鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

三潴氏の系譜1

2023-03-25 17:52:55 | 三潴氏
引き続き越後三潴氏について検討する。今回はその人物と系譜について詳述したい。


1>長政(出羽守)
まず、三潴氏として有名な人物は三潴出羽守長政だろう。その初見は『越後過去名簿』における天文22年の供養記録である。「長政」という実名で確認される。『名簿』から天文5年に「三潴」、「三潴帯刀小三郎」と三潴氏の人物が続けて死去しており、その後を継いだ人物が長政だろう。『名簿』の所見から弘治2年9月までに出羽守を名乗っていることが確実である。

書籍などで「政長」と書かれることもあるが一次史料での所見はなく、一貫して長政で見える。『御家中諸士略系譜』など系図に見られる名前だが明らかな誤りである。上杉政虎からの偏諱とする勘違いかもしれないが、政虎を名乗る以前の天文22年時点で既に三潴長政を名乗っている。


続いて、永禄6年色部勝長と平賀重資の小旗の紋を巡る相論にその名を見る。長政は勝長の意見を河田長親に取り次いでいる。この相論は色部氏側が勝訴しており、その背景には長政の活動があるだろう。人脈の有無は裁決結果に大きく影響したと思われる。つまり、長政が上杉輝虎を中心とする政治体制に近い人物であったことがわかる。相論を巡る三潴長政書状(*1)からも三潴出羽守長政の名乗りが確実である。

永禄12年1月上杉輝虎書状(*2)に「色部修理進不図遠行、無是非次第、雖然弥三郎有之儀候間、涯分取立可為走廻候」と勝長死後に嫡男顕長を支えるよう指示されており、小旗相論でも見られた色部氏とのつながりが示される。色部氏の取次として見えた長政の立場は一時的なものではなく、継続的なものであったことが示唆される。上杉輝虎と領主間を結ぶ取次の具体的な役割が見える一例といえよう。この時、長政は奥郡に在陣していたから「涯分取立」が実際に色部氏家中への直接的な働きかけであったことは想像に難くない。前回見た、酒町村の所領もこのような奥郡との関係で与えられたと想定できる。

また、同時期本庄繁長の乱においては長政の軍事的役割も所見される。上述の上杉輝虎書状では繁長の乱に際して、敵対する大川一族を制圧するよう長政へ指示している。この時の長政は大川長秀の軍監のような立場であったらしく、長秀は「仁中・三出頻而催促候、某事若輩之儀候間、旁々御意見候而、翌日燕倉へ引返申候、(中略)、藤懸へ可令進陣由存候」と述べている(*3)。こういった長政の活動内容は、例えば庄田定賢や堀江駿河守といった旗本の武将と類似すると感じる。三潴氏は文明期に作成された『越後検地帳』(*4)に長尾能景被官として見えており、府内長尾氏の被官として存在したと考えられる。その立場は長政にも引き継がれ、上杉輝虎の有力な旗本として活躍したと推測されよう。上述の色部氏との関係も近臣としての地位に基づくものだろう。

『先祖由緒帳』には輝虎が将軍足利義輝から「輝」字を拝領した際に、長政が使者であったことを伝えている。同書には長政へ将軍より刀が下賜され、記述当時も三潴氏が所有していたと記載されている。『謙信御書集』にも永禄4年12月に「輝」字を賜ったことなどの御礼として長政を派遣し、将軍へ太刀、馬、黄金などを献上したことなどが記載されている。

永禄期以降、長政の活動を伝える史料はないが、上杉景勝による御館の乱後の論功行賞において「三潴出羽守分」(*5)が天正6年9月に安田治部少輔に宛がわれ、その後も「三潴分」が諸氏に与えられている。このことから、御館の乱において三潴氏は景勝に敵対し所領を没収されたことが推測される。


2>左近大夫
確実な史料で実名は確認できない。『御家中諸士略系譜』では「長能」とされるが、同系譜は正確性に欠き、後述するように牛屋氏との混同も考えられるため、断定し難い。

三潴左近大夫の初見は永禄11年8月上杉輝虎(*6)である。本庄繁長の乱において、下渡嶋城、庄厳城などで守備についていたことがわかる。

天正11年7月三潴左近大夫に「荒川条」を与えることが約束されている(*7)。荒川条は中目を含むと思われ、左近大夫が長政の後継であったと推測される。つまり、左近大夫は長政と共に御館の乱で一時没落したが、天正11年7月に上杉景勝に再び服属したことがわかる。ただ前回検討した通り、中目はこの後も色部氏領であり三潴氏は回復できなかった。

上杉家に復帰した左近大夫は新発田重家の乱に際して羽黒城に在城するといった軍事行動が書状(*8)から見えるが、その所領は本拠を離れなおかつ大きく削減されたことだろう。

その後、会津への転封へも従い「小国在番衆」に属したことが『定納員数目録』などかわかる。183石3斗という。『文禄3年色部氏差出』に見える「三潴分」が371石であり、その他安田氏や小田切氏に与えられた分もあったから、実際に所領が削減されていたことがわかる。

長谷川伸氏(*9)は『平姓牛屋家系』から左近大夫を実名「長能」とし、牛屋氏からの入嗣であると推定している。『平姓牛屋家系』を見ると牛屋氏として歴代が記される中に、長眇(宮内)-長能(右近)-長要(五兵衛)、とある。しかし、「長眇」の妻が「三潴式部妹」とある他に三潴氏との関係を示すものはない。「長能」という実名は『御家中諸士略系譜』にある三潴左近大夫の実名と同様であり、そこから入嗣があった可能性を想定したのだろうか。しかし、「長能」は右近を名乗ったとあり『色部年中行事』に所見される牛屋右近丞にあたる人物であろう。慶長期頃作『色部家侍帳』には「長要」にあたる牛屋五兵衛が所見され、右近丞-五兵衛という牛屋氏の系譜が想定されることからも、『牛屋家系』から三潴氏への入嗣は読み取れない。三潴左近大夫が牛屋氏出身とは考えにくい。

ただ、牛屋氏の妻が三潴氏であるという所伝は貴重である。三潴長政が色部氏との関係を深めていた徴証であろう。


3>その他の三潴氏
三潴左近大夫と同時期に所見される三潴氏を確認する。

『定納員数目録』では三潴佐左衛門が本庄繁長の同心として見える。『上杉家侯士分限簿』、『会津御在城分限帳』に御馬廻衆として三潴小次郎が見える。共に、系譜的位置は不明である。



ここまで、長政(出羽守)- (左近大夫)の二代の動向を検討した。この後、三潴氏は米沢藩士として存続していく。長政より前の人物については次回検討していく。



*1)『新潟県史』資料編4、1115号
*2)『新潟県史』資料編4、2048号
*3)『新潟県史』資料編3、393号
*4)同上、777号
*5)『新潟県史』資料編4、1498号
*6)『新潟県史』2781
*7) 『越佐史料』六巻、460頁
*8)同上、460頁
*9)長谷川伸氏 「戦国期在地年中行事の再生産構造」