鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三潴氏の基礎的検討

2023-03-19 20:00:27 | 三潴氏
三潴氏は室町・戦国期越後で活動した一族である。『関川村史』や三潴町誌別巻『中世の豪族三潴氏の歴史』などにその研究が見られる。しかし、根本的な部分で所伝や推測に依拠しており正確な三潴氏像という点では疑問が残る。具体的に言えば、その拠点が奥山庄上関であることやその系譜関係などは俗説にすぎない。ここでは三潴氏について、一次史料に基づいた客観的視点から再検討してみたい。

今回は、三潴氏の拠点・所領とその成立について考えていく。


1>その拠点と所領について
三潴氏の拠点が豊田庄中目(現新発田市)であることは、『越後過去名簿』の「越後国蒲原郡豊田庄長政為老母 シハタノノ中目三潴トノ」(天文22年8月)や「越後蒲原郡豊田庄中目 取次内方 三潴出羽守立之」(弘治2年9月)などの記述から明らかである。[史料1]は三潴氏に関する記載の抜粋である。「新発田三潴」、「荒川三潴」といった表現が見られるが、中目が新発田や荒川に近接した土地であることからそういった表現となったのだろう。


[史料1]『高野山清浄心院「越後過去名簿」(写本)』(新潟県立歴博物館研究紀要第9号)
円海鋼公居士 シハタ三潴叔父 天文四 七月廿五日

林芳樹公大姉 シハタ 三潴母 天文三 正月二日

瑶林椿公大姉 越後蒲原郡豊田庄中目 取次内方 三潴出羽守立之 弘治二年丙辰九月廿四日

傑叟莫公大姉 越後国蒲原郡豊田庄長政為老母シハタノ中目ノ三潴トノ 天文廿二日 八月朔日
印叟心公大姉 上同 長政立之 天文廿二日 二月廿日

実重 シハタミツマトノゝ父志 大永元 十一月廿九日

夫心中公 シハタ水間帯刀小三良
芳秀 荒川三潴 天文五 四月十五日


[史料2]『越佐史料』六巻、460頁
本庄越前守任詫言帰参令許容候、此上膝下伺候、一廉於抽忠功者、荒川条可遣之者也、仍如件
  天正十一年    (上杉景勝御朱印)       直江奉之
    七月十二日
         三潴左近大夫殿

[史料2]は御館の乱にて所領を没収されていた三潴氏の復帰に関する文書である。わざわざ「荒川条可遣」と記されているのはそれが本拠中目を含んでいたからであろう。『先祖由緒帳』には三潴氏は「荒川条」に居住と記されている。これは[史料2]を参考にした結果であろう。これは江戸初期に本拠地を伝える伝承が荒川条の他に存在していなかったことを示そう。つまり、通説・奥山庄上関に関する所伝は江戸初期に認められず、これが後世に生じた誤伝であることが理解できる。

現在中目に城跡はなく、三潴氏の居城は不明である。現代までに消失してしまったか、「荒川」「荒川条」などの呼称からは中目に近い荒川城との関係なども考えられるが、はっきりとしたことはわからない。


また、三潴氏と中目の関係は『文禄三年色部氏差出』(*1)にも見える。同史料には「御加恩」として「三潴分」が記載され、それが当時色部領のひとつであったことがわかる。御館の乱後の論功行で色部長真に「三潴分」が宛がわれているから(*2)、「御加恩」「三潴分」は上杉氏より与えられた旧三潴氏所領という意味で矛盾ない。つまり「三潴分」は三潴氏そのものではなく三潴氏旧領である。

『文禄三年色部氏』によると、「三潴分」は「酒町村」132石9斗5升、「中目村」238石5升、計371石であったと記載される。「中目村」は瀬波郡絵図にその名を見ないことから、奥山庄や荒川保、小泉庄ではないと想定される。つまり、三潴氏旧領として豊田庄中目のことを示していると見て間違いないだろう。

三潴氏の所領は色部氏、大見安田氏、小田切氏などに与えられており、『文禄三年色部氏差出』に見える土地の他にも多数あったことが推定される。

酒町村の獲得は恐らく、三潴長政、左近大夫の永禄期以降の奥郡での活動に際して与えられたものと推測する。余談だが「酒町村」は現村上市坂町のことだが、坂町に接して長政という地名が残る。上杉謙信の元で活躍した三潴長政に由来した地名と考えるがどうだろうか。

ところで、文禄3年においても中目が色部氏領であったということは、[史料1]で約束された「荒川条」返還は履行されなかった可能性が高い。近世移行期に中目との関係が絶たれたことが、三潴氏拠点として後世に伝わらなかった原因の一つではないか。


また、『色部年中行事』(*3)にはさらに「三潴分衆」という表現が載るためここで言及しておく。『色部年中行事』は色部氏家中の椀飯・出仕及び座敷の在り方を記載するなどした当時の史料である。佐藤博信氏(*4)は『色部年中行事』の成立を天正4年から文禄元年の間であることを指摘している。そして佐藤氏は、三潴分衆を牛屋衆、岩船衆、桃河衆などと同様に地域的に成立した衆とする。『色部年中行事』の成立時期と「三潴分」が三潴氏旧領であることを踏まえれば、「三潴分衆」は三潴氏旧臣衆だったと推測できる。同史料内には「小嶋同名衆」や「加地牢人衆」といった衆も見え、衆の呼称はその性格を如実に表していると思われるから、三潴分衆もそのままの意味に取ってよさそうである。決して色部家中として三潴氏が存在したわけではないことを理解する必要があろう。慶長期頃作成である色部家臣団の一覧『色部家侍帳』に三潴氏がいないこともそれを支持する。


天正2年成立『安田氏給分帳』(*5)における三潴氏にも触れておきたい。大見安田氏の給分帳であり、天正2年当時その支配下にいた武将たちの氏名もわかる。この中に三潴新五郎、三潴賀兵衛尉が見える。三潴氏と大見安田氏には関係性がないように思えるが、三潴氏の拠点が中目であることを踏まえると両氏は所領を近接した存在であったことがわかる。恐らく一族・庶子が戦国期の混乱の中で嫡流を離れ大見安田氏へ帰属したと考えられる。或いは、御館の乱後には「三潴出羽守分」が安田氏へ与えられており、三潴氏の没落を契機とした可能性もあろう。


2>三潴氏の成立
ここまで三潴氏の拠点が豊田庄中目であったことを示した。三潴氏の発祥は筑後国三潴庄といわれるが、これは高良大社の記録である『高良玉垂宮神秘書』に筑後領主三潴氏が見え、史料的にも確かといえる。それでは筑後国三潴庄から越後への移住という点に注目していきたい。

通説で三潴氏は三浦和田氏との関連で越後へ入国したとされている。しかし、その根拠も乏しいようだ。実際『関川村史』を見ると、確たる根拠はなく推測にすぎない説であることが明記されている。ここで通説である和田氏説と、それに対抗して私が提示する四条家説の二つを挙げて考えてみたい。


まず、和田氏説である。これは鎌倉時代初期の三潴庄地頭が和田義盛であり、その弟義茂、宗実が越後国奥山庄の地頭となったことを踏まえ、和田一族の繋がりの中で三潴氏が筑後から越後へ移住したとする。史料的根拠は皆無であり、同族といえ三潴庄と奥山庄を領した人物が別人であることも腑に落ちない。また、三潴氏が和田氏後裔の中条氏や黒川氏の被官であることを示すものはない。


続いて四条家説である。四条家は公家藤原氏の一族で、越後国頸城郡佐味庄を荘園として領有していた。佐味庄はのちに四条家から分家の鷲尾家に受け継がれる。文書上(*6)も鷲尾家が継承していることは明らかであり、関係が確認できる下限は延徳期である。

さて四条家が領有し鷲尾家へ引き継がれた荘園は他にもあり、それが筑後国三潴庄、鰺坂庄などの荘園である。つまり、四条家または鷲尾家の荘園管理を通じて三潴氏が筑後から越後に移住したのではないだろうか。時代が下り公家の荘園管理は困難となっていくが、四条家・鷲尾家もその例外ではなかった。その過程で荘園の代官であった三潴氏が守護代長尾氏に被官化していったのではないか。三潴氏が守護代長尾氏被官であったことは文明期作成の『越後検地帳』(*7)から明らかである。特に佐味庄は越後では珍しく頸城郡にある荘園であり守護・守護代の影響を強く受けたと想定される。

また、鰺坂庄の存在も示唆的である。上杉謙信家臣として鰺坂長実が有名であるが、『越後過去名簿』より天文22年6月に春日山の鰺坂与二が母を供養していることがわかる。春日山にいたことより守護代長尾氏被官と想定されるが、鰺坂長実の初見は永禄5年2月上杉輝虎書状(*8)であるから、長実の登場以前から鰺坂氏が守護代長尾氏被官として存在したことが推測できる。鰺坂氏の出自については不明であるがが、四条家説であれば、三潴氏、鰺坂氏が越後に存在する理由を説明できる。むしろ、当説でなければ、筑後鰺坂庄・三潴庄と越後三潴氏・鰺坂氏という一致が不自然に思える。

また、伝承上「三潴掃部助」が川中島合戦で活躍したとされる。これは次回以降詳述するように後世の創作で史実ではないが、「諏訪部次郎右衛門・三潴掃部助」の両人で数多の敵を討取ったと記されている。この諏訪部氏は佐味庄地頭出身の氏族であり、三潴氏と佐味庄の関係を考える上では示唆的な所伝といえる。


さて、越後への移住をみてきたが、続いて拠点中目の獲得について考えたい。

享徳3年に中条房資が記した『和田房資記録』には「曾祖父茂資」が将軍足利尊氏より与えられた所領としていくつかを挙げているが、その中に「豊田中目」がある。室町初期に中目は中条氏の領有だったことがわかる。この後、越後では応永の大乱が勃発し、蒲原郡から奥郡にかけて抗争が繰り広げられる。大乱の結果として中目は中条氏から守護代長尾氏へ帰属、代官として三潴氏が派遣され、そのまま戦国期を通じて三潴氏が領有していくことになったと推測される。山田邦明氏は、応永の大乱後に越後各地に守護上杉氏や守護代長尾氏の一族、被官が送り込まれ、地域支配の基礎が形づくられていたことを指摘している(*9)。三潴氏の中目の獲得もこういった時代の流れに沿ったものといえよう。



今回は、まず三潴氏の拠点が豊田庄中目を拠点としたことを示した。さらにその発祥筑後国三潴庄であり、公家四条家・鷲尾家の荘園管理を通じて越後へ移住した可能性を提示した。その後、守護代長尾氏の在地支配の強化に伴い被官化し、応永の大乱後、中目を獲得し発展したと推測した。

次回は系譜関係など具体的な人物について検討していく。


ちなみに、『関川村史』『三潴氏の歴史』などは三潴左衛門という人物の伝承があることを踏まえて康永3年石橋和義奉書(*10)に「三潴左衛門大夫」が登場するとしているが、『新潟県史』を見ると水損のため判読困難であり該当箇所は「三□左衛門大夫」として三潴氏とは読まない。他にも徴証はなく、「三」字のみでは三潴氏と判断できない。三潴氏の所見はこの後100年の隔絶を経ることからも、これが三潴氏とは考えにくい。客観的にこの文書は三潴氏を考える上で排除すべきであろう。


*1)『越後国人領主色部氏史料集』田島光男編
*2) 天正10年カ上杉景勝朱印状『新潟県史』資料編4、1146号
*3)『新潟県史』資料編4、2361号
*4) 「『色部年中行事』について」『越後中世史の世界』岩田書院
*5)『新潟県史』資料編4、2360号
*6)『上越市史』資料編3、180、281、476号
*7)『新潟県史』資料編3、777号
*8) 『越佐』四巻、380頁
*9)山田邦明氏「応永の大乱」『関東上杉氏一族』戒光祥出版
*10) 『新潟県史』資料編4、1255号


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