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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

長尾能景・為景の永正1~2年関東出陣の動向

2025-04-13 14:32:12 | 長尾為景
戦国期関東において享徳の乱を経て山内上杉氏、扇谷上杉氏の両者がその勢力を確立させていく。しかし、長享元年より山内上杉顕定と扇谷上杉定正が対立し、長享の乱と呼ばれる両者の抗争が勃発する。同乱は延徳2年12月の一時的な和睦を挟んで、明応2年9月から再燃し永正2年3月に定正の跡を継いでいた扇谷上杉朝良が山内上杉氏顕定へ降伏、隠居することで終結を見る。朝良を降伏に追いやったのは永正元年以降における本拠地河越城を含む重要拠点への山内上杉氏軍の激しい攻勢であり、その軍事力を支えたのは援軍として越山した越後上杉氏の軍勢であった。そして、史料から守護代長尾能景とその嫡子為景が越後軍を率いていたことが明らかである。今回は、永正1~2年における能景・為景ら越後勢の動向を考えてみたい。


[史料1]『越佐史料』458頁
此間者御切紙珍敷披見、□退候案入候処、具承候、満足候、殊其地へ被相移候事専一候、我々事発其口相加世儀候へ共、爰元無心元存故、去十九、上州両度動に走廻候、敵之手刷差動不可有之候、関東口何にも無事に候、定為景も可引除候、如何共其口より可被出合候事、此方よりも各申合おくりかけ可申候、恐々謹言、
世上おもしろき事共もうれしく候へく候、市川衆大新斗見も其外此方に陣取候、加世儀に候
    七月廿五日            房能
     穴新 参

[史料1]は永正元年7月に推定されている(*1)。「加世」=山内上杉氏への加勢のため出陣を計画している越後守護上杉房能が、上越国境は安定していることや「市川衆」らの参陣を伝えて魚沼の穴沢氏へ出陣を要請している書状と思われる。「去十九、上州両度動に走廻候、敵之手刷差動不可有之候、関東口何にも無事に候、定為景も可引除候」より、房能本隊の出陣に先駆けて長尾為景が上野国へ出陣し敵の計策や軍事行動がないことを確認し帰陣したようである。当時19歳の為景はまだ家督相続以前であったがこのような軍事行動を任せられていたことが窺われる。尤も房能が「爰元無心元存」と述べているように関東出陣には一定の準備期間を必要としたようで、房能の出陣を待たずして顕定は永正元年8月に朝良の本拠河越城を攻撃するなど攻勢を見せ、同年9月に武蔵立川原で顕定と伊勢宗瑞、今川氏親の援軍を得た朝良が決戦し、朝良方の勝利で終わり顕定は本拠鉢形城へ退陣を余儀なくされている。

その直後、越後勢の援軍が到着し顕定が反攻へと出陣する。『続本朝通鑑』、『三浦系図』、『鎌倉九代後記』などは越後勢の出陣を10月と伝えるが、前後の状況から見ても妥当と考えられる。

[史料2]『松陰私語』第五
(前略)、其後山内重被出馬、其時者越州之勢衆ヲ被招越、山内御舎弟能房為御代官、長尾信濃守国景引率大軍、武州ニ着陣、其後相州乱入、鎌倉中所々方々打落、上田上野守要害包落、其城主上野守討捕、(後略)

[史料2]は当時の記録である『松陰私語』における記載を抜粋したものである。「山内御舎弟能房」は房能の誤記である。「御代官、長尾信濃守国景」は長尾能景を指すことは明らかであるから、能景が越後勢の中心となって出陣したことがわかる。ここから、房能自身の出陣はなかったことが推測される。以下の文書において文中の出来事の日付と発給日に差がある点も、房能が戦地にいなかったことを裏付ける。

[史料3]『越佐史料』三巻、462頁
就武州上戸難儀、各差遣候処、向相州相動之由注進到来、数日陣労之候、謹言
    十二月六日           房能
     江口弥太郎殿

[史料4]『越佐史料』三巻、462頁
去朔日、武州椚田要害攻落候刻、被官被疵之条、神妙之至候、謹言
    十二月十日
     発智六郎右衛門尉殿      房能

[史料5]『越佐史料』三巻、463頁
去年十二月二十六日、於相州実田要害、自身被疵被官等同前粉骨之至感之候、弥励軍功候者可為神妙候、謹言
    正月十三日           房能
     発智六郎右衛門尉殿

[史料3~5]は文書で確認される具体的な軍事行動である。この頃の山内上杉・越後軍の動向は黒田基樹氏の研究(*2)に詳しい。まず、河越城を攻めるため上戸に着陣したようである。しかし、朝良の拠る河越城の抵抗もあり、12月1日の合戦では顕定方の長尾弥五郎らが討取られたという。[史料3]にある「上戸難儀」とはこのような状況を指していると思われる。その中で、能景ら越後勢は相模方面へと転戦したことが[史料3]「向相州相動之由」からわかり、[史料4]より能景は12月1日には武蔵南部にある長井氏の居城椚田城を攻め落としていることが明らかである。黒田基樹氏(*3)によって、長井氏は永正元年9月の立川原合戦の敗戦により山内方を離反し扇谷方へ服属していたこと、同年12月の落城により当主長井広直ら一族は自害し長井氏は滅亡したこと、長井氏の支配領域は山内上杉氏重臣大石道俊に継承されたことが指摘されている。

能景はさらに[史料5]にあるように翌永正2年2月26日に相模実田城を落としている。これは扇谷方の重臣上田上野守正忠の拠点であり、落城以後上田氏は権現山城へ後退したという。ちなみに、上田氏の当主正忠は逃れたが一族の上田朝直が戦死したという(*2)。黒田氏(*2)は、両城の陥落を以って「朝良にとって相模における軍事的基盤を失うに等しいものであった」と評価している。

『松陰私語』には「鎌倉中所々方々打落」とあり、椚田城、実田城攻撃の前後に能景が鎌倉へも攻撃を加えていた可能性がある。相模六浦称名寺の勘定状からは制札獲得などのために「越後衆」へ礼銭を贈ったことが記録されており、盛本昌広氏(*4)は同勘定状にある「大庭御陣へ路銭」という記載は大庭城を落としそこに越後勢が在陣していたことを示すと推定している。

相模で戦果を上げる中、[史料7]の「中野陣」の記録から能景はさらに江戸城攻撃へ転戦したと推測されている(*2)。扇谷上杉朝良はこれを迎撃するために出陣したが、不利な状況に内部にも動揺があったようで、中野陣において太田道灌の跡目を継承していた太田六郎右衛門尉が朝良に誅殺されている(*5)。このような状況において山内上杉顕定は再び河越城を攻撃し、永正2年3月7日には多くの戦死者を出しながらついに朝良から和議の申し入れを引き出したという。表向きは和議としながらも、朝良の出家隠居と江戸城への移動が条件であり、事実上扇谷上杉氏の降伏といってよかった。

[史料6]『戦国期山内上杉氏文書集』56号(黒田基樹氏『戦国期山内上杉氏の研究』)
去十五日簡札、一昨日到着、具披閲抑旧冬招越州衆進発、然而武相両州敵城或自落、或攻落候故、速静謐、依之懇切承候、快悦之至候、仍治部少輔朝良令隠匿、名代事彼家老者歎候間、言上之処可被相任之段披成御書候、如斯之上号当所須賀谷地へ移候、爰元事先以可御心安候、余は期後信候、恐々謹言
    四月廿三日           藤原顕定
  謹上 佐竹右京大夫殿

[史料6]は永正2年4月に顕定が抗争の終結を常陸佐竹義舜に伝えた文書である。朝良は隠居し一族の朝興が登場するわけだが、扇谷上杉氏家中の要望がありそれに任せたという背景が記されている。4月下旬の時点で顕定も須賀谷まで帰陣しており、越後軍も帰路についていたと想定される。

この抗争の終結によって、朝良は甥朝興を「名代」と位置付け自身は江戸城へ隠遁、出家し建芳を名乗った。ただ、この後も扇谷上杉氏の主導権は朝良が握り、その死後まで朝興の活動は見られない。黒田氏(*6)は朝良が隠遁以降も相模守護としてみえることから家督は維持し、朝興は今後の家督継承予定者にすぎなかったことを指摘している。とはいえ、長井氏の支配領域が山内上杉氏に取り込まれ、重臣上田氏へも大打撃を与えるなど抗争の結果、両上杉氏のパワーバランスに変化があったことは間違いないだろう。盛本氏(*4)はこの抗争の結果それまで扇谷上杉氏に支配されていた六浦・金沢地域の支配権を山内上杉氏が回復したことを指摘している。黒田氏は(*7)、この扇谷上杉氏の降伏は古河公方足利政氏への帰参という形で行われており、古河公方と関東管領山内上杉氏を軸とした公方-管領体制の再生による関東の政治的秩序の再編が意図されていたことを指摘している。同氏(*6)は抗争後に山内上杉氏家宰惣社長尾氏の娘が朝良へ、朝良の妹が山内上杉憲房へ嫁いでいたと推測されることも、両者の協調体制を示すものと想定している。


さて、ここからは後年の文書から見える能景ら越後勢の動向を見てみたい。

[史料7]『新潟県史』資料編3、34号
雖未申通候、以次令啓候、抑御代々亡父別申承候之処、云遠路、若輩之上、至于今無沙汰、素意外候、取分中野御陣砌、御先考亡父御懇切候キ、定可為御存知前候、能景御早逝、関東時節到来基候、仍当国様体、可覃聞召候歟、去々年以来、山内殿へ一和被申候之処、太田大和入道無覚悟故、江戸落居、河越も同前有之、藤田御陣へ被罷移、以不思議刷、当地河越再興形候、(中略)、依之屋形以使被申届候、御納得管要候、如承者、前々も関東滅却刻者、自其国被引立之事、及度々候歟、於今度も、有御越山、爰元至于被引移者、御名望不可過之候、条々儀共、御同名孫四郎方可被申宣候、然者、太刀一腰進之候、誠一義迄候、委曲任彼口上候、恐々謹言
    三月二十三日             駿河守義宣
  謹上 長尾信濃守殿

[史料7]は封紙ウハ書から大永5年のものであることが確実である。北条氏綱の圧迫によって、扇谷上杉朝興の重臣三戸義宣が長尾為景へ支援を要請している。ここで義宣の亡父が為景の「御先考」=能景が「中野陣」にて懇切された点について触れている。永正2年において中野陣に能景が在陣していたことが確実である。当時扇谷方は敵であるから、能景と扇谷氏家臣三戸氏に関係があるとすれば和睦交渉や戦後処理においてであろうか。このように、永正2年に能景が中野にて扇谷方と対陣し、交渉まで行ったことが示される。

[史料8]『上越市史』別編1、134号
(前略)、通窓并実渓関東在陣、於所々之軍功、祖父正統事茂、為当方代、関左へ越山、椚田・真田落居之砌、当手之者共、碎手、其武威乍恐被振誉天下、亡父二八之頃、随正統関東へ出陣、信州・越中於当国茂戦功、凡漢高祖七十余戦、道七在世中茂百余戦、併管夫事、雖恐入候、以次而申顕計ニ候、(後略)
     六月廿八日             長尾弾正小弼入道
      長慶寺 衣鉢侍者禅師

[史料8]は弘治2年6月に長尾景虎が記した文書である。その中で先祖と関東との関係に触れ、特に椚田・実田城を落とした「正統」=長尾能景の活躍を賞賛している。また、この時「亡父」=為景も能景に従い関東へ出陣したとある。ただ、その時「二八之頃」は誤りである。[史料1]に見える永正元年に19歳であるから、正しくは「十八之頃」であろうか。このように景虎の記述からは永正元年から2年にかけての関東出陣に能景だけではなく為景の出陣も確認でき、その戦果は華々しい軍功として長尾家に語り継がれていたことが想定できる。


ここまで、長享の乱の最終盤、永正元年から2年における関東において越後から長尾能景が援軍として出陣し、山内上杉顕定の優勢を決定づけ、抗争を終結させるに至った流れを確認した。そして、一連の軍事行動には為景も従っていたことが確認された。しかし図らずも、それから間もない永正3年2月に能景は越中にて戦死し後継者として為景が歴史の表舞台に立つこととなる。それを踏まえると、永正1~2年の関東出陣に関する動向は家督継承前における為景の立場を示す貴重な所見ともいえよう。


*1)山田邦明『上杉謙信』(吉川弘文館)
*2)黒田基樹氏「江戸城主上杉朝良」(『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院)
*3)黒田基樹氏「戦国時代の椚田長井氏」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)
*4)盛本昌広氏「戦国期六浦における扇谷上杉氏家臣の動向」(『扇谷上杉氏』戒光祥出版)
*5)黒田基樹氏「道灌謀殺と上杉定正」(『扇谷上杉氏と太田道灌』岩田書院)
*6)黒田基樹氏「戦国期扇谷上杉氏の政治動向」(『扇谷上杉氏』戒光祥出版)
*7)黒田基樹氏「山内上杉氏と永正の乱」(『戦国期山内上杉氏の研究』岩田書院)