👆 竪堀が連なる長谷砦
城名 |
長谷砦 |
読み |
ながたにとりで |
別名 |
井生城(いうじょう) |
住所 |
津市一志町井生長谷 |
築城年 |
不明 |
形式 |
山城 |
遺構 |
曲輪、帯郭、竪堀 |
規模 |
東西 70m×南北 80m |
城主 |
馬場土佐守 |
標高 179m 比高 127m |
書籍 |
津の城跡50選では「、、、戦闘に巻き込まれることを恐れた近隣村民が最後の避難場所として築かれた可能性もあるものと思われる。」と記している。 |
環境 |
一志平野から多気御所へのルートを直下に見る、南北に鋭い傾斜を持つ山上にある。 |
大仰城を北1Kmに見、視界は効く。 |
現地 |
曲輪はプリン型単郭だが切岸は高く険しい。周囲に帯郭を持ち帯郭から竪堀が城を取り囲むようにつながる。 |
帯郭には水を貯めるような凹部や竪堀につながる空堀や少しの広さを持つ削平地が組み込まれている。 |
主郭頂部は片側と背後に土塁構造や高まりとなった部分と一段下がった平面の2段構造となっている。 |
考察 |
城の位置や郭の高さや竪堀の数から防御性に重点を置いた城のように思える。 |
笹遺跡発掘調査報告において「信長の時代に岸和田代官松浦(まつら)宗清が一万石を転封され、井生を治める。居城は豊臣、徳川方の勢力が伯仲したなかでは築けなかったらしく現在確認することはできない。」とある。 |
その後、松浦宗清が移封され、従兄弟の松浦伊代守久信に城主は代わったが城跡は確認されていないとのことなので井生城主といえども長谷砦主ではないということである。織豊政権による支配より以前、北畠氏統治時代の城である可能性が高い。 |
感想 |
未だ見たことがない種類の珍しい城である。 |
地図 |
登り口は南口と東口がある。
<!-- 長谷砦 -->
帰りに図書館により、各地の地誌類を見ましたが掲載された物は見つけることが出来ませんでした。
もし詳細ご存知でしたらお教えいただけないでしょうか。また、「三重の山城巡りへようこそ」というサイトに嬉野町上小川白口峠に「牢屋。首切り場」と呼ばれる城郭遺構(土塁、空堀)が紹介されています。
此方の方も行って見たいので、御存じでしたら場所の詳細等お教えいただけないでしょうか。
誠にぶしつけなお願いですが、宜しくお願いします。
お尋ねいただきました案件ですが輩は一度しか行ってませんが特に見るべきものはありませんでした。ただ想像させるだけです。場所は白口峠を目指してください。峠の南側の山麓周辺がそうかもしれません。あまりお勧めできません。
もう少し調べてみます。
今後も宜しくお願いします。
本日6月24日、先日教えて頂きました美杉の白口峠見てきました。
結果は、「三重の山城巡りへようこそ」ブログの通りのものはありました。
峠の南の尾根の東斜面を60×30m範囲で削り高低差20メートル斜面を作り、
その縁の南(上)から東にかけて2m前後の切岸、切岸の外側は空堀状になっていました。
西側先端にも土塁状の物が見られます。
白口集落で人に聞くと、「牢屋。首切り場」は知らないが番所は聞いたような記憶があるとのこと。
美杉の資料館の人は、聞いたことが無い、嬉野側に造林業者がいるのでその仕事ではないかと言っていました。
形態的には滋賀県彦根市の桃原城の土塁に似ている様に見えました。
城郭遺構との確認を持つことはできませんでした。
気になることは、あるべきブルーの城名のプレートがありませんでした。
切岸、空堀状、土塁など、らしきものを見られたとのこと、よかったですね。
確かにらしきものはありますが全体として確定するには今一つ物足らない気がします。
青いプレートの本人曰く、記述が一行あるだけなので調査中とのことです。
また何か参考になる資料、史料など見つけられたら教えてください。
霄漢さんも、山城探索についてはかなりヘビーですね。お体を大切に頑張ってください。
記事を拝見し、雨のせいで一か月山城にの場っていないので、おもいきって今日野中城に登ってきました。
思っていた以上の遺構を堪能しました。
鉄塔のあるピークの、東の山頂を取り巻く巻くようにある堀切から空堀に変化して東側で腰郭を区分するように竪堀を入れている所は興味深いものでした。
私は、北約2kmの矢田城との関連を考えてみたいと思います。