goo blog サービス終了のお知らせ 

鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

中条藤資の動向2

2020-07-03 11:55:47 | 和田中条氏
大永6年(1526)には長尾為景が蒲原郡から奥郡にかけて新津氏色部氏本庄氏黒川氏といった領主に起請文を提出させ、藤資も起請文を提出している(*1)。他の領主は「致不儀奉引弓事、不可有之候、於国役等儀も、各前不可見合申候」というものであるが、藤資は五項に渡る詳細な内容で、それは揚北衆でも為景に近い存在であったことが関係しているだろう。この起請文を検討してみたい。

第一項は前々回検討した。第二項は「本庄・色部・黒川、其外親類共前不及見合申、国役等何時も不可致無沙汰事」とあり、他の領主と同様の制約である。第三項には「御出陣之時、各々事者、番替致在陣候共、某事者、親子一人しかと可致在陣事」とあり、府内長尾氏に対し軍役を課せられていたとわかる。第四項は「至于縦御子孫而、御親類御家風雖心替申候、以夜継日急致出府、可走廻事、其外、他国御出陣候共、召連人数、早速罷立可致馳走事」とある。第二から第四項まで軍事行動に関する制約であり、為景が中条氏を軍事的支配下に掌握しつつあった状況を物語っている。第五項は「或与力或親類、至于公事沙汰も不及贔屓、可任府内御下知事」とあり、為景が裁判権に関することへも介入しつつあったことがわかる。以上より、為景は中条氏に対し軍事指揮権と裁判権を行使しえる立場であり、藤資の従属の度合いは高いといえる。藤資は親為景路線を取ることによって、その後ろ盾を基に近隣の揚北衆または支配する在地に対しての優位性の獲得を指向したと想定されよう。


[史料1] 『新潟県史』資料編4、1858号
(礼紙ウハ書)「遠州 御尊報      小山実繁(以下三名)」
就彼一儀、御札致披見候、仍蘭室存生之時、被申入筋目至于今不被指置、被仰越候、誠以忝次第候、然去夏下野所へ被仰届候哉、相替以前御返事被申候由、被顕御書中候、御要之段、為申聞候処ニ、先年在府之時節、霜台為御意見、息女之事、中条牛黒方被仰合候、以斯如義、蘭室も談被申事候、忝も此筋目之外争歟替人躰別而可申定候哉、以前も此段御返事為被申由候、前後之儀お被仰分、条々示給候、御芳情忝奉存候、乍去御いろい之外可奉談方無之候、偏御取合親類家風満足令存候、如何様以人躰可申上候之条不能具候、恐々謹言、
御意之段、修理亮為申聞候、定従是可被申候、
十一月廿日     小山実繁
          浜崎実広
          松浦長澄
          西実助

起請文の第一項では前々回見たように中条氏と府内長尾氏の間に婚姻関係があったことがわかるが、ここでそれを補強する[史料1]西実助等四名連署状に注目する。これは当時の書き入れより永正16年のもので、黒川氏の家臣四名が「遠州」に宛てたものである(*2)。「蘭室」なる人物の正体は不明であり内容もこの文書だけでは捉え難いものであるが、「先年在府之時節、霜台為御意見、息女之事、中条牛黒方被仰合候」は注目すべき部分である。

これは、「霜台」が長尾為景であり「中条牛黒」は幼年の中条景資と捉えられる。『新潟県史』や『中条町史』は「霜台」を中条藤資に比定するが、永正10年から藤資は越前守を名乗っており「在府」という表現や文意を加味すると、この時弾正左衛門尉を名乗っていた為景に比定するべきであろう。「被仰合」や「牛黒」という幼名から、婚約の成立であったと考えられる。また、景資の相手が「息女」とあり為景の娘であったこともわかる。

この点は『中条氏家譜略記』『中条越前守藤資伝』に景資の妻は実父高梨刑部大輔政頼とする上杉謙信の養女とし、『中条家由緒書』には藤資入道梅坡の妻は高梨政頼の娘とある。『由緒書』において藤資を「房資(秀叟)四代之孫」とするが、房資(秀叟)-朝資-定資-藤資-景資と続く系譜であるから実際の「四代之孫」は景資にあたり、梅坡も景資の法名と推定した通りである。従って、三つの所伝において景資の妻について同様の内容を伝えており見過ごせず、妻は高梨氏の娘と考えられよう。


この頃の高梨氏を見てみると、大永3年に高梨澄頼が死去し(*3)、次代政頼が跡を継いだと考えられる。志村平治氏(*4)によれば『歴名土代』より天文6年に「形部大輔」に任じられているといい、前々代政盛、前代澄頼の活動時期も加味すれば、政頼の家督相続は若年であった可能性がある。すると、政頼の娘は永正から大永にかけては幼少であったと想定できる。これをどう捉えるかであるが、高梨氏と府内長尾氏の婚姻関係が重要と考える。

志村氏(*4)や片桐昭彦氏(*5)は両氏の婚姻関係について、高梨政盛娘が長尾能景に嫁ぎ、能景の娘が高梨政頼に嫁いだ、と推測している。「林泉寺文書」に残る戒名書上である「公族及将士」にも長尾為景の頃の女性として「芳林香公大姉 たかなしとの御ろうバ」、すなわち、高梨殿御老母、が挙げられ、片桐氏(*5)は政頼妻の可能性を指摘している。

以上から、中条景資の妻として高梨政頼の娘が選ばれた理由はその娘の母が府内長尾氏出身であり為景とも血縁関係が深かったからと推測できよう。婚姻が永正16年に決まりながら実行が大永6年頃までずれ込んだのは、為景が中条氏との関係深化を急ぎながらも、政頼娘と景資が共に幼少であったためではなかろうか。

まとめると、永正16年に為景は中条氏との関係強化を狙い、自身の姪にあたる高梨政頼娘を養女とし中条藤資の子牛黒と婚約させる。双方幼少のため、しばらく時をおき牛黒が元服し活動し始めた大永6年頃に婚姻が実現することとなった、といえる。そうすると、景資という実名も元服時に為景から与えられたものと推測することができる。


[史料1]において黒川家中もこの婚約について反応していることから、それは揚北衆諸将へ大きな影響を与えたことだろう。[史料1]の「遠州」を色部遠江守昌長と仮定すると、中条牛黒の婚約に際して従来の筋目を見直していると捉えられ、それは為景に接近する藤資への警戒の現われではないだろうか。


*1)『新潟県史』資料編3、237号
*2) 伝来が山形大学所蔵中条家文書であるが、「遠州」は色部遠江守昌長のことであろう。牛黒丸が「中条牛黒」とわざわざ名字を書いていることからも中条氏関係者ではなく、色部昌長と比定できる。
*3)『高梨氏系図』
*4)志村平治氏『信濃高梨一族』
*5)片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)


※20/11/4 景資と為景養女の婚姻について加筆した。


コメントを投稿