高橋靖子の「千駄ヶ谷スタイリスト日記」

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アイランド 2 家族のハワイ 

2005-07-11 | Weblog
ハワイでの記憶は仕事のことだけではない。
私には実父と養父とふたりいたが、ふたりとも戦争体験の話をよくした。
実父はもと最年少の共産党員だったので、徴用されたときは、南方のほぼ生きては帰れない所(パラオ諸島らしい)に送られた。
そしてあっという間に機銃掃射で、後頭部をやられ、鼓膜はすっ飛び、ある期間は記憶喪失症になったという。
それで、母には自分が死んだら、ほぼ絶滅した隊の戦友たちが眠る南方の海に骨を撒いて欲しいと常々言っていたそうだ。
私はその父の言葉をいつか実現しよう、と思っていたが、母と幼い息子を連れて、嘗ての戦地に行くのは気がひけた。
同じ海続きだから、親孝行と休養をかねて、ハワイはどうだろう。
もちろん母は大喜びで、パスポートをとった。

そんなわけで、私としては空前絶後かもしれないハワイ観光ツアーに参加したのだった。

ロケでもない、ひとり旅でもないパック旅行は、私には初体験だった。
まず空港からホテルに到着する前に、業者とタイアップしているらしいお土産屋さんに引きずり込まれた。
早くも目を輝かす母に、私は「お母さん、やめときなさい。ほかにもっといいものがあるよ」と忠告した。
(30年近く前の話です。今はこういうことはないでしょうね)

30代半ばの私は、もちろん今より若さの馬力はあっけど、常に疲れていた。
仕事はありがたいことに、いっぱいあったが、育児と生活の維持のほうもいっぱいいっぱい、だった。
がむしゃらに働き、必要とするところに、得たお金を気前よく注入していた。
ハワイは格安ツアーの季節で、湿気が多く、東京にいたときよりもずっと腰が痛かった。

(あの頃よりも、実際今のほうが、肉体的には健康だと感じている)
母と息子とアラモアナ・ショッピング・センターを歩く。母はムームーを買い、珊瑚の指輪を買う。ハワイの歴史やハワイアン・キルトが展示されているミュージアムを覗く。
そんななかで、父の遺言を果たす時が来た。

もとより家族の小さなセレモニーのために船をチャーターする、という考えはなかった。

母にとっては神聖なセレモニーだったが、私が選んだのは、オプションで付いている「サンセット・クルーズ」だった。
夕暮れ時、観光客を乗せた船はホノルルの港を出航する。バンドが入っていて、それを聴きながら食事をしたり、踊ったりの数時間にわたる海上散歩だ。
私たちはほかの観光客と同様に食事をし、バンド演奏を聴きつつ美しい夕焼けを楽しんだ。
そして、他の人たちが賑やかに踊っている船の片隅で、私たちだけのささやかなクライマックスを迎えた。
母は分骨した小さな壺と花束を持って、「お父さん、お友だちのところにお還りなさーい」と叫んだ。息子は「じーじ、バイバイ」と手を振る。
その声は即、陽気なバンドの音にかき消された。
父の骨と花束はあっという間に波間に吸い込まれていった。
母は少しのあいだハンカチで目を覆って涙を拭いた。

母ははじめての海外旅行にいたく満足したようだった。
「今度はアメリカ本土に行って、千恵子に会わなくちゃ」
母の妹はオハイオにすむ戦争花嫁だった。
私は本気でうなずいたけれど、その夢はかなえてあげられないまま、今日に至っている。


写真 (撮影・Yacco) ハワイの夕焼け

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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
母の願いを叶えろよ (通りすがり)
2005-07-14 01:12:55
万が一亡くなった後だと絶対後悔するから
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てめぇ (通りすがり2)
2005-07-15 12:03:51
↑失礼だな。謝れ!お前が死ね!
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