鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

上条上杉氏の系譜2 ー上条政繁ー

2021-01-11 22:20:49 | 上条上杉氏
前回、刈羽郡上条を拠点とする刈羽上条上杉氏について清方から定憲の子弥五郎まで検討した。今回はその次代政繁について考えてみたい。政繁は後年、入道冝順を名乗るが、便宜上政繁で通す。


<1>上条政繁と上条義春は別人である。
始めに政繁(弥五郎、入道冝順)とその次代義春(弥五郎、民部少輔、入道入庵)は混同して語られる場合も多々見られるから、二人が別人であることを確かめたい。

まず、系図・所伝類から検討する。

二人を混同している主立った史料としては、元文年間(1736~1741)作『上杉御年譜 綱勝公』、文化9年(1809)作成の『寛政重修諸家譜』、安政年間(1855~1860)作『系図纂要』などがある。

反対に、二人を別人として扱う所伝も多数見られる。山田邦明氏(*1)により江戸前期作成と推測される『覚上公御書集』では天正6年上杉謙信死去を伝える記事中に「同年三月十五日被相整御葬送兼而任御遺言、景勝公、三郎景虎、上条入道政繁、同弥五郎義春、四人外不入諸将近臣」との記述が見える。また、元禄9年(1696)作『上杉御年譜 謙信公』も政繁と義春を別人とし、米沢藩に伝わる系図『外姻譜略』においても別人とされる。

これをどう捉えるかであるが、別人説を取る所伝は江戸前期作成のものを中心とする一方、同一人物説を取る所伝は江戸後期の作であることが注目される。所伝を整理すると、別人である二人が時代を下るにつれ段々と混同されていく過程が窺われるであろう。

また、同一人物説を取る所伝においても、上条政繁にあたる人物を「上条景義」とし上条義春にあたる人物を「上条政繁」とするように、実名比定が不十分なだけで世代的にはしっかり二人分を伝えていたりする。

ちなみにしばしば現れる「上条景義」という誤伝についてその背景を推測すれば、山城守の受領名を通じて政繁と越後の武将である志駄山城守景義が混同されてしまったのではないかと思う。

続いて、別人である事実を文書から確認してみたい。

永禄-天正期に上条政繁が活動し御館の乱以降に「入道冝順」を名乗ったことは文書などから間違いない。ただ、「冝順」の所見と平行して文書上で「上条弥五郎」という表記も確認できるのである。つまり、「入道冝順」と「弥五郎」が別人であれば、政繁(=冝順)と義春(=弥五郎)が別人であると言える。


[史料1]『新潟県史』資料編3、899号
返々、貴所御存知之外ニ、山城守事、種々用所さいけん無之候間、奉行いろい申候事、なかなか成之間敷候、御分別候而、御納得尤候、千坂・須田事ハ、貴所次第ニて候、以上、
一筆啓之候、仍而以前申届奉行之義、直江差添不申候ハハ、なっとく有之間敷由候、幾度如申、山城守事ハ如御存知、万すきなふ用所申付之間、工事沙汰ニ、奉行同前ニとんちゃく申候てハハ、身之用所等必かかたり可申候、殊ニ若輩与云、其身もしんしゃく申、尤身之事中々成之間敷由由存置候、以後之義ハいかんも候へ、御無用ニ候、左様ニ候ハハ、黒金上野守差添可申間、其分ニ被成之尤候、以上、
(礼紙ウハ書)「上条殿まいる      実城」

[史料2]『新潟県史』資料編3、900号
 返々、五郎との御いけん候て、早々御なっとく可為大慶候、以上
ゆうへハ御ふミ給候、くわしく見申候、さて又ふきやうの事、御しんしゃく候や、もっともたちいって、ねんころニうけたまハるところ、かたしけなふそんし候、しかしなから、惣体人たいしゅ、上条殿次第たるへく候、てほんニも、又ハおきてだうの事も、そなたへこそ、ききあわせ申へく候、別而誰かあって申へく候や、あまりにあまりに御こうしやいか申ましく候、ことにすた・ちさかも、そなた御なっとく候と申候ほとに、まつまつおおかたかってん申候、さてさやうニ無之候ハ、ふつうニなるましきよし候、他国人入こミ候、かすか・府中よろつ工事さたむつかしく無之様ニ、万事御入念御さた頼入候、何ヶ度仰越候共、とてもうけたまハるましく候、以上
(礼紙ウハ書)「五郎殿」


[史料1]、[史料2]はそれぞれ「奉行之義」、「ふきやうの事(奉行之事)」について上杉景勝が言及している文書であるからほぼ同時に発給された文書と見られる。「上条殿」が奉行として直江兼続を遣わすことを要求したが、景勝がそれを拒否しているものである。『上越市史』は天正11年、志村平治氏(*2)は海津城将任命に伴うものとして天正12年と比定している。

まず、上杉景勝が上条冝順に書状を送る際の宛名は「上条殿」が一般的であり、[史料2]「五郎殿」とは明らかに区別されている。

そして内容を見ると、[史料1]では「御納得尤候」と景勝が相手に直接納得を求める一方、[史料2]では「五郎との御いけん候て(五郎殿御意見候て)」、「別而誰かあって申へく候や」と相手に助言を求めている。さらに[史料2]において、主に二人称として「五郎との」「そなた」が用いられ、「上条殿」は三人称として用いられる。

すなわち[史料2]において、「五郎殿」は上条弥五郎義春を指し、奉行の人選についてその義父「上条殿」=上条政繁入道冝順へ助言を求めていると理解される。つまり、二人は別人であることが明かである、とわかる。

[史料2]のみに「五郎殿」という宛名や仮名書の文体など親しみをもって記述されているのも、上条弥五郎義春の妻が上杉景勝の姉妹とする『寛政重修諸家譜』、『外姻譜略』の記載に合致する。

簡単に言えば、[史料2]は上条政繁、上杉景勝の双方に関係の深い上条義春が、二人の間を取り持った文書であると考えられる。


<2>上条政繁の動向
政繁と義春が別人と確認したところで、政繁の動向に話を戻す。文書上の初見は元亀4年上杉謙信書状(*3)の宛名「上条弥五郎殿」であろう。また、『本荘氏記録』によれば本庄繁長の乱にさいして「上条弥五郎」が参戦していることが記されている。永禄後期に部将として活動を始めたと推測される。

実名「政繁」は天正7年5月まで確認でき(*4)、入道名「冝順」は天正8年閏3月から確認できる(*5)。志村氏(*2)は景勝政権へ野心がないことを表明するための行為と推測している。

また、『覚上公御書集』、『上杉御年譜』、『外姻略譜』などでは政繁について「山城守」とする所伝が数多く見られる。次代義春が仮名弥五郎で見えるから、同時期に政繁は弥五郎ではなく別の名乗りに変更したと推測できる。それが「山城守」である可能性は高い。天正7年から8年にかけて景勝政権が確立していく時期に入道し、山城守を名乗ったのではないか。

このような事例としては、本庄実乃がいる。「本庄新左衛門尉実乃」として活動した後「本庄美作守入道宗緩」として所見され、時を同じくして後継者と思われる「本庄新左衛門尉」が現れる。

ただ、天正11年に受領名山城守を名乗る直江兼続は、政繁と同じ受領名を用いたことになる。政繁は兼続と政治的に対立しており、何か因果関係があるのかもしれない。

そして、越中や信濃を転戦し、天正12年5月に海津城将となる(*6)。しかし、その後上杉景勝・直江兼続と対立し越後を出奔する。海津城将の罷免は『管窺武鑑』に天正13年6月とあり、府内にて幽閉されたと伝わる。越後からの出奔は天正14年7月に村山慶綱へ「上条一跡」が景勝から与えられているから(*7)、この時までのことと推測される。同年9月には石田三成らが「上条方被罷上候」と述べており(*8)、その出奔は確実である。

ちなみに、天正13年もしくは14年に比定される上杉景勝書状(*9)には末尾に「~候旨、冝順御披露候」とあり、上記の対立から出奔までの間に政繁(冝順)が一時的に復権していたと捉えられることがある。しかし、副状にあたる同日付直江兼続書状(*10)には「~旨、冝預御心得候」とある。すなわち、「冝順が御披露する」ではなく正しくは「宜しく御披露預かるべし」であったとわかる。単なる典型的な文章であるとわかる。よって、政繁の復権は事実ではない。

天正15年10月には豊臣秀吉から「上条入道とのへ」(*11)、すなわち政繁へ計500石の所領が宛がわれているから豊臣家への帰属が明らかになる。

天正18年9月に300石、文禄2年11月に700石が同様に秀吉から「上条民部少輔とのへ」、すなわち義春に所領が宛がわれている(*12)。文禄2年11月の書状には計1500石と表現されているから、義春は政繁が宛がわれた500石も引き継いでいる。よって、政繁は天正18年までに河内国において家督を義春に譲ったことがわかる。


<3>上条政繁の出自
次に、政繁の出自を考えたい。能登七尾城を落とした直後の天正5年9月上杉謙信書状(*13)に「畠山次郎方をハ上条五郎以好引取、旗本ニ差置」、つまり政繁の"好(よしみ)=血縁"のために畠山次郎を引き取ったという。ここから、政繁のルーツが能登畠山氏にあることは明かである。

『寛永重諸家系譜』畠山系図には「義春」が天文22年に越後へ人質に出され、弘治2年に長尾景虎養子となり後に上条氏を継いだという。政繁の次代義春も能登畠山氏出身であることに由来する混同であり、片桐昭彦氏(*14)も政繁についての記述が含まれると推測している。

『寛政重修諸家譜』『系図纂要』共に「義春」の兄を「義則」とし、その父は前者で「義統」後者は「義続」とする。所伝や前後の系譜から「義則」は実際の畠山義綱を表わしており、共通して義綱の弟に政繁がいたことを示唆しているといえる。義綱の弟であるという点は、活動時期も合致することから事実である可能性がある。


政繁の越後入りの時期はいつだろうか。越後長尾氏/上杉氏と能登畠山氏の関係を考慮しながら、検討してみたい。北陸出兵については萩原大輔氏の研究(*15)を参考にしている。

まず、元々長尾為景の代には共に越中に攻め込むなど能登畠山氏と友好関係にあった。晴景の代には記録がなく、詳細は不明である。越中への出陣は確認されず、越前朝倉氏が天文21年に「庵主御時、別而申承候キ、其已後無音失本意候」(*16)と述べていることから、北陸方面には積極的ではなかったようである。

天文17年末に長尾景虎が家督を継承して本格的な北陸と接触は、まず天文22年の上洛がある。これは『寛政重修諸家譜』にある天文22年の越後入りの所伝と時期が一致する。

さらに、弘治4年2月には内乱に悩む畠山悳佑・義綱父子から景虎へ援軍の要請が成され、それに対し景虎は糧米を送っているから友好関係は維持されている(*17)。越前朝倉氏の場合、越後への援軍要請と同時に人質を送るという例が見られるから(*18)、能登畠山氏も弘治の内乱時に越後へ援軍要請と共に人質を送っていた可能性はある。

神保長職と椎名康胤の対立による永禄3年3月長尾景虎越中出陣の際に、景虎が「能州之儀、神保友好国候間、可及行由存候へ共、色々悃望」(*19)とあり、景虎と能登畠山氏の間に軍事的緊張が存在したことがわかる。そして、特に「色々悃望」とあり景虎優位に落着したことが伺われ、この時も人質を提出するタイミングとしては有力といえる。

永禄5年7月、10月には再び神保長職を攻めるため景虎改め上杉輝虎が越中に出陣するが、この時能登畠山氏が両者の講和を取り持っている。永禄7年年7月に納められた輝虎の願文には「殊能・越・佐三箇国首理同前」(*20)と述べ、能登を自らの影響下にある国としてみている輝虎の認識が明らかにされている。

畠山徳祐・義綱父子は永禄9年9月に遊佐氏らによって能登を追放される。

以上から政繁の越後入りのタイミングを政治情勢から見ると、天文22年もしくは弘治年間、永禄3年などが挙げられるとわかる。


[史料3]『新潟県史』資料編3、675号
急度以飛脚令申候、其表弥々属御存分義、珍重候、仍雖可為御無心候、乗心可然馬一疋所望候、御同意可為祝着候、恐々謹言、
  已上、
   六月十日             修理大夫義綱
謹上 上杉殿

[史料4]『新潟県史』資料編3、801号
雖遠路候、早速馬一疋黒毛上給候、殊更乗心一段秘蔵此事候、仍宮王丸義、種々御懇意之旨、祝着候、弥御入魂憑入存候、恐々謹言、
    六月十一日           悳佑
謹上 上杉殿

[史料3][史料4]は能登畠山氏の畠山悳佑・義綱父子発給の年不詳文書である。内容から二通は同年と見られる。上杉氏の名乗りから永禄4年以降であり、義綱の実名から永禄11年までのものである。志村氏(*2)は永禄9年と比定するが、多分に推測を含み定かではない。

「仍宮王丸義、種々御懇意之旨、祝着候、弥御入魂憑入存候」から、悳佑が「宮王丸」を人質として越後へ送り同盟関係を強化しようとする意思が読み取れる。宮王丸は、畠山義春が「春王丸」と伝わることを考えると能登畠山氏一族と見て良いだろう。

上記の流れを踏まえて永禄期のものとして見ると、「宮王丸」は上条政繁の前身である可能性がある。

よって、政繁の越後入りは系図類に記載のある天文22年が有力であるも、古文書にある「宮王丸」が政繁であれば永禄初期に越後へ送られた可能性もあると言えよう。



*1)山田邦明氏「『謙信公御書集』・『覚上公御書集』について」(『東京大学日本史学研究室紀要第三号』)
*2)志村平治氏『畠山入庵義春』歴研。この書籍において志村氏は政繁と義春を同一人物として扱っているが、この点については同一人物説を取る所伝類を引用するばかりで十分な検討はなされていない。上述の通り、政繁と義春は別人である。
*3)『越佐史料』5巻、173頁
*4) 同上、702頁
*5)同上、743頁
*6) 『新潟県史』資料編5、4082号。「海津江上条殿昨十三日御うつり被成候」と見える。
*7) 『上越市史』別編2、3115号
*8) 『新潟県史』資料編5、3478号
*9) 『上越市史』別編2、3163号
*10) 同上、3164号
*11) 同上、3191号
*12) 同上、3392・3573号
*13)『上越市史』別編1、1347号
*14)片桐昭彦氏 「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)
*15)荻原大輔氏「上杉謙信の北陸出兵」(同上)
*16) 『新潟県史』資料編3、147号
*17)同上、144号
*18) 『越佐史料』4巻、523頁
*19)同上、238頁
*20)『新潟県史』資料編5、2815号