三潴氏は戦国期越後にて所見される一族である。
さて、下掲の史料は享徳3年に「ねきし分」をめぐる交渉の経過を伝えるものである。交渉の大筋は、黒川氏実が三潴氏領有の「ねきし分」を「本領」と主張し返還を訴えたため、三潴氏が返還に応じた、というものだ。今回は、この交渉の経過とそこに所見される三潴氏について整理していく。
1>三潴道珍と伊賀守
[史料1]『新潟県史』資料編4、1408号
御下向之時分御出候ける、罷出候て不懸御目候、本意之外候、兼亦一ケ条之事、兄にて候者三潴委細申候間、内々領状仕候由申候、然間、か様之事は兎角批判あるへく候、御殿人之事はさる事はさる事に候へ共、如此了簡申候とは御隠密あるへく候、御傍輩中にも定被仰方もあるへく候、委は平左衛門可申候、長々御在府候に、御心静まいりあはす候事、本意の外候、毎事重而可令啓候、恐々謹言
十月二日 頼泰
黒川殿 御宿所
[史料2] 『新潟県史』資料編4、1354号
(前略)
一、渡状可執進之候へ共、出雲方申候は、同名伊賀方かつけと申、其外違例に共に出仕かないかたく候間、所体孫二郎に渡候よし申候間、此者の代はしめの事候、一篇申候はて渡進之候時は、其身親けなく可存候間、幸に罷下候事候間、蒲原にて渡可申よし申候、此上はと存候て、かさねて不申候、此子細を具愚息のかたより申候へと申候、はや定て候、目出候、
(後略)
十月二日 政重
黒川殿 御宿所
[史料3] 『新潟県史』資料編4、1365号
ねきし分の事、弾正左衛門と談合仕候て、三潴方へ具申候、御本領之事候間、加様の事にて候はすは、なにを可蒙仰候間、可渡申候、則渡状をも可進之候へ共、伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡、彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候、出雲方被申候間、目出候、此由を三潴方へ可被仰候、定御悦喜候めと存候、諸事重而可申入候間、不能一二候、恐々謹言
十月二日 政重
黒川殿 御宿所
[史料4] 『新潟県史』資料編4、1352号
ねきし分の事、黒川方の代に、可被申渡候、恐々謹言
享徳三年 三潴入道
十月九日 道珍
三潴弾正殿
[史料5] 『新潟県史』資料編4、1367号
尚々此御馬秘蔵仕、飼立可懸御目候、態自是御礼可致候、又平左衛門方よりの状、則披
見申候て、返申候、同渡状使者に進申候、
御礼之趣、委細拝見仕候了、仍四五日此方へ罷下候、尤自是可申入候処、遮而預御音信候、畏入存候、将又ねきし分の事に付候て、平左衛門方より被申候間、私之知行仕候はは、軅府中にて可渡申候へ共、同名弾正知行候間、可申沙汰仕之由申定つる間、則罷着候て申定候、御本領之事候、可渡申由彼方申候、於于私候ても、悦喜仕候、定而可有御祝着候、次に重宝之御馬、弐百疋両種拝領、過分之至候、乍去畏入存、如何様自是態御礼令申候、恐々謹言
十月九日 道珍
黒川殿
まず、道珍については[史料5]の封紙ウハ書に「三潴出雲入道道珍」とあり、その受領名、法名が明らかである。
[史料1]にて、守護上杉氏重臣飯沼頼泰が「兄にて候者三潴委細申候」と記している。ここでいう「三潴」は守護上杉氏と黒川氏の間で交渉を進めた三潴道珍を表していると考えられる。つまり、黒川氏実の相論相手である三潴氏の兄であることから三潴道珍がその間を取り次いだと考えられる。
さて、すると道珍の弟にあたる三潴氏の人物は誰であろうか。単純に考えれば、[史料4][史料5]で根岸を領有している三潴弾正、ということになるが、[史料1~5]をよく読むとそれが誤りであることがわかる。
[史料3]を読むと、黒川氏へ渡すべき「所体」=所領は「伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡」と記され、「伊賀」という人物の所領であることが読める。伊賀は[史料2]において「同名伊賀」とあり、三潴伊賀守である。 [史料1]に「一ケ条之事」つまり争点は「ねきし分」の一か所であることが確実であるから、[史料3]では伊賀守が、[史料4、5]では弾正がその知行者であると書いてあると見て間違いない。
10月2日と9日の史料で知行者が異なる事態は一見不思議であるが、その理由はしっかり[史料2]の中で説明されている。
「出雲方申候は、同名伊賀方かつけと申、其外違例に共に出仕かないかたく候間、所体孫二郎に渡候よし申候間、此者の代はしめの事候」=(出雲守によると同名伊賀守が脚気で病身であるため出仕ができず、所領を孫二郎に渡すとのことです。孫二郎は代始めになります。)という部分がその答えである。つまり、伊賀守は病気であったため事務手続きもできず、所領を孫二郎に譲ってから黒川氏への返還が進められたのである。
よって、相論開始時に黒川氏の相手であったのは三潴伊賀守であり、道珍の弟は彼であったといえよう。
2>孫二郎と三潴弾正
次に所領が譲られた「孫二郎」と、三潴弾正について考える。
まず、『新潟県史』は「孫二郎」を平子朝政とし、通説となっている。[史料3]平子政重書状に「愚息孫二郎」とあるからだろう。しかし、これは誤りである。
「愚息孫二郎」だけ見れば、それは政重の子と考えてしまうかもしれない。しかし、「伊賀方所体を愚息孫二郎方へ渡、彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候、出雲方被申候間、目出候」と一文で見ると、伊賀守が「愚息孫二郎」へ所領を渡してさらに(黒川氏へ)渡すことを道珍が言ってきて喜ばしい、という内容である。つまり、「愚息」は道珍の言伝を書き記した部分の内であり、道珍の視点から見た表現である。政重の「愚息」ではなく、道珍の愚息であったと理解される。伊賀守の子であったら「彼息」などと表現されるべきであろう。[史料2]には政重の視点から「愚息のかた」という記載があるが、これは「愚息の方」という敬表現であり、自らの子ではなく三潴道珍の子を表していると見て良いだろう。
従って、「孫二郎」は三潴道珍の息子三潴孫二郎である。さらに、代始めであると記されており伊賀守から代替わりがあったことがわかる。
10月2日までに所領を譲られた孫二郎が三潴氏であるとすれば、同月9日に領有している三潴弾正は孫二郎と同一人物と見るべきであろう。三潴孫二郎が跡目を継承し、それに伴い名乗りを弾正と変えた結果が[史料4、5]であると推測できる。
まとめると、三潴道珍とその弟伊賀守、そして伊賀守の跡を継いだ道珍の息子孫二郎/弾正が存在したことが推測される。ちなみに、この後三潴氏として三潴帯刀左衛門尉という人物が見えることから、孫二郎/弾正は庶子であった可能性がある。
伊賀守が「脚気」、「違例」といわれるような病身で出仕できなかったことが今回の交渉を複雑にした理由だろう。当時、当事者が病気などで政治の場に参加できない場合、交渉が遅延したことが推測される。
3>「ねきし分」の性格について
さて、ここで「ねきし分」について詳述したい。まず、これが根岸という土地を表していると思われがちだが、「分」という表現を踏まえると根岸氏所領という意味で捉えるべきだろう。当時、人名+分という形でその所領を表現した。
『中条町史』は「ねきし分」と文明12年黒川氏実家中諸士連署起請文(*1)に見える「根岸辻松丸」の関連を示唆している。つまり、「ねきし分」とは黒川氏家臣根岸氏の旧領であり、必ずしも根岸という地名ではなかったことが推測される。
根岸分の場所だが、[史料3]に「彼仁蒲原に候、幸に罷下候間、一篇申候て可渡候よし候」とあり蒲原郡周辺にその地があった可能性が考えられる。
次回以降に検討していくが、三潴氏の拠点は蒲原郡豊田庄中目と考えられる。それを踏まえると、三潴氏と黒川氏の所領は比較的近接していたと思われる。具体的な位置については不明と言わざるを得ないが、それぞれの所領から遠く離れてないとすると、現在の新発田市・胎内市域の内にあったのではないか。
ここまで、根岸氏の旧領である根岸分を巡る三潴氏と黒川氏の交渉の経過を検討してきた。その上で三潴道珍とその弟伊賀守が所見され、道珍の子として孫二郎/弾正を確認した。次回以降、さらに三潴氏の系譜について検討していく。
*1)『新潟県史』資料編4、1337号