ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

2006年9月より、米国のハーバード大学ケネディスクールに留学中の筆者が、日々の思いや経験を綴っていきます。

別れ、そして再会

2007年08月01日 | 友人

 

  朝7:30に起床。子供たちにスープを配ったあと、パンと紅茶の朝食を済ませ、子供たちの寄宿舎を2時間ほどかけて掃除。10時を回ったあたりで寮母さんのベリスと畑に出向き、摘んできた大量のスクマ(レタスに似た野菜)とニンジン、トマトを昼食用にひたすら刻む…

 7月16日から約2週間毎日続けてきた作業ですが、今日は少し気持ちの持ちようが違います。そう、早いもので慣れ親しんだShelter Children Rehabilitation Centre、そしてそこで暮らす愛らしい子供たちと献身的なスタッフに別れを告げなければならない日になってしまったのです。

    

 シェルターの門に集まって、やって来たと思ったらもう帰ってしまう一人の日本人ブランティアに対して、精一杯手を振って別れを惜しんでくれたスタッフと子供たち。

 僕は彼らの姿が見えなくなるまで、タクシーの後部座席から手を振り返しながら、孤児院での生活について振り返っていました。

 2週間という本当に短い期間。しかもスワヒリ語も話せず、現場でダイレクトに役立つ特段のスキルもない僕がやれた仕事といえば家事手伝いと子供と遊ぶことだけ。スタッフにかかる負荷を一時的にほんの少しだけ減らすことはできても、長期的に見てこのシェルターの運営に、ここで暮らす子供たちの未来に、何かポジティブな変化をもたらせたか、と考えると、残念ながら正直何もありません…

 一方で、僕の目にかかるメガネを豊かなケニアの太陽に透かして見ると、途上国や貧困、そして開発援助といったキーワードに対して以前よりも深く、より曇りの少ない目で見ることができるようになった、という変化を感じることができるのも確かです。

 どちらかというと、インドでの6週間のインターンが自分のスキルを磨き、インターン先の経営に具体的に貢献することを目的としていたのに対して、ケニアでの3週間のボランティアは、自分自身を見つめ直し、自分のものの見方や考え方を再考するきっかけと位置づけていたため、やや歯がゆさは残るものの、所期の目的は達成できたといえるかもしれません。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 あっという間に終わってしまった孤児院でのボランティアでしたが、ケニアで過ごすことのできる時間はあと1日残っています。そして最後の一日をともにしてくれるのがケケディスクールのクラスメート、マルティン。

 ナイロビに生まれ、学部時代は米国に渡ってMIT(マサチューセッツ工科大学)で情報技術とマネジメントを学んだ後ケニアに戻り大学の立ち上げ事業に尽力し、そしてさらに自分を磨きケニアに貢献すべくケネディスクールに乗り込んできた、志に満ちた才気あふれる友人です。

 ケネディスクールのMPP(Master in Public Policy)プログラムは所属する約250名の学生を学期初めに5つのCohort(コホート:小グループ)に分け、基本的に一年目のコア科目はこのコホート単位で受けることになっています。そしてマルティンと僕とは同じコホート所属。昨年を通じて最も負荷の高かった倫理比較政治をともに履修し乗り切ってきた仲なのです。

 わざわざNgong(ゴング)の町まで車で迎えに来てくれ、自宅に案内してくれたマルティン。スーツを着ていることもあってでしょうか、立ち寄ったガス・スタンドでスワヒリ語を流ちょうに話していたからでしょうか(当たり前!)、ケネディスクールで普段目にしていた時よりも、何か、より一層クールに見えます。


 マルティンの家は、Ngongから車を20分ほど走らせ、高級住宅やショッピング・モールが集まる町Karen(カレン)の一角にあります。隅々まで手入れが行き届いた芝生の庭に囲まれた自宅はなんとも立派。そしてお父さんとお母さんがやさしい笑顔で歓迎してくれました。

 学期中はお互いそれこそゆっくり寝る間もなく授業の予習・復習、あるいは課外活動に追われていたため、じっくり話すこともできなかったのですが、彼は大学3年生の夏に、日本のトヨタで11週間、インターンをしに来ていたということが判明!他のインターン学生たちと4畳半の学生寮ですごした夏は、豊田市だけではなく、名古屋、東京、横浜や静岡など、様々な都市を回りながら、日本の製造業の現場を経験できた実り多い夏だったということ。

 「もう、日本語、ほとんど忘れちゃったヨ。」

とマルティンが日本語を口にすると、お父さんも

 「私が覚えているのは、“こんにちは”、“おはよう”、あと、“お世話になります”かな。」

と続いたのでびっくり。聞けばマルティンのお父さんはケニアの環境省に勤めていて、ケニア勤務の日本のJICAの職員と一緒に仕事をしたり、ご自身も日本に何度も出張に行ったことがあるということ。

 「あの島、何だったけなぁ。モンバサのような熱帯の島で、イリ、イロ・・・島。」

とおっしゃるので

 「ひょっとしてイリオモテIslandですか?」

と聞くと、「そうそう、イリオモテだ!当時、ケニアで自然保護区設定の仕事をしていて、日本の状況を勉強するために西表島まで行ったんだよ。」

と懐かしそうにお話しされていました。

 マルティンのお母さんが用意してくれたケニアの美味しい家庭料理(本当に久しぶりに肉料理を食べた!)を満喫しながら、インド、ケニアで過した2か月の長旅を振り返り、日本に思いを馳せながら、ケニア最後の夜は静かに更けていきました。

   

     - 久しぶりに再会したクラスメート、マルティンと -


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。