3.11後の世界

その後の世界について書きます。

絶対解の刷り込み

2016年05月04日 11時38分33秒 | 日記
人生というか この世の中に絶対解というのはあまり存在しないと思うのです。



多くの人にとり 正解はもしかしたら あるかもしれないけれども それを正解としない人もいるわけです。


また どの場面でも どれが正解に近いか と考える人が多いわけですが その人のその時点で正解であっても 時が経ち 状況や 時間が変われば正解と思われたものは 正解でなくなります。


そして正解は その人により違います。


ある場面で まったく同じ前提の人 環境の人がいないように これから歩む人生が違うように

同じ選択をしても それが正解と感じる人もいれば 間違いと感じる人もいるわけです。

乱暴に これが 正解だといえない。
 

だから 人生は ~ なんだよ とわかった口を利くのはかなり 暴力的な話なのです。



絶対解 鉄板はありえません。



そして 

選択方法の手段として

面白いからやってみようという発想の強さはここにあります。

人生が非常に面白いものになるわけで、偶発的な人生を歩めます。

それは昨日書いた 認識の向こう側を歩むことにもつながります。

なので 意図的に 正解不正解で選択せず 自分の価値観でもって人生選択をするのもひとつの方法だと思うのです。



また、人は選択肢がないと選択しづらいともいえます。

生きていくなかでぶちあたるドアの 四択や二択のような中から人生を選択していくのです。

その中で どちらが ガチか どちらが 鉄板か なんて選択しているわけですから

まあまあ まあ といった感じです。

それをよいとも悪いともいえないです。ドアが四枚ある以外のほかのドアが見えないのですからしかたないです。認識できないドアです。






学校の授業の延長で 回答が1つしかにない と思う時代は過ぎようとしていますが

今だ多くの人は そうはいっても と それを受け入れられないでしょう。

なぜなら それを考える事がめんどくさいからです。


なんとなく選択し なんとなく生きる 

そういうのって 安全パイかもしれないですけど つまんないですよ



突然死

2016年05月04日 01時15分05秒 | 日記
最近 自分はいつまで生きるんだろうか 

10年後もいや 5年後すら もしかしたら 来年はないかも もしかして 来月は・・・

という脅迫的な感覚をもつようになってきています。




SNSの登場により 今まで水面下にあった情報があぶりだされてきています。

SNS普及前は さほど突然死や 病気が表面化しづらかったのが 今 ちょっとしたレベルのものですら 伝達されます。





その中で考えたことがあります。

長寿国という刷り込みは 誰かの思惑で

未来という時間をネタに ローンをくませたり 労働をさせたい人がうまくつくりあげた幻想ではないか?と よく思うのです。

レバレッジというのが 少ない出資金すべてまるなる
掠め取るための手段であることは周知の事実ですが 


長く持ちますよ 老後に備えて いくつになったら のような セールストークは まるで未来まで 賭けさせる胴元のうまい口上に思えるのです。


団塊世代という太い世代が高齢化を迎え 社会にとり死というものが身近になってきました。
しかし、そもそも われわれの人生は 常に死と隣あわせで 老いも若きも明日さえ未定なのです。