■愚者の街(上・下) 2023.12.25
週刊文春ミステリーベスト10 海外部門7位 『愚者の街』上・下 ロス・トーマス 新潮文庫 75点
このミステリーがすごい2024年版 海外編4位
R・トーマスの『愚者の街 上』を読みました。
訳文のせいか、当初は読みにくい感じが否めなかった。
物語は、ルシファー・C・ダイにもたらされた、ある依頼から始まる。
「ある役割を演じてほしい----もちろん、僕の監督のもとで」
「役割とは?」
「オーカットの第一法則に基ずくものさ、ミスター・ダイ。あんたにやってもらいたいのは、街をひとつ腐らせることだ」
「街をひとつ腐らせる」とは、具体的にどういうことなのか、上巻では分からなかった。
この仕事に、ダイを推薦したのは、ダイの元同僚のジェラルド・ヴィッカー。彼は、腐らせる街の顔役、リンチの兄。
このあたり何か曰くありげだ。
「うちの兄が、あんたは少し短気だと言っていたよ、ミスター・ダイ」
「あんたの兄貴はよく嘘をつく」
「あんたのいい評判をたっぷり聞いたので、あんたをミスター・オーカットに推薦してくれとジェラルドに言ったんだ。ところでミスター・ダイ、あんたはとても優秀だが、おそろしく連が悪いということだね。これはまじめな話だよ。どうしても不運がついて回る人間はいるものだし、あんたもそのひとりなんだろう。つまり、奥さんに起こったこととか」
「そのことには触れないでもらいたい」
向こうは同情するようにうなずいた。「よけいなことを言ってしまった。いや、申し訳ない、ほんとうに。しかし実際、あんたはずいぶん不運な目にあってる。その不運はたぶん続くとジェラルドも思ってるようだ。」
「もうひとつ忘れてるな」
「何のことだ、ミスター・ダイ?」
「悪運だよ----あんたたちに入り用になるやつだ」
オーカットの第一法則とは。
「ある法則を定式化できたことだ。はばかりながらオーカットの第一法則と呼ばせてもらってる。第二法則はまだ思いついてない」
「第一の法則というのは?」
「良くなる前には、もっと悪くならなくてはならない」
「聞き覚えがある気もするが」
「そんなことはないさ。僕の専門分野に当てはめた場合にはね。」
上巻では、ダイの生育歴についても語られます。
タンテ・カテリンの教育のおかげで、八歳の私はすっかり世間ずれした、シニカルな鼻垂れ小僧になっていた。うわさ話や悪口が大好きで、自分の得になるならいくらでもおべっかを使うし、立派な大根役者になって娼館のドアボーイの役どころをすっかり楽しんでいた。新しく来た客からチップをもらうほかに、アヘン好きや酔っ払いどものポケットからくすねたりもしたが、手持ちの五パーセント以上は取らないよう
心がけた。締めて週に五、六十米ドル相当の収入になったが、初めのうちは律儀にタンテ・カテリンにすべて手渡し、彼女はこれをあなたのための投資に回すわと言っていた。......
タンテ・カテリンは、私がチップの三分の一をかすめていると疑っていたとしても、何も言わなかった。もし言われていたら、私は否定しただろう。それも熱烈に。すでに立派な嘘つきだったのだ。彼女は私が酔っ払いやアヘン好きから金をくすねるのを、あまり欲張らないかぎりは認めていたのだろうが、そのことについても触れはしなかった。
ミステリですが、こんな素敵な文も見受けられます。
「ずいぶん高くなったな」
「高くないものなんてあります?」
「おしゃべりは? まだ安いだろう」
請求書にサインして二十パーセントのチップを足すと、ボーイは上機嫌になったというか、多少はむっつりした感じが薄らいだ。ボーイが出ていってから水割りを作り、窓辺に立って、橋を背景にした街並みを眺める。九月初めのサンフランシスコがたまに思い出したように見せる、すばらしく晴れ渡った一日だった。ちらほら見える静かな雲、たっぷりと降り注ぐ陽射し、あまりにかぐわしくて瓶詰めしたいと思う人間が出てくるほどの空気。十七階の部屋でスコッチをすすりながら、かつてアメリカで最も人気の高い街と謳われたサンフランシスコを見つめた。もしかするといまでも変わらないのかもしれない。そして未来のことを考え、さらに過去に想いをはせた。未来は過去よりも空っぽに見え、過去は何ひとつ残しはしない。すべてはカーミングラーのおかげだ。
「ミスター李、われわれの稼業では、何もなしに過ごせるというのは最高の贅沢なんだ」
『 愚者の街(上・下)/R・トーマス/松本剛史訳/新潮文庫 』
週刊文春ミステリーベスト10 海外部門7位 『愚者の街』上・下 ロス・トーマス 新潮文庫 75点
このミステリーがすごい2024年版 海外編4位
R・トーマスの『愚者の街 上』を読みました。
訳文のせいか、当初は読みにくい感じが否めなかった。
物語は、ルシファー・C・ダイにもたらされた、ある依頼から始まる。
「ある役割を演じてほしい----もちろん、僕の監督のもとで」
「役割とは?」
「オーカットの第一法則に基ずくものさ、ミスター・ダイ。あんたにやってもらいたいのは、街をひとつ腐らせることだ」
「街をひとつ腐らせる」とは、具体的にどういうことなのか、上巻では分からなかった。
この仕事に、ダイを推薦したのは、ダイの元同僚のジェラルド・ヴィッカー。彼は、腐らせる街の顔役、リンチの兄。
このあたり何か曰くありげだ。
「うちの兄が、あんたは少し短気だと言っていたよ、ミスター・ダイ」
「あんたの兄貴はよく嘘をつく」
「あんたのいい評判をたっぷり聞いたので、あんたをミスター・オーカットに推薦してくれとジェラルドに言ったんだ。ところでミスター・ダイ、あんたはとても優秀だが、おそろしく連が悪いということだね。これはまじめな話だよ。どうしても不運がついて回る人間はいるものだし、あんたもそのひとりなんだろう。つまり、奥さんに起こったこととか」
「そのことには触れないでもらいたい」
向こうは同情するようにうなずいた。「よけいなことを言ってしまった。いや、申し訳ない、ほんとうに。しかし実際、あんたはずいぶん不運な目にあってる。その不運はたぶん続くとジェラルドも思ってるようだ。」
「もうひとつ忘れてるな」
「何のことだ、ミスター・ダイ?」
「悪運だよ----あんたたちに入り用になるやつだ」
オーカットの第一法則とは。
「ある法則を定式化できたことだ。はばかりながらオーカットの第一法則と呼ばせてもらってる。第二法則はまだ思いついてない」
「第一の法則というのは?」
「良くなる前には、もっと悪くならなくてはならない」
「聞き覚えがある気もするが」
「そんなことはないさ。僕の専門分野に当てはめた場合にはね。」
上巻では、ダイの生育歴についても語られます。
タンテ・カテリンの教育のおかげで、八歳の私はすっかり世間ずれした、シニカルな鼻垂れ小僧になっていた。うわさ話や悪口が大好きで、自分の得になるならいくらでもおべっかを使うし、立派な大根役者になって娼館のドアボーイの役どころをすっかり楽しんでいた。新しく来た客からチップをもらうほかに、アヘン好きや酔っ払いどものポケットからくすねたりもしたが、手持ちの五パーセント以上は取らないよう
心がけた。締めて週に五、六十米ドル相当の収入になったが、初めのうちは律儀にタンテ・カテリンにすべて手渡し、彼女はこれをあなたのための投資に回すわと言っていた。......
タンテ・カテリンは、私がチップの三分の一をかすめていると疑っていたとしても、何も言わなかった。もし言われていたら、私は否定しただろう。それも熱烈に。すでに立派な嘘つきだったのだ。彼女は私が酔っ払いやアヘン好きから金をくすねるのを、あまり欲張らないかぎりは認めていたのだろうが、そのことについても触れはしなかった。
ミステリですが、こんな素敵な文も見受けられます。
「ずいぶん高くなったな」
「高くないものなんてあります?」
「おしゃべりは? まだ安いだろう」
請求書にサインして二十パーセントのチップを足すと、ボーイは上機嫌になったというか、多少はむっつりした感じが薄らいだ。ボーイが出ていってから水割りを作り、窓辺に立って、橋を背景にした街並みを眺める。九月初めのサンフランシスコがたまに思い出したように見せる、すばらしく晴れ渡った一日だった。ちらほら見える静かな雲、たっぷりと降り注ぐ陽射し、あまりにかぐわしくて瓶詰めしたいと思う人間が出てくるほどの空気。十七階の部屋でスコッチをすすりながら、かつてアメリカで最も人気の高い街と謳われたサンフランシスコを見つめた。もしかするといまでも変わらないのかもしれない。そして未来のことを考え、さらに過去に想いをはせた。未来は過去よりも空っぽに見え、過去は何ひとつ残しはしない。すべてはカーミングラーのおかげだ。
「ミスター李、われわれの稼業では、何もなしに過ごせるというのは最高の贅沢なんだ」
『 愚者の街(上・下)/R・トーマス/松本剛史訳/新潮文庫 』
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