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ニッポン現代アートの旗手 6 彦坂 敏昭さん カフカの現代日本

2019-10-20 00:48:02 | 日記

A.写真からの創造

 昔の画家というのは、野外に出て風景を写生したり、室内でモデルを置いてデッサンしたりするものだというイメージがあった。たぶん、19世紀のヨーロッパで印象派の画家たちが、そうやって絵を描いていたことに倣わねばならないと思ったのだろう。今でも美大受験予備校では、石膏像やモデルを写生することが画家を目指す上での基礎的な訓練として行われているようだ。しかし、はっきり言ってもうそんな必要はほとんどない。写真というものが発明されて目に見えている光景を、形や色で記録することは画家の仕事ではなくなり、さらに写真技術の進歩は、誰でも簡単に画像撮影ができるようになり、いまやいつでもどこでもスマホで一瞬にして精細な画像を撮影し、即座に保存したり削除したりできるだけでなく、コンピュータで画像処理することもできる。

 そういうテクノロジーを、アートとしてどう使いこなすか、すでに20世紀の後半、アメリカのポップ・アートは、絵筆や絵の具で何かを描くのではなく、雑誌やポスターなどに使われた画像を手作業で加工して、絵画の歴史を塗り替えていた。21世紀の美術は、コンピュータでその先に何を創り出すことができるのかを競う方向と、相変わらず過去の伝統にとどまりつつそれを焼き直したりパロディとして提示することで、生き延びる方向とに分かれているように思う。

 彦坂敏昭さんという人のやっているのは、どうやら写真をどこまで操作し加工して新しい表現にまでもっていくか、ということを追及しているらしい。高階秀爾先生の解説はこうなっている。

 「「像画(背景に落ちていく)」人間の内臓の一部を電子顕微鏡で映し出した写真を見たことがある。薄赤い斑ら模様が画面いっぱいにぼんやりと拡がるなかに、一ヵ所だけ、周囲の色が集まって凝固したような濃く赤い塊がある。それはまるで、赤い海に浮かぶ島と言ってもよいようなイメージである。だが「島のよう」に見えるのは、実はこちらがそう見定めたからである。実際にはそこに塊があるのかどうかはわからない。見方によっては、むしろ逆に、何もない穴のようにも見える。単なる二次元の茫漠とした拡がりのなかに、「島」や「穴」を見出すのは、人間の眼の作用である。ある部分を周囲から区別してひとつのまとまりとして捉えること、すなわち「象(かたど)る」ことによって「形象」(かたち)が生まれ、「対象」(もの)が存在を獲得する。

 ドラクロワは、「自然のなかに線は存在しない」と語った。山や川、草や木は存在しても、その姿を表わす線は、実体としてはどこにもないというのである。だが山や花の存在がそれと認められるためには、その姿を周囲から区別するいわば境界線が必要となる。画家は線描デッサンによってその存在を表現する。輪郭線を用いないドラクロワの作品においても、花をそれと識別できるのは、境界線が想定されているからにほかならない。そのようなかたちの組合せによって、絵画は成立する。

 彦坂敏昭の作品は、きわめて独創的な手法によって絵画成立の過程を解体し、新たな造形表現を目指す挑戦的な試みである。出発点は写真、この「象画」シリーズの場合は人間の顔の肖像写真である。そのイメージをコンピュータに取り込んで、まるで皮や肉を削ぎ落とすように処理し、加工して。複雑にうねる線のかたちに還元する。それを版画で紙に転写し、次いでペンや鉛筆で線をなぞり、さまざまな色彩を加えて、色分けした地形図のような世界を生み出す。しかもその画面をさらに三分割し、各部分を離して展示するという方式としたため、完成作は当初のイメージからはるかに遠く隔たったものとなった。しかしよく見れば、眼や鼻のかたちをおぼろげに残し、全体を黒地の背景に閉じ込めて顔を想起させる図柄とする配慮も失われてはいない。見る者は迷宮の中に迷い込んだような戸惑いと、未知の多彩な形象世界に出会う一種の高揚感とを覚えずにはいられない。その新鮮な衝撃力こそが、彦坂敏昭の優れた特性であろう。」高階秀爾『ニッポン現代アート』講談社、2013、p.070.

 「かたち」と「色」、そして「光」が絵画の基本要素だとすると、ルネサンス以来の西洋絵画は、近代科学の開発した光学的視線や数量的な分析手法を採り入れることで、つねにそれまでにない新しい表現を更新し改変して進んできたともいえる。科学の解明したことを応用してテクノロジーを発達させた動きをアートとの関係で考えるのは、なかば必然的な動きだとすると、現代アート作品に関する次の考察も興味を惹かれる点がある。

 「アートとはいったい何なのかを知ろうとするとき、最も遠くに見えるもの――科学と比較して見るのは効果的かもしれません。アートと科学は、同じゴールである「真理」にたどり着こうとして、まったく別の道を歩き始めた二卵性双生児のようなものです。

 そしてこの二つはしばしば交差します。情報を介して、人を介して、そして想像力の飛距離を介して。

 ジェームズ・タレルの作品は直島の地中美術館や、金沢の21世紀美術館、新潟の「光の館」など各地にあるので、実際に彼の作品をご覧になった方も多いと思います。ライフワークとしては、アリゾナの砂漠で《ローデン・クレーター》と呼ばれる、火山の噴火口を舞台にした壮大な作品の制作を継続しています。これは、クレーター内にトンネルでつないだ部屋をつくり、針(ピンホール)穴写真機(カメラ)の原理で室内に天体の像を映し出し、月の表面や宇宙の光と間近に出会える空間をつくるというもの。なんとも奇想天外で、壮大なアイデアの持主です。

 タレルは、私が知っている中でも、もっともきちんとした科学者としてのバックグラウンドをもったアーティストです。彼は最初、知覚心理学、数学、航空宇宙学などを専攻しました。軽飛行機を操縦していたときに感じた、光に包まれる体験が、彼にそれまでとは違う世界のかかわり方に向かわせます。

 「アーティストとは、答えを示すのではなく、問いを発する人である」という彼の言葉は、アートと科学の違いをわかりやすい形で示しています。

 科学とは、世界の真理や構造を追求していくものです。もちろん宗教、哲学、アートも世界がどうなっているか探求しているわけですが、科学の目的は私たちの身体の構造も含めて、世界で起こっているさまざまな事象に共通する一つの答えを探求していくことにあります。一万回、同じ実験をして、一万回、同じ結果でなくてはいけない。それが科学です。

 一方、アートの場合、同じ一つの作品を一万人の人が見たら、一万人それぞれが異なった答えを出す。複数の作家が同じモデルを見て制作した絵にも、一つとして同じものはないのです。

 多様性を前提とするというアートと、解が一つでなくてはならない科学には大きな相違があります。しかし、一つの大きな共通性があります。それは、未知なものに向い、新しいものを作り出すという創造性です。科学は新しい心理を発見し、新しい世界の構造を解明する。アートも、いままでなかったものを出現させていく。

 その為かどうか、私は科学者やアーティストとつき合っていると、似たものを感じることがあります。どちらも自分勝手、よくいえばマイペースです。数学者は時間を守りますが、アーティストは時間を守らないし、科学者はそもそも時間を忘れます。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.82-84.

B.池内紀さん追悼

 池内紀さんのことは、NHKのFMで毎週日曜に放送していた番組に、しばしば登場されていたのを聴いていたくらいで、その著作はぼくはカフカの翻訳のいくつかを読んだだけでしかなかった。放送のなかでドイツ文学に触れたことはほとんどなかったが、その控えめな発言はなんだか魅力的に感じていた。

 「節を曲げず 創造続ける人に光  池内紀さんの仕事 評論家・作家 松山巖

8月末に没した池内紀さんの仕事をふり返ると、ドイツ文学者として翻訳ばかりか、特にナチス問題を繰り返して検証し、さらに人生を自身の身の丈に合わせて生きる大事さを語り続けたと、今は強く感じる。

 まずは翻訳。東大教授を辞してまで完訳したカフカ全集から選べば、『変身』を挙げたい。1912年に書かれた奇妙な物語だ。主人公ザムザが朝、目を覚ますと、自分がゴキブリのような虫に変わっているのに気づく。彼は家族のために日々働いているのだが、虫に変わると部屋から出られず、やがて腐った残飯を好んで食べ、逆に家族は生き生きと暮らし始めるのだ……。

 池内は本編を今や日本ではありふれているのでは、と解説する。例えば「ある日、息子が勤めをやめて、部屋に閉じこもる。あるいは、いつまでも仕事に就かずノラクラしている。一家の働き手が職を失い、のべつ家にいる場合はどうか。あるいは老いた父親が認知症と診断された」事態そのままではないかと。要するに『変身』は今こそ現実味を持つと指摘する。

カフカの小説は、実は彼の存命中はさほど知られなかった。読まれはじめたのは、彼の小説『審判』そのままにユダヤ人が突然、逮捕される事態が現実に起きた時期と重なる。つまりナチスが権力を握った時期だ。

 池内はナチスについても丹念に調べた。「戦う文豪とナチス・ドイツ」は副題に「トーマス・マンの亡命日記」とある通りマンの日記を読解しつつ、彼がナチスといかに闘ったかを綴っている。ノーベル文学賞を受けたマンの存在はナチスにとり、煙たかったはずで、マンが講演で出国したのを機にナチスは彼の母国への入国を禁じた。以来マンはアメリカに暮らし、ナチス批判を講演や新聞などで発表し続けた。この本に池内の独自性を感じるのは、マンとは異なる立場でナチスと戦った文学者たちの動きも描いた点だ。ツヴァイクはブラジルに亡命し妻と自殺した。劇作家のブレヒトはマンとアメリカで会っているが、、互いに無視した。つまり池内はナチスがなぜ、大衆に熱狂的に支持されたのか、その本質をナチスに反旗を翻した文学者たちの動きを通して見つめ、文学者の在り方を多角的に問いかけたのだ。ならば当然、日本はどんな状況だったか、抵抗する文学者はいたか、という新たな問いが生まれるだろう。

 日本の戦時下の姿は、池内自身が自費出版した一冊が的確に示している。現在は品切れの長尾吾一著『戦争と栄養』(西田書店)。この本の巻末に池内は、出版した経緯を説明し、著者の長尾は池内の母方の叔父で、軍医であったと紹介している。本書で長尾は戦時に亡くなった多くの兵士が戦死ではなく、食糧不足による栄養失調で没した事実を自身が調べたデータを根拠に詳述している。日本では文学者が抵抗する以前に、兵士の食糧さえ不足していたのだ。

 だからこそ池内は、戦時中も自身の節を曲げなかった『恩地孝四郎  一つの伝記』を書き上げたのではないか。恩地を知る人は今や少ないだろう。装丁家として知られているが、彼が大正から昭和初期、油絵や版画、そして詩の世界に新しい波を起こしたグループの中心人物だった事実を池内は詳細に調べた。

 実は恩地の他にも、彼は忘れられた人物をよく綴った。旅行好きの彼は旅先の古書店で見つけた本を資料に、忘れられた人物たちに光を当てた。綴った本のタイトルになぞらえれば、〈二列目の人生〉を生きた人々だ。偉くなったつもりで一列目に並ぶより二列目で自分の世界を見つけ、創造する楽しさ面白さを、池内さんは自分自身の仕事で最後まで語り続けたのだ。」朝日新聞2019年10月19日朝刊17面読書欄。

 自分より年長の尊敬すべき人が、次々と世を去って行く。そして、ぼくより若い才能ある人もあの世に行ってしまうことが目立つ。ぼくは、明日、古来まれなる七十歳を迎える。もう、いつあの世に逝っても不思議でない齢を重ねている。でも、人間の寿命は自分ではどうしようもなく、自分の肉体もコントロールしているつもりでも明日はどうなるかわからない。それはたぶん、60代でも、50代でも、わからないのだが、せめて生きている間に何をしたか、誰かの糧になるような仕事をしたのか、それも結局自分ではよくわからない。そういうものだと、言ってみるが、とりあえず健康で何かができる力があるからこそなのは、言うまでもない、のだな。

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