ハーバード・ケネディスクールからのメッセージ

2006年9月より、米国のハーバード大学ケネディスクールに留学中の筆者が、日々の思いや経験を綴っていきます。

ケネディスクールとは

2007年05月23日 | ケネディスクール出願・合格までの道

 
 4月から5月にかけて日本からボストンへやって来た友人をケネディスクールに案内する機会が何度かありました。アメリカの公共政策大学院への留学を近い将来の目標として考え始めたばかりの、あるいはケネディスクールをキャリアチェンジのきっかけと位置付け、出願を具体的に検討し始めた彼らが、異口同音に口にする質問、それは、

  「ケネディスクールとはどんなところ?」

というものです。

   3年前のゴールデンウィークにケネディスクールをキャンパスビジットをした僕自身も、当時在籍していた友人に同じことを尋ねていたのを思い出します。日本からやってきた友人たちとこうした会話をする中で、自分が出願にあたって考え続けてきたこの疑問に改めて強く光があたりました。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 「ケネディスクールとは?」

 この問いかけに対してケネディスクールはそのウェブサイトで、「パブリックセクター(公共部門)のリーダーの育成を目標としたプロフェッショナル・スクールである」と答えています。

   しかし、「パブリックセクターのリーダー養成」とは何とも抽象的です。例えば、「パブリックセクターのリーダー」とは一体どのような職業・人物を指すのでしょう?政治家はその一つの答えでしょうが、ではケネディスクールが「政治家養成学校」かと聞かれれば、別に選挙に出ることを将来の目標としている訳ではない多くのケネディスクールの学生や卒業生は首をかしげるでしょう。
 
 ケネディスクールの一つの特徴は、ビジネスパーソン、官僚、政治家、軍人、医師、教師、NPO職員、弁護士、会計士、ジャーナリスト、理系の研究者、技術者、そしてベンチャー企業家など、およそ考えつく限りあらゆる職業人が集う場であるということであり、学生の卒業後の進路もきわめて多様であるため、例えば、「政治家養成」・「官僚養成」と言ったように、予め定められた具体的な卒業後の出口が用意されている訳では全くありません。
 
  このことは、同じくプロフェッショナルスクールとして位置づけられているロースクールやメディカルスクール、あるいはビジネススクールとは好対照です。例えば、卒業が国家試験への前提とされているロースクールやメディカルスクールについて言えば、その卒業生は弁護士や医師となるための「資格保持者」であると社会そして労働市場からみなされることになります。

   また、ビジネススクールであれば、その卒業生はコーポレートファイナンスやマーケティング等、業種を問わず企業経営に必要な知識を一定程度備えているという、いわば「品質保証」のついた者として、労働市場から認識されることになるのでしょう。
 

   では、ケネディスクール、あるいは公共政策系大学院を卒業することで、このようなある特定の職業に就くために必要となる具体的な「資格」や「品質保証」が具備される、あるいは具備していると労働市場からみなされることがあるのでしょうか?

 答えは、Noだと思います。

 と言うのも、ケネディスクールに限らず、公共政策大学院が扱う領域はきわめて幅が広く、各人が各人の興味に任せて様々な講座を履修する側面が強いため、卒業生に画一的なラべリングをするのが難しく、また不適切であるためです。

 このことの意味は重大です。なぜなら、苦労してハーバードのケネディスクールへの切符を手に入れたとしても、その人の卒業後の就職先は(たとえば企業や官庁からの派遣という立場でなければ)基本的に全く未知数、さらに言えば、何の保障もないからです。

 ここで、思考は振り出しに戻ってきてしまいます。

 「では、ケネディスクールとは何なのか」

 そして、

 「ケネディスクールを目指す意味、そこで学ぶ意義をとは一体何なのか?」

      

 最近、卒業を控えた何人かの先輩や同期生に、機会を見つけては尋ねてみました。すると、

 「可能性に満ちたところ」
 「何でもありなところ」
 「何かやろうと決め、努力をした時に他では手に入らない果実を手にできるけれど、そうでないと何も手に入らないところ」
 「公共部門のリーダー、経営者に必要なスキルと物の見方を教えてくれるところ」
 「アメリカの民主主義、自由主義の“素晴らしさ”を学生に刷り込み、世界に発信する場」

 と実に様々な答えが帰ってきました。
 
 では、僕の答えは何か。

 複数あるプログラムの一つに過ぎないMPP(Master in Public Policy)の一年目を終えたばかりの、しかも必修のコア科目を受けたにすぎない自分が「ケネディスクールとは何か」を語るのは、困難である以上に不適切ですらあるかもしれません。しかし、それを承知で敢えて現時点での「ケネディスクール像」を一言で表現するとすれば、

 「多様なバックグラウドを持つ教授陣、学生たちと“答えのない問題”と向き合う場。」

 これは、僕のケネディスクールとの出会い、つまり「あの日から一年」の記事で紹介した、『政府は何故信頼されないのか』という“答えのない問題”に向き合う一冊の本を読み終えたときから、何となく感じてきたことです。

  そして、一年間、ケネディスクールで学んだ今、主たる講義スタイルとして「ケース・スタディ」が採られていること、物事を考える際の重要なキーワードとして「Cotext(物事の背景)」が繰り返えされること、さらに、そもそも全ての人を幸せにする公共政策や、全ての人が喜んで受け入れる「公の価値観」なるものが存在しないことを考えると、ケネディスクールは、答えが予め用意されている課題を扱い、その答えに素早く正確にたどり着くためのスキルを身につけるための場でも、ある特定の専門領域を追及するための場でもなく、正解のない世の中の現象や問題と対峙する際のものの見方、考え方を培うことに主眼が置かれている場であるように思います。
 
 しかし、このことはケネディスクールがスキルの習得や答え探しを軽視しているということではありません。そうではなくて、

  世の中“これが絶対に正しい”という真理や答えはない。それでもなお、現実的にはある段階で「これが正しい解」であるとして決断を下さなければならない。

 ただ、重要なことは、そこでなされた決断は常に一定の限界や不確実性を含んでいることを自分自身が謙虚に認識すること。そして、周囲の人々にそういった決断を納得してもらうために、わかりやすい言葉で丁寧に説明をすること。

 さらに、こうした限界を一つ一つ超え、不確実性を少しでも減らす不断の思考のイノベーションを続けるという強固な意志を持つことである。
 
 ドルや円といった予め用意された共通の尺度で測ることができない「公益」なるものの実現・向上と自らのキャリアを重ね合わせる者が、職業や分野の違いを超えて集まる場であるからこそ、ケネディスクールはこのようなメッセージをそこで学ぶもの、学生そして教授陣に対しても、発信し続けているように思います。

 そして、ケネディスクールが、他のプロフェッショナルスクールのように目に見える「資格」を卒業生に与える場ではなくてもなお、世界中の多くの人々を惹きつけるのは、こうしたケネディスクールからのメッセージが、ますます複雑化する社会の中で、公益の担い手が持つべき頭脳とハートのポジションだからなのかもしれません。

 「ケネディスクールとは?」

 ケネディスクールを、あるいは公共政策大学院を将来の目標として考えられている方が読者の中にいらっしゃったら、ぜひこの問と向き合ってみて下さい。何故ならこの問いもまた、職業を問わず、公益のあり方と己が人生哲学に主体的な問題意識を持つ者がむきあうべき“答えのない問題”の一つなのだから。

   


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ブログはじめました (MPAIDYW)
2007-06-03 02:53:17
こんにちはIkeikeさん
相変わらずすばらしい文章ですね…うらまやしい。

こちらはバングラデシュに無事つき写真ブログを始めましたので時間がある際にぜひ訪ねてみてくださいね。
返信する
>YWさん (ikeike)
2007-06-06 14:44:46
コメント有り難う!YWさんのブログも見ました。まず、タイトルを見た瞬間激しく共感してしまいました(笑)。
YWさんの元気な顔や活躍の様子が写真や文章で伝わってきてとてもよいですね。
僕もハイデラバードでのインターンが始まりました。お互い頑張ろう!
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。