バパのトークを読んでいく上で特に難しいのは「私」という概念である。
これはバパが使っているモデルが通常の我々が使っている心理学的なモデルと異なっている、というのがその理由になる。
もう一つの理由は、「人間についての説明モデル」がバパの中には何種類もあって、それが十分に説明されることなくトークの中で使われる、という状況に由来している。
そうして、それらの事は結局のところ、そのような多様なモデルを説明してみた所で、それらは思考の対象になるだけで、ラティハンの進歩には結びつかない、というバパの思いがある様に見受けられます。
したがって、「説明は必要最小限で、、、。」というのがバパの方針の様で、そうであれば後日バパの考えていたことを再構成するのはとても大変な作業になってしまうのでした。
その事は「バパの説明のまとめ、あるいはラティハンの説明というのはとても難しい」ということと相似的な状況であります。
さて、人体講成論としての「三体論」は二代目によって割と多く語られたので、それをまとめる事が可能でした。
「三体論」1<--リンク
「三体論」2<--リンク
この三体論はJiwa-Sukma-肉体という3層構造を人の体の構造と見るものです。
しかしながらこれはもっぱらのところ、JiwaがSukmaを満たし、Sukmaが肉体にエネルギーを与えてその結果肉体が動く、というようなモデルであります。
そではなくて、もう少し心理学的な、心の構成についての話はないのか、ということで完結した話にはなりませんが、以下1963年7月25日 ブライアクリフ トークから、関係のありそうな所を引用しておきます。
『・・・あなた方の内部には3つのものが存在します。
一番目のものは神の力であり、それはあなた方がオープンを受ける時に現れます。
(注:これはロホ イロフィのことと思われる。)
二番目のものは、あなた方の内部に植えられた完成した人間の魂です。
(注:これはロホ ロハ二のことと思われる。)
そして三番目はあなた方の既存の中身、あなた方の魂(Jiwa)ですが、それは各人異なっているので、バパはそれを表現することができません。
さて、ラティハンを通して、この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所、あなた方の人間的な魂(Jiwa)が占めるべき場所へと戻るでしょう。』
「この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所」に戻るでしょう。
↑
この一文がラティハンの説明になっています。
さて「今いる場所」というのはどこでしょうか?
それは物質力レベルであったり植物力レベル、あるいは動物力レベルであったりします。
そうして幸運であれば人間力レベルでありましょう。
しかしながらそこが最終目的地ではなく、最後にたどり着くべき所はロハ二 レベルなのであります。
その場所が我々のJiwaが「もともといるべき場所」と言う事になります。
さて上記の様な説明方法ですと、あたかも場所の移動のように表現されていますが、状況はそうではなくて、各人のJiwaがそのように成長する、小さなJiwaから大きなJiwaになっていく、低いレベルから高いレベルになっていく、そういう事であります。
『・・・それゆえ低次の諸力に支配されることについて心配しないで下さい。
それらは確かに障害物ではありますが、それらの力は実はあなた方自身なのです。
従って、あなた方の邪魔をするこれらのものをあなた方が取り除きたいと願うのであれば、それは、あなた方自身を取り去る事を意味します。
それは困難な事です、皆さん。
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
本当の死です。
しかし、あなた方がそのような事をしなければ、あなた方は死にはせず、魂(Jiwa)の変化、自分の内部の中身の変化という形の死を経験するでしょう。
それゆえ、低次の諸力を取り除こうという努力をする必要はないのです。
ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
↑
飲まず食わず、眠らず、そうやって自分自身の身体的な欲望、欲求を殺していった人たちが実際に存在します。
しかしながらそのような形の「即身仏」をバパは認めないのであります。
そうではなくて、それらの諸力はバランスをとって統合してゆくものである、というものがバパの主張であり、そのための手段がラティハンなのであります。
その結果が「Jiwa(魂)が本来のレベルに戻る、本来の場所に帰る。」とバパは言うのであります。
そうして、その場所はリンカネーション(輪廻転生)からは自由になった場所であります。
(続く)
PS
『ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』
↑
このメッセージは難しいものです。
単に「ラティハンをやっていれば全てうまくいく」というような誤解、それは今となれば「明らかな誤解」であることは明白なのですが、そのように受け取ってしまう状況がありました。
自分の体を「即身仏」にしてしまうのは間違いでしょう。(たぶん)
しかしながら「ラティハンをやっていればそれでOK」というのも間違いです。
そのあたり、こちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
心の働きについて知、情、意という心理学上の分類方法があります。
これは英語ではマインド、ハート、そしてモチベーション、あるいは欲望(desire)でしょうか。
それをバパが使うコトバでいえばマインドは思考力、ハートは感情でしょうか。
そうして欲望、あるいはモチベーションはナフスと言う事になりそうです。
バパによればナフス(Nafsu)は思考力やハートを駆動させるもの、エネルギーを与えるものという位置づけです。
他方でジワ(Jiwa)あるいはロホ(Roh)はそのナフスにエネルギーを与えるもの、ナフスを駆動するものという位置づけです。
このような構造の中で、ラティハンはジワあるいはロホを訓練することにより、4つの低次のロホの間には調和をもたらし、他方でジワには成長をもたらすものになります。
こうして調和に到達した4つの低次のロホによって4つのナフスの間にも調和がうまれ、それと同時にジワが成長してロハ二レベルに至る、というのがその道筋になります。
これが従来の欲望の制御、あるいは欲望の消滅をめざして行われるさまざまな修行方法との著しい相違になります。
バパのモデルによれば意思による欲望の制御というのは、ある一つの欲望(意思)でほかの欲望を押さえつけるようなものであります。
他方でラティハンによる欲望の制御は、欲望を支えている、それにエネルギーを与えている4つのロホ、4つの生命力を整える事によりますので、より基本的な、根本的なところからの改善によるものになります。
したがってそれは一つの願い、意思によってそれ以外の意思、衝動、欲望を押さえつける、という方法ではなく、願いや欲望を支えている、それにエネルギーを与えているものを改善する事により欲望を統御するものなのであります。
それゆえにそれは「ラティハンを継続してゆくことにより、加えてラティハンの指し示す方向に自分を添わせることにより、欲望が自然に統御される状態になる」と表現されるのであります。
注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。
それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。
さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。
最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。
そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク
さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。
ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。
さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。
第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。
48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。
49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』
第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』
以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。
そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。
ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。
第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』
この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク
これはバパが使っているモデルが通常の我々が使っている心理学的なモデルと異なっている、というのがその理由になる。
もう一つの理由は、「人間についての説明モデル」がバパの中には何種類もあって、それが十分に説明されることなくトークの中で使われる、という状況に由来している。
そうして、それらの事は結局のところ、そのような多様なモデルを説明してみた所で、それらは思考の対象になるだけで、ラティハンの進歩には結びつかない、というバパの思いがある様に見受けられます。
したがって、「説明は必要最小限で、、、。」というのがバパの方針の様で、そうであれば後日バパの考えていたことを再構成するのはとても大変な作業になってしまうのでした。
その事は「バパの説明のまとめ、あるいはラティハンの説明というのはとても難しい」ということと相似的な状況であります。
さて、人体講成論としての「三体論」は二代目によって割と多く語られたので、それをまとめる事が可能でした。
「三体論」1<--リンク
「三体論」2<--リンク
この三体論はJiwa-Sukma-肉体という3層構造を人の体の構造と見るものです。
しかしながらこれはもっぱらのところ、JiwaがSukmaを満たし、Sukmaが肉体にエネルギーを与えてその結果肉体が動く、というようなモデルであります。
そではなくて、もう少し心理学的な、心の構成についての話はないのか、ということで完結した話にはなりませんが、以下1963年7月25日 ブライアクリフ トークから、関係のありそうな所を引用しておきます。
『・・・あなた方の内部には3つのものが存在します。
一番目のものは神の力であり、それはあなた方がオープンを受ける時に現れます。
(注:これはロホ イロフィのことと思われる。)
二番目のものは、あなた方の内部に植えられた完成した人間の魂です。
(注:これはロホ ロハ二のことと思われる。)
そして三番目はあなた方の既存の中身、あなた方の魂(Jiwa)ですが、それは各人異なっているので、バパはそれを表現することができません。
さて、ラティハンを通して、この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所、あなた方の人間的な魂(Jiwa)が占めるべき場所へと戻るでしょう。』
「この三番目のものは今いる場所から動かされ、もともといるべき場所」に戻るでしょう。
↑
この一文がラティハンの説明になっています。
さて「今いる場所」というのはどこでしょうか?
それは物質力レベルであったり植物力レベル、あるいは動物力レベルであったりします。
そうして幸運であれば人間力レベルでありましょう。
しかしながらそこが最終目的地ではなく、最後にたどり着くべき所はロハ二 レベルなのであります。
その場所が我々のJiwaが「もともといるべき場所」と言う事になります。
さて上記の様な説明方法ですと、あたかも場所の移動のように表現されていますが、状況はそうではなくて、各人のJiwaがそのように成長する、小さなJiwaから大きなJiwaになっていく、低いレベルから高いレベルになっていく、そういう事であります。
『・・・それゆえ低次の諸力に支配されることについて心配しないで下さい。
それらは確かに障害物ではありますが、それらの力は実はあなた方自身なのです。
従って、あなた方の邪魔をするこれらのものをあなた方が取り除きたいと願うのであれば、それは、あなた方自身を取り去る事を意味します。
それは困難な事です、皆さん。
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
本当の死です。
しかし、あなた方がそのような事をしなければ、あなた方は死にはせず、魂(Jiwa)の変化、自分の内部の中身の変化という形の死を経験するでしょう。
それゆえ、低次の諸力を取り除こうという努力をする必要はないのです。
ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』
自分に準備が出来ていないのに自分自身を取り去ろうと努めれば、あなた方は死を体験するでしょう。
↑
飲まず食わず、眠らず、そうやって自分自身の身体的な欲望、欲求を殺していった人たちが実際に存在します。
しかしながらそのような形の「即身仏」をバパは認めないのであります。
そうではなくて、それらの諸力はバランスをとって統合してゆくものである、というものがバパの主張であり、そのための手段がラティハンなのであります。
その結果が「Jiwa(魂)が本来のレベルに戻る、本来の場所に帰る。」とバパは言うのであります。
そうして、その場所はリンカネーション(輪廻転生)からは自由になった場所であります。
(続く)
PS
『ラティハンをするだけで十分です。
そうすれば、すべては自然に生じるでしょう。』
↑
このメッセージは難しいものです。
単に「ラティハンをやっていれば全てうまくいく」というような誤解、それは今となれば「明らかな誤解」であることは明白なのですが、そのように受け取ってしまう状況がありました。
自分の体を「即身仏」にしてしまうのは間違いでしょう。(たぶん)
しかしながら「ラティハンをやっていればそれでOK」というのも間違いです。
そのあたり、こちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
心の働きについて知、情、意という心理学上の分類方法があります。
これは英語ではマインド、ハート、そしてモチベーション、あるいは欲望(desire)でしょうか。
それをバパが使うコトバでいえばマインドは思考力、ハートは感情でしょうか。
そうして欲望、あるいはモチベーションはナフスと言う事になりそうです。
バパによればナフス(Nafsu)は思考力やハートを駆動させるもの、エネルギーを与えるものという位置づけです。
他方でジワ(Jiwa)あるいはロホ(Roh)はそのナフスにエネルギーを与えるもの、ナフスを駆動するものという位置づけです。
このような構造の中で、ラティハンはジワあるいはロホを訓練することにより、4つの低次のロホの間には調和をもたらし、他方でジワには成長をもたらすものになります。
こうして調和に到達した4つの低次のロホによって4つのナフスの間にも調和がうまれ、それと同時にジワが成長してロハ二レベルに至る、というのがその道筋になります。
これが従来の欲望の制御、あるいは欲望の消滅をめざして行われるさまざまな修行方法との著しい相違になります。
バパのモデルによれば意思による欲望の制御というのは、ある一つの欲望(意思)でほかの欲望を押さえつけるようなものであります。
他方でラティハンによる欲望の制御は、欲望を支えている、それにエネルギーを与えている4つのロホ、4つの生命力を整える事によりますので、より基本的な、根本的なところからの改善によるものになります。
したがってそれは一つの願い、意思によってそれ以外の意思、衝動、欲望を押さえつける、という方法ではなく、願いや欲望を支えている、それにエネルギーを与えているものを改善する事により欲望を統御するものなのであります。
それゆえにそれは「ラティハンを継続してゆくことにより、加えてラティハンの指し示す方向に自分を添わせることにより、欲望が自然に統御される状態になる」と表現されるのであります。
注1:自我(Pribadi)というコトバについて
インドネシア語でPribadi、ネットで調べると「個人の,プラベートな」と形容詞的な訳がのっています。
それを名詞的に使うとすると「個人」あるいは「一人の人格」程度の意味かと思われます。
それで協会の英訳では「Self」、和訳で「自我」となってます。
Diri(内部)をつけてDiri Pribadiで内部自我、英語でinner self となります。
さて、バパが使うコトバ、そして当然スシラ ブディ ダルマの中にも登場してくるキーワードで日本人と西洋人になじみがないのが以下のインドネシア語になります。
ジワJiwa(Soul,魂)、
プリバディPribadi(Self,自我)、
ラサディリRasa diri(inner feeling,内部感覚)。
ここでは当面この三つに注目します。
最初はジワJiwa(Soul,魂)についてです。
旧版のスシラ ブディ ダルマの冒頭では「人間の内部自我の霊的な中身である力」とあります。
ロホRohもそうですが、ジワJiwaも「力」という側面と存在としてのかたまり、しいていえば「霊」というような側面と二重の意味を持たせている様です。
「力」という意味は「これによって人は動く」という事です。
あるいは「これが意思し希望し要求し欲望する」という事です。
ですから単に(Soul,魂)というのとは違っていますが、ほかに妥当なコトバがないのでその言葉をあてている、と言った所でしょうか。
そうして、この存在、ジワJiwaが転生の主体であって、永遠の存在である、とバパは言います。
あるいは、人に関連した中では一番神の力に近い存在であるような記述もあります。
しかし、この存在にはいわゆる「人格」というものは無いかの様です。
その人格という側面を表すのがプリバディPribadiというコトバになる、つまりJiwaとPribadiは一つレベルが違う様です。
そして、ジワJiwaについてはこちらの記事も参考願います。<--リンク
さてそれでプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、というのがどうやらバパの想定している人間の心理学的な構造の様です。
そうでありますから「私」というのがまさに「プリバディPribadi」という事になるかと思われます。
ラサディリRasa diri(内部感覚)についての詳細はこちらの記事を参照願います。<--リンク
通常の我々が目にする心理学の用語の中にはもちろんラサディリRasa diri(内部感覚)に相当するものはありません。
したがって我々がこの言葉を理解するのはなかなか難しい事になります。
さて、以下はスシラ ブディ ダルマのなかに出てくるプリバディPribadi関連の部分です。
第5章 メガトルフ 47節~49節
『47、もしハートや頭脳に従えば、あなたにとって必要な神への礼拝に割く時間を見出す事は生涯ないであろう。(注:ここで言っている「神への礼拝」とはラティハンのことです。)
なぜなら、ハートや頭脳は、常に実体のない事柄に関心を抱くからである。
48、これこそ、まさにあなたが克服しなくてはならない状態である。
そうすればあなたの思考はもはや自我Pribadiを妨害しなくなるであろう。
49、さらに思考が障害とはならなくなった時、すなわちハートや頭脳がもはやあなたのラティハンを妨害しないようになれば、あなたの行動はより確固とした成熟したものになる。
そして、ハートと頭脳は、真に自我Pribadiの召使い、あるいは従僕となるであろう。』
第7章 ダンダングラ 16節
『16、これらはすべて、人間の内部感覚Rasa diriや頭脳が、さまざまな力(物質力やら植物力やら)によって満たされてしまい、人間の自我Pribadiの内部で猛威を振るうこれらの力の意思だけに奉仕する道具になってしまった為である。』
以上をまとめますと、人の霊的な部分を示すのがジワJiwaというコトバであり(この部分は通常は我々は認識できません)、それと関連を持ちながら通常我々が認識できる心理学的な部分、それがプリバディPribadiですが、この中にラサディリRasa diri(内部感覚)とハートと頭脳(思考)が含まれる、そういう事になります。
そうしてそれが肉体の中におさまっている、という3層構造をバパは、そうしてスシラ ブディ ダルマは前提としている様です。
ちなみに、この3層構造の別の観点からの説明はこちらの記事を参照願います。<--リンク
PS
とはいえプリバディPribadiの定義はなかなかに難しいのです。
それはまさにインドネシア人の、インドネシア語の、我々の目には「あいまいさ」とみえる性格によるものの様に思われます。
第3章 キナンティ 38節
『38、自己Pribadiの真の存在にすでに気が付いている人にとって、正しい道というのはこのようなものである。
その為、外側では(注:世の中の生活では)自分の頭脳を精一杯使って、あらゆる種類の仕事をしていても、彼は頭脳と内部自我Diri Pribadiとの境界線を意識している。
物質的な物事にだけ関心を持っている人々の場合は、そうはいかない。
(注訳:人間の中にはジワJiwaと呼ばれるレベルの存在がある、ということを体験し認識していない人々の場合はそうはいかない。)』
この章句では内部自我と頭脳とを並列の存在として記述している様です。
まあそのぐらい「自由に」コトバを使って行くのが詩編:スシラ ブディ ダルマなのであります。
PS
「雑記帳・目次」にはこちらから入れます。<--リンク