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三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

松ヶ島城

2017-08-07 23:14:20 | 松阪の城

松ケ島城

まつがしまじょう

城名 松ケ島城
別名 細首城
住所 松阪市松ヶ島町字城の腰
築城年 安土桃山時代
築城者 日置大膳亮、織田信雄、滝川勝利、蒲生氏郷
形式 平城  
遺構 無し、金箔瓦が出土している
規模 南北180m×東西110m
城主 織田信雄、津川冬彦、滝川勝利、蒲生氏郷
標高 1m  
歴史  永禄10年(1567) 北畠具教、細首城築城
   永禄12年(1569) 織田信長侵攻により北畠具教-日置大膳亮らは城に火をつけお大河内城に籠城する。
   天正4年(1576) 田丸城で北畠氏謀殺、三瀬の変で一族壊滅
   天正8年(1580) 信雄、田丸城消失により細首に新たに城を築き松ヶ島城とする。5層天守、金箔瓦であった。
   天正10年(1582) 信雄は清州城に移ったので津川玄蕃充に松ヶ島城を預け、南方の奉行とした。
   天正12年(1584) 津川玄蕃充ら3人は秀吉の策略で信雄に殺害された。変わって滝川勝利-日置大膳亮が松が島城を守った。このあと小牧長久手の戦いになる。
   ついに、松ケ島城天正12年の戦いである。徳川家康の送った服部正成の援軍を得て、羽柴秀長の包囲に対し40日にわたって篭城した。
   羽柴側は2万余りの兵で松ケ島城を包囲。蒲生氏郷も加わっていたと思われる。九鬼嘉隆と田丸直息の両名に松ヶ島城の近くまで船を寄せて海路から逃げられないように指示。
   松ヶ島城落城。滝川雄利は助命され退城した。富田一白と八重羽左衛門尉を在城させる。
   天正16年(1588) 蒲生氏郷は松ケ島城が狭かったので四五百森(よいほのもり)に松坂城を築城して町人や社寺全てを強制移住させて松ヶ島は瞬時にしてもとの一漁村に戻った。20年程の細頸ー細首-松ヶ島の城の歴史は終わった。
書籍  三重の中世城館 伊勢国司記略
環境  海陸の要衝  櫛田川、坂内川、三渡川、雲出川、愛宕川、金剛川、以上6川が集まる松阪東部
現地  備考 昭和32.12.5県指定  一辺20m余りのほぼ台状地(天守山)がのこり、この周囲も水田面より一段と高い畑となっている。
 現地は記念の塚と碑と説明看板があるだけ。訪れたとき傍で農作業をしていた人が「あなた来るのが遅かったわ。もう少し早く来ていたら良いものがたくさん見れたのに。」と声を掛けてきてくれた。何があったのかを聞くと「50年程前だがこのあたりから金箔瓦やなんやらようけ出たんよ」とのこと。50年前がもう少し早ければの間隔かと少し苦笑しながら話を聞かせてもらった。
感想  たった20年程の間にいろいろな事柄が起こった細首城から松ケ島城への変遷。戦国時代の典型ともいえる日本の城の一つの姿。現在記念のものしか残っていない点もある意味日本の城の現状を表しているように思える。
地図  
 


久米城

2017-08-07 23:13:22 | 松阪の城

久米城

久米城(くめじょう)

築城時期;天正年間(1573~1592)

城主;中村仁右衛門

住所;三重県松阪市久米町南城出(じょうで)

位置づけ;真西に阿坂城、東の海岸部に松ヶ島城、北に曽原城、南に船江城。

       平地で南勢への拠点として重要な位置。

系図;天正四年、中村仁右衛門尉光長(北畠氏の重臣、舟木光春の弟)が支配。

    船江城主、本田左京亮の娘婿で本田勢の中核をなす人物。

歴史;天正十二年三月、羽柴秀吉松ヶ島攻略では、命により地元の案内者の一人として、

    津川、佐々木、岡本らの武将と久米城で軍議を開いた。

遺構;まったく残っていない。堀田、堀の角、城出、大門世古などの字名が残っている。

    中川という幅3~4mの川が直角に曲がり防御の形を残すのが唯一の名残であろうか。

感想;平野の真っただ中にあり要害の地でもないので潰されるのは早かったであろう。

    唯一手が入りにくかった川がその名残を留めているとしたら尚更いとおしい。

地図;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


船江城

2017-08-07 23:12:50 | 松阪の城

船江城

ふなえじょう

城名  船江城
住所  松阪市船江町
築城年  永禄年間
築城者  本田親政
形式  平城
遺構  なし
規模  東西110m×南北140m
城主  永禄年間(1558~1569)本田右(左)京亮、本田美作守、本田親康
標高  7m
歴史  1969年8月26日夜、船江の本田勢が曲と深長の間の小金塚に打って出て、信長勢に奇襲をかけて首を少々取った。
   1969年8月27日夜、船江衆は先日のように小金塚に打ち出で再び奇襲を行った。信長軍はこれを予測していたので今度は本田勢が敗れた。また、九鬼派海賊衆が船から黒部に上陸したところを船江本田衆、曽原天花寺衆が夜討ちした。
   蒲生氏郷の松ケ島城とともに所領を没収され城は廃城となった。船江城30年間ほどの歴史に幕を閉じた。本田親康は織田信雄に属したが秀吉と信雄の講和が成った際領地を失った。親康の子・九之助は蒲生氏郷に仕えた。
書籍  三重の中世城館 飯南史
主な家臣  高島兵衛尉、長藤十郎左衛門
現地  現在浄泉寺が建立されてる。本田左京亮の菩提寺として栄えた。
考察  織田信長が南伊勢に侵攻した際、強者が守っており近づくのは危険という進言があって一目置かれた城という。
感想  北の川(百々川)の崖は当時を物語る堀の風景かもしれない。
地図  


枳城

2017-08-07 23:11:44 | 松阪の城

枳城

からたちじょう

城名 枳城
住所 松阪市小阿坂町坊谷・枳
築城年 南北朝・室町
形式 山城
遺構 郭、堀切、帯郭
規模 60m×30m
標高 190m
比高 120m
経緯  江戸時代の初めに成立したといわれる「南方紀伝」には阿坂城に二つの出城があったと記され、その一つが本城と考えられる。そこで阿坂城跡の国指定史跡化に伴い「附」として指定されるに至った。
書籍 三重の中世城館    松阪市教育委員会ホームページ
現地  阿坂城から東南に1Km隔たった標高190mの山頂に築かれた山城である。城跡は東西に長い60m×30m高さ6m規模の台状地を中心に東と西側に掘切りを具え、北と南には幅5~10mの帯状の平坦地がめぐっているだけのものである。城の東側の地には現在も「城の下」という小字名が残っている。
感想

 阿坂城の出城2つの内の1つと言われている。高城が北からの防御で大手に作られたのに比べて枳城は阿坂城から1Km南東にあるのは不思議な位置にある。阿坂城に登る、桝形山の登り口が南東方面にあったということかもしれない。主郭の削平地は丸みを帯び完成度が低いように見える。

地図


五輪山城

2017-08-07 23:10:32 | 松阪の城

五輪山城

城主;不明

築城時期;不明

住所;三重県松阪市藤之木町

標高;83m 比高;13m

遺構;郭、堀切

位置づけ;五輪峠は伊勢寺城の東1Kmのところにある。街道の関所的機能と伊勢寺城の

   出城的機能を持ち合わせ、特に北に睨みを効かせていたと思われるロケーションだ。

   南東からの尾根を遮断する堀切が見られる。街道と郭の比高13mの崖は天然で、

   この地ではこれ以上の良い条件はない。

感想;街道からの登城道が気になった。今は崩れているがこれは喰い違い虎口ではない

     だろうか。道の左右の藪に隠れているがこの土手は人為的な臭いを感じる。街道に

     近いだけに虎口に工夫を凝らしたのではないだろうか。又竹藪の中に土塁や切岸を

     散見した。

地図;

 


松坂城

2017-08-07 23:09:53 | 松阪の城

松坂城

まつさかじょう

 

城名  松坂城
住所  松阪市殿町
築城年  天正16年(1588)
築城者  蒲生氏郷
   文武に通じ経世にすぐれた氏郷公は又歌を能くし茶道は千利休七哲の一人として高名であり戦国屈指の名将であった。
形式  平山城
遺構  郭、石垣、井戸
   天守台、本丸上段、本丸下段、きたい丸、二ノ丸、隠居丸、三之丸
規模  東西600m×南北900m(現在の城郭は東西270m×南北280m)
歴代城主  蒲生氏郷(~1590、会津へ転封)
 天正19年(1591)服部采女一忠・3万5千石。 但し服部は聚楽第に勤務のため石黒毛右衛門尉が城代となった。
   文禄4年(1595)古田重勝・3万4千石。江戸にて40歳で死去。子・大膳太夫重治が継ぐ。
   慶長6年(1601)2万石加増で5万4千石。
   元和5年(1619)紀州藩領となって、勢州18万石を統括する城代制。当初城代1名、奉行2名、目付1名、代官1名、郡奉行1名の役職を置いたが後に人員削減されたようである。
標高  標高38m
比高  20m
歴史  元亀元年(1570)北畠家臣潮田長助は四五百森の地理に着眼してここに砦を築いた。(注1異説あり)
   天正12年(1584)6月、数え年29才の若さで南伊勢12万石の大名となって松ヶ島城主となった蒲生氏郷はここ四五百森一帯の地の利に着目し築城を進め在松4年後の天正16年(1588)8月に入城した。
   築城の際は付近の農民など徴発を行い激労させ近隣の神社仏閣の木材、石材、瓦をはじめあらゆるものを奪い上げた。これを逃れるために農民の多くは家財を捨てて逃亡するものまで出た。丹生大師の大木も使われたと伝わる。
   この町を「松坂」と命名し楽市楽座、街道の整備、商人の誘致など生新で画期的な政策をもって松阪発展の基礎を固めた。
   天正18年(1590)小田原征伐における戦功によって60万石で会津若松に移ったがこれは前述した無謀の行為により秀吉から敬遠されたからである、という説もある。
   三層の天守閣と金の間・月見・太鼓等の櫓がそびえ立っていたが、正保元年(1644)の大風で天守閣は倒壊したと伝えられている。
環境  中勢地方で平野部にあるたった一つの丘陵(比高20m)を南北の二つに割った北側の一方に巧みに造られた城である。
現地  幅15~31m、総延長2km余あった水堀は明治初期に埋められ、神道川(じんどうがわ)等に名残りをとどめる。
   松坂城の石垣の特徴として大まかには高いところに古い石垣が残り、麓に行くほど新しくなる傾向があるという。天守台が一番古い石垣かも知れない。
   1988年度から2003年度までの石垣修復の間、発掘調査や鳥・猿舎の撤去等の城跡整備を行い、2006年には日本城郭協会から「日本名城百選」に選定された。
考察  奈良大学長千田嘉博氏は何度も松坂城を訪れている。
   2010年10月には松阪城跡シンポジウムが開かれ「ここがすごい松坂城~全国の城跡からみた松坂城のすばらしさ~」というテーマの基調講演が行われた。
   見どころの一つに搦手(南)からの進入の際、幾つもの桝形が繰り返し設定されているのは数的に国内において熊本城に匹敵するとのことである。
   又、新聞取材に答えては石垣の素晴らしさに触れ「松坂城は石垣の進化を見ることができる。天守などの建物がなくても見どころの多い城」と言っている。
感想  現在は市民の憩いの場となっている。春の桜、藤、秋の紅葉の風情は外せない。又、毎年11月に行われる氏郷まつりはこの城を中心に市内全域で盛大に行われおおいに賑わう。
注1  塚本の住士潮田長助が2Km離れた四五百森に出向いて築城したというのは好事家の説、とか。
地図  


黒田城

2017-08-07 23:09:17 | 松阪の城

黒田城

くろだじょう

城名  黒田城
住所  松阪市大黒田町
築城年  不明
築城者  不明
形式  平城
遺構  全壊
規模  東西80m×南北80m
城主  中頭(津)下総守又は青津下総守
標高  12m
歴史  北畠氏の家臣
   永禄12年の大河内城の戦いにおいて黒田氏は北畠軍として籠城していた。北畠氏滅亡と同時に領地を失った。子孫は津市に永続されている。
経緯  1640年頃には善覚寺が本町から移転したとあるのでそれ以前に廃城となっていると思われる。南伊勢の一連の城のように戦国時代・信長の伊勢侵攻の際に破却された可能性が大きいと思う。
書籍  三重の中世城館 飯南史
環境  宅地化で遺構不明
現地  善覚寺のあるところが城跡だと言われている。周囲を走る溝が城域を示しているのかもしれない。
地図


白山城

2017-08-07 23:08:24 | 松阪の城

白山城

はくさんじょう

住所 三重県松阪市西野町
築城年 不明(永禄12年頃か)
築城者 不明(北畠家臣か)
形式 山城 標高90m 比高40m
環境  小河内城に向かう北からのルートを法淨寺川を挟んで防御する。対面に岡ノ谷城があり有機的な連携があったと考えられる。
遺構 郭、堀切 (開発によって北側・主郭部分は無くなっている)
   残った南側は無くなった主郭南の堀切+竪堀から南端の堀切まで約90mが残っているが途中の尾根筋はほとんど自然地形に近い。数か所、人の手が入ったと思われる場所があるが未完成のようにも見える。
   それらはプリン型郭、郭中心部にある石組、郭直下の小さい郭、帯郭、東尾根筋を守る虎口か土橋である。南北両端の堀切は完成状態とするとその間の区域はこれから本格的に整備する途中ではなかったのだろうか。何かの事態で工事途中で白山城の整備は終わってしまったのではないだろうか。
   そして数百年の時が流れた今日、完成していただろう主郭部分が開発の工事で無くなり、工事の途中で捨て置かれたであろう南部分が残っている。なんとも残念なことである。これは何を示唆しているのだろうか。
規模 当初(南北160m×東西50m) 現在(南北90m位×東西50m)
経緯 平成10年3月教育委員会により発掘調査
書籍

(追記;下村登良男氏、中世城館と北畠氏の動向より) 信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ大河内城へ向かったということです。(永禄12(1569)年8月27日)

一族  白山城の東南500mに園館があったと伝わり城主か城代であった可能性もある。
地図

 

感想 2度目の訪城は松阪山城会のメンバーとしてであった。世話役方のご指導で楽しく有意義に時間が経っていった。知らなかったこともあってワクワク感もあった。1度目の5年前よりは多少の訪城経験も増し同じ白山城であっても新鮮な気分であった。ただ、暑い時期はこれ以上アクティブにはできないかも。


岡ノ谷城

2017-08-07 23:06:34 | 松阪の城

岡ノ谷城

おかのたにじょう

築城時期 不明
城主 不明
形状 山城 標高80m 比高33m
遺構

郭、空堀、二条堀切、竪堀

 

 大河内城の西南1㎞の山頂に脇谷城と泉ケ久保城、北東2.5kmの山頂に立野城薗城が大河内城に東西から向かう谷筋を押える位置に出城的に配されている。更に北からの押えとして白山城と岡ノ谷城が、付随して西野城、奥野城が配置されている。

 更に西の峠道を守る坂内城、根木峠の南入口を守る上山城、南西の峠入り口を守る六呂木城が配置されている。これら全部で11城が大河内城を守った、という考え方ができるのかもしれない。
感想
 観音寺へ車を置かせてもらい背後の山に入る。入口は草刈整備され雰囲気はいい。すぐさま浅間山と思われる祀られた石と大木に出迎えられる。
 200mも歩くと目の前に岡ノ谷城の姿が現れる。プリン型の単郭の前に空堀がおかれている。今登った東尾根道からの防御である。
 空堀の外側には空堀と同程度の長さで幅は狭い帯郭状の形状が見られる。通常は道としてのかもしれない。
 左に回ると竪堀が形よく残されている。そして西尾根からの防御としてこの城一番の見どころ、二条堀切がこれまたきれいに残っている。
 堀切の底を通って北に向かうと雑木林で見通しが効きにくいが浅い竪堀が確認できる。西尾根からの防御に重点を置いた縄張りである。
 単郭に登る。狭い。土塁らしき高まりは確認できない。上段と下段に分かれている。人数にして20~30人、多く見積もっても50人までではなかろうかと思う。
 今回は松阪山城会のメンバーとして初参加の訪城である。この城は2011年3月以来2回目の訪城だ。仲間と来るとまた楽しいものである。

地図


 

(追記;下村登良男氏 中世城館と北畠氏の動向より) 信長公記に「滝川左近人数入れ置き是よりわきわきの小城へはお手遣いもなく直ちに奥へ、、、とある。小城というのは岩内城、伊勢寺城、奥野城、岡ノ谷城、白山城辺りを言っているのでしょう。つまり北畠側から抵抗が無かったので、そこへ軍勢を遣ることもなく、まっすぐ小河内城へ向かったということです。(永禄12(1569)年8月27日)


園館

2017-08-07 23:06:05 | 松阪の城

園館

そのやかた

城名
 園館
読み
 そのやかた
住所
 松阪市丹生寺町
築城年
 永禄年間
築城者
 渋谷十郎(北畠家臣、勘定方)
形式
 居館
遺構
 なし
規模
 推定;東西120m×南北100m
城主
 渋谷十郎---金平又は重平
標高 40m
歴史
 不明
経緯
 正式名称は確信ないが「飯南史」に「園の城址」という項目がある。全文は「松尾丹生寺字園にあり、今人家のある所となり、永禄年間北畠家臣渋谷十郎、同重平の居城なり明治初年迄壕池の跡ありしも今は廃せられてなし」とある。
 加えて「松阪市遺跡地図」においては丹生寺町に「園遺跡」が明示されている。発掘調査では石鏃(せきぞく=いしやじり)、石錘(せきすい=漁具)、縄文土器、土師器が出土している。これは同じ事案と考えて間違いなさそうである。但し、城というには合点がいかないこともあってこの際「園館」とした。
書籍
 飯南史
環境
 現状は畑地、住宅地。南側の大溝の存在感と区域内の段差と石垣が特徴。
現地
 注目点1、白山城の山麓である。(直線距離で500m)
   2、岡ノ谷城の至近距離である(直線距離で600m)
感想
 これらの城、又はどちらかの城の城主で山麓に館を背後に詰城を構えていたていた感が強い。
 明治初年まで壕池跡があったとあるが現在の畑地と田の間にある小川は幅、深さ、曲線などその名残の気配がある。唯一、館の気配を残す風景である。
 又、所々にある石垣に表される段差も館の境界を表すのに十分な様子である。
 近くの山にある古墳が十近くに及ぶことや地名が示す丹生寺もあったことなど古くから栄えた場所のようである。坂内川を足元に水上、陸上いずれも交通の要所であったと思われる。関所があったとしてもおかしくない場所である。
 ただ街道が遺跡の真ん中を通っている(地区の石碑の位置を起点とした)ことは不思議なことと思う。関所でもあったのだろうか、あるいは坂内川の渡しかも知れない。関守が園館の仕事であった可能性がある。

地図