原宿の話をしていると、ついついニューヨークやロンドンに話が飛んでしまう。何もわからずにスタイリストを始めた頃、いつも、スタッフに言われることは、「ニューヨークのスタイリストは、、」「パリのスティリストは、、、」ということだった。
そんなに海外のスタイリストはすごいのだろうか。じゃ、勉強に行きたいわ。というわけで、身を粉にして貯めたお金で、まずニューヨークに行った。帰ってくると、「一生に一回ぐらいなら、誰でもいける。一年以内に自力でいけるかどうかが実力の分かれ目」といわれた。
ことスタイリストの勉強ということに関しては、「思うことを一生懸命やっていればどこであろうとOK」と即、確認していた。
ニューヨークとロンドン。このふたつの都市には私にとって、理屈じゃない居心地のよさがあった。
何かが違う。
それは人々のユーモアのセンスだったかもしれない。
山本寛斎さんのロンドンのショウが終わったあと、彼はプレッシャーから解放されて予定外だったスペインに行ってしまった。
その間、現地の協力者マイケルと私は祝賀会の準備をした。ところが、当日パーティの時間になっても、寛斎さんはスペインから戻ってこない。人々は集まり、関係者は気をもむ。会場がざわめき始めたので、急遽、私が挨拶をすることになった。
「皆さま、本日は偉大な寛斎のために、ではなく、若くて頭が良くて、そのうえ美しい私ヤッコのために、こんなに盛大なパーティを開いてくれてありがとう!」どっと笑い声があがり、パーティは無事はじまった。寛斎さんは、宴が終わりかけた頃、空港から駆けつけた。彼が最後にどんな挨拶をしたかは覚えていない。
東京だったらヒンシュクものになりがちな若い私の言動も、ある種のユーモアと受け取ってもらえることを私は発見した。
なにか安心して私のキャラを露出できる雰囲気をしばしば感じた。どこかの土地で、人と交わる時の一種の懐かしさ。それがピンとくるユーモアのセンスからくるのは今も同じだ。
写真 (撮影・私のカメラで誰かが) 68年のニューヨーク。写真家ソコルスキーのスタジオのメイク室で。中央の美少年はヘア・スタイリストの須賀勇介さん。40年前だけど、今でも私の日常で見る風景。
須賀さんはヘアのセンスばかりではなく、あらゆるセンスに溢れていた人だったろう。私はこの場でおしゃべりをしただけだったが、スタッフやモデルさんに愛されているのが、よくわかった。
後年、ニューヨークでは、同じくヘア・スタイリストの宮崎定夫さんともお仕事をした。定夫さんは当時ではめずらしかった生成りのパシュミナをまとって現れた。「これってね、カシミアヤギの喉のところの柔らかい毛をあつめてつくったストールなのよ。こんなに軽くて、温かいの」と言って私をうらやましがらせた。定夫さんとは、60年代、セントラル・アパートのスタジオでカメラマンの林宏樹さん、イラストレイターの宇野亜喜良さんなどといっしょにやっていたので、旧知の仲だった。
(須賀さん、定夫さんともに故人となってしまった)
そんなに海外のスタイリストはすごいのだろうか。じゃ、勉強に行きたいわ。というわけで、身を粉にして貯めたお金で、まずニューヨークに行った。帰ってくると、「一生に一回ぐらいなら、誰でもいける。一年以内に自力でいけるかどうかが実力の分かれ目」といわれた。
ことスタイリストの勉強ということに関しては、「思うことを一生懸命やっていればどこであろうとOK」と即、確認していた。
ニューヨークとロンドン。このふたつの都市には私にとって、理屈じゃない居心地のよさがあった。
何かが違う。
それは人々のユーモアのセンスだったかもしれない。
山本寛斎さんのロンドンのショウが終わったあと、彼はプレッシャーから解放されて予定外だったスペインに行ってしまった。
その間、現地の協力者マイケルと私は祝賀会の準備をした。ところが、当日パーティの時間になっても、寛斎さんはスペインから戻ってこない。人々は集まり、関係者は気をもむ。会場がざわめき始めたので、急遽、私が挨拶をすることになった。
「皆さま、本日は偉大な寛斎のために、ではなく、若くて頭が良くて、そのうえ美しい私ヤッコのために、こんなに盛大なパーティを開いてくれてありがとう!」どっと笑い声があがり、パーティは無事はじまった。寛斎さんは、宴が終わりかけた頃、空港から駆けつけた。彼が最後にどんな挨拶をしたかは覚えていない。
東京だったらヒンシュクものになりがちな若い私の言動も、ある種のユーモアと受け取ってもらえることを私は発見した。
なにか安心して私のキャラを露出できる雰囲気をしばしば感じた。どこかの土地で、人と交わる時の一種の懐かしさ。それがピンとくるユーモアのセンスからくるのは今も同じだ。
写真 (撮影・私のカメラで誰かが) 68年のニューヨーク。写真家ソコルスキーのスタジオのメイク室で。中央の美少年はヘア・スタイリストの須賀勇介さん。40年前だけど、今でも私の日常で見る風景。
須賀さんはヘアのセンスばかりではなく、あらゆるセンスに溢れていた人だったろう。私はこの場でおしゃべりをしただけだったが、スタッフやモデルさんに愛されているのが、よくわかった。
後年、ニューヨークでは、同じくヘア・スタイリストの宮崎定夫さんともお仕事をした。定夫さんは当時ではめずらしかった生成りのパシュミナをまとって現れた。「これってね、カシミアヤギの喉のところの柔らかい毛をあつめてつくったストールなのよ。こんなに軽くて、温かいの」と言って私をうらやましがらせた。定夫さんとは、60年代、セントラル・アパートのスタジオでカメラマンの林宏樹さん、イラストレイターの宇野亜喜良さんなどといっしょにやっていたので、旧知の仲だった。
(須賀さん、定夫さんともに故人となってしまった)
一人で行ったNYで、極度に集中してたのでしょう。
ある日突然、音楽のように英語がきこえてきたのです。
でも、伝えたいことだけ、超シンプルな英語で話してただけ。
こうしてやや進歩した英語も、ここのところ旅するチャンスがないので、下降線をたどってます。
バイリンの方とは違って、ダメになり方も早い。
あー、NY、ロンドンに行きたいなー。
わざと自慢気味に話して笑いを取ったり、自分をちょっと落として笑いを取ることができないんですね。それってすごく残念です。私の周囲でとにかくモテている人はみんなすっごいユーモリスト揃い。
別に品を悪くする必要はないんです。男性に笑わせてもらうことを期待するだけでなく、みんなを笑わせましょうよ! 女性のみなさん。
イタリア大使館のパーティーなどだと、「あなたのソワレで露出された肌が寒そうだから、僕がエスコートしては初対面なのにでしゃばり過ぎだうか?」 などと言ってきますから、「そのためにこのドレスを着てきたのよ」と言うと、盛りあがりますね。
私自身は、そんなタカビーな……とんでもないっ!と思うようなタイプですが、会話として楽しむならハッピーな演出になると思います。
Yaccoさんをお手本にがんばりましょう!
山本寛斎さんの代わりのスピーチ!
イエイ!ですね、海外の方は本当にそういう
ところが、チャーミングで、それに応戦され
てる、Yaccoさんの心意気もかっこいいです。
私はパーティは呼ばれることが無いのですが
残念(笑)MOMA美術館にいった折に、時間まちだったので、玄関にいた係員の優しそうの女性に「モナリザは何処にいっちゃったの?」と真剣な顔で聞いたら、「モナリザ??」にやりと笑ったら、メッって顔で「フランスにバカンスに」って、笑。NYが好きになりました。
デ!デンジャラスライン!!そんなこと
いってみたい、、まず、シェイプが必要な
私でした。反省。
20代のとき、Kobe そごう に、須賀洋介
さんのCuthouse が出来たので かけてゆき
ました!あんなにファッションに熱心だった自分と今日、シンクロしました。ありがとうございます!お隠れと聞き、当時は、ショックでした。
Yaccoさん、寒くなりました、お仕事おいそ
がしいでしょうが、御身大切にお過ごし
ください~☆
Happyな来日キャンペーンとなりました。
ようやくほっと一息、この眩しいくらいのヤッコさんの日記をドキドキしながら読んでいます。「カッコいい!」もうこの一言です。あまりに興奮して仕事が手につかなくなりました・・・。
haneさんが上手く表現されているように思うのですが、「ドキドキ」って感じです。
仕事の最中は見ないようにしています。手がつかなくなると危ないので。
「雰囲気」のことを、ついつい「ふいんき」って言ってしまう時に、やっぱり日本語も耳で聞いて覚えるんだな。
外国語の習得は耳からが自然な流れなんだろなーって最近感じます。
またコメント書きます。日記がんばってください。