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鬼無里 ~戦国期越後を中心とした史料的検討~

不識庵謙信を中心に戦国期越後長尾氏/上杉氏について一考します。

黒川竹福丸の動向

2020-08-03 15:48:33 | 和田黒川氏
前回は、黒川竹福丸が元服後に黒川政実と名乗ったと推定した。今回は竹福丸の史料を紹介すると共に、その動向をみていきたい。文中では竹福丸、元服後は四郎次郎(竹福丸)と表現する。

 [史料1]『上越市史』別編1、211号
在陣留守中掟書
一、残置留守中、各且自専、且軍役方儀与云、分限相当之外、一廉有過上人数已下、爾与可被為在府事、
一、春日山要害普請等、不可有油断事、
一、諸郷内人脚等之義、検見之者一人宛被差添、郷司・小使堅可被相触事、但、五十公郷除之事、
一、於万一不慮之儀出来者、頸城郡地下人、春日山へ可被入置事、
一、就諸篇現無道狼藉族、不嫌甲乙人、於立所可被可成敗、若以偏頗被抱置者、帰陣之上其主人へ一段可及横振事、
一、今度留守衆之内、有見除無沙汰方有之者、無私曲陣所へ速可有注進事、
一、於何事も、各以談合、執善而棄悪、可被及其噯、若以抜々覚悟無同心、吾侭之擬方不致隠密、検見之者共以其交名陣中へ可注進旨、申付之事、
一、信州之義、爰元之衆、以輪番不打絶号物見動高梨源太方へ可被合力事、
一、城山竹木不可被為剪採事、
右可被守此条々、為検見、荻原掃部助・直江与兵衛尉・吉江織部助残置之上、分別簡要候也、仍件如、
永禄参
  八月廿五日     景虎
桃井右馬助殿
長尾小四郎殿
黒河竹福殿
柿崎和泉守殿
長尾源五殿

これは黒川竹福丸の初見文書となる。永禄3年から4年にかけての大規模な関東出陣に際して、長尾景虎が春日山城の留守居を務める武将たちに残した掟書である。「為検見、荻原掃部助・直江与兵衛尉・吉江織部助残置之上、分別簡要候也」より目付として旗本が残されたとわかり、領主層の武将たちに出された書状である。従って、竹福丸も一領主としての立場で軍役等を務めていることがわかる。

ここで、宛名中の他の武将に目を向けると竹福丸以外は景虎にとって一門、準一門と呼べる存在であることが注目される。具体的には桃井右馬助は『越後平定以下祝儀太刀次第写』において「直太刀之衆」に分類され、長尾小四郎は府内長尾一族であり(*1)、柿崎和泉守景家も景虎と姻戚にある(*2)。長尾源五も後の山浦国清にあたるという指摘もあり(*3)、竹福丸の他四名が景虎と姻戚関係にあると考えられる。想像を逞しくすれば、竹福丸についても景虎の近親者との婚姻が予定されていたと考えることもできようか。前回推定した「政実」という実名も、そうだとすれば頷ける。以上はあくまで想像に過ぎないが、錚錚たる武将たちと並ぶ竹福丸に対して景虎の期待があったことは考えられよう。


 [史料2]『越佐史料』四巻、335頁
地かたの義、申まかせられ、鼓岡之内千苅出之候、於向後いよいよほうこう簡要候、仍如件、
永禄四年
六月廿三日     竹福丸 実
今井半内助とのへ

[史料3]『新潟県史』史料編5、4419号
      再興別当真城院円海権別当敬遍
永禄五年壬戌九月九日
      大檀那平朝臣黒河竹福丸   代官西(欠)実(欠)

[史料2][史料3]は竹福丸の当主としての活動を示している。[史料2]は家臣への知行宛行状、[史料3]は旧黒川村蔵王にある金峰神社の棟札銘である。


[史料4] 『新潟県史』資料編4、1347号(反町家・三浦和田黒川氏文書)
黒川四郎次郎
  平政
永禄十年
拾二月三日

[史料4]は前回詳しく検討した竹福丸への名字書出である。これにより、竹福丸の元服が永禄10年であったことがわかる。


[史料5]『上越市史』別編1、606号
本庄弥次郎依逆意、彼為静謐柿崎和泉守・直江大和守其外各立遣候、内々黒河四郎次郎雖可差下候、若輩ニ候間、膝下ニ差置候、忠信今度ニ候条、傍輩共談合候而、一送之稼簡要候、謹言、
五月四日     輝虎
 黒川三河守殿
 同 但馬守殿
  石塚玄蕃亮とのへ
  沢田右京亮とのへ
  松浦隠岐守とのへ

[史料5]は永禄11年の本庄繁長の乱勃発に際して、上杉輝虎が黒川家中に軍の派遣を伝え奮戦を求めた書状である。この頃の黒川家中の構造が伺い知れる。四郎次郎(竹福丸)はこの時、在府していたことがわかり、「内々黒河四郎次郎雖可差下候、若輩ニ候間、膝下ニ差置候」より、乱勃発後も輝虎の元にいたことがわかる。ちなみに、同日付の上杉輝虎書状(*4)において同じく在府していた鮎川盛長は「相下候」と伝えられており、最前線の鮎川氏との相違がみられる。また、石塚玄蕃亮(允)は11月までに本庄繁長に同調し、「石塚余堅固ニ申払候条、身(中条越前守)之以工夫速問落、不紛様躰無申事候」(*5)と記される事態となる。


[史料6]『上越市史』別編1、674号
急度申遣候、去月初時分者、各陣衆、去年已来之労兵故歟、要害攻候砌も一向ニ不被入心、輝虎計差任申付義、一切輝虎申義ニも為無之、令恐怖候つる条、自然此上ニ横合凶事出来候ヘハ、何を申候而も、旱虎滅亡之上者、千言万句不入儀候条、色部弥三郎家中者、地下人迄証人取、其外黒川何茂安田召仕神子田迄召寄、爾与差置気遣申候つる間、世間之雑意迄旧冬如誓詞、其方前不承候、(中略)、加様之切所余多越立、令張陣候条、若此上悪事出来候而、一頭二頭於取除者、則当陣之破眼前ニ候歟、(後略)
三月朔日        旱虎
 新発田尾張守殿

[史料6]は本庄繁長の乱の終盤永禄12年3月に上杉輝虎が新発田長敦に人質の提出を求めた書状である。この中で四郎次郎(竹福丸)も人質を提出したことがみえる。また、この書状より[史料6]の時点で在府していた四郎次郎(竹福丸)が、永禄11年10月輝虎の出陣の際は本庄氏攻めに出陣していたと考えられる。

ちなみに、『本荘氏記録』には永禄10年5月24日「敵将軍嶺ヲ取立、鮎川・黒川二頭ニテ持固ム」、9月15日「東ニ陣取衆ハ上条弥五郎、斉藤下野守、北条弥五郎後丹後守、黒川左馬頭、上田修理亮、古志衆、下田衆、大面衆ナリ」とある。それぞれ永禄11年の出来事で、黒川左馬頭は黒川四郎次郎の誤りである。上杉方の前線である将軍嶺すなわち笹平城に対する支援に黒川氏も関わっていたはずで、[史料5]で見られた黒川家中が活動していたことであろう。北条弥五郎は永禄11年8月22日上杉輝虎書状(*6)に村上へ派遣したことが記されているから、四郎次郎(竹福丸)も同じ頃派遣されたのかもしれない。

この後、永禄12年頃に中条氏と所領を巡り相論となるが、これについては別の機会に検討することとして割愛する。


[史料7]『上越市史』1246号
(表紙)「御軍役帳」
(前略)
黒川四郎次郎
九拾八丁             鑓
拾五人 甲・打物・籠手・腰指    手明
拾丁  笠・腰指         鉄炮
拾本               大小旗
拾五騎 甲・打物・籠手・腰指    馬上
以上、

同心 土沢
弐拾七丁            鑓
壱丁  笠・腰指         鉄炮
壱本              大小旗
弐騎  甲・打物・籠手・腰指    馬上
以上、

自分同心共ニ
合 百弐拾五丁         鑓
  拾壱丁           鉄炮
  拾壱本           大小旗
  拾七騎           馬上
以上、(後略)
(張紙)「天正三年 弐月十」

[史料7]は上杉謙信が定めた軍役帳から、黒川氏の部分を抜粋したものである。同心に土沢氏の存在が確認できる。黒川氏の合計が148人、土沢氏の31人を加えると179人となる。中条氏が計140人、大見安田氏が148人、加地氏が158人、五十公野氏が124人であるから平均的な揚北衆の軍役といえるだろう。


[史料8]『越佐史料』五巻、324号
今度わひ事におよひ候あいた、本地ちさうたう(地蔵堂)屋しき出之候、きやうこう、ほうこうかんよふに候、
天正三年
霜月廿三日     政実
今井弥七郎とのへ

[史料8]は前回検討したように、黒川四郎次郎(竹福丸)発給と推定した文書である。これ以後、四郎次郎(竹福丸)は史料上確認できない。

そして御館の乱に関連して黒川源次郎が伊達輝宗より書状が送られている(*7)。「其方進退之儀、今度越国江茂申越候」とあり、御館の乱頃には黒川家当主として源次郎が活動していたと理解できる。よって、四郎次郎(竹福丸)は天正4年から6年頃に死去したと考えられる。

父と思われる先代実氏の初見が天文11年(1542)であり、竹福丸の初見が永禄3年(1560)である。そして、元服が永禄10年(1567)と推測できる。以上より、元服を15歳と仮定するとその初見時には8歳、生年は天文21年(1552)と逆算できる。死去は天正4~6年(1576~1578)であるから、享年は25歳前後であろう。

ちなみに、『上越市史』で天正5年に比定される上杉謙信書状(*8)中に「人数重而可越由候間、村善ニ黒川衆差越候」とある。この「黒川衆」とは、直前に「村善」とあることから村山善右衛門尉慶綱に関係の深い黒瀧衆を表現したものと考えられよう。

以上が、中条氏との所領相論文書を除くと全ての黒川竹福丸関連文書となる。短命であり、史料も少ないことからその評価は難しいが、[史料1]で春日山城の留守居を任され、[史料6]において色部氏、安田氏と並んで人質を提出しているように、上杉氏への従属は強化されていたと言えよう。特に、上杉謙信は[史料4]で「政」字を与えたり、[史料5]にあるように若年の四郎次郎(竹福丸)を「膝下」に置いていたり、主従の人的関係による取り込みを図っていたように感じる。ただ、[史料5]に見える石塚氏が本庄氏に与して離反するなど四郎次郎(竹福丸)の代においても自領の支配は固まっていたわけではなく、小領主を抱える大領主という立場が一貫して変わらなかったのも事実である。

ここまで黒川竹福丸について史料の検討をしてきた。また機会があれば、さらに考察を進めていきたいと考えている。


*1) 片桐昭彦氏「謙信の家族・一族と養子たち」(『上杉謙信』高志書院)において、「林泉寺文書」の検討により長尾小四郎の母は「謙信の姉妹かごく近親者であろう」とする。
*2)同上論稿で、柿崎景家の妻は「謙信の近縁者、血縁者」とする。
*3)同上論稿より。史料上長尾源五と入れ替わるように山浦源五が現れること、「村上系図」に上杉謙信の養子になったと記されていること、を理由として挙げている。
*4)『上越市史』別遍1、607号
*5)同上、625号
*6)同上、614号
*7)『上越市史』別遍2、1843号
*8)『上越市史』別遍1、1330号

黒川竹福丸と「政実」

2020-08-01 11:50:25 | 和田黒川氏
和田黒川氏において、永禄から天正にかけて見られる当主は黒川竹福丸である。竹福丸とは幼名である。ここでは、元服後に名乗った実名について考察したい。


 [史料1]『新潟県史』資料編4、1347号(反町家・三浦和田黒川氏文書)
黒川四郎次郎
  平政
永禄十年
拾二月三日

 [史料2]『越佐史料』四巻、335頁(菅与吉氏所蔵文書)
地かたの義、申まかせられ、鼓岡之内千苅出之候、於向後いよいよほうこう簡要候、仍如件、
永禄四年
六月廿三日     竹福丸 実
今井半内助とのへ

まず、[史料1]名字書出は竹福丸の実名についての好史料である。これをそのまま受け取れば実名は「平政」になろうが、不自然さを感じる。それは、上杉氏に縁のある「政」字が下にきていること、黒川氏は「実」を通字としており四郎次郎を名乗る嫡流黒川氏としてはそぐわないこと、に由来する。

実際に竹福丸の名で発給した[史料2]には黒川氏の通字「実」の文字が見られる。幼年の時に通字の一字を書き加えるのは、色部勝長や本庄繁長でも見られる形式である。よって、竹福丸も実名に「実」字を用いた可能性があると考えられる。歴代黒川氏をみても「実」を二文字目に用いる例がほとんどであり、四郎次郎を名乗る嫡流の竹福丸もそうであったのではないか。


それでは、[史料1]をどう捉えたらよいだろうか。

まず、欠けている発給者には、黒川氏の上位権力者である上杉輝虎(謙信)に違いないだろう。「平政」という実名だとすると、輝虎は全く関係のない「平」字を竹福丸へ与えたことになるからやはり不自然である。

どちらかというと、上杉氏に縁のある「政」字を与え名字書出であったと考えるべきである。「政」が一文字目とすると「平」字が浮いてしまうが、これは黒川氏の本姓平氏を意味すると考えれば辻褄が合う。

つまり「ひらまさ」ではなく「たいら まさ」なのである。実名の二文字目は欠けてしまったか、書かれていなかったと考えられる。その二文字目こそ、[史料2]に見られる、「実」字であろう。

以上を勘案すると、最も適切な竹福丸の実名は「政実」である。


[史料3]『越佐史料』五巻、324号(菅与吉氏所蔵文書)
今度わひ事におよひ候あいた、本地ちさうたう屋しき出之候、きやうこう、ほうこうかんよふに候、
天正三年
霜月廿三日     政実
今井弥七郎とのへ


これを裏づける史料が[史料3]である。実名「政実」と残る文書であり、その内容や宛名は[史料2]との類似性がある。[史料2]の鼓岡は現在も地名として残っており、[史料3]の「ちさうたう」=地蔵堂も『中条町史』より大字乙に小字地蔵堂が確認される。地理的にどちらも黒川氏の影響下にあったと考えられ黒川氏発給文書として矛盾しない。

さらに[史料3]の伝来は、竹福丸発給の[史料2]と同様に菅与吉氏所蔵文書でありその共通性は明らかである。

よって、[史料3]が黒川竹福丸が元服後に四郎次郎政実と名乗ったことの証左であると考える。


ここで、[史料3]が『戦国遺文武田氏第四巻』において、「(群馬県))藤岡市・黒沢家文書」伝来の「長井政実判物」とされている点を解決したい。結論から言えば、『戦国遺文』における、[史料3]の人物比定、伝来の記載共に誤りであろう。朝倉直美氏「御嶽・三ッ山城主長井氏に関する基礎的考察」に長井政実文書が一覧化されているが、そこで長井政実発給文書の中に[史料3]はない。また、黒沢(喜久美)家文書の目録を確認しても、それは黒沢家に関係する7通で[史料3]は認められない(*2)。ちなみに黒沢文書内の内、長井政実の文書については朝倉氏論稿の一覧にしっかり載っている。『越佐史料』が採録した以上越後関連文書であり、『上越市史』にも「菅与吉氏所蔵文書」とある。[史料3]は長井政実判物ではない菅与吉氏所蔵文書なのである。よって、[史料3]を黒川政実とする比定に問題は無いことがわかる。


以上より、黒川竹福丸・四郎次郎の実名は「政実」であると考えられる。


追記:
菅与吉氏所蔵文書には同じ黒川である黒川盛実の発給文書も所収されている。「政実」が黒川氏である可能性はより強くなったといえる。

記事はこちら


*1)『新潟県史』資料編4、1108号や『新潟県史』資料編5、3627号など
*2)群馬県立文書館ホームページより

※21/4/11分かりやすくするため一部修正を加えた。追記を載せ、リンクを追加した。

黒川実氏書状案の検討

2020-07-21 12:37:25 | 和田黒川氏
[史料1] 『新潟県史』資料編4、1482号
(張紙)「十四、黒川実氏書状案」
来簡之趣具令披見候、并使者口上之旨承候、然者中条間之義示給候、惣別今度之鉾楯、於様体者、大概去年以来申旧之条、不再意候、将亦先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去、已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き、然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候、如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候、如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候、以是彼覚悟之様、可有御校量候、巨細猶使者任口説不具候、恐々
天文廿一年
  六月廿一日     黒川実
山吉丹波入道(政応)殿

天文21年黒川実氏書状案[史料1]を検討して整理してみたい。これは伊達入嗣問題時の揚北衆の動向を詳しく確認できる好史料である。文書内の出来事を発生時期ごとにまとめながら逐一確認していきたい。

①「先年中条弾正忠伊達之義馳走、就中時宗丸殿引越可申擬成之候、剰彼以刷、伊達之人衆本庄・鮎川要害把之条、彼面々大宝寺へ退去」
天文8年の伊達稙宗の越後侵攻に関する部分である。中条景資が伊達入嗣問題を推進し、伊達軍の本庄氏鮎川氏攻撃を手引きしたとある。

②「已他之国ニ罷成義、難ヶ敷候間、色部令同心、揚北中申合、中条前之義押詰、巣城計ニ成置付、落居之砌、伊達従晴宗無事為取刷、被及使者之上、従拙者も府へ及注進候つ、従府内も承筋目候条、任其意候き」

これは、伊達入嗣問題に反対する揚北衆の中条氏攻撃に関する部分である。伊達氏の侵攻で小泉荘の一部が他国になってしまったため、反伊達・中条派の黒川清実・実氏が色部勝長と共に揚北衆を糾合し中条氏の本拠鳥坂城を攻撃、「巣城」だけにしたという。「巣城計」と「落居之砌」が別々にあることから、巣城に押し込んだ後から落城までに時間差があったことが推測される。落城の際には、伊達晴宗の仲裁があり「無事」となり、府内長尾氏の意向も確認して従っていることが分かる。

 [史料2]『新潟県史』資料編4、2076号
其以来態不申届候間、差越使者候、於其口日夜加世義、殊至于中条度々一戦勝利、併忠信無是非候、定落居不可有程候、弥被抽粉骨簡要候、委細可有彼口上候、恐々謹言、
九月廿八日     晴景御判
田中兵部少輔殿

この鳥坂城攻防戦についてここで年次比定を試みてみたい。[史料2]は鳥坂城攻防戦に関する色部氏家臣田中氏宛ての長尾晴景書状である。9月末の時点で落城寸前だったとわかる。この頃には為景ではなく晴景が書状を発給していることが注目される。これは天文10年末の為景死去が関係しているのではないか(*1)。さらに、鳥坂城落城の仲介を伊達晴宗が行っていることが重要と考える。黒川氏ら揚北衆にとって伊達氏は中条氏と並ぶ直接の敵対勢力であるはずで、その伊達氏との通交が可能なのは天文11年6月の伊達天文の乱(*2)で稙宗と晴宗に分裂後であろう。わざわざ伊達晴宗とあるのもそれと整合する。中条氏が伊達氏の分裂により後援を失ったこと揚北衆の攻勢が激化、揚北の混乱を治めて味方を増やしたい伊達晴宗が仲介に及んだというところだろう。

以上より、鳥坂城の落城は天文11年10月頃と比定する。①より天文8年には中条氏の伊達稙宗へ与する姿勢は明らかであるから、数年に渡る対立があった可能性がある。

③「然処ニ先弓矢之以威気、境候上郡山引付、弥三郎事重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意之条、此時者旁々得助成候而、可及静謐之処ニ、只今和融之様承候、更意外ニ候」
まず、「弥三郎」の人物比定が重要である。従来、色部弥三郎勝長に比定されることが多い。しかし、②にあるように伊達入嗣問題に関して色部勝長は黒川実氏と共に一貫して反伊達稙宗派、親府内長尾氏・伊達晴宗派であった。勝長から離反して伊達稙宗に味方した色部中務小輔らがいるが、「弥三郎事」は弥三郎個人を指していると見るべきであり、弥三郎=勝長では「重而伊達へ申合、向当地露色事、対国逆意」という一文と矛盾する。よって、この「弥三郎」は中条弥三郎房資だと考える。この文書が黒川氏と中条氏の所領相論関連であることを踏まえると、府内長尾氏方黒川氏と伊達稙宗方中条氏の対立構図の強調が見られることは当然であり、反対に所領相論に関して仲介役の色部勝長を貶めることは利点がない。

「弥三郎」が中条房資だとすると、鳥坂城落城後の動向が見えてくる。「先弓矢之以威気、境候上郡山引付」とあるが、これは国境の上郡山氏が先の戦勝の勢いを以て攻めてきた、と解釈できる。上郡山氏の戦勝といえば、天文11年11月上郡山為家書状写に「就中去十小玉川之地江及行、遠藤平兵衛尉・舟山周防守為始、一類一人も不残討取候」とあるのが想起される。この書状からは小玉川だけでなく長井庄などでも稙宗方が優勢だったとわかる。よって、伊達天文の乱勃発の隙に鳥坂城を落とされた中条氏であったが、稙宗方の勝利に乗じて再びその陣営へ付いたと考えられる。

黒川氏の「対国逆意」という表現は、黒川氏が府内長尾氏側として行動していることを強調するものだろう。天文9年に長尾為景・晴景が獲得した「治罰の綸旨」を意識しているとも考えられる。

そして、この房資の行動は「旁々」の援助によりまもなく鎮圧されたと読み取れよう。②の時点で、中条氏に対し揚北衆は「揚北中」と表現されて中条氏に対抗しているから「旁々」は揚北衆とは別の存在であり、「旁々」が二人称であることを考えると、それは山吉氏に代表される府内長尾氏勢力を指す。すなわち、中条氏ら稙宗方勢力の鎮圧に府内長尾氏も直接支援していたということだろう。鳥坂城落城を天文11年と比定したため、これは天文12年頃のことだろうか。すると長尾景虎が中越下越の混乱に対して栃尾城へ派遣された年次とも一致し、越後国内の情勢と矛盾なく同期する(*3)。

④「更意外ニ候、爰元御塩味簡心ニ候」
ここまでの部分を所領相論の判断材料にしてほしいという意味であり、それが所領相論の当事者黒川氏と中条氏に関することであることを補強するだろう。

⑤「如被露紙面、一庄之義与云、此比者無別条候、其故者、弥三郎家中有横合、彼進退偏ニ相頼之条、為石井其外令追罰、不移時刻、為遂本意候事、無其陰候」
ここだけみれば「弥三郎」が色部勝長で「横合」が色部中務少輔らの反抗と捉えられるが、前述の部分と此の部分が共に「弥三郎」と名字が省略されていること、「以是彼覚悟之様、可有御校量候」という後の一文がやはり黒川氏が中条氏と対立する中での主張とみるべきであり、「弥三郎」は中条弥三郎房資に比定されるだろう。

では、追罰された「石井」とは何者であろうか。中条寒資・石井茂義・比丘尼恵順三名寄進状(*4)にその徴証がある。寒資は中条藤資の四世代前にあたる人物であり、寒資らはこの文書で寄進先の大輪寺に「亡父母」の菩提を弔い子孫繁栄を祈願している。従ってこの寄進を行った寒資と石井茂義は兄弟と見られ、中条氏家中に石井氏の存在を見出すことができる。

よって、天文12年以降中条房資家中に反乱があり黒川実氏が鎮圧に動いた、ということが想定される。そしてそれは、「如斯之処ニ我か儘之刷、無是非候」とあることから「追罰」は府内長尾氏の意向に沿ったものであったと考えられる。

以上、天文10年代の揚北の動向を伺い知ることができた。本文中でも言っているがこの書状は黒川氏が天文21年の所領相論の際に府内長尾氏へ自らの立場を主張したものであり、これらの記述は中条氏との対立を軸に府内長尾氏と矛盾しない立場での黒川氏の事績と考えるべきである。そして、それが天文後半の10年間にわたることに留意する必要がある。それを踏まえて上記の考察を進めた結果、伊達入嗣問題とそれ以後の揚北の混乱期において黒川氏は一貫して府内長尾氏との協調路線をとっていたことが理解され、また、裏返せば中条氏には混乱が生じていたことも読み取れる。今後はさらに、他の視点からも伊達入嗣問題を考察してみたい。


*1)[史料2]が天文11年となると、中条景資の進退に言及する『新潟県史』資料編4、1056号も天文11年に比定できる。すると、長尾晴景発給文書は父為景の生前には見られない。
*2)伊達天文の乱の勃発が天文11年6月であるのは「晴宗公采地下賜録」の奥書に「天文十一年六月乱之後」とみられることからわかる。
*3)この場合長尾景虎は中条氏を中心とする伊達稙宗派の反抗を制圧したと考えられるがその後中条氏が席次トップとなることと矛盾が生じ、検討が必要である。例えば、晴景からの権力移行や弘治年間の景虎隠居騒動といった混乱期に立場の変化があった、といったことが考えられる。元々、享禄天文の乱などにおいて中条氏は揚北衆の中心的立場にあり、そういったことも関連したのだろうか。
*4)『越佐史料』二巻、660頁


※2021/2/23 「石井」と中条氏の関連について加筆した。以前は憶測として記載していたが、史料的根拠から石井氏が中条家中に存在したことを示した。また「黒川氏家臣座敷図」なる史料に言及したが、文書などで見られる家臣団と姓名が大きく異なり「黒川氏家中」として鵜呑みして良いか疑問が生じたため削除した。

黒川実氏の動向

2020-07-19 11:25:32 | 和田黒川氏
実名を「実氏」とされる黒川四郎次郎(*1)は清実の次代として天文11年から所見される。

追記:20/11/8
「実氏」の実名は史料的根拠に乏しい。私は『越後過去名簿』の検討から、「実氏」の実名が実際には「平実」である可能性を提示している。

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天文11年に伊達天文の乱が勃発し、11月に伊達稙宗陣営上郡山為家が「黒川四郎次郎殿」を勧誘しているものが、実氏の初見である(*2)。黒川氏と地理的に近接する羽前小国の上郡山為家が「雖事新申義候、年来得御扶助候間、吉凶共に被仰合者可為本望候」と年来の親交を理由に稙宗陣営への参加を誘っている。同年12月には反対に伊達晴宗が実氏へ、稙宗側の中条氏と小河氏に圧迫されていた本庄氏を除く他の揚北衆と並んで「彼在城(上郡山為家居城)へ御調儀候而、被加対治候者、可為専悦候、頼入計候」(*3)と稙宗陣営の上郡山氏攻撃を依頼している。

この次の所見は天文21年と弘治元年の中条氏との所領相論に関わる文書となる。そして、弘治元年12月4日に長尾宗心書状案(*4)に「黒川下野守」とあるのが終見となる。弘治元年11月29日長尾宗心書状案(*5)には「黒川四郎次郎殿」と見えることから、所領相論と関連して弘治元年11月末から12月始に下野守の受領名を獲得したと考えられる。

永禄2年3月には黒川孫五郎が(*6)、永禄3年8月には黒川竹福丸が見える(*7)ことから、永禄2年(1559)までに死去したと考えられる。

実氏は仮名四郎次郎から清実の嫡子と考えられよう(*8)。前回清実の生年は永正前~中期(1503~1512頃)と推定した。実氏の初見天文11年(1542)を考慮すると、享禄年間(1528~1532)頃の出生であろう。その享年は30歳頃となる。

その後、黒川氏は永禄2年3月に黒川孫五郎が直江実綱より上条の地の郡司不入を認められているのが確認される(*6)。これは、黒川清実が直江酒椿に認められたもの(*9)の継承である。孫五郎は幼少の実氏子息竹福丸の後見であろうか。永禄2年の『祝儀太刀之次第写』には黒川氏の名前がなく、その理由は当主が幼少であることかと考えられる。

また、弘治2年の大熊朝秀の乱に際して蘆名氏傘下の山内舜通が大熊へ「然者越州辺之儀、小田切安芸守可走廻候由候也、依之承旨候、何様黒河令談合、一途ニ可走廻候」と伝えている(*10)。「黒河」を越後黒川氏と捉えればこの頃姿を消す黒川実氏との関係が気になるが、これは蘆名氏の本拠黒川を指すと考えられる。発給者の山内氏は金山谷横田を拠点とした領主であり、蘆名氏からは独立性の高い存在であった。すると、蘆名氏中枢から発給された文書ではないと考えられ、「黒河」が蘆名氏を指すと考えやすくなる。他国の者には「会津」と呼ばれる事が多いが、蘆名氏勢力内ではより詳細な「黒河」で呼ばれることもあったのだろう。蘆名氏を黒川と表現する例として、平等寺薬師寺嵌板墨書(*11)の「くろ川より不調儀之由御せっかん」などが挙げられる。よって、この書状は山内氏が蘆名傘下の立場から大熊に蘆名氏との連絡を密にするように助言した、といったところだろう。

今回は、天文21年黒川実氏書状案について言及しなかったが、天文後期の揚北の動向を詳しく知ることができる文書であり、別の機会に詳しく考察したい。



*1)実名「実氏」は、新潟県史1482号文書の外題「黒川実氏書状案」から確認できる。しかし、外題が後代に副えられたものである点には注意が必要である。
*2)『越佐史料』三巻、856頁
*3)同上、858頁
*4)『上越市史』別編1、132号
*5)同上、131号
*6)同上、163号
*7)同上、211号
*8)実名「実氏」は通字を一文字目においており、黒川氏歴代や他揚北衆を見ても珍しい。これは、伊達入嗣問題を経て黒川氏の権威が上昇したことを表している、または、実氏は庶子であった、もしくは、外題の伝える「実氏」が誤りである、といった可能性が考えられようか。
*9)『上越市史』別編1、119号
*10)『新潟県史』資料編5、3755号
*11)同上、2936号

※21/4/17一部加筆修正した。


黒川清実の動向

2020-07-18 14:22:40 | 和田黒川氏
前回の黒川盛実に引き続き、その次代清実の動向を追っていきたい。

黒川清実は享禄4年1月の越後衆連判軍陣壁書(*1)に「黒川四郎右兵衛尉 清実」と署名しているのが初見である。よって、享禄の乱では他領主と共に長尾為景に与したとわかる。

天文の乱では揚北衆は一転して上条定憲へ味方し、清実も例外ではなかった。天文4年6月に蒲原津に在陣していた上条定憲の元へ参陣した「奥山、瀬波の衆」(*2)に清実も含まると考えられ、8月には清実が上条方として本庄房長、鮎川清長、中条藤資と共に平子氏へ西古志郡領有を認める書状を発給している(*3)。9月には清実を含め揚北衆7名の連署で羽前庄内の砂越氏へ援軍の要請をしている(*4)。天文の乱以降は中条氏らと同様に天文6年までには為景と和睦したと考えられる(*5)。

天文8年までに出された長尾張恕(為景)書状(6*)の中で「中弾并黒兵へ度々覚悟旨申越候処、無相違返章」とあり、和睦以降は為景に協力する姿勢をみせている。この文書の後天文11年(1542)には次代黒川四郎次郎が史料上に現われ、清実から権力移行が図られたと考えられる(*7)。

しかし、清実は以降も史料に散見される。例えば、『越後過去名簿』において天文16年に黒川右兵衛尉を依頼者とする供養が複数確認できる。前嶋敏氏「景虎の権力形成と晴景」(*8)において『越後過去名簿』には権力中枢と関わりがある武将が多く、黒川氏もそうであった可能性が指摘されている。伊達入嗣問題を巡る揚北衆の混乱において伊達氏に協力した中条氏と相反する形で、清実父子は府内長尾氏との連携が深まっていったといえるだろう。

清実の終見は天文23年直江酒椿が清実へ知行する上条の地について郡司不入を認めたものである(*9)。よって、天文末期から弘治年間の死去と見られるだろう。

清実の初見は享禄4年(1531)、終見が天文23年(1554)である。前代の盛実は永正6年(1509)が初見であり、天文11年(1542)には次代四郎次郎がみえる。清実は永正前期から中期の誕生とみられる。四郎を名乗るのも、黒川氏代々の仮名四郎次郎に通じており盛実の嫡子とみていいのではないかと思う。

*1)『新潟県史』資料編4、269号
*2)『越佐史料』三巻、812頁
*3)同上、818頁
*4)同上、822頁
*5)同上、817頁、中条氏の回で検討した。
*6)『新潟県史』資料編4、1439号
*7)『越佐史料』三巻、856頁
*8)『上杉謙信』編福原圭一・前嶋敏、高志書院
*9)『上越市史』別編1、119号