思考とは別物であります。
そうして思考と五感がくっつくとしたら、それは幻覚の世界でありましょう。
正常な状態とは思えません。
さてそれで、Rasaというのはインドネシア人にはなじみ深い表現なのでしょうが、英語にも日本語にも相当するコトバがなく、仕方なく翻訳者は feeling 感覚と訳しています。<--リンク
そうしてより正確にはRasa Diri 内部感覚という表現になります。
以下上記リンク先より引用します。
『もともとrasaというコトバはネットによれば、[名詞] (インド美学で)味わい,風味,情緒,情感:古典音楽,舞踊,詩などの基本的属性.[語源]1799.<サンスクリット語 rasa 樹液,流動体,本質、、、となっており、diriについては「diri 自分を,自らを,自己,」となります。
そうしますとrasa diriは直訳で「自分の感覚・情感」というところでしょうか。
こうして今では単に「五感ではなく、人が内部で感じる感覚」程度の意味に翻訳されています。
しかしながら、たとえばバパのトークでは以下のように説明されていたりします。
「感情、思考、知力、利巧さ、性格、想像力、観念、野心、欲望などの心の性質と感覚」。
これであると単に五感といわれる外からの刺激を受け取る感覚ではない、「人の内部に存在する感覚」という程度のものではありません。
実際バパの説明によれば、rasa diriは諸力によって、あるいは自分自身の魂(ジワ:Jiwa)によって、知、情、意あるいは思考、感情、欲望が発生する場所であるとされています。
そうして、人として妥当な思考、感情、欲望を持っているかどうかは、rasa diriを満たしている生命力の種類、あるいはレベルによるものとされています。』
そういう訳でここは「内部感覚の中に起こっている思考がオープンによって止まり、思考の影響が内部感覚の中から消えると・・・」という様に理解されます。
こうしてスシラ ブディ ダルマに書かれている文章の意味を理解する、ということはなかなかに骨の折れる、難しい事である、というのが分かるのであります。
さてそうではありますが、そのような難しい込み入った話などはオープンを受けてラティハンを始める事に当たっては、「まあ知っていても損は無い」くらいの話であります。
そのような「知的な理解」にはかかわりなく「全托する事」によってオープンは起こり、ラティハンは始まるのでありました。
追記
feeling を「感覚」と訳している内はいいのですが、「感情」の訳をあてている所が日本語訳で多く見受けられます。
「情感」であればまだましですが、「感情」の訳は違うと思われます。
「感情」はRasa(Feeling)ではなくHati(Heart)の働きでありましょうから。
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PS
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