鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上条上杉氏の系譜3 ー上条義春ー

2021-01-17 22:17:33 | 上条上杉氏
前回、上条政繁(冝順)と上条義春は別人であることを確認した。今回は、義春についてさらに詳しく検討してみたい。

<1>義春の出自
系図・所伝類における義春について確認し、義春に関する情報を整理したい。

『系図纂要』畠山氏系図を見る。「義続」の子は、「義辰」、「義則」、「義有」、「義春」の四名がいる。「義春」は「弥五郎 民部少輔」「入庵宗波」を名乗り「上条定春」の跡を継いだと記述されるが、前回検討したようにこの「義春」は政繁にあたる人物であろう。

一方で、「義則」の子である「義隆」の子としても「義春」が挙げられている。こちらは、「春王丸」を名乗り「大叔父義有後見 天正4年式部大輔」とあり「義隆」の跡を継承した存在として記され、天正5年閏7月に10歳で死去したとある。こちらの「義春」が実際の義春を指すと思われる。


次に、『寛政重修諸家譜』畠山系図を見る。同系図によると、「義春」は天文22年に人質として越後に行き、弘治2年に謙信養子となり上杉氏を称し、後上条氏を名乗ったという。その後、各地を転戦し活躍する様子が記され、大坂の陣以前に畠山氏に復姓し寛永20年8月に99歳で死去した、という。妻は「長尾越前守が女」という。


『上杉御年譜 謙信公』には「義隆ノ嫡子弥五郎ヲ越府ヘ引取リ、後上条家ヲ継シム、義隆内室モ子息同前ニ越府ニ来ル、内室ハ三条家ノ息女ナレハ、殊ニ労リ玉ヒテ後、北条安芸守輔廣カ許ニ預置ル」、「弥五郎ハ上条山城守政繁ノ家督トナリ、弥五郎義春ト号ス、景勝公ノ御妹(ママ)ニ婚儀アリテ、上条累代ノ家臣計見出雲守、相浦主計頭、(中略)、ヲ付ラル」とある。


『上杉御年譜 景勝公』に、元和8年に畠山義春の嫁いだ景勝姉の死去が伝わる。義春はについても、能登畠山義隆の子で政繁の養子となり後に出奔したことが記される。


上述の系図・所伝類について考察していく。

まず、義春が畠山義隆の子である点は、一貫して伝わることから事実である可能性が高い。この点は、天正5年七尾城落城後の文書にも現れている。

天正5年9月北条高広・景広宛上杉謙信書状(*1)
「畠山次郎方をハ上条五郎以好引取、旗本ニ差置」
同年12月宛名欠上杉謙信書状(*2)
「七尾納手裏候時、畠山義隆御台・息一人有之而候ツル、是者京之三条殿之息女ニ候間、年此も可然候歟与思、息をハ身之養子置、老母をは丹後守ニ為可申合」
「彼息謙信養育申上者、身之かたへの好も成之事ニ候間」

上条政繁の親戚という畠山次郎が、畠山義隆の息子で謙信の養子とされたと解釈できる。この次郎が後に政繁の養子となり弥五郎義春を名乗ったと理解されよう。


<2>義春の上条氏入嗣の時期
上述の上杉謙信書状(*2)では「彼息謙信養育申上者、身之かたへの好も成之事ニ候間」と記され、謙信の意図が景広の妻の子が自身の養子という関係を構築し繋がりを深めることであったとわかる。この点から義春をすぐに他氏へ養子に出すとも考えづらく、さらにこの書状を発給した3ヶ月後に謙信が死去することも踏まえると、義春の養子入りは景勝の代であったと想定される。弥五郎を名乗り、景勝の姉との婚姻した時期も同頃であると推測できる。

通称が同時期に父子で一致するとは考えづらいから義春が仮名弥五郎を名乗るのは、義父政繁が「弥五郎政繁」として見えなくなる時期であると考えられる。天正6年6月跡部勝資書状(*3)の宛名に「上条弥五郎殿」と見えるものが、政繁の「弥五郎」としての終見であるであろう。ちなみに、「政繁」だけなら天正7年5月(*4)まで見える。天正8年閏3月(*5)からは一貫して「冝順」や「上条入道」として見える。

よって、畠山次郎は天正5年12月に上杉謙信の養子となり、御館の乱で上杉景勝が勝利した後の天正7年頃、景勝が上条氏を取り込むためその姉を娶り上条政繁の養子となり仮名を弥五郎に改めた、といえる。また、義春の上条氏養子入りに前後して政繁は通称を弥五郎から山城守に改めたと推測される。

『覚上公御書集』では天正6年3月に上杉景勝、景虎の他「上杉入道政繁、同弥五郎義春」が謙信の葬儀に参加したと記してある。入道の時期は上述のように天正7年5月から天正8年閏3月であると推測されるから、上記の所伝は少しズレがある。恐らく義春は謙信の養子として参加したものの、後に政繁の養子になるため後世に政繁養子の立場で葬儀に参加したと捉えられたのではないか。


<3>義春の年齢
義春の父が義隆であるとした上で、その年齢について考えたい。基準となるものは、妻と子供たちである。

妻は長尾政景の娘、景勝の姉である。系図類で確認すると、『上杉御年譜 景勝公』、『外姻略譜』では政景の長女であり、法名は「仙洞院殿離三心契大姉」という。天正5年時点の年齢は、弟景勝が23歳、妹華渓昌春が27歳であるから上記の記述に従うと義春妻は30歳程度である。

これら有力な所伝に従うと、結婚するには高齢であり不自然である。さらに、妹の方が先に嫁いでる点も気になる所である。こういった所から実は先代上条政繁の妻である可能性が想起されるが、前回見た義春宛上杉景勝書状が仮名遣いである点は姻戚関係によるものと判断されるから政景娘=義春妻であることは確実と考える。

ここで、他の所伝に目を通してみると『越佐史料』所収の『長尾系図』には長尾政景の子として「上杉三郎景虎妻」、「景勝」、「上条弥五郎妻」の順で記載される。「上条弥五郎妻」は法名「泉洞院」とあり、間違いなく義春妻=「仙洞院殿離三心契大姉」のことを指す。従って、上杉景虎妻が長女であり義春妻は次女且つ景勝の妹であった可能性が示唆される。この場合天正5年時点で20歳前後となり、義春の妻として適齢である。

さらに『越後長尾殿之次第』には「華渓春公大姉 於御館御自害 平政景公御嫡女三郎殿御簾中」とあり、上杉景虎妻が長尾政景の嫡女であることが記される。この史料は、上杉景勝の事を「当代」、政景妻を「老大方様」、義春妻を「上条大方様」と表現していることから、この三人が存命の時期に成立した物の写本であることがわかっている。上杉景虎妻の家族である義春妻や政景妻が存命であるから、この情報の信頼度は高いと言える。

よって所伝と実際の状況を総合的に考えると、義春の妻は実際には長尾政景の次女であり、後世において長女上杉景虎妻と姉妹関係が逆転してしまった可能性が高いと推測される。


続いて息子たちである。『寛政重修諸家譜』には子として、上杉景勝に仕えたと記される長男「景広」「弥五郎」。上杉氏を称して別家を興した次男「長員」「源四郎」。三男「義真」「弥三郎」、四男「義廣」が挙げられている。

長男「景広」は『外姻略譜』に元和4年死去と伝わるが年齢は不明である。

次男「長員」は同家譜中でも畠山氏系図ではなく足利支流上杉系図に詳しい。そこには「源四郎 畠山民部少輔義春が二男、母は長尾越前守政景が女」とある。元和9年8月に42歳で死去したとされている。

三男「義真」は「弥三郎」「長門守」を名乗り、上杉景勝の養子となり天正11年5歳の時京へ人質に出され、同15年に帰国した後に実父の元へ戻ったという。延宝2年9月に96歳で死去とある。母は「政景が女」とある。ちなみに、実際に人質の提出は天正12年のことである。


さて、二男長員は『寛政重修諸家譜』に元和9年42歳で死去とあるから、数え年を考慮すると天正10年の生まれとなる。三男義真は同系図に延宝2年96歳で死去とあるから天正7年生まれである。ここに長幼の順に矛盾が生じている。

この矛盾の解釈であるが、生年を含む義真の所伝のいくつかは長男景広との混同であると推測する。

それを裏づけるものとして『覚上公御書集』は天正12年6月に大坂へ人質として提出された人物を「弥五郎」=景広としている(*6)。前回も言及したが、『寛政重修諸家譜』は江戸時代後期の作、『覚上公御書集』は江戸時代前期の作である。どちらかを信じるなら、間違いなく『覚上公御書集』であろう。

景広は政繁や義春が出奔した後も、諸系図では上杉景勝に仕えたと記す。これは『会津御城在城分限帳』に「上条弥五郎」が見えることから確実である。この点は景広が景勝姉の所生でその養子となっていたとすれば、説明がしやすい。実名「景広」も、景勝から与えられた一字であろう。

よって、天正7年に誕生し景勝の養子となり天正12年に京都へ人質として送られた人物は長男景廣であった、と推測する。

追記:21/4/29
本文中では『覚上公御書集』の記載から、景勝の養子となって京都へ人質として提出された人物を「弥五郎景広」と推測した。

しかし、延宝5年作成の『先祖由緒帳』では「蔵田佐五之丞」が「畠山一庵」幼少の時に京都へ人質に出されそれに付添ったことが記されている。「一庵」とは畠山義真のことである。延宝5年と言うと、義真の死去した延宝2年に近く、その記述は無視し難い。つまり、通説通り、人質として提出された人物は義真であった可能性が高い。

この点は、『覚上公御書集』のみを頼りに推測した私の誤りであった。ただ、本文中で見た生年の矛盾点は解決されず、さらに考察を進める必要がある。

追記:2022/12/3
生年の矛盾について考察を続けたが系図における正確性の限界と考えるべきであろう。まず伝承されていく過程で誤伝された可能性もあるだろう。そもそも、1歳単位での正確さは記録がなければ本人であっても間違える可能性がある。まして90歳を越える人物は周囲に生年を知る人物などおらず、認知機能の低下した本人のおぼろげな記憶に頼るほかなかったであろう。以上から年齢については系図をそのまま鵜呑みにせず総合的な判断が必要であると考えられる。
追記終


息子が天正7年に誕生していることから、義春はその頃既に成人であったことが想定される。義春が「弥五郎」として初見される天正10年4月上杉景勝書状(*7)に、その出陣が確認されることは成人であることを裏づける。

年齢に加え、始め仮名が能登畠山氏由来の「次郎」、実名も同氏由来の「義」字を用いていることから元服は能登においてなされたと思われる。

片桐昭彦氏(*8)は『外姻略譜』の記載を尊重して、永禄6年生まれで天正5年時15歳と推定している。上記を踏まえても、これが現時点で最も蓋然性の高い推論であるといえる。


ここまで上条義春について検討した。ただ、義春が10代半ばまで能登畠山氏として活動していたことを考えると、上条義春としてだけではなく畠山義春としての側面を検討することも重要であると感じた。また別の機会に、父義隆との関係を始めとする能登畠山氏の系譜関係や同氏における義春の存在形態について考えたい。


*1)『上越市史』別編1、1347号
*2) 同上、1368号
*3)『新潟県史』資料編5、3475号
*4)『越佐史料』五巻、702頁
*5)同上、743頁
*6) 『覚上公御書集 下』臨川書店、38頁
*7) 『新潟県史』資料編4、1682号、「依之為先勢能州朝倉、遊佐家中、両三宅、温井并其外上条五郎、斉藤下野守指越候」とある。
*8)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)


※21/3/15 『長尾系図』における上条義春妻=「仙洞院殿離三心契大姉」の記載を加筆した。
※21/3/21 『越後長尾殿之次第』における長尾政景妻とその娘である上杉景虎妻、上条義春妻の情報を加筆した。
※以前このページでも上条義春の妻は長尾政景の長女であるとする所伝類に従っていたが、加筆した史料により上条義春妻が長尾政景夫妻の長女ではなく次女であった可能性が高く義春との婚姻は適齢であったことを示した。

※21/4/29 追記を行った。



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