高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

オイルショック!(1) 

2005-05-23 | Weblog
1973年、私は毎日信じられないくらい忙しかった。寛斎さんのロンドンでのショーをお手伝いしたことがきっかけで、Tレックスや、デヴィッド・ボウイなど、グラムな世界が広がっていたけれど、それは純粋にクリエイティブな世界で、私の経済生活には関係なかった。
私が存在している広告業界では新しい試みがあるたびに、好奇心に溢れた人たちからお呼びがかかった。
もちろん、私はどんなことにもよろこんで参加した。
でも、エキサイティングな出来事の裏には必ず地道な準備が必要だ。
ひとつの肉体が引き受けるには不可能といいたいぐらいの作業の量と質が私に覆いかぶさっていた。(まだ、分業もはっきりしていなかった)
新しいことは、仕事の範囲のみならず、お金のルートが確立されないままスタートすることも多く、まだ、世間ではスタイリストにどのぐらい支払うべきかもあやふやだった。
というわけで、私は貧乏だったが、それにめげた記憶はほとんどない。

ある巨大な繊維メーカーからお声がかかって、中近東で行われるファッションショーのツアーをお手伝いすることになった。
ファッションショーが開催されること自体が画期的なことだから、あちらではステージにモデルが立っているだけでも、じゅうぶんセンセーショナルなのだ、と説明された。
だからモデルは健康で性格がよいことを第一で選んで欲しいとのことだった。
(当時、それと同じ言葉を別の仕事で浅井慎平さんから聞いたことがある。浅井さんはロケが多く、世界中で撮影をしていた。それで浅井さんの仕事に、健康で、性格もよく、売れっ子だったモデルを推薦したが、その長い撮影の旅の終わりには、そんな彼女に恋をした若いスタッフの男性がいて、ついにふたりは結婚することになった、、、)

中近東でのショーは私には想像もできない金額(たしか億に近い単位だった)で、とりあえず私は指示されるまま、走り回っていた。
金沢には輸出用の生地を生産している工場があリ、そこで生まれる中近東向けの生地は、信じがたくきらびやかな独特なセンスのもので、国内では決して見ることのない輸出用生地に私はびっくりし続けていた。

ある朝、テレビで中東戦争のニュースが流れた。
あ、と思った瞬間、担当者から電話が入った。
「ちょっと大変なことが起こっていて、ショーは大幅に縮小されるかもしれません、たとえば2千万ぐらいに」
夕方にはショーが中止される電話があった。
「とりあえず、今までのことは全てキャンセルです。またいつかいい仕事をしましょう」

この日がオイルショックの始まりの日であり、その後、電話はなかった。

世の中は不景気になり、順調に仕事をしているのは、業界でも一部の人たちだけになった。
私の仕事は激減した。
お金もなく、ぼろぼろに疲れきった私自身の健康を考える時間だけが与えられた。
とりあえず街を歩こう。今まで忙しさにまぎれてタクシーにばかり乗っていた。歩いて、社員食堂にでもまぎれこんで、安いものでも食べよう。

「朝日カルチャーセンター」開設というニュースを知って、早速ヨガ教室の第一期生になった。
そこで行われたヨガの沖先生は実はとても偉い先生だったが、こういう生涯教育の試みは、はじめてのことだったからだろう、一ヶ月に一回ぐらいはお弟子さんだけではなく、直接先生が現れた。
最初の日、生徒は床に寝かされ、身体のゆがみを指摘された。
先生は私を見下ろして、大声で「子宮後屈!」と叫んだ。

定期的に、沖先生を囲んで食事会があった。
これが全て有機農法でつくられた自然食だった。
がぶりとかじるトマトは、普段食べているものと全然違ったなつかしい香りとおいしさに溢れていた。
漬物に一滴たらしたお醤油の旨みに感動した。
でも、沖先生は「正しい食事」とともに「悪食」(アクジキ)の大切さも教えてくれた。

カルチャーセンターは新宿の住友ビルにあったが、階下の住友系の社員食堂で、豚肉のしょうが焼き定食を食べたり、ときには焼肉屋に行ったりした。

先生のヨガは、若い頃、中国でスパイ活動をして投獄された時、そこにいたラマ僧から教えを受けたものだそうだ。その冒険談はドキドキするほど、おもしろかった。
先生は腸癌をかかえていて、自分は癌と共生しているのだとも言っていた。今考えると、走りだったカルチャーセンターで、健康法ばかりではなく、一方方向に行きがちな精神世界の入り口に私は立っていた。
そこで、広範囲な視点が大事だという、基本中の基本を教えられたのだった。

この時期の経験をある時、ロケット博士といわれていた糸川英夫さんと話したことがある。
「オイルショックの時、あなたがヨガを勉強したのは、正しい。私はその時期、チェロを学んでいた」とおっしゃった。
そして、オイルショックはお互い大事な経験だったはずだ、と続けた。
糸川さんとお話したのは、何か雑誌の企画でのことだったと思うが、糸川さんはとても印象的な話をしてくれた。

ある時、団体旅行でインドに行った。バスである観光地に行き、ちょうど峠の茶屋のようなところで、大勢降りて一休みした。その茶屋には手伝いの子供がいて、ゾロゾロと入ってきたお客にグッド・タイミングでお茶を出した。その男の子は一瞬にして男女のお客の人数を数え、まず男性客にお茶を供する。そのあと、女性客にお茶を振舞ったと言うのだ。
それは男尊女卑ではなく、きわめて合理的な判断だった。
男性が全員 トイレに行く時間を計算して、さっとお茶を用意する。トイレに時間かかる女性客の計算も自然にできて、そのタイミングにあわせてお茶を出す。
糸川さんは、その少年にゲーム器を渡した。彼は何の説明も聞かずにそのゲーム器を上手に操った。
ゼロと言う数学的概念はインド人が発見したものだが、こんな山奥の少年でも、自然に数学的判断ができる。インド人は、数学に非常に優れた民族なのだ、ということだった。
私はたった一度だけ仕事でインドに行ったことがあるが、そのとき通訳だった中年の女性が「私の息子も娘もアメリカの学校で コンピューターを学んでいる」と言っていた。
現在のアメリカのITビジネスを支えているのがインド人だときいて、私はこのふたつのことを思い出している。

写真 (データ思い出せません) 話がカタイので写真はこれにしてみました。

最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
自然食とヨガ (shiori)
2005-05-23 01:12:21
 Yaccoさんが30年ぐらい自然食を続けていらっしゃると伺って、その美しさは内臓からのホンマモンなのだなと驚嘆していましたが、“食”の世界ばかりかヨガもそうだったのですね。

 昨年以来、空前のヨガブームで女性誌が何10誌も同時にヨガ特集を組み、周囲でもヨガマットを持っている女性たちがワッと増えました。

自然食も、“絶対これ食べちゃダメ”みたいなガチガチのものから、もっとゆるい感じで自分や自然と調和させていくものまで、出尽くした感があり、マクロビオティックも一般的に認知されたと思います。

 そんな中、Yaccoさんがご自分の体が進むほうへと直感で選び取り、ずっと自然と調和したナチュラルライフを続けてらしたことに、今さらながら感動せずにいられません。

 今、理論だけでもブームの気分だけでもなく、本当にみなが取り組み始めた生き方が、Yaccoさんにとってはずっと日常生活だったのですから。

返信する
オイルショックだあ (saimon)
2005-05-23 01:57:40
私にとっても、このオイルショックは忘れられない事です。73年の春につとめを止め、今で言えばフリーター(当時はただのプータロウ)でした。何となくそれでも生活が出来て、自由を楽しんでいました。

その秋口、石油関係の仕事で中東に通い、サウド家とも個人的に親交のあった方が、大変なことが起こるかも知れない。そしたら日本の経済は大打撃を受けるだろうから、生活基盤を早く確立しなさい(大企業に入れ)との話がありました。いくつかの会社に声を掛け、運良く11月からある会社の中途採用が決まった10月にこの第4次中東戦争が始まり、石油価格が4倍くらいになり、日本経済は一気にマイナス成長に落ち込んだと言うときでした。私はタッチの差で食、いや職にありつき、なんとか生活が出来る状況が維持されたという、そんなときでした。
返信する
よみごたえあり (パーミン)
2005-06-06 21:07:06
沖先生の悪食のはなしや、精神世界のはなし、糸川先生との話し、そこらへんのたいそうな本よりなんばいもおもいろい。そんなこんなもあって今のヤッコサンができていいるのね
返信する
oil ショック~ (Seto)
2005-07-06 21:46:36
私は、高校生で、なんだか、ファッション

的ではないのですが、トイレットペーパー

を何故か大量にかってくるように母にい

われて、お使いにいったことだけ、、

おぼえています。

買い控えとかいう言葉を耳にしたのも

このころでした。
返信する