春以降秋までは歩きやすいところを選んで城めぐりをしたいと思います。
なにしろ蜘蛛、蚊、蛇、ダニ、ひるなどのいきもの、鹿、猿などの動物、漆などのかぶれたり引っかいたりする植物、揚げれば暇が無いくらいたくさんある私にすれば不愉快なものたちを避けるためには探索は冬場しかありません。
今回は津市にある津城へ行ってきました。津市内にあり不愉快ないろいろを心配することはありません。
昭和33年に復興された三重隅櫓
津城の起源は戦国時代にさかのぼる。
① 永禄年間(1558~1569)に長野氏の一族の細野藤敦が安濃川と岩田川の三角州に小規模な安濃津城を構えたところから始まる。
② 永禄11年(1568)織田信長の伊勢侵攻のより織田掃部頭(津田一安)が入城。
③ 永禄12年(1569)織田信包が入城。このとき城郭の拡充、石垣普請、本丸、二之丸、三之丸の整備をした。天正五年(1577)に5重天主と小天主が完成。
④ 文禄4年(1595)豊臣家臣の富田知高が入城。
⑤ 安濃津城の攻防
富田知高の子信高は、他の諸将とともに関ヶ原の戦いでは徳川に与力することを決意していた。300名の家臣を率いて家康の上杉討伐に従軍中、下野小山から家臣を率いて急ぎ安濃津に戻った。西軍が伊賀方面から東に進出しつつあることが既に報じられており、しかも安濃津は交通の要衝で必ず西軍の攻撃にさらされることが予測されていたのである。
同じく東軍に加担した盟友分部光嘉(伊勢上野城主)は、安濃津の信高に合流してともに西軍にあたることになったが、加えて古田重勝(松坂城主)にも援軍を要請した。更に信高は、関東に安濃津籠城の件を伝え、急ぎ家康に西上してもらうよう要請しようしたが、西軍に与した九鬼嘉隆が海上を封鎖したため、徳川との連絡は絶たれたままを余儀なくされた。
富田信高の兵、分部光嘉の兵、更に古田重勝の援軍500を加えても安濃津城に籠城する東軍はわずか1700という劣勢であった。いっぽう毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らで構成する西軍は総勢3万にのぼった。
慶長5年(1600)8月24日、安濃津城攻防戦が開始された。分部光嘉は毛利家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、信高も自ら槍を振るって西軍にあたった。群がる敵兵に囲まれたところへ、一人の若武者が救援に駆けつけ、危機一髪命を取り留めた。
「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」(「逸史」より)とあるこの武者は、信高の妻であった。
信高、光嘉らは健闘したものの、これ以上戦いを継続するのは困難であり、木食上人が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、信高は剃髪して高野山にのぼった。
⑥ 慶長13年(1608)藤堂高虎が入城。このとき城の大改修を行う。輪郭式の城郭にし、城下町も整備した。以後明治維新まで藤堂氏の居城となった。
縄張り図(藤堂高虎のとき)
西
南 北
東
藤堂高虎像
「顔の表情が高すぎて!」
明治の始めごろまであった丑寅の櫓から後方は戌亥の櫓
その戌亥の櫓跡
戌亥の櫓跡の石垣を本丸側から見ました
西之丸の石垣と犬走り
どこにあって、誰が使ったんだろう。
復興三重隅櫓
現在の本丸にあるのは洋風庭園。
次回は松阪城の予定
なにしろ蜘蛛、蚊、蛇、ダニ、ひるなどのいきもの、鹿、猿などの動物、漆などのかぶれたり引っかいたりする植物、揚げれば暇が無いくらいたくさんある私にすれば不愉快なものたちを避けるためには探索は冬場しかありません。
今回は津市にある津城へ行ってきました。津市内にあり不愉快ないろいろを心配することはありません。
昭和33年に復興された三重隅櫓
津城の起源は戦国時代にさかのぼる。
① 永禄年間(1558~1569)に長野氏の一族の細野藤敦が安濃川と岩田川の三角州に小規模な安濃津城を構えたところから始まる。
② 永禄11年(1568)織田信長の伊勢侵攻のより織田掃部頭(津田一安)が入城。
③ 永禄12年(1569)織田信包が入城。このとき城郭の拡充、石垣普請、本丸、二之丸、三之丸の整備をした。天正五年(1577)に5重天主と小天主が完成。
④ 文禄4年(1595)豊臣家臣の富田知高が入城。
⑤ 安濃津城の攻防
富田知高の子信高は、他の諸将とともに関ヶ原の戦いでは徳川に与力することを決意していた。300名の家臣を率いて家康の上杉討伐に従軍中、下野小山から家臣を率いて急ぎ安濃津に戻った。西軍が伊賀方面から東に進出しつつあることが既に報じられており、しかも安濃津は交通の要衝で必ず西軍の攻撃にさらされることが予測されていたのである。
同じく東軍に加担した盟友分部光嘉(伊勢上野城主)は、安濃津の信高に合流してともに西軍にあたることになったが、加えて古田重勝(松坂城主)にも援軍を要請した。更に信高は、関東に安濃津籠城の件を伝え、急ぎ家康に西上してもらうよう要請しようしたが、西軍に与した九鬼嘉隆が海上を封鎖したため、徳川との連絡は絶たれたままを余儀なくされた。
富田信高の兵、分部光嘉の兵、更に古田重勝の援軍500を加えても安濃津城に籠城する東軍はわずか1700という劣勢であった。いっぽう毛利秀元、長束正家、安国寺恵瓊、鍋島勝茂らで構成する西軍は総勢3万にのぼった。
慶長5年(1600)8月24日、安濃津城攻防戦が開始された。分部光嘉は毛利家臣の宍戸元次と双方重傷を負うほど奮闘し、信高も自ら槍を振るって西軍にあたった。群がる敵兵に囲まれたところへ、一人の若武者が救援に駆けつけ、危機一髪命を取り留めた。
「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」(「逸史」より)とあるこの武者は、信高の妻であった。
信高、光嘉らは健闘したものの、これ以上戦いを継続するのは困難であり、木食上人が仲介となって西軍との和平交渉が成立し、信高は剃髪して高野山にのぼった。
⑥ 慶長13年(1608)藤堂高虎が入城。このとき城の大改修を行う。輪郭式の城郭にし、城下町も整備した。以後明治維新まで藤堂氏の居城となった。
縄張り図(藤堂高虎のとき)
西
南 北
東
藤堂高虎像
「顔の表情が高すぎて!」
明治の始めごろまであった丑寅の櫓から後方は戌亥の櫓
その戌亥の櫓跡
戌亥の櫓跡の石垣を本丸側から見ました
西之丸の石垣と犬走り
どこにあって、誰が使ったんだろう。
復興三重隅櫓
現在の本丸にあるのは洋風庭園。
次回は松阪城の予定
この度安濃津城の戦いについての記事を書かせていただいたのですが、その際に貴ブログのこちらの記事を参考にさせていただきました。
安濃津城の攻防についての記述がとても生き生きした描写で、とてもわかりやすかったです!
以前、松坂城には行ったのですが、津城には行かずじまいでした。
いつか行ってみたいです。
それと、誠に勝手ながら自ブログにて貴記事のリンクを貼らせていただいたので、ぜひ遊びにいらしてください!
http://washiya.sapolog.com/e491106.html