鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

八条上杉氏の系譜

2022-10-30 19:27:31 | 八条上杉氏
室町期から戦国期にかけての越後において、八条上杉氏の存在は非常に重要である。特に永正4年の政変が八条上杉氏と府内長尾氏の権力争いという側面を持っていたことは森田真一氏(*1)などの研究によって明らかにされている。しかし、八条上杉氏として所見される人物は多数に及び、その関係や系譜はわかりにくい。今回は、森田真一氏(*2)(*3)、谷合伸介氏(*4)、片桐昭彦氏(*5)、黒田基樹氏(*6)の研究を参考に独自の解釈を加えて、八条氏の系譜を整理してみよう。


1>朝顕/朝憲-満朝-満定-持定
まず、『上杉系図浅羽本』は八条氏の祖を「朝顕 中務大輔」とし、その後、「満朝 修理亮」、「満定 中務大夫」と続いたとする。

「朝顕」は『上杉系図大概』においても「朝顕、八条中書是也」と記される。貞治三年(1364)に朝顕と推定される「上杉中務大輔」が足利義詮から「本知行分」を安堵されており(*7)、森田氏はこれを越後国鵜川庄と想定している。貞治三年1月の文書には「朝顕」との署名が確認される。その後貞治四年10月「関東御所近習連署奉加帳」には「上杉中務大夫朝憲」とあることから、黒田氏は「朝憲」に改名したと推測している。


その次代とされる「満朝」であるが、『上杉系図大概』にも記載があり、「八条修理亮」を名乗ったという。鵜川庄の所領問題に関連する永和4年(1378)足利義満御教書(*8)で「上杉三郎満朝申、越後国鵜河庄事」と言及され、仮名・実名が確認できる。黒田氏は所伝等から、満朝は上杉禅秀の乱までは鎌倉府に奉公し、子満定の代から在京した可能性も指摘している。


永享3年(1431)頃と推定される「永享以来御番帳」という史料や同時期の史料『満済准后日記』に「上杉中務大輔」が散見され、谷合氏は満朝の次代「満定」に比定している。文安2年(1445)には九条満家から越後国白川庄の領家職が「上杉八条入道」へ預けられており、森田氏は満定のことと推測している。


さらに、谷合氏は長禄3年(1459)の上野羽継原合戦に関する足利義政御内書(*9)に見られる「上杉中務大輔」について、寛正6年(1465)『親元日記』に所見される「上椙中務大輔持定」と同一人物と見ている。続いて、『松陰私語』に「八条」が文明4年(1472)に古河足利軍と対峙する軍勢の中に見える。「八条」は八条氏当主を意味し、「中務大輔持定」に比定できるであろう。「持定」は将軍足利義持からの偏諱として、年代的に矛盾はない。


ここまで、朝顕(中務大輔)-満朝(三郎/修理亮カ)-満定(中務大輔)-持定(中務大輔)、という流れが明らかである。


文明10年には毛利安田氏と刈羽郡不退寺の「山」の領有を巡る相論に八条上杉氏が介入している(*10)。具体的な人物は確定できない。八条上杉氏の政治的動向を示す貴重な史料である。

また、文明後期の作とされる『越後検地帳』(*11)において、「八条伊予守」が高波保に所領を持っていたことが確認される。この伊予守は片桐昭彦氏(*5)により明応8年に京都の和漢連句会に参加した「上杉伊予守能重」に比定されている。系譜は明らかではないが、文明期から活動が見られながら長享2年元服の上杉房能から偏諱を受けていることを踏まえると、元服時には将軍家や守護家からの偏諱を受けていなかったと考えられるため、庶流と推測される。


2>持定以降の八条氏
まず持定の次世代のひとりとして、成定がいる。

『東寺過去帳』(*12)に「栄厳清秀禅門」なる人物が「松泉院と号す、永正五年八月九日切腹させらると云々、上杉八条刑部入道、俗名成定」と記され、森田氏は長尾為景との抗争に敗れた八条氏の中心人物と推測している。同過去帳には同月「子息女中衆 上杉八条衆数百人」(*13)ともあり、成定と共に戦死した者たちだろう。

「成定」という実名は将軍足利義成(在任:文安6年-文明5年/1449-1473、享徳2年/1453に義政へ改名)からの偏諱である。元服は将軍が義成を名乗った頃と考えると、享年が60~70歳になる文安年間頃の誕生と考えられる。

このように活動時期から成定が持定の次世代であることは確かである。


ここでさらに時代を下った話になるが、永正期に活動が確認される八条氏の中でも幕府との政治交渉や越後の権力中枢に関わっているものとして中務大輔(実名不明)、尾張守房孝の二名がいる。

中務大輔は、文亀2年(1502)には長尾輔景が京都伊勢氏の所領松山保を横領したため、「上杉中務大輔」へ将軍足利義澄が「直務無相違様、民部大輔申達者、尤可為神妙候也」と、上杉房能への取り成しを依頼していることで確認される(*14)。この件で上杉房能、長尾能景へも将軍始め京都関係者から届けられている(*15)。すなわち、中務大輔は守護代長尾能景と並ぶような政治的立場にいたといえる。

ちなみに、上杉中務大輔が文書上で八条氏を名乗るものはないが、その官途名より八条上杉氏であると推定されている(*2)。上記史料で見える政治的立場からも中務大輔が八条上杉氏の主要人物であると考えられる。

また、尾張守房孝は延徳3年(1491)上杉房定一門・被官交名(*16)に初見さる。のちに息子龍松を上杉房能の養子としたことが森田氏によって明らかにされており、房孝の格は八条上杉氏当主クラスと見て間違いない。


さて、房孝は延徳3年時で既に受領名尾張守を名乗っており、それより後に官途名で見える中務大輔とは別人であることは明らかである。しかし、両人ともが上記のような活動から八条上杉氏を代表する人物であることも理解できよう。このことは、戦国期八条上杉氏の主要な系統として二系統が存在した可能性を示唆している。


これを証明するものが、文明4年と推測される『松陰私語』の「五十子陣之こと、官領上杉、天子之御旗依申請旗本也、当方者京都公方之御旗本也、桃井讃岐守・上杉上条・八条・同治部少輔・同刑部少輔・上杉扇谷、武・上・相之衆、上杉廳鼻和、都合七千余騎」という記載である。

この内「八条・同治部少輔・同刑部少輔」が注目すべき点であるが、これについては以前も疑問に思いいくつかの仮設を立てながら検討した。そこでは、八条上杉氏の人物が複数記されることに違和感を覚え、犬懸上杉氏の存在なども想定しながら考察を行った。しかし、後述のように八条上杉氏の系譜を改めて考えると、上記の記載において3名すべてが八条上杉氏であると考えられる。以前の検討における認識は訂正したい。

以前は八条上杉氏は一系統と考えていたが故に誤った推測をしてしまった。戦国期越後において主要な八条上杉氏は二系統に分岐しており、『松陰私語』の記載こそ八条持定より二人の息子、治部少輔と刑部少輔に分家している様相を如実に示しているのではないかと考えるのである。


『松陰私語』では三人が併記されている五十子陣に関する記載の他にも、児玉塚での軍事活動においても「為御代官官御息男兵庫頭殿、桃井讃岐守、上杉治部少輔、同名刑部少輔」とあるように、八条上杉氏兄弟の二人が共に行動していると考えられる。


「刑部少輔」は活動時期からも成定のことで間違いない。治部少輔については実名不明である。『松陰私語』の記載順をみると治部少輔が兄で、刑部少輔成定が弟であろうか。

彼ら兄弟と中務大輔、房孝といった次代の人物のつながりは史料上確実ではないが、房孝、中務大輔、共に史料上からは政治的に重要な役割を担っており単なる庶子とは思えず、
治部少輔、刑部少輔成定の二系統を継承する人物であるとの推測が妥当であると考える。

永正期に八条房孝と八条成定はそれぞれ別個に行動していることから、両者は別系統という印象を受ける。よって、主要な二系統として治部少輔の次代として房孝が、成定の次代として中務大輔が存在したと推測する。


[史料1] 『上越市史』資料編3、577号、東寺過去帳
上杉治部大輔其外数十人
  同御曹司五才八条尾張守一家衆
「永正四八三与同名一族其外若党以下腹切或生涯
   越後国 為長尾被生涯         」

上述した以前の検討にて私はこの文書の上杉治部大輔を、犬懸上杉氏の人物である可能性があるとした。しかし、今回八条上杉氏を検討した結果それは誤りであり訂正したい。

結論から言えば、これは上杉民部大輔房能の誤記であると考えらえる。当初はなぜ「治部大輔」なのか説明がつかず、安易に誤りと判断できずに様々な検討を加えたものである。しかし八条尾張守の先代として治部少輔が存在するのであれば、その混同であると説明がつく。

混同の理由が推測通りならば、尾張守房孝、龍松が治部少輔の系統であり、中務大輔が成定の系統であるとの仮説も補強されよう。


まとめると、持定の次代に治部少輔と刑部少輔成定の兄弟で二系統に分岐し、(治部少輔)-房孝(尾張守)-龍松、成定(刑部少輔)-(中務大輔)、とそれぞれ系譜が続いたことが推測される。そして、永正の政変に関連して房孝、龍松、成定の死亡が確実である。中務大輔については所見が少なく活動時期の詳細は不明であるが、永正期に高齢の成定が中心となって活動していることを踏まえると永正期以前に死去している可能性があろう。


3>永正の政変後の八条氏
山内上杉可諄、憲房らの越後進出を伝える永正6年8月国分胤重廻文(*17)に、「八条修理亮、同左衛門尉」が山内上杉氏方として所見される。

永正7年6月上杉可諄書状(*18)には、この頃黒滝城に「八条修理、桃井一類」が在城していたことが記される。

さらに永正11年1月長尾為景書状(*19)にて六日町合戦では「八条左衛門佐殿」を討取ったことが伝えられている。

八条成定、八条房孝という主要な人物が戦死した後、修理亮と左衛門佐という二人が八条氏として活動していたことがわかる。しかし、詳細な系譜関係までを推定することは不可能である。両者がそのまま主要二系統を継承した可能性や、永正の政変による嫡流の没落により庶家が台頭していた可能性など様々なことが考えらえる。


その後史料上八条氏はしばらく所見されないが、『高野山清浄心院越後過去名簿』に「雲高居士 白川庄八条憲繁 天文十一 八月三日」と確認できる。よって、府内長尾氏の支配が確立した後も、白川庄を拠点に八条氏が存在していたことがわかる。文安2年に京都九条満家が「白川庄領家職」を八条上杉氏に預けており、白川庄との繋がりは天文期まで続いていたようだ。

同じく、『名簿』に「理帝宗郭 蒲原水原八条弥四郎殿 天文十一 十月廿三日」とある。「蒲原水原」が居住地を表すから、八条弥四郎も白川庄を拠点とする八条氏の一族であったとわかる。或いは、日付も近いことから憲繁と弥四郎は父子関係といったところだろうか。

白川庄と八条氏の関係は満定の代から確認されるが、天文期に白川庄を拠点としていた八条氏の系譜上の位置については明らかでない。


この『越後過去名簿』の所見を最後に越後において八条上杉氏は確認できない。天文10年前後の越後国内の抗争において八条上杉氏は越後から完全に没落したと想定できるのではないか。八条憲繁、弥四郎の両人が天文11年に立て続けに死去していることもそれを示唆しているように思う。

※追記 2022/12/3
八条修理亮、八条憲繁らについて追加で検討を行い、修理亮から憲繁へ白川庄八条氏の系譜が繋がっている可能性も考えられることを示した。


4>まとめ
ここまで、八条上杉氏の系譜について嫡流を中心に検討してきた。京都での活動が中心であった八条氏が享徳の乱をきっかけに越後へ下向し、主要な二系統を中心に繁栄、守護上杉氏へ養子を出すまでになる。その後、永正の政変を契機に没落、天文10年代前半に完全に越後から姿を消したと考えられる。

多分に推測を含むものとなってしまったが、それだけ八条上杉氏の研究には史料的制限がある。系譜の細部については後考に拠るところが大きいといえよう。



*1)「上杉房能の政治」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*2)「越後守護家・八条家と白川荘」(同上)
*3)『上杉顕定』戒光祥出版
*4)「八条上杉氏・四条上杉氏の基礎的研究」(『関東上杉氏一族』戒光祥出版)
*5)「房定の一族と家臣」(同上)
*6)「扇谷上杉氏の政治的位置」(『扇谷上杉氏』戒光祥出版)
*7)『新潟県史』資料編3、1008号
*8)『新潟県史』資料編3、1009号
*9) 『越佐史料』三巻、103頁
*10)同上、232頁
*11)同上、277頁
*12)『上越市史』資料編3、589号
*13) 同上、588号
*14)『新潟県史』資料編5、3894号
*15)『新潟県史』資料編5、3894~3903号
*16)『高野山正智院文書集一』82
*17)『越佐史料』三巻、519頁
*18) 同上、539頁
*19) 同上、605頁


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