最近 フクシマの影響を よく考えるネットの書き込みが多くなりました。
それはさすがに トンデモ だろう という記事 が多かったのが
ソース、根拠、エビデンス ともいうべき 記事 特にTWITTER,FBなど SNS系のものが 目に付くようなってきたからです。
表面化しない程度のものが 表面に現れる程 多くなった と私は 見ています。
ほんとにおかしいのでないか? ほんとはヤバイじゃないのか? です。
そんなもの無いといえば 無いのです。しかし有るのではないか と 客観的に見える状況になってきたような印象を受けます。(因果関係が証明できないので こういう表現になる。)
やたら心筋梗塞 心不全 脳梗塞 急性白血病が多くないのですか?
芸能人などテレビに露出しているだけでも 最近そればかりです。 昔はそんな事なかったのです。(2011年より前)
今日も 元大関貴ノ浪 音羽山親方が死去 です。 またかよ
今まではただ 騒いでいるだけで ありもしないことや おおげさな内容だなあとも思って 半信半疑ながら とりあえず 回避しようとしていましたが どうも ここ最近は 真剣にとりくまないとまずいなあと考えるのです。
そうです。 実は 私も、多くの皆さんと同じように 半信半疑で トンでもだろうという思いや 考えは どこかにあったのです。
ブログを書いていてもそうでした。 どこかに大丈夫かなあ という思いがあった。
しかし、個人的な経験や 出来事もあり ルールや方程式のように 放射能=第一回避リスク というような暗記して実践してきた のです。大丈夫じゃないの?と思いながら 移住の準備をして 生活に気おつけていたのです。
そしてこの問題には二つの大きな要素があります。
一つ目は 人体への影響 原子レベルの細胞にダメージを与える放射線 DNAにダメージを与え、修復がおいつかないレベルになるという事実
二つ目は社会的な構造の問題
目に見えないことをいいことに 大丈夫 気のせいだと 繰り返す 放射能が危険だと困る人達、自分の目の前の生活を守る事が精一杯で 社会の影響など考慮しない人達 が大勢いて その事実を捻じ曲げ 隠蔽する構造
一つ目が事実あっても二つ目がそれを打ち消してしまう。
このような流れで 結果的に 首都圏に滞在する時間をできるだけ短くするということにつながりました。
多くのブロガーのように 首都圏に滞在しながらではなく
現在、私は 片足抜いている状態です。
いつでも抜重できる状態です。
とりあえず一抜けた感でホッとして 次の事を考えているので 放射能のリスクを調べる時間は少ないのも事実です。
遠い目で 首都圏民の状況を見ているといっていいかもしれません。
そして、標は 日本そのものから抜重できる軽さを身に着けたいと思っています。
けれども、日本は終わりとまでは考えません。それは チェルノブイリ周辺の都市でも経済は成り立ち、ウクライナは交戦状態になりましが 経済はそれなりにまわっていました。 人がいる限り 経済はまわるのです。そして生活もまわります。
日本終了 撤退といいきれないのは 海外には別のリスクがあるからです。
さらにそれが判明したとしても すぐ書くことはないでしょう。多くの人が暮らしているわけですし 何のメリットも無い。
そう考えると 実は 既にそうだと確信を持つ 一部の人がいても ネットに書かないことは容易に想像できます。
多くの人にとり日本を捨てるなど非現実的選択肢です。放射能でやられるまえに 飢え死にします。
最近のフクシマ原発から水蒸気 たくさんでているなどの書き込みを見て ヒバクシャという映画の事をよく連想するのです。
そこでは ハンフォードの風下の住人が次々と死んでいった。という箇所があるのですが、
今の フクシマの風下にあたる地域はすべてそれと同じもしくはそれ以上の影響下にあると 思うのです。
ですので 関東だけが危険というわけではなく 長期的にみると 何のさえぎるものがない地域や 一度汚染が入るとなかなか抜けない 盆地的地形の地域は よくよく考えないと とりかえしのつかないことになると思うのです。
日本の多くの人が知らない事実ですが 今でも 原発からもれています。
そして 今でもヨウ素がでているのです→つまり臨界しているのです。
(メデイアに出ない事は多くの人が理解できないのです)
そんな人いるの と思う人は 近くの人に聞けば きちがい扱いされるか無視されますから それがすぐ本当だとわかるでしょう。
多くの人にとり 放射能などどうでもいいことなのです。いつ降り注ぐか それとも降り注ぐかどうかわからない災いよりも日々の生活で精一杯なのです。
放射能漏れの風下に すみ続けるリスクは相当大きいものとなる
これが 歴史から わかる事実です。
これは 我々が死んだあとにおぼろげながら なにが正解だったかわかるだけで
取り返しはつきません。
それで どうするのか という事なのです。
我々の人生は 長生きする為のものではありません。
内容の濃い時を できるだけ多くすごす為です。
経験や体験などの最大化です。
その為に 長い時間生きれば その可能性は自動的に可能性は大きくなりますが
長い時間生きるだけではその要件を満たすとは限らないのです。
ですから リスク回避と同時に いかに人生を豊かにするか じゃないか
その為に 思考する必要性を感じます。
そのようなわけで 今一度 皆さんも 再考してみてはいかがでしょうか?
このままでいいのだろうか?と
歴史とは こういう事実を指します。
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