戦国期越後国刈羽郡赤田を拠点とする領主斉藤氏は守護上杉氏の時代から、守護代長尾為景の台頭から上杉謙信、景勝期まで一貫して政治的影響力を維持し続けた。今回は、その系譜について整理してみたい。
応永22年8月には「下野守朝信」が上杉房方知行宛行状(*1)に伴う打渡状(*2)を発給している。知行が宛がわれた毛利安田氏の『毛利系図』に、この書状は「斉藤朝信之書」と伝わる。後述する文書(*5)にも「斉藤野州」が見えるから、朝信は赤田斉藤氏として間違いない。
『新潟県史』に拠ると、応永9年8月長尾実景等二十一名連署奉加状(*3)に署名のある「下野守」は上記斉藤朝信打渡状(*2)と花押が一致することから斉藤朝信のことであるという。
以上から応永年間に斉藤朝信が活動していたことがわかる。
寛正2年6月には刈羽善照寺に宛てて「清信」が田地を売却している(*4)。裏打された裏書に「増珍従赤田斉藤清信買取証文」と記されることから、清信が赤田斉藤氏に比定される。
善照寺増珍寺領段銭注文(*5)には斉藤氏から善勝寺に売却された土地について「斉藤野州ト云人売得シテ清信ニ譲、其子定信相続シテ」とあることから、下野守=朝信から清信・定信父子に系譜が続いていることが明らかである。
寛正2年に「野州太守斉藤氏」によって瑞應山東福院が開かれたとの所伝があり(*6)、この時期に下野守を名乗るとすれば清信しかいない。清信も下野守であったと推測される。その実名は応永末期から文安初期に活動した上杉清方の偏諱であろう。
寛正3年7月からは清信の子斉藤定信が所見される(*7)。実名は上杉房定からの編諱であろう。終見の応仁2年まで仮名藤三郎で確認される(*8)。
文明9年12月には斉藤頼信が初見される(*9)。定信と頼信は花押型が異なるから別人である。受領名下野守を名乗り、文明16年から延徳3年の間に入道珠泉を名乗る(*10)。終見は明応9年10月である(*11)。頼信の実名は飯沼頼泰や長尾頼景らと同様に上杉頼方の偏諱と想定されることもあるが(*12)、頼方は文明期より約50年遡る応永末期に越後守護から失脚した人物であるから誤りであろう。
ここで、不明確である定信と頼信の関係を考えたい。定信の活動期間は文書上で10年弱、終見まで仮名で見られる。上杉房定からの偏諱であるから元服は宝徳元年以降であるのは確実である。一方、頼信は文明期に既に受領名を名乗り文明後期には入道しているから、この頃壮年以上であることが想定される。さらに頼信の次代昌信は、文明5年以降に定昌と名を改め長享2年に死去した上杉定昌の偏諱であるから元服はその間である。
わかりにくいが、定信、頼信共に10代後半で嫡男が誕生すれば数字としては成立する。従って、父子関係と見ても矛盾はない。ただ、定信が仮名段階で所見が無くなることを見ると早逝したことも考えられ、定信と頼信が兄弟である可能性もあるかと思う。
では、次代昌信について見ていきたい。確実な初見は文亀3年上杉家守護年寄奉書(*13)にある「右衛門尉昌信」の署名である。ただ、年不詳千坂実高文書(*14)に「斉藤三郎右衛門尉」が見える。千坂実高は文書上で文明12年から明応5年に所見され、文明10年までは前代定高、明応7年からその次代能高が現れるから、この書状も文明10年から明応7年までのものと推測され昌信の初見も同時期まで遡ると言える。
昌信はその後、永正6年8月まで「斉藤三郎右衛門尉」として見え(追記参照)、永正10年2月には「下野守昌信」で見える(*16)。
『為広能州下向日記』より冷泉為広が永正15年4月に越後を訪れた際に斉藤下野守の歌会に参加したという(*17)。昌信のことである。さらに、為広には斉藤下野守とその子小三郎、石河新五郎から銭等が贈られている。小三郎は後年見える下野守定信の前身であろう。もう一人の子石河新五郎について詳細は不明であるが、永正11年に八条左衛門佐らと共に反乱し討取られた人物として「石河」が見えるから、この跡目を継いだ人物ではないか。斉藤昌信はその反乱時長尾為景についたから、この養子入りは守護上杉氏勢力の中で親為景派が浸透する過程を表わしているといえよう。
終見は永正18年2月越後長尾氏被官連署契状(*18)の署名「斉藤下野守昌信」であろう。ここにはまた、「石川新九郎景重」が見える。上述の「新五郎」との関連は不明である。
次代は、定信である。上述の永正15年を初見として、享禄4年越後衆軍陣壁書に「斉藤下野守定信」が見える(*19)。終見は天文8年寄進状(*20)に「定信」と「朝信」が連署しているものになる。ここから、両者の父子関係が想定できる。また、共に数代前の赤田斉藤氏の人物と実名を同じくしている点は特徴的である。
定信の次代朝信の初見は上述の通り天文8年である。年不詳斉藤朝信書状(*21)から仮名は小三郎である。天文18年本庄実乃書状(*22)まで「斉藤小三郎」として見え、永禄3年連署制札(*23)から受領名下野守として見える。上記本庄実乃書状内で朝信の弟平七郎が確認される。朝信の終見は天正10年五名連署状(*24)であろう。
永禄前期と推定される某条書(*25)には次ぎのような一条がある。「一、おまつ さい藤殿御えんかの事、いそき申へき事」すなわち、「おまつ」と朝信の婚姻を急ぐ様に命じている。片桐昭彦氏(*26)はこの「おまつ」を米沢藩の戒名書上である「公族将士」(「林泉寺文書」)に「あかだのかミさま(赤田の上様)」と見える「昌屋明玖大姉」である可能性を指摘し、さらにこの女性は謙信の姉妹またはごく近親者と推測している。
朝信の次代は景信である。初見は天正10年斉藤朝信宛の上杉景勝判物(*27)文中に見える「乗松丸」である。天正12年8月に元服し、景勝から官途「三郎右衛門尉」を認められ、「景」字を与えられている(*28)。天正16年斉藤景信判物(*29)から実名「景信」が確認できる。
『文禄三年定納員数目録』には景信が「斉藤三郎右衛門」として見えるが、「慶長二年御勘気」と記されている。『御家中諸士略系譜』でも景信は「病身ニ成リ御供不仕赤田在城不相叶村上領之内蟄居」とある。景信は慶長2年に、本庄顕長、高梨頼親、須田景実、柿崎憲家ら大身の諸将と同様に改易されたとみられる。上記系譜に拠ると、帰参は次代「三郎右衛門 信成」の時、寛永20年という。
以上から、戦国期赤田斉藤氏の系譜は次ぎのように想定される。
朝信(下野守)-清信(下野守)-定信(藤三郎)-頼信/入道珠泉(下野守)-昌信(三郎右衛門尉/下野守)-定信(小三郎/下野守)-朝信(小三郎/下野守)-景信(乗松丸/三郎右衛門尉)
清信-定信と昌信以降については父子関係と見てほぼ確実である。
また、庶子として昌信の子に石川氏へ入嗣した新五郎、定信の子で朝信の弟である平七郎を検出した。
追記2023/1/21
斎藤三郎右衛門尉が所見される築地氏宛上杉定実書状(*15)について、永正7年2月に比定していたが、正しくは永正5年2月であった。同日同氏宛に発給された長尾為景書状(『越佐史料』三巻、501頁)から永正5年2月のものとわかる。よって、三郎右衛門尉としての終見は永正6年8月11日国分平五郎胤重廻文(『越佐史料』三巻、519頁)となる。
*1)『新潟県史』資料編4、1538号
*2) 同上、1617号
*3) 同上、2244号
*4) 『新潟県史』資料編5、2370号
*5) 同上、2397号
*6) 『越佐史料』3巻、168頁
*7) 『新潟県史』資料編5、3374号
*8) 同上、2391号
*9)『新潟県史』資料編4、1550号
*10) 『新潟県史』資料編5、2880号
*11) 同上、1317号
*12)片桐昭彦氏「房定の一族と家臣」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*13) 『新潟県史』資料編4、1525号
*14)『新潟県史』資料編5、2373号
*15)『新潟県史』資料編4、1425号
*16) 『新潟県史』資料編5、2796号
*17) 『上越市史』通史編2
*18) 『新潟県史』資料編3、275号
*19) 同上、269号
*20) 『新潟県史』資料編5、2400号
*21) 同上、2405号
*22) 『越佐史料』4巻、13頁
*23) 『新潟県史』資料編5、4087号
*24) 『越佐史料』6巻、277号
*25) 『新潟県史』資料編5、3280号
*26)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*27) 『新潟県史』資料編4、1611号
*28) 同上、1612号
*29)『新潟県史』資料編5、2364号