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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ニッポン現代美術の旗手 4 山口 晃さん 価格決定システムの変革

2019-10-14 03:51:00 | 日記

A.金の雲

 日本の中世の絵画に現れた「雲」「金雲」は、とくに絵巻物と屏風絵に特徴的な手法である。西洋の近代絵画のように、画家の視点が眼の高さに固定され、そこから遠近法と陰影で透視的に画面を構成するのではなく、視点はいわば高い空から対象を見下ろすように俯瞰的で、しかもそこには場面転換も含む雲が観たいものだけを出現させ、余計なものは隠してしまう超越的な視点がある。地上にいる人間は、空に雲がかかっていてもそこから眺める視線を意識することなく、目前の人と現実のなかで生きている。建物も空からは屋根があって中は見えないはずなのに、雲に区切られた画面には屋根はなく、室内まで見渡されている。

 こういう絵画表現が、日本以外でもあるのかどうか、ぼくはよく知らない。ただ、これが非常に効果的に使われた画面は、おそらく平安時代以来の「源氏物語絵巻」のような絵巻と、室町戦国時代の狩野元信や永徳、あるいは岩佐又兵衛などの筆になるといわれる数種の「洛中洛外図屏風」や「江戸図屏風」などの屏風絵であることは異論はないだろう。これを、現代アートに取り込んで面白い効果を生んでいる作品がある。高階秀爾先生の紹介は以下のような文章になっている。

 

 「濃い朱色に縁どられた金雲がのんびりと漂うなかに、堂々たるモダン建築の百貨店が聳え立つ。旗や垂れ幕で華やかに飾り立てられているのは、大売り出しの日でもあるのだろうか。入口のまわりには紅白の幕(?)まで張られて、無数の人々が吸い寄せられるようにむらがっている。日本橋の三越本店か、それならよく知っていると思って眼をこらすと、何かおかしい。すぐ近くの日本橋川には、多くの荷船や屋形船が往きかっているが、今の日本橋にはこのような光景は見られない。大勢の群衆が集っている橋詰めの広場も今はない。一方、川の下、地面の中には地下鉄の駅が見えるし、川の上には高速道路も走っている。

 さらに奇妙なことに、建物のまわりには、未来都市にふさわしいような空中軌道が取り巻く。つまりここには、時代考証もなにもなく、過去と現在と未来のイメージがにぎやかに同居している。いやそれだけではない。現在の日本橋は薄汚れた高速道路の下でうらぶれた姿を見せているが、この画面では、太鼓橋のように大きく湾曲した日本橋が高速道路をまたいでおり、その上を広重の『東海道五十三次』の旅人たちがのどかに往来している。奔放と言おうか、勝手と言おうか、ともかく途方もない想像力である。

  だがそれでいて、画面全体から湧き上がる華やかなお祭り気分は、かつて江戸時代に活発な商業活動の中心であったこの地区の、あるいは「今日は帝劇、明日は三越」と謳歌したハイカラ時代の賑わいを、見事に反映している。山口晃の卓越した描写力が、実際にはあり得ない情景をあたかも現実の世界でもあるかのように思わせ、見る者を画面の雰囲気のなかに引き込んでしまうのである。恐るべき表現力と言わねばならない。

 はなはだ興味深いことに、山口晃はかつて学生時代にも三越を主題とした「百貨店圖(日本橋)」と題する作品を描いていた。周囲の壁を全部取り払って外から内部を覗き込むという大胆な構成で、いわば日本の伝統的な「吹抜屋台」の手法を壁に応用したものである。それから十年後、テレビ番組で山口のことを知った三越の担当者の依頼によって生まれたのが、この百貨店図であったという。とすれば、それは山口にとっても、文字通り「新三越本店」だったと言ってよいであろう。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.020-023. 

 ぼくもこの作品を見る前から、屏風絵の技法が面白いと思って城下町鶴岡の江戸時代の参勤交代をテーマにした絵に「金雲」を使って描いたことがある。山口晃さんの絵は、新旧過去現在を自在に取り込んだ厩を絵巻物風に描いた作品を見ていた。大画面の細密画といっても池田学さんとは違ったいき方だが、歴史というものへの相対化と現代化をよく理解して、丁寧な画面構成をしているという点で、好感が持てる人だ。

B.消費増税をきっかけに価格を決める方法を考える

 ものの値段というものは、生産者なり供給者が市場で、競合する他社や「世間相場」を勘案して決めると思われている。それは自由に決めてよいが、高すぎれば売れないし安すぎれば売れるが商品価値は低く見られる。市場交換はつねに流動的で、価格は変動するのが資本主義で、市場を考慮せずに価格を政府が決める計画経済の社会主義が、柔軟性をもたずに失敗したのは当然だと20世紀末には考えられていた。しかし、AIとビッグデータが高速処理できる技術に達した現在では、無駄なく効率的に価格を常時最適に設定できるのかもしれない。すると、従来の市場経済の方が無駄が多く、たとえばコンビニで毎日売れ残り弁当を捨ててやりくりするような経済は、きわめて非効率で古臭いものになるのだろうか。

 「多事奏論:価格を科学する 消費税込々の新発想:編集委員 原 真人

 消費税率が10%になった。ただし8%の軽減税率あり、2%と5%のポイント還元制度ありで、買い物のレシートを見ても税額がいくらかすぐにわからない。税は簡素であるべきなのに相当ゆがんでしまった。

 それでもこれが功を奏した面もある。増税前に買うのが得か、増税後がいいか。多くの消費者が分らず迷って、極端な駆け込み消費が起きなかった。

 企業も合理的な行動をとった。マクドナルドや牛丼のすき屋、松屋は店内飲食と持ち帰りの税込み価格をそろえた。レジで会計のたびに税率を振りわけるのでは手間がかかりすぎる。だから本体価格を変えることで、税込み価格を一本化した。

 ここからくみ取れること。それは消費税も「価格」の一要素にすぎないということだ。日本ではあまりにも消費税アレルギーが強すぎて、増税の影響を過大に見る傾向がある。ここは発想の転換が必要だろう。

 増税前夜の先月末、BS-TBS「報道1930」で山本太郎れいわ新撰組代表と討論する機会があった。山本氏は「国民生活を苦しめる消費税は廃止する」と訴えた。私はそれに反論した。

 たとえば消費税廃止にともなう代替財源の一つとして、山本氏は法人税の大増税をあげた。だが実は消費税だって事業者がまとめて税務署に収める一種の法人税だ。仮に消費税廃止で生じる財源の穴をすべて法人税増税で埋めたとしても、理屈の上では全事業者が収める税総額は変わらない。

 事業者が払うあらゆる税は最終的に何らかの形で消費者に転嫁される。消費者だけが得をする、ということにはならない。

 いま、消費の現場では消費税率アップさえ多くの価格変動要因の一つに過ぎなくしてしまう画期的な価格革命が起きている。

 「ダイナミックプライシング」。人工知能を活用し、需要に合わせてアルゴリズムで弾力的に価格を変えていく手法だ。

 40年ほど前、米国で航空会社が導入。その後、スポーツや音楽の分野で広がった。最近は自動車配車料金や季節ごとの衣料品価格など他分野で採用されている。

 日本でもここ数年、Jリーグやプロ野球、音楽コンサートへと広がってきた。名古屋グランパスと横浜F・マリノスでは今年から全席で導入。チーム成績、対戦相手などで売れ行きも変わるから、指定席の価格は座席ごとに毎日変わっていく。

 同じホールでもアイドルイベントなら前方席、クラシックコンサートなら後方席が好まれるらしい。状況次第で安くなる席もある。空席にするくらいなら格安でも売ってしまった方が全体の売上も増える。

 このシステムを日本に導入したのは三井物産やヤフーなどが出資するダイナミックプラス社だ。平田英人社長は商社の駐在員時代、米国メジャーリーグ観戦でその効果を体感し、帰国して事業化に取り組んだ。

 「何となく決めていた価格を科学する方法論がこれだと思った。価格が柔軟に変われば、たくさんの消費者の選択の幅が広がる。生鮮品の値を時間ごとに変えられれば廃棄ロスだって減らすことができます」

 興味深いのは、ダイナミックプライシングが導入されているチケット販売は、消費増税に影響されにくいことだ。いま最適な最終価格をまず決めるから、販売した後に消費税額を逆算する。だから消費税率の変更をあまり意識しなくてすむらしい。

 いわば「消費税後決め方式」。これが広く普及すれば「消費税は景気に影響する」などと決めつけられなくなるだろう。消費者物価指数ひとつでインフレだデフレだと一喜一憂しなくなるかもしれない。

 企業の価格決定が科学的になってきた今、経済政策が非科学的なままでは市場の実態と遊離するばかりだ。政府や日本銀行も、与野党も、物価や価格をめぐる考え方を大きく見直すときがきたようである。」朝日新聞2019年10月9日朝刊13面、オピニオン欄。

 人気芸能人のコンサートチケット販売から、このダイナミックプライシングが実現しているというのだが、それは大量の人間の行動が数量的に把握可能で、そこからかなり正確な予測ができるという想定に立っている。もしそれが多くの小売業の顧客の消費行動にも適用できるなら、商品の価格は毎日、あるいは時間ごとに変動して表示されるという事態は、現実にこの消費増税で導入されたレジのIT機器導入が一気に進展したことからも想像できる。そうなると、その先にAIと社会主義の計画経済という、すでに失敗して死んだシステムがゾンビのように復活する、のかもしれない。

 「新井紀子のメディア私評:「もしも」から考える ソ連がAIを駆使したなら

 歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー「AIが支配する世界」(9月21日付本紙オピニオン面)を読んだ。

 歴史に「もしも」は禁物だ。だが、その禁をあえて犯してみたい。もし、1989年にベルリンの壁が崩壊せず、91年にソ連が踏みとどまり、今日のAI時代を迎えていたなら、どうなっていただろう、と。

 ハラリ氏は、ソ連の計画経済が失敗したのは、20世紀の技術では膨大な情報を中央政府が迅速に処理できず、需給バランスをうまく調整できなかったから、と指摘する。当時は、各個人が市場経済で自己の利益を追求する「見えざる手」(アダム・スミス)を信頼する方が、最適解に達しやすかった。

 一方で、「見えざる手」は公害などの外部不経済も生んだ。地球規模の環境変化は深刻だ。SDGsが叫ばれ、国連やG20等で議題に上り続け、紙面を賑わしてはいるが、解決される希望を私たちは持てずにいる。「国際協調」などという「民主的」で生ぬるい方法では、直面する大きすぎる課題に対応できないのではないか、と。

 東京オリンピックや大阪万博の頃、「世界」という言葉には、高揚感を誘う夢の響きがあった。それだけ「世界」にリアリティーがなく、地球は大きかった。しかし、「見えざる手」に導かれて、人とモノが地球を高速かつ大規模に移動しながら自己の利益を追求した結果、海はマイクロプラスチックで溢れかえり、アフリカ豚コレラは蔓延した。素朴に考えたほどには、地球は大きくなかったのである。

 そこで、もしも、だ。ソ連が残り、現在のインターネットよりも中央集権的なネットワークを設計し、あらゆるものにセンサーをつけ情報をAIが理解できる形式で合理的に集め、21世紀初頭からデータサイエンスを高度化していたら、どうなっていただろうと。

 実は、現在のAIの基盤である確率・統計の理論の多くがソ連発だ。コルモゴロフ、ヒンチンなどキラ星のごとく名前が並ぶ。これほど確率・統計学者が多いのは、計画経済を合理的に進めるための関心の高さゆえかもしれない。適切な刺激を与えることで特定の行動を導く「パブロフの犬」の実験で知られるパブロフも、行動主義心理学に大きな影響を与えた。それらの理論は、現代の巨大テック企業のサービスの礎になっている。

 その結果、ソ連を中心とした東側諸国は、経済的に西側諸国を圧倒していたかもしれない。何しろ、ソ連では西側と違って「人の配置の最適化」も厭わない。だからオリンピックも数学も強かった。子どもの行動や発達を生まれたときからモニタリングし、どんな職業に就かせるのが最適かを計算し、配置したことだろう。その徹底を前にしたら、リクルートの内定辞退率予測どころでなく、グーグルのアルゴリズムですらトイ(玩具のようなプログラム)に見えていたかもしれない。

 加えて、ソ連には、科学リテラシーに欠ける人物が、単に人気取りで大統領や首相に就くリスクがある民主的な選挙は、ない。ソ連だけでなく究極的には世界中の人々を、平等に「幸せ」にするために、データサイエンスを、計画に基づき、段階的に正しく使いこなす事ができる最も有能な人物が党大会で選出されるのである。それは現グーグルの最高経営責任者であるピチャイのような人物かもしれない。 

 そのとき、東側陣営は西側の敗北を見下ろしてこう言っただろうか。「各人の自由な利益追求を野放しにすることで最適解にたどり着けるなど、『脳内お花畑』な資本主義は格差を拡大し、地球を危機に陥れた。次々とポピュリストが登場し、汚い言葉で罵り合っている。知的な政治からは程遠い」と。

 この「もしも話」の意味は何か。

 一つは、AI技術が目指していること――あらゆるデータを収集することで未来を予測するという誘惑――

は、葬り去られたはずの全体主義、計画経済のそれと驚くほど似ているということだ。自由の旗を掲げるシリコンバレーがその発祥の地であるのは皮肉だ。

 もう一つは、「幸せ」のような質に関わることを、数字という量に換算できると考えることの危険性だ。かつて、蓮實重彦元東大総長は入学式の式辞で、学問研究の「質の評価を数で行うというのは、哲学的な誤り」と批判した。質を数字に置き換え、数学を用いて分析しなければ、近代科学にはならない。近代科学によりテクノロジーは発展したし、社会の矛盾は可視化された。数値化と数学には効用がある。だが、それは手段に過ぎない。手段が目的化したとき、私たちは再び全体主義の足音を聞くことになるだろう。」朝日新聞2019年10月11日朝刊13面、オピニオン欄。

 なんだか、かなりぶっ飛んで面白い話にみえる。つまり、AIとビッグデータというテクノロジーによって、人間の行動と未来予測がかなり正確にできるのだ、というポジティヴなアイディアは、この世をどこまでも明っかる~く、今日より明日が進歩するという楽天的なことが好きな能天気な人に、とっても心地よくなる話だ。しかし、それは現実というもの、人間というものをごく単純な動物のような単一の欲望に動かされるものとしてしかみていない。経済という現実的な人間の行動についても、ネズミや羊のレベルの数量データで把握する集団同調行動としか考えない。これは「哲学的な誤り」だとぼくも思う。

マルクス経済学は、ヘーゲル的近代の発展論理を社会理論に応用したものだと思うが、現実の経済実態の把握を徹底した数量化データとして処理し政策化できなかったことで、失敗し衰滅した。近代経済学の新古典派総合はそれを数学的な頭の体操にして、コンピュータで分析する手法も開発した。しかしそれも、過剰に理論のエレガンスに拘ったために、地球をひとつの市場とするグローバル経済を無条件に前提にして、それに反する破綻や失敗を無視したために、説明力を疑われることになった。20世紀に起ったことは、いっけん東側の社会主義が硬直した共産主義思想のゆえに人民の失望から崩壊し、人間の多様な欲望をも吸収する西側の自由主義が勝利したと総括して21世紀を迎えた。

だがそれは資本主義の無駄の多い市場経済システムが社会主義のそれより合理的だったからではなく、たんに経済の生の動きを捉え価格変動に即座に対処する手段がなかったにすぎない、のだとすると、それが可能になった現在では、もう資本主義に優位性はないことになる、というのがここでのお話だ。

 それが馬鹿げた妄想だとはいえなくなっているのは、新しい事態で、べつに昔のソ連社会主義計画経済に戻ったらとか、躍進する中国の国家統制資本主義に合理性があるとかいうつもりはない。価格という経済の重要な争点が、現在の技術によって臨機応変に操作できるということに限りない魅力を感じる人たちが、ここで一気に市場という土台を一見誰も気づかないうちに、ぜんぜん別のシステムに変えてしまうという惧れがある。それは思想でも理論でもなく、たんにテクノロジーが実現する価格決定システムという機械になってしまうのだ。それを誰が手をつけるのか?

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ニッポンの現代アートの旗手 3 福田 美蘭さん 独ポ関係と日韓関係

2019-10-11 02:19:12 | 日記

 A.こういう才能は3代かかるのかな?

 ぼくが福田美蘭さんの作品をまとめてみたのは、2013年に東京都美術館で開かれた「福田美蘭展」だった。特に印象に残ったのは夜の道頓堀を描いた作品と、並んであったホワイトハウスのブッシュ大統領にイエスが語りかけるという絵だった。さらに、東日本大震災の津波瓦礫を背景とした「秋―非母観音」は、狩野芳崖の名作を読み替えというか描き変えたものだった。どの作品も現実の光景やよく知られた名作を取り込んで換骨奪胎し、意味を変容させてしまうような作品だった。それはもちろん手のこんだ作品をつくるテクニックがあって初めてできることだけれども、もはや作家はオリジナルな作品をつくるのではなく、どんなものでも素材にして観るものにぜんぜん別の感動を与えるような、パロディとアイロニーの精神が溢れているからこそ、これは現代アートなのだと主張している。

 この人は父がグラフィックデザイナーの福田繁雄、祖父は童画家の林義雄という特別な血を引く。有名なポスターの作者が父、さらに子どもの頃に見た特徴のある懐かしい絵本の画家が祖父だなんて、凄い。でも、親の七光りというのとはまったく違う。彼女は彼女の独自性で注目されたのだ。小学校から高等学校まで聖心女子学院に学び、1981年に東京芸術大学美術学部絵画科に入学、1987年に東京芸術大学大学院を修了。1989年には美術界の新人登竜門「第32回安井賞展」において、当時史上最年少の26歳で同賞を受賞した。過去の名画にデジタル加工するなど手を加えたり、食材など身の回りの素材を組み合わせたりした作品で注目された。

 「明るい朱色に彩られた斜め格子状のパターンが左右に拡がる。いったいそれは、何を描いたものだろうか。奥に見える向こう側の世界とこちら側の世界を隔てる赤い竹矢来のようなものと言えばそのようにも見えるが、実際にはこんな色の矢来などありそうにはない。空き巣狙いを防ぐために、窓の外側にこのようなパターンの鉄格子をはめた家があるが、それにしては派手過ぎる。結局それは、現実世界とは無関係の、抽象的な幾何学模様としか言いようがない。

 だがそう思ったとたんに、実はそれが「キューピーマヨネーズ」を描いたものだと聞かされれば、誰でもいささかの戸惑いと驚きを覚えないわけにはいかない。「キューピーマヨネーズ」なら、身近にあってよく知っている。近くのコンヴィニエンス・ストアに行けば、調味料の棚にいつも並んでいるあれである。しかしわれわれがその商品に対して抱いているイメージは、この画面とは大きく違う。その落差に驚かされる時、われわれはすでに、福田美蘭の仕掛けた魔術に捉えられているのである。

 なるほど、そう言われてよく見ると、赤い斜め格子模様は、透明な外装の袋の上部に、襟飾りのように小さく登場して来る。絵画作品の方は縦が1メートル30センチもある大きなものだから、異様にまで拡大されている。だからこそそれは、まるで通行禁止の竹矢来のように見えたのである。

 その奥の中央部のオレンジ・イエローの部分は、ポリエチレン製のボトルの一部である。その左右の赤い斑点は、外装に印刷された説明の文字にほかならない。すべて実際のものを忠実に映し出しているのだが、スケールが大きく変えられているため、まるで中小模様のような印象を与える。視覚の不思議である。

 もともと福田美蘭は、「見る」ことに徹底的にこだわる作家である。画家自身、美術とは「既成の美術や認識に対して問題を提起し、新しいものの見方や考え方を提案するひとつの表現手段」だと語っている。そのために、思いがけない視点の導入や複数のイメージの重ね合わせなど、さまざまの卓抜な方法で常識的なものの見方に挑戦する。かつて、よく知られた名画の場面を、画中の人物の視点から描き出すという奇抜な試みさえ行った。スケールの巨大化もその手法のひとつである。つまり彼女の作品は、色と形による新しい知的認識論にほかならないのである。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.016-019.

 これはマヨネーズの包装紙から発想された作品についての文章だが、ひとつひとつの作品はそれぞれその都度、独自に構想され、イメージも手法もどれひとつとして同じものはない。これは一度スタイルを作り上げてしまうと、その中であれこれヴァリエイションを追求する作家や、昔のように風景なら風景だけ、人物なら人物だけといったテーマを固定して技を磨く作家に対して、もうそんなのは現代アートではないよ、ということになる。それは常に絵画を表現の内容ではなくその視線のからくりに裏から巧みな仕掛けで気付かせ、常に変容するものを追求している、とでもいえようか。とにかく非常に面白く、挑戦的な作品群だった。

 

B.ポーランドと韓国の類似性

 韓国と韓国人をまるごと嫌悪する日本人がかなりいるが、その言い分を聞いていると、「あいつらは昔の日本がやったことをすべて悪と見て、いつまでも言いがかりをつけては金を要求する。賤しい根性の守銭奴としか思えない。過去のことはとっくに決着はついているのだから、もう相手にする必要はない」ということになる。これがもはや議論の余地のない常識だと考える人は、対話も交渉も受けつけないから、あとは韓国ときけば怒鳴り憎むだけになる。韓国のほうでも、それに見合うように「日本の政府と世論は、植民地支配と戦争について本音ではぜんぜん反省しておらず、韓国人の気持ちを理解しようとせず逆に非難してくるのは相変わらず差別意識があるからだ。賠償を誠実に果たさなければ手は組めない」と感情的になるばかりだ。

 この不幸な日韓関係をなんとかしないと東アジアは危険な状態に陥るわけだが、似たような問題がドイツとポーランドのあいだにあるかもしれない、という新たな視点があった。

 「ポーランドの対独要求「100兆円賠償」不満の根底は :編集委員 山脇 岳志

 ポーランドの首都ワルシャワは、第2次世界大戦で、ドイツによって破壊しつくされた悲劇の街である。

 見事に復元された旧市街にほど近いカフェに、グレーのスーツ、ピンク色のネクタイをした長身の男性が現れた。

 開口一番、「柔道2段です」と自己紹介してくれたのは、ヤン・シェフチャク下院議員である。ポーランド議会の「ドイツに対する補償評価議員グループ」の委員だ。

 1939年9月1日、ドイツ軍は、ポーランドに侵攻した。第2次大戦の幕開けであった。ちょうど80周年にあたる今年9月1日の記念式典には、約40カ国の首脳らが参加した。シェフチャク氏に会ったのは、その3日後だった。

 式典にはドイツのシェタインマイヤー大統領が出席し「ドイツの犯した歴史的な罪への許しを願いたい」「我々はポーランドに与えた傷を忘れない」などと述べた。

 シェフチャク氏は「過去30年でこれほど真摯な謝罪は初めてだった」と評価した。「だが、謝罪の言葉だけではすまない。ポーランド人の17%が殺された。賠償がなければ、本当の和解はありえない」

 「評価議員グループ」は、専門家の助けも借りて、賠償額は少なくとも9千億㌦(約96兆円)にのぼると見積もった。10月の総選挙後、政府が動く前に、議会として正式な決議を行う予定だという。

 ポーランドは、ソ連の影響下にあった1953年に、ドイツに対する賠償請求を放棄している。冷戦後の91年、ドイツはポーランド向けに5億㍆(約400億円)の基金も設けた。ドイツは、問題は解決済みで賠償金は払わないという立場だ。

 ポーランド側が納得しないのは、50年代の賠償放棄は、ソ連が勝手に決めたことだと考えているために。「その後の補償も少なすぎる。民主主義になって、さまざまな問題を考え直すようになった」とシェフチャク氏は強調した。

 話しながら、8月末、ドイツで会ったセバスチャン・コンラッド・ベルリン自由大教授(歴史学)との会話を思い出した。

 議論したのは、独ポ関係と日韓関係についてだった。韓国の司法は、韓国が日本の植民地であった戦時中、日本の本土で働いた徴用工について、日本企業に賠償金を支払うよう命じた。日本政府や企業は、65年の日韓請求権協定で「元徴用工への補償には、請求権協定は韓国の軍事独裁政権下で結ばれたものであり「民主的ではなかった」との不満がある。

ソ連の影響下の合意は無効、というポーランドの主張と重なる面がある。

アジアの歴史にも詳しいコンラッド教授は「日韓関係と独ポ関係は違いも多いが、『加害―被害』の一方向性において、独仏関係よりは似ている」と話す。

チェフチャク氏は「ドイツはポーランド人を民族的にも文化的にも経済的にも破壊し、消滅させようとしていた」と述べ、「植民地の問題とは比較にならない」ほど大きな罪だったという認識を示した。

ドイツの賠償問題は、ほかでもくすぶる。第1次大戦前のドイツの植民地時代に虐殺の被害を受けたナミビアの先住民は、ドイツに賠償を要求した。ギリシャも、第2次大戦中のドイツ占領下で受けた損害に対し、巨額の賠償金を求めている。

いま、世界のあちこちで歴史や賠償に絡む問題が噴出しているのはなぜか。

 コンラッド教授はこう話した。「グローバル化によって、それぞれの国内における貧富の格差や移民問題への不満が顕在化した。それが他国への不満に転嫁され、和解を難しくしている」

 経済格差など不満のもととなっている根本に取り組むことがなければ、憎悪の連鎖は続くことになるだろう。」朝日新聞2019年10月5日朝刊、15面、オピニオン欄「多事奏論」。

 ヒトラーのドイツは、ユダヤ人の絶滅を図ったが、ユダヤ人だけでなくポーランド人も劣等民族として虐殺し、消滅させようとしたという。消滅というのはホロコーストで絶滅するというのではないが、ポーランドをドイツに併合し、ポーランド人をドイツ人に同化してしまうということだろう。チェフチャク氏の言い方では、これは植民地支配よりもはるかに大きな犯罪だ、ということになる。日本も朝鮮半島を植民地にしただけでなく、皇民化政策で日本語で教育し日本人に同化させようとした一方で、二級国民扱いして同等の権利を与えなかったことも事実だろう。戦後の条約交渉で、冷戦下の東西対立する力関係のなかで、米ソが介入して賠償を含む戦後処理が妥協的に決着したというのも確かで、それを蒸し返すのもそれなりに理由はあるとも言える。

 ただ、自国民の不満や矛盾から出てくる批判をそらすために、政府が外国への不満や憎悪に転嫁しているという面も、韓国にも日本にもないとはいえない。それがいろんな場面で、ぎしぎしと不安と軋轢を生む。だが、そこをなんとか話し合いで解決し、未来に生産的な関係を築くのが外交というものだろう。そしてその基礎に、人としての信頼や好感を作り出すにはお互いの歴史や文化を、できるかぎり理解する努力が必要だ。ぼくたちは、朝鮮半島の歴史について、ただある時期植民地にしていたという以上のことは、ほとんど学校で教えられてこなかったし、タブーのような扱いをしてきたのではないか。これはまずい。それを日本の恥部のように扱う必要はないし、逆に正義や栄光で飾るのも粉飾でしかない。

 そのようなことはドイツでも重要な教育と文化の課題だろうし、そこを考えるのは無駄ではなかろうと思う。

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ニッポン現代アートの旗手 2 会田 誠さん 「干す」芸能界

2019-10-08 11:52:32 | 日記

A..そんなに「わかりにくく」はない

 現代アートは一般に「わかりにくい」と言われる、と当の現代アートに関わっている人たちがそう思っているようだ。「前衛的な」音楽、舞踏、不条理劇などは、説明されてもよくわからないし、とくに美術については昔のような額縁に入って壁に架かった絵じゃなくて、わけのわからない映像が暗い部屋に映っていたㇼ、むやみに大きかったり、ただ妙なオブジェが床に転がっていたㇼするだけで、非常識を売りにしてるだけじゃないの、と言われることを気にしている。近頃はあちこちで現代アートの美術展やイヴェントが催され、ちょっと覗いてみようと行く人は少なくないが、その面白さのアートとしての価値を理解するには、そもそも現代アートが試みている課題が出てくる文脈をある程度知っている必要がある。しかし、それは美術教育のあり方まで関係してくるので、どうしても一部の専門家やマニアだけの世界のように思いこまれてしまう。

 そこで、まずは頭でなく五感で作品を体感することが始まりだ、という立場がひとつある。しかしこれも、作品を前にして人々がほんとうにそれを味わい、その作家のメッセージをちゃんと理解しているのではなく、ただ周辺的な解説情報だけで、この作品は賞を受けて高い評価とお値段の作品なんですよ、ほお~そ~なんだ」と驚いて終わりなのだ。それが気になりだすと、作家の中には何も知らない人にもインパクトを与えるような「わかりやすい」表現を工夫する人もいる。 

 「まえがき  

 本書に収められた三十点の作品は、平成十八年一月号から同二十年六月号まで、「現代アートの現場から」というタイトルのもとに、講談社発行のPR誌『本』の表紙を飾ったものである。そこに登場するのは、すでに多年にわたって充実した活動を重ねて、国際的にも広く知られた作家から、近年になって注目を集めている気鋭のの新人まで広い範囲にわたっており、その表現手段もさまざまだが、いずれも今日の日本において、新しい表現領域を切り拓くために果敢な活動を展開しているいわば最も生きのいいアーティストたちである。その新鮮な活動の一端をこのようなかたちで纏めることは、現代日本の創造的エネルギーを物語る貴重な証言となるであろう。

 現代芸術は、しばしば馴染みにくい、あるいはわかりにくいと言われる。それは、常に未知の表現世界への挑戦を試みる先鋭な芸術家たちの活動が、それ故にわれわれには見馴れない、時には異様なまでの成果をもたらしてくれるためだが、そればかりではない。現代芸術をめぐる状況が、そのわかりにくさをいっそう強めていると言ってよい。

 歴史をふり返ってみれば、かつてはそれぞれの時代に支配的な役割を演じた時代様式というものがあった。「ゴシック様式」とか「バロック様式」と呼ばれるものがそれである。だが十九世紀以降、そのような支配的枠組みは失われてしまった。印象派の達成はたしかに絵画の歴史を大きく変えたが、しかしそれ以前から続いていた伝統的なアカデミー派は、なお大きな存在であり続けた。二十世紀になって新たに生まれた多くの前衛芸術運動、フォーヴィスムやキュビスム、あるいはシュルレアリスムや抽象芸術は、それぞれ豊かな成果を残してくれたが、そのどれかひとつを二十世紀を代表する時代様式と規定するわけにはいかない。比喩的に言えば、近代以降、芸術の歴史は、一本の大河と言うよりも、さまざまの流れがからみ合い、重なり合いながら展開して来たと言ってよい。その背後には、美術館や展覧会などの新しい制度の誕生、複製手段の発達、情報化の進展など、複雑な社会的要因が働いていたに違いないが、いずれにしても、現代芸術は、その流れを受けて、豊穣な混沌とも言うべき状況と見せている。

 ここに取り上げた作家たちは、その豊穣な混沌のなかで、独自の輝きを発する星たちである。その作品は、時に見る者を戸惑わせ、反撥すら買うかもしれないが、しかし同時にわれわれの感性にゆさぶりをかけ、忘れられていた感覚を甦らせ、新しい未知の世界へと導いてくれる。何よりもそのたくましい創造的活力によって、人間存在の証となっているのである。

 本書を纏めるにあたっては、作家御本人をはじめ、画廊その他関係者の方々の絶大な御協力を得た。ここに深く謝意を表したい。また雑誌掲載時以来、実際の事務を担当された編集部にも御礼申し上げる。

                   平成二十年十月  高階秀爾 」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.Pp.003-005.

 会田誠という画家は、作品によって社会にインパクトを与えたいと考え、与えられると信じている人のようだ。それには画像の視覚的イメージだけではなく何らかの観念の作用を必要とする。ここで高階先生がとりあげたのは、ゼロ戦がニューヨークを爆撃しているという屏風絵である。

 会田誠 「紐育空爆之図」(戦争画RETURNS)

 まず眼につくのは、六曲一双屏風という大画面いっぱいに大きく8の字を描いて舞い飛ぶ無数の飛行機の群れである。曲芸のような宙返りを見せながら整然と編隊飛行を続けるその翼の行列は、何かの祭りの日に催される華麗な空中パレードを思わせる。いや実際それは、きわめて非現実的な、裏返しの祝祭図と言ってよいかもしれない。一見玩具のように見える飛行機は、かつて太平洋戦争の時代、「ゼロ・ファイター」の名前でアメリカ軍を恐れさせた日本の戦闘機、通称「零戦」であり、背後で紅蓮の炎に包まれているのは、クライスラー・ビルやエンパイヤー・ステート・ビルなどの摩天楼が建ち並ぶマンハッタンの中心部である。つまりそこでは、日本空軍の爆撃によってニューヨークが火の海となるという突拍子もない光景が展開されている。しかもそのニューヨークを明治時代さながら「紐育」と表記するレトロ趣味にも欠けていない。

 そればかりではなく、この画面には過去のさまざまな記憶がいっぱいにつまっている。屏風という日本の伝統的な形式がまずそうであるし、斜め上から見下ろした俯瞰構図による都市景観図は、桃山時代から江戸期にかけて数多く描かれた洛中洛外図の手法そのままである。そう言えば、建物の間にゆらめく火焔とオレンジ色の煙は、洛中洛外図の画面にただよう金雲と重ね合わせられるであろう。

 そして何よりも「戦争画」である。戦時中、戦意高揚のために描かれた多くの戦争画は、終戦後占領軍の手で接収されアメリカに渡ったが、その後永久貸与のかたちで日本に返還された。1996年に始まる「戦争画RETURNS」のシリーズは、戦争中の熱狂とも戦後のイデオロギーとも無縁な会田誠が、徹底して醒めた眼で「帰ってきた戦争画」を受けとめ、それに触発されて生み出した痛烈壮麗なパロディである。アニメ漫画的な発想と卓越した描写力とをひとつに合体させたその達成は、驚嘆に値すると言ってよい。

 鋭い批判精神を背後に秘めながら、絶えずラディカルに新しい表現を求め続ける

会田誠は、その後も俗悪な看板絵のような「切腹女子高生」や、流麗な線描表現による奇妙な「大山椒魚」のような作品で、見る者を挑発し続けた。2005年には、大原美術館有隣荘での展覧会で、怪しい少女エロスの魅力にあふれた「愛ちゃん盆栽」で人眼を驚かせた。その異様なまでの想像力は、ましく現代美術の旗手と呼ぶにふさわしいものである。」同書、pp.008-011.

 ぼくはこの「大山椒魚」を見たのだが、どれも少女の醸し出すエロスが大きなテーマになっていて、ある意味で「わかりやすい」作品である。そこらへんが、彼の講演を聴いた女性から、セクハラ女性蔑視を表面に出して恥じない話を聞かされて不愉快だったという批判が出されたこととも関係してくる。ニューヨーク空爆が空想の遊びなのは構わないとしても、少女への男の欲望を形象化することを暴力だと思う人がいることを、アーティストはどう考えるのか?

 

B.権力の暴力の現れ方

 芸能人とか芸能界とかに、ぼくはほとんど何の興味もない。でも、多くの人たちは、テレビでしょっちゅう見ている芸能人を、まるで親しい友人のように愛着を感じ、心情的に同一化して熱心に話題にする。その魔法のような力は、現代のメディアのもつ力であり、人々の意識領野のかなりの部分を占めている。しょせん大衆的娯楽の世界であり、それがどうなろうと、その時だけの移ろう話題、文化消費財にすぎないのだが、その渦中にあるのは人間なのだ。ぼくはもう70歳という年齢を刻む人間なので、そんな馬鹿げたことに時間と頭脳を費やすのは、実にもったいないと思っているから、ど~でもいいのだが、こんな記事があった。

 「「テレビから干す」芸能界変わるか 「出演の話、なかったことに」

 実力・人気があっても、芸能界内での圧力でテレビに出られず、干されるタレントがいるーー。決定的な証拠がないものの、社会で広く認識されてきたそんな「テレビ芸能界のブラックボックス」に今、厳しい視線が注がれている。行政や政治も動き始め、業界内から告発する声も。藝能界は変われるのか。(西村綾華、真野啓太、中野浩至)

 俳優のんさん、番組0本に :俳優の「のん」さんは、2013年にNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」でヒロインを演じ国民的人気を博したが、テレビの露出はある時期から急減した。調査会社ニホンモニターによると、NHKと在京民放5局で11年~14年は毎年数十~200近い番組に出演していたのに、18年がゼロ。15年から今年8月までの合計もわずか7番組にとどまっている。

 そこに芸能界の圧力があったと告発するのは、現在のんさんのエージェント(代理人)を務めるコンサルティング会社の福田淳社長だ。

 のんさんを巡っては15年ごろに、契約を巡って所属事務所とトラブルになり、本名の能年玲奈から改名。16年からは、「事務所に所属」という形ではなく、仕事の獲得などを依頼する、米ハリウッドなどでよくみられるエージェント契約を福田さんと結んだ。

 CM出演は次々と契約できているにもかかわらず、テレビ番組では、これまで約30件もドラマや情報番組のオファーがテレビ局からありながら、出演契約を結ぶ直前で「話はなかったことに」と連絡が入るなど、何度も話が立ち消えになったという。出演前日になって「やはり来ないでくれ」と連絡があったイベントも、。福田さんは、そんなメールや企画書を保管している。

 「大手から移籍・独立すると、輝いているタレントでも圧力で表舞台から消えることがある。芸能界はタレントの移籍の自由を認めてほしい」

 民放キー局でドラマを手がけていた元プロデューサーも「のんさんと事務所がトラブルになった当初、外部から『使わないで』と言われた。時間が経っても、局側が忖度して自主規制している」と語る。のんさんに限らず、大手から移籍したタレントを番組に起用した際も、「放送後に嫌みを言われた」と打ち明ける。

 業界の構図 社会は厳しい目  元SMAP巡り公取委注意

 タレントがテレビから干される問題は今に始まった話ではない。「遅くとも1970年代にはあった」と指摘するのは、芸能文化評論家の比留間正明さんだ。

 事務所の多くは専属マネジメント契約を結んでタレントを育て、テレビやCM出演の仕事で投資を回収し、安定的な収益を生む。予想外の独立や移籍は、育ての親を裏切る行為。破れば、半ば「見せしめ」として他のタレントの動きを封じてきたという。日本の芸能界は、テレビでの活躍がタレントの成功モデルであるため、多くのタレントは声を上げにくい状況が続いてきた。

 ただ、近年、そうした構図がほころび始めた。

 17年には芸能関係の訴訟を手がける弁護士らが、のんさんやSMAPの解散問題などを受け、芸能人の地位向上のための活動を行う「日本エンターテイナーライツ協会」を設立。事務所の移籍制限や不当契約などが芸能界で常態化している点を公正取引委員会に繰り返し訴えてきたという。

 同協会の共同代表理事を務める佐藤大和弁護士は「東京五輪までにスポーツ選手の地位向上を図る動きがある中、対象が企業に属さず個人として働く『フリーランス』全体に広がり、芸能人の権利についても見直す機運が高まった」

 実際、公取委もジャニーズ事務所から独立したSMAPの元メンバー3人(香取慎吾さん、稲垣吾郎さん、草彅剛さん)をテレビ出演させないように事務所が民放に圧力をかけた疑いがあるとして、ジャニーズ事務所に異例の注意をした。8月には、自民党の競争政策調査会で、独占禁止法上問題となりうる行為の具体例を明示した。

 佐藤弁護士は「タレントの自由な移籍が認められなければ、契約が奴隷制度のようになる。事務所側に力が偏り、タレントが搾取される」と指摘。そうしたひずみが吉本興業の場合、「闇営業」問題なども引き起こしたと指摘する。

 「優秀な人材 流出するだけ」 SNS・動画配信が影響力

 社会が芸能界を見る視線は厳しさを増しつつある。ある中堅の芸能プロダクションの代表は「公取委の動きは業界の風通しをよくする方向に向かう」と認めつつ、「移籍が一般化するとリスクを背負ってタレントの卵を育成するのにちゅうちょしてしまい、業界にとって必ずしもいいとは言えない」と不安を隠さない。「移籍が盛んになれば出演料が高騰する。テレビ・タレント・芸能事務所の共同体を安定的に維持するには『干す』文化は必然だった」と話す民放幹部もいる。

 ただ、干すことが当然の世界は、視聴者にとって不利益である点を忘れてはならないと、芸能界を取材してきたライターの松谷創一郎さんは強調する。「業界的なお作法のせいで、ドラマなどの作品に適正な配役がなされず、質の低いものを見させられている可能性を考慮する必要がある」

 松谷さんは、近年は、SNSの普及や、ユーチューブ、ネットフリックスなどのネットの動画配信サービスの台頭で、テレビを介さずに活躍できる場が増えたと指摘。デジタルコンテンツ協会によると、18年の国内の動画配信サービスの市場規模は2200億円と過去5年で1千億円も増えた。23年には2950億円に拡大すると推定している。

 松谷さんは言う。「移籍制限をする業界の体質を変えなければ、優秀な人材は今後、テレビを見捨て、他のメディアへ流出していく。テレビと芸能界が沈没していくだけだ」 」朝日新聞2019年10月7日朝刊2面総合2。

 「あまちゃん」の能年玲奈が、芸能事務所+テレビ局の共同体から「干された」のは、自分を売り出した所属事務所を飛び出して独自に活動しようとしたことへの「制裁」だったのだとすれば、これは「人権」とまでいかずとも、人材派遣の囲い込みや契約社員の労働問題と同様の枠組みで考えるのか、あるいは浮動的な大衆娯楽興行界の組織防衛的慣行に乗った利害当事者の紛争と考えるのか、そこは問題だ。しかし、こうした問題の最終的解決は、法的な正義ではなく現実的な、つまり需要者である大衆的娯楽にお金をだす圧倒的な大衆が、何をどこに求めるかの市場的構造変動によって一気に事態は大変革になる。

 思い出してみよう。1960年代、あれほど隆盛を誇った映画界は、自宅で見て楽しめるテレビの普及によって客が離れ、斜陽産業になった。いま20世紀に繁栄したメディアの王者テレビは、ついでに見るニュース以外はばかげた無用の長物、なくても困らない盲腸のような存在になりつつある。有能で魅力的な芸能タレントの活躍の場を、狭いテレビ界に依存する体制はまもなくかつての映画界のようにさっさと見捨てられるだろう。資本主義市場経済の論理は冷徹に、時代に遅れたものから価値を奪い、業界のボスを亡びさせていく。

 日本の芸能界のタブーに触れて「干された」タレントは、たんに芸能組織システムに反抗したから排除されるというほかに、もうひとつ政治イデオロギー的な要因もかつてはあったように思う。1970年代、テレビで一世を風靡した「ゲバゲバ90分」などを仕掛けた放送作家で自身も画面に露出していた大物、巨泉・前武と並び称された前田武彦は、司会者・タレント・俳優として人気を獲得していたけれど、ある時からぱったり姿を消してしまった。それは彼がテレビで左翼支持の発言をしたことが影響していると推測された。日本の芸能界で、政治的な発言をすることは絶対のタブーとなっている。とくに、芸能人が共産党や左翼的な政府批判を口にしたらテレビ画面からは抹殺される、ということは芸能界の誰もが知っている。

 おそらく今も、この唇寒しの状況は揺るぎなく、たとえば原発廃止を唱えた俳優山本太郎が、芸能界から一切の仕事を干された結果、参議院選挙に出ることで転身したこともその一例だろう。才能あるアーティストの真の存在価値は、それが自分を商品として売り出した芸能事務所の金儲けの手段ではなく、一時の宣伝や虚構のイメージ戦略に乗っかった観光資源の一例でもなく、この国のありうべき姿と人民の幸福実現にアートは、積極的に関わっていくべきだ。

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ニッポン現代アートの旗手たち 1 池田学さん 数学の試験

2019-10-05 16:53:00 | 日記

A.ニッポンの現代美術 1 池田 学さん

 美術史家・高階秀爾先生は、いまの日本で美術界の頂点にある人である。もともとの専門である西洋美術のみならず、日本の古今の美術、あるいは中国を含む東洋美術に関しても、その知識と見識は格別であって、文化勲章など当たり前の最高権威と言ってもいい。ご高齢にもかかわらず、いまも最先端で発言し大原美術館をはじめ各地で活躍されている。その高階先生が、現代日本の若手美術アーティストの作品について連載論評した、雑誌評論をまとめた日本の現代アート・シリーズが本になっているのをみつけ、図書館で借りてきた。

 20世紀末までの現代美術は、おもにアメリカそして西欧の新傾向を追って変遷したのだが、日本では戦前からそれを追いかけるのに必死であったと同時に、正直なところ、日本の中だけで囲い込まれたような狭い保守的世界に安住していたともいえる。だから、現代アートの大規模な展覧会や個展はたくさん行われているにもかかわらず、一般の人々に現代アートはとっつきにくく、西洋の有名画家の展示ならお金を出して観に行っても、日本人の無名の作品など関心はもたれないと思っていた。日本美術界を牽引する立場にある高階先生としても、ここはひとつ日本の若い現代作家の作品を広く紹介する必要があると思われたのだろう。それがこの本の目的になったと思う。

この中で取り上げられている作家と作品は、ぼくもいくつかは見ているものだったけれど、3分の2はまったく知らない人と作品だった。そこで、このブログでもとりあげてみたいのだが、作品の現物を見ていないものを、見たかのように語るのは禁止事項だと思うので、ここではぼくが実際にこの眼で見ている作品に9つほど触れて、考えることにする。まずは序文。

「序 高階秀爾

 現代アートは今、混沌のなかにある。

 混沌のなかにあるとは、拠るべき場所、帰属する陣営、掲げる旗幟がないということである。かつてはアートは、創造活動は、歴史の中でそれぞれが収まるべき場を与えられていた。大きくは体制派と反体制派、あるいは保守対前衛という区分けであり、前衛派のなかにフォービズムやキュビズム、シュルレアリスムや抽象、ポップ、ミニマリズム、コンセプチュアリズムなど、しかるべき理論に裏付けられた部屋が生まれ、それぞれの場でアート活動が展開されていた。

 1970年代ぐらいからだろうか、このような事態に大きな変化が生じる。分裂と細分化を重ねた結果、歴史的枠組みはその意味を失い芸術家たちは拠り所を奪われて何の標識もない原野に投げ出されることになったのである。このような時代状況を、人は「イズムの終焉」と呼び、「大きな物語の消失」と規定し、「ポスト・モダン」と名づけた。以降芸術家たちは、羅針盤を失った船のように、ただ自己の感性だけを導き手として、この混沌の海へと船出をしていく。

「現代アート」は、この時に始まった。」高階秀爾『ニッポン現代アート』講談社、2013.p002.

 「現代美術」という呼び方は、1970年代より前なら、「戦後」つまり第2次世界大戦終了後に出てきた美術に対して使われたり、もう少し新しい60年代の新傾向のことを指していたけれど、いまやそれは公立美術館に保存される過去の名作として古典化し、コンテンポラリーな今を表現した「現代アート」とは、現に生きて盛んに作品を制作し続けている作家たちとその作品を意味することになる。ということは若ければ20代、年配でも60歳前ぐらいまでのアーティストになる。まずは、1973年生まれというから今40代半ばの画家、池田学さんの作品。

「方舟」池田学

 何よりも驚かされるのは、圧倒するような迫力で見る者を虜にするその精緻な描写力である。互いに犇めき合いながら隙間なく密集した高層ビル群は、画面の下の方では高い空から見下ろしたように遠く、小さく消えて行くが、各階の窓はなお克明に再現され、内部の燈りに照らし出されて微細な輝きを見せる。さらに画面をよく見ると、ビルのあいだを縫う軌道の上を電車がが走り、工場の煙突は白い煙を吐き出し、建設工事のためのクレーンまで描かれている。それでいて、そこに人の気配はまったくない。住民たちは、いたる所で滝のように溢れ出る奔流に怯えて、皆逃げ去ってしまったのだろうか。絶え間なく流れ落ちる水は、建物を覆い、町を洗い、あるいは何のためとも判然としない水車を回転させながら、いずれもはるか下方の揺らめく海へと落下する。

 少し距離を置いて眺めると、無数の建物を張りつけた巨大な岩塊が、周囲から隔絶された不気味な姿を浮かび上がらせる。およそ現実に存在するとは思われないその異様さと、確かな手応えを持つ細部の実在感とのコントラストから、眩暈を覚えさせるような幻想性が生まれて来る。その衝撃力は、まさしく作者の独壇場である。

 「方舟」という題名は、見る者を遠い伝説の世界へと誘う。旧約聖書で語られているのは、ひとつの世界が大洪水によって滅ぼされる物語である。岩盤の上のこの無人の空中都市が、どこか不穏な雰囲気を漂わせているのは、滅亡への予感を孕んでいるからであろう。半ば廃墟となったこの町には、過去と未来の歴史が凝縮されている。池田学は、本作品の他にも、「興亡史」や「予兆」など、細部の集積の上に時間を凝固させた秀作を描いている。

 池田芸術のこのような特質は、彼自身語っているように、学生時代から続けているロック・クライミングの身体感覚とおそらく無縁ではない。クライマーにとっては、目の前の岩の形状、割れ目、内部構造などを的確に見定めることは欠かせない。判定の誤りは生命の危険にかかわるからである。それと同時に、広大な天と地の間に存在する自己の姿を外から見る視点も自ずから養われるであろう。超絶的とも言えるデッサン力に加えて、微視的であると同時に巨視的でもあるその自然を見る眼が、新しい絵画世界を切り拓く池田学の想像力を支えているのである。」同書、p.112.

 じつは、この夏に山形県鶴岡のアートフォーラムで開かれた「高橋コレクション展 アートのふるさと展」で、池田さんの「興亡史」という作品を見るまで、ぼくは名前すら知らなかった。この作品の凄さは、現物に近寄って細部まで見て、さらに三歩さがって全体をみないとわからない。高階先生が取り上げている「方舟」も同様の手法と似たテーマをもった作品だ。キャンバスに筆に絵の具をつけて画くのが絵だという概念は、もうとっくに過去のものになってはいるが、「現代アート」の可能性は広がっただけで、壁にかけて眺める絵画表現は、廃れているとは言えない。ただ、斬新な表現を生み出すには特別な発想とテクニックが不可欠なのは言うまでもない。この池田学さんの作品は、その細密なペン画という技法で抜群だということは、誰が見てもわかる。問題は、そこに表現されている主題が現代的、つまり斬新かつ普遍的な何かをみる者に感じさせるかどうか、ということだ。一つの画面上に俯瞰した全体と、接写した微細な部分を描き出すという試みが、これから先どこへ向かっていくのか、たいへんに興味あるところだし、ぼく自身、こういう描き方が好きなので描いてみたいと思っている。

 B.数学の記述式

 大学入試をめぐって大きな変更があるたびに、いろいろな意見や批判が起こるけれども、文科省は必ずしも合理的理由がない変更でも一度決めたことは撤回しない。受験生への公平平等を保証すると言いながら、実際に高校生や学校現場には負担と不公平を招きかねない。これは数学にかんしての具体的な意見。

 「マークシートでは測れない 「プロセス」述べる力を 芳沢 光雄

2020年度からの大学入学共通テストの「数学記述式テスト」に関して、揺れ動いている。「初年度は数式のみを記述させる」という報道もあれば、文部科学大臣のそれを打ち消す会見もあった。さらに、英語で複数の民間試験を導入することに対して疑問の声が噴出し、新しい共通テストそのものに関する是非の議論に発展している。本稿では一歩下がって、なぜ数学で一部記述式テストを導入するように至ったのか、その背景を考えてみたい。

 1979年から始まった「共通一次試験」からマークシート試験が大学入試で積極的に利用されるようになった。数学は本来、答えを「当てる」教科ではなく「導く」教科であるが、マークシート試験対策として最後の正解を当てる技術のみが次々と進化した。文字変数に具体的な数値を代入すると正解がバレやすくなること、解答欄の形や学習指導要領の範囲から答えが限定されてしまうこと、等々は拙著『「%」が分からない大学生』(光文社)で指摘した。もちろん、論述力を測る上で有効な証明問題がマークシート試験では出題不能である。

 そのような背景から論述文を書く学習が疎かになった半面、答えの当て方に関する様々な方法の暗記が盛んになった。その結果として、以下のような状況を生んだ。国際的なものを含む大規模な学力調査結果で、「計算は得意であるが、説明文の答案には白紙が多い」ことが再三指摘される。2004年に行われた千葉県立高校入試の国語で、地図を見ながら道案内する文を書く問題が出題されたが、約半数が零点だった。11年に日本数学会は大学生約六千人に対し「大学生数学基本調査」を実施し、「偶数に奇数を足すと必ず奇数になることを証明せよ」という中学二年レベルの問題を出題したが、惨澹たる結果であった。暗記でなく理解の学びが必須の「%」の概念を、あまり理解していない大量の大学生がいる。

 AI時代を視野において、来年度から小学校でもプログラミング教育が始まる。ところが、プログラム文を書くことと数学の論述文を書くことは似ている面があり、後者の力は前者の基礎として大切である。またグローバル化の社会では、「結論」だけでなく「プロセス」をしっかり述べる必要がある。それだけに、どこかの段階で記述式の数学テストを設けるべきである。ただし、大学入学共通テストの「試行テスト」にあるような“難しすぎる”問題では意味がない。偶数に奇数を足すと必ず奇数になることの説明文程度で十分である。

 最近、記述式試験では採点にブレがあって不平等である。公平なマークシート試験にすべきである」という提言をよく見掛ける。それでは、記述式試験なら零点となる裏技による“正解”は、マークシート試験では満点になってしまうことは許されるのだろうか。

 昨年から本年前半にかけて大学、とくに文系学部における入試や教育に関して、経済産業省、経団連、政府の教育再生実行会議などから数学重視の提言が矢継ぎ早に出されている。一方で、TIMSS(国際数学・理科教育動向調査)などの調査結果で、日本の子どもたちの「数学嫌い」が極端に多い現状が示されている。注意すべきことは、マークシート式に答えを当てても数学は好きにならない。定理や応用例を導くプロセスを理解し、自分自身でも説明できるようになって、初めて数学を好きになるのだ。この観点も留意して、大学入試全体の在り方を考えてもらいたい。 (よしざわ・みつお=桜美林大学教授、数学・数学教育)」東京新聞2019年10月2日夕刊、5面文化欄。

 入試では受験生の能力のうち、なにを測るのか。マークシート方式は採点の効率化という理由が優先されて、まぐれ当たりや受験テクニックの入りこむ余地が大きいことは改善されない。しかも「数学嫌い」を作り出すとすれば、試験時間を長くしたり問題数を厳選したりすることでしっかり「考える力」をみるようにした方がよいかもしれない。

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教養の死滅のこと2 江藤淳の残した異論

2019-10-02 11:58:49 | 日記

A.世界観・未来観が教養から得られた時代があった

 中学生のころ、上級生でやけに自信たっぷりな物言いをする先輩と話すことがあって、彼は難しそうな本をいろいろ読んでいて成績もよかったので、そのときトップクラスの都立高校を受験するところだった。でも、大学には行かずに労働者になるつもりだとも言った。家が経済的に貧しくて大学進学をあきらめるというのは、あのころ珍しいことではなかったが、彼の家は大きくとくに貧しくはないはずだった。どうして?と訊いたぼくに、彼はこんなことをいった。今の社会で大学なんか行くのは、官僚や支配者の側になることで、自分は労働者階級の人間として社会を変えるのだと。ぼくにはよく理解できない話だと思ったが、彼は大まじめで「いいか、あと10年のうちに日本にも革命が起こる。労働者が資本家を追い出して新しい国になるんだ。そのときのためにぼくは働いてもっと勉強をしておく…」

ぼくはかなり驚いた。革命、そういう言葉は聞いたことはあったが、そんなことが日本で起こるんだろうか?彼は高校を出ると、ほんとに労働者になったらしいと後で聞いた。10年たっても革命は起らなかったが、彼が信じていたのはどうやらマルクス主義というものだったんだなと、ぼくも高校に行ってから知った。

 ぼくが大学に入った頃は、日本中の大学でヘルメットの学生たちがロックアウトといって、大学の校舎を占拠し旗を立てて大学当局と紛争になり、三里塚や新宿駅などにデモ隊が繰り出して機動隊とぶつかりあっていた。いわゆる過激派は「革命」をやるのだと叫んでいたが、やっぱりほんとに革命は起きなくて、本気で革命をやる気だった連中は、大学を追い出されて革命組織は壊滅してしまった。いまの大学生は、そんなことがあったことすら知らないだろうが、「革命」という言葉にあんなに血をたぎらせていた若者がたくさんいたのは、マルクス主義という大きな物語、この世の中がどういう仕組みでできていて、これからどういう方向に動いていって、われわれは何をするのが正しいのか、という大問題に、ちゃんとはっきり答えが出ているのだという「歴史法則」は、確かに刺激的だった。もし世界が、社会主義革命に向かうのが確かなら、受験勉強も恋愛もたいした意味はない。もし革命で倒される側にいたら命だって危ないわけで、若者はじっとしていられなくなった。

 しかし、あれは一種の宗教のようなものだったと、いまなら思う。マルクス自身は19世紀なかばの西欧社会で革命を構想したわけで、べつに宗教を唱えたわけではないだろうが、20世紀にそれをあてはめても失敗することは、ロシア革命以後の社会主義の実験を見れば疑いない。しかし、日本でマルクス主義がある時期まであれほど影響力を持ったのは、大正時代から続いた「教養」への憧れというものも、たぶん関係していたと思う。

 「十九世紀の終わり、この二十世紀の困難を予感したかのように、知識の体系性と中心的な信念を強引に回復しようとしたのが、マルクス主義であった。世界の根底に「物質」という理念を置き、それによって経済から芸術や自然までを説明したうえ、さらに学問の認識の結論を倫理的な行動の指針に直結した。というより逆に革命という行動を正当化するために、学問の認識をそれに都合よいように整理して体系づけた。それにつけて、「古い哲学は世界を解釈しただけだが、真の哲学は世界を改革しなければならない」とマルクスは豪語したが、彼は簡単な事実を見誤っていたといえる。純粋な解釈をめざす哲学はむしろ二十世紀の産物であり、彼のいう変革の哲学こそ十八世紀以前の宣教の思想の復活だったからである。

 しかも復活された宣教の思想の体系は、古いキリスト教の教義以上に細部にわたって煩瑣であった。このように教条的な体系が行動の指針として位置づけられると、それが現実に合わない場合にも、現実の方を「改革」することが命じられる。体系は現実との摩擦によって修正される可能性を失い、必然的に硬直して権威主義的になるほかはない。じっさいこれが二十世紀の七十年間に起こった悲劇であって、マルクス主義はソ連政権とともに思想としても破綻してしまった。そしてこの破綻がともづれにした思いがけない副作用は、二十世紀末の人々に体系的な知識一般への不信をもたらしたことであった。

 不幸だったのは、マルクス主義が一見、教養になじみやすい構造を持ち、現にかつての教養のなかに大きな位置を占めていたことであった。その平明な価値観は信念の相対化に怯える人びとに安心を与え、擬似的な体系性は信頼できる知識の一覧表を供給するように見えた。倫理的な潔癖さは伝統的な人格陶冶の理想をくすぐったし、単純な歴史観はわかりやすく正しい歴史物語を提供するように見えた。事実、総合雑誌から思想全集や文庫まで、市民講座から大学の初級教科書にいたるまで、およそ教養に関わる媒体にはこの思想が半世紀以上も屹立していた。

 それが一気に幻滅をもたらしたとき、あとに残ったのは強迫観念の弛緩と、疲労感によるシニシズムだったかもしれない。教養という言葉の持つまじめさへの軽侮、綜合的に考えることへの諦めの感情、すべて教養めいた厳めしい論調への嫌悪が音もなく広がった。政治運動はばらばらの「シングル・イシュー運動」に分散し、それに見合うように言論界は環境、女性、教育、高齢者問題を脈絡なく語り始めた。人びとの関心は身辺の生活問題に注がれ、教養書は健康、利殖、趣味、資格、娯楽などの専門情報書へと分裂した。一般に構成の厳密な長い文章を読むことが嫌われるようになり、そうした評論を多く載せる総合雑誌よりも、より軽く世情を論じる「オピニオン」雑誌が流行し始めたのであった。

 知の制度化と商品化

 だがもう一つ別の面から考えると、教養はその発生の当初から、逆説的な危い運命を背負っていたと見ることができる。教養はそもそも知識が大衆化した姿であり、知識人が特権階級から分離したときに生まれたものと考えられるからである。社会的に見れば、教養は一方では知識の自立の産物であるが、他方では出発点から知識の権威喪失、限りない大衆迎合の宿命に晒されていたといえるのである。

 古代や中世はもちろん十八世紀末のカントの時代まで、知識の主流は特権階級の経済的庇護を受けていた。それは僧院や王侯貴族のサロンの周辺にあって、それに従属する学者どうしのギルドによって権威を与えられていた。知識人の資格はそうした顔の見える集団のなかで、少数の個人相互の認知によって、限られた名前と個性を持つ人格にたいして許されていた。宗教とラテン語と貴族の血縁関係の繋がりのおかげで、知識人の権威はある程度の普遍性は持ったが、それは顔見知りのない社会のなかで自動的に通用するものではなかった。

 そもそも顔見知りのない社会を社会として統一したのが近代国家であるが、この知識人の資格が普遍性を得たのも近代国家の成立によってであった。国家が直接間接に大学を認定し、教師や医師や、法律家や建築家といった知識人にも、ギルドではなく国家が資格を認知するようになった。そのために学校制度やさまざまな養成の制度も法制化され、知識人の権威を保証するものは個人から普遍的な法に移った。それと同時に知識を権威づける根拠も、王侯貴族の趣味的な感覚から国家の利益へ、宗教的な信念から世俗的な実用性へと変わったのである。

 いわば、教養とはじつはこのとき制度の外に置かれ、実用性を認められずに資格授与を許されなかった知識だといえる。教養とは制度化された知識の余白にほかならず、逆説的に近代国家によって生み出された私生児だったのである。そのさい自然科学と社会科学の大部分は実用性を認められ、国家の学校教育のなかで制度化されたが、曖昧なのは人文学であった。もちろん人文学も長い伝統があるから、さまざまな理屈で間接的な実用性を容認され、一応は制度による権威づけを与えられた。哲学は人間の知や行動を根拠づける学問として、歴史学は国家や文明の正当性を示す学として大学に組み込まれた。だがすでに見たように、そうした理屈はやがてしだいに綻びて人文学を窮地に陥れた。

知識の制度化と庇護を求める苦闘は、今日の大学のなかでも続いている。面白いのはそれにつけて諸学が「科学」の名を自称し、人文学の枠から脱出しようとしていることである。アメリカの大学ではすでに社会学も心理学も社会科学を名乗り、そうすることで現に研究費の配分を増やしている。日本でもこの二つのほかに人類学が加わり、文学部を離れて新しく社会学部や人間科学部を創設する例が多い。そういえば、人文学が人文「科学」と呼ばれるようになったのはいつのころだろうか。社会のなかで教養の地位が揺らぎ、人文学の実用性が問われるようになったのと、軌を一にしていたような気がしてならない。

さて、こうして制度化に締めだされて成立した教養を救い、巧みに社会的地位を与えたのも揺籃期の大衆社会であった。そしてそのための唯一の方法こそ、ほかならぬ知識の商品化であり市場化だったのである。一般に生成期の大衆社会は生活様式のすべてについて、まず過去の権威を破壊するよりも、それを奪いとって自分たちの所有にしようとする。余暇の過ごし方であれ贅沢品の選択であれ、まったく新規の価値をつくるまえに、過去の特権階級の価値観を真似しようとする。知識についても同じ経過が見られたのであって、初期の大衆は教養を貴族の蔵から奪い出して市場に乗せた。ちなみに昭和二年の岩波文庫発刊の辞に、「今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは進取的な民衆の切実なる要求である」と書かれているのは、その意味で示唆深いといえる。

幸いにも、知識に先んじて娯楽を商品化することは十七世紀から始まっていた。都市に遊園地が設けられ、酒場や喫茶店が開かれ、劇場や音楽ホールが民衆に開放されていた。印刷物でさえゴシップ新聞、猟奇的読み物のかたちで、代価を払えば誰にでも楽しめるように普及していた。おそらくそのことが、やがて新聞が高級化し政治的なパンフレットが販売され、知識が商品化されることに大いに寄与したにちがいない。娯楽も知識もともに心の満足をもたらすものであり、商品化されたときそれ自体は目に見えないものである。どちらも直接に生理的生命の維持には必要がなく、社会的な需要が客観的なかたちでなりたちにくい。要するにどちらもサービスなのであるが、サービスを本来の顔の見える個人関係からひき離して、不変的な市場に乗せたのが大衆社会の革命だったのである。

そのさい最大の困難は市場の予測であり、いわゆる生活必需物資とは違って、商品が生まれるまえにそれにたいする需要がわからないということである。もちろん豊かな社会では需要が複雑に多様化し、必需物資とサービスの差がしだいに曖昧になることは知られている。しかし境界は漸層的になっても比較的な違いはあって、いつの世にもより客観的な必要と主観的な需要の区別があることは疑いない。暖かい衣服の必要は安定しているが、先端的なデザインの衣服の需要はつねに予測が困難だといえる。そして純粋なサービスというべき娯楽や知識になると、需要は商品化のまえに存在せず、商品化が逆に需要を創造するという逆説がなりたつのである。

新しい楽しみや学問上の新発見は、そういうものが欲しいという大衆の要求に応えてつくられるわけではない。漠然とこれまでにないものが欲しいという欲望はあっても、それが特定の「これ」だという自覚は、満足を与えられて初めて成立する。それどころか厳密にいえばそれを創造する人間にとっても、何を創造するかということがあらかじめわかっているわけではない。最初にあるのはやはり漠然とした気分であり、一定の幅を持った創造への衝動にすぎない。彼はそれを確かめるように言葉やイメージを選び、磨いたり組み替えたり、内面の手仕事を試行錯誤しながら逆に創造の目的を発見するのである。

この過程が小さなサロンのなかで行なわれるときには、試行錯誤の危険も比較的少ない。創造者とパトロンの趣味は近いから、両者の満足は創造の途中でも調整できるし、万一それに失敗しても無駄の失費は最低限に抑えられる。むしろたいていの場合、パトロンは創造者の背後でその共同作業者として働くから、ここでは供給と需要の対立は生じにくい。だがこの作業が大衆社会のなかで起こり、顔の見えない市場を舞台にし始めると需要と供給は対立するし、供給者側には大きな資本が必要になる。なにより難しいのは大衆社会の本質的な矛盾であって、それが均質化を愛するくせに多様化を求めるということである。市場はつねに新しいサービスを要求しながら、本当に新しいものにはわかりにくいと言って拒絶を示すのである。

これにたいして娯楽は巧みに対処して、需要の予測を簡単にする方法を発見した。なるべく大衆の理性でなく感情に訴え、それも伝統的に確立した、大まかな分類の可能な感情に的を絞ったのである。スリルやサスペンス、素朴な好奇心や冒険心、笑いや怒りや同情心、「家庭の幸福」や「危機一髪の救済劇」が主題とされた。供給者にとっては、これは生産の目的があらかじめ確定しているということであり、あとは工業生産と同じくその生産技術に工夫をこらせばよい。消費者の側からいえば、商品を買う前にその機能の大枠が分かるということであり、あとは技術の細部に多様性を楽しめばよいことになる。

しかし不幸にもこれができなかったのが、純粋な芸術とならんで知識であった。知識のなかでも実用性を眼目とせず、制度によって需要が強制されることのない、いわゆる教養であった。知識とは本質的に知らないことを知ることであるから、需要とはその無知の状態にほかならないが、無知の内容をあらかじめ知るというのは形容矛盾である。「歴史を知りたい」「経済史を知りたい」といった要求はあっても、どのように書かれ、どんな発見のある歴史を知りたいのかは読むまえにはわからない。もしその要求を徹底的に細分化して限定できれば、そのとき読者は自分で一冊の歴史書を書きあげているだろう。

 知識が市場に乗るためには、社会にまず無知の自覚がなければならないが、制度の強制によらないでこれをつくるのは難しい。初期の大衆社会でこれを助けたのが「啓蒙」の思想であり、大衆自身の側では過去の特権階級にたいする平等の要求であった。何を知りたいか、知る必要があるかはわからなくとも、現にものを知る少数者がいるという認識は、多数者の競争心をかき立てた。その段階では、まだ教養のかなりの部分が体系性を保っており、それが大学の制度によって目に見える権威を保証されていた。そのうえ忘れてはならないのは、少なくとも二十世紀の前半までは、どこの国でも特権的知識人と「草の根」大衆のあいだに、インテリゲンチャと呼ばれる中間的知識人が階層をなしていたことである。

 「進取的民衆」と岩波文庫の発刊の辞が言う階層であるが、この階層の二重性が知識の市場化を推進した。彼らはなんらかの知的資格をもつ人であり、「草の根」にたいして知識の権威を守る人であるが、同時に「草の根」と生活上の一体感を覚える立場にいた。彼らの多くはマルクス主義の影響を受け、そうでなくても進歩主義を理想とする信念の人であった。皮肉にいえば、彼らは知識の閉鎖的ギルドを否定する程度にはすでに二十世紀的であり、価値観の相対性を認めるほどにはまだ二十世紀的でない人々であった。当然ながら、この立場ほど啓蒙にふさわしく、それを強く効果的にするものはない。彼らは公然と民衆の無知に警告を加え、その広範な自覚を植えつけたのであった。

 だが二十世紀の最期の四半世紀に、この啓蒙の機運も二つの理由で消滅に向かった。一つは先に述べた人文学の体系性の解体であり、教えるべきもの学ぶべきものの自明性の喪失であった。もう一つはいわば啓蒙の成功の皮肉であって、中間的知識人の量が増えて階層としての意味がなくなったことである。とくに日本では大学卒業者の数が爆発的に伸び、制度的資格を持つ人間が氾濫することになった。知的な「草の根」の概念が曖昧になるとともに、大学の膨張はかつて特権的だった大学教師の権威を引き降ろした。下からも上からも知識社会の境界が崩されて、平等化とともに啓蒙の滝を落とすエネルギーも消えたのである。

 今日の教養の危機は、したがって知識の市場化の困難が裸で現れた状態といえる。新しい退廃が起こったというより、本質的な問題がその本来の姿を見せただけだと考えたほうがよい。無教養を恥じる人間が減り、向上心が衰えたと嘆くよりは、その芽生えは教養の誕生とともにあったことを思い出すほうがよい。そして啓蒙という傲慢な方法が歴史の過去に去ったことを認めたうえで、それに代わる現実的な処方箋を探すべきだろう。」山崎正和「教養の危機を超えて」(初出『This is 読売』1999.3月、山崎正和『歴史の真実と政治の正義』中央公論新社、2000.所収)pp.84-93.

 「教養」はすばらしいものだ、という幻想が消えて、それも「ごっこ」の虚妄だと考えるのが「現実的」なのだ、という時代になって久しい。江藤淳が1970年に書いた「『ごっこ』の世界が終ったとき」という評論を振り返って、佐伯啓思の文章が朝日新聞に載っていた。一部を引用する。

 「(前略)確かにある意味では、江藤さんが述べた「ごっこの世界」は終ったようにもみえる。左翼学生による「革命ごっこ」はすでに70年代半ばには無残な帰結を迎えた。その後、学生も大学もすっかり穏やかになり「体制」のなかで優等生になろうと競争している。さらに、今日、左翼の平和主義や護憲主義はもはや大きな力を持ちえない。それは、まさに戦後日本の平和が米国の軍事力と核兵器を前提にしていたからであり、米国によって守られた平和のさなかで平和主義を唱えても疑問でしかないであろう。また、三島由紀夫の「自主防衛ごっこ」も、思想的な影響は別として、現実には何らの効果ももたらさなかった。「ナショナリズムごっこ」も、今日、反中国、反韓国、反左翼に終始して、真の意味での独立の精神や日本の自立を問う論調はほとんど見られない。

 となれば、一見したところ、「ごっこの世界」の化けの皮も剥がれつつある、ともいいたくなるだろう。すべてが現実主義の一点に向かって収斂しているのだ。「現実」にグローバリズムの世界だから日本もグローバル競争をしなければならない。「現実」に中国が大国化し北朝鮮の脅威があるから日本は米国に守ってもらわなければならない。「現実」に日本は平和なのだから今の憲法でいいではないか。また逆に「現実」に自衛隊は存在するのだからそれを憲法に書き込めばいいじゃないか、等々。「現実」こそがすべてといった具合になっている。

 確かに江藤さんは「ごっこの世界」は「世界」という「現実」に直面していない。それを直視しなければならない、といった。では、この「現実主義」は、本当の現実(リアリティ)に直面しているのだろうか。

 とてもそうは思えない。なぜだろうか。まず、今日の「世界の現実」そのものが、どこか「ごっこ」の様相を帯びてきているからである。グローバル競争の世界は、何の根拠もなく自由競争は利益と繁栄をもたらすという虚構の上にいわば市場競争ごっこを始めた。

 中国や北朝鮮の脅威から米国は日本を守るだろうという、これまた特段の根拠もない虚構によって日米の特別な関係が唱えられる。これもいわば同盟ごっこの様相を呈する。実際、トランプ大統領は先日、日米安保条約の破棄にまで言及した。もちろんトランプ流の思い付きではあろうが、それにしても、日本の政治家(特に野党)もマスメディアもほとんどこの問題を論じようとしないのはいったいどういうことであろうか。

 憲法に関して言えば、護憲派も改憲派も、そもそもの根本的な問題をいっさい問おうとはしない。それは、占領下にあって主権をもたない国家が憲法を制定しうるのか、また憲法とは何か、主権者とは何か、国家の防衛と憲法と主権者(国民)の関係は、といった根本的な問題である。それを問わずして護憲も改憲もない。真に憲法に直面することを回避した護憲論も改憲論も、いわば護憲・改憲ごっこと言わざるを得ないだろう。

 江藤さんは、別の文章でこう書いている。日本は米国のこしらえ上げた「鏡張りの部屋」に置かれているために、世界というリアリティに直面していない。われわれは鏡に映された自分たちの姿について、右だ左だ、護憲だ改憲だ、と相手をののしりあっているが、この部屋は外からは素通しのガラスでできていて、米国からはその中がよく見えている、というのである。そしてそのうちに、われわれは、米国による監視を内面化して「自己検閲」をするようになってしまった。これが、戦後日本の言論空間である、という。

 戦後70年以上もたてば、さすがに鏡も曇ってきたし、ガラスもひび割れてきたようである。ガラスの部屋も万全ではなくなってきた。そこで日本は日本で世界という現実に乗り出そうとしている。だが、ガラスを取っ払えば、世界というリアリティに直面する、というわけでもない。世界そのものがこれまた巨大な「ごっこ」の様相を呈しているからである。日本を検閲していたはずの米国の政治も、トランプ大統領の登場に見られるように、ほとんど思いつきと人気獲得のショウ化している。私にも、これもまた壮大な「大統領ごっこ」のように見える。トランプ大統領と金正恩委員長のやり取りも、また、文政権の韓国もどこか「政治ごっこ」である。

 何か真のリアリティが感じられないのだ。どうやら今日、世界へと顔を向ければ、現実(リアリティ)に直面するというものでもない。世界がまた壮大な「ごっこ」に傾いているのである。なぜなら、今日の世界は、それを導く確かな価値も方向感覚も見失い、また、人々の生存への必至のあがきや、あるいは、個人や国の尊厳へ向けた命がけの戦いともほとんど無縁になっているからである。しかしまた、この「ごっこ」が、もしかすれば、とてつもない「鬼」を現出させるかもしれないのだ。

結局、リアリティとは、そこにある現実そのものではない。それは、われわれが常にそこへ立ち戻り、方向を指し示してくれる価値や経験と深く関わる。

近代日本にとっての最大の経験はあの戦争とその死者たちであった。江藤さんは「ごっこ」が終わればわれわれはあの死者たちと本当に向き合うといったが、どうやら逆に、あの死者たちをたえず想起することによって、せめて「ごっこ」を自覚することぐらいはできるのであろう。」朝日新聞2019年10月2日朝刊、13面オピニオン欄、異論ノススメ。

 少々悲観的ともいえる観察だが、経験を重視する保守主義者としては、戦後の総見直しが必要でそこに希望もあるということなのだろう。ぼくはここまでくれば、何も変えない護憲というより日本国憲法を一から読み直し、現在のまともな日本国民の総意であるべき国の姿を改めて構想することが必要だと思う。それは安倍政権が考える改憲とはまったく違う形になるはずだ。

B.全部想定外のことも後始末できるのか

 福島原発のことはもうあまり話題にもならないが、問題は解決されてなどいない。そのどこの何が危険なのか、現場を見ないとわからなくなっているようだ。

 「取材考記 福島原発の廃炉作業 進まぬ汚染水処理 甘く見たツケ  東京科学医療部 杉本 崇

 東京電力福島第一原発の廃炉に向けた作業を、8年半前の事故当初から断続的に取材してきた。いまは、作業環境が目に見えて改善された「進んだ印象」と、汚染水のように解決の難しい問題の「変わらなさ」との隔たりが、あまりに大きくなっていると感じる。

 原発敷地内では、多くの区域で被曝を防ぐ前面マスクをつけずに済み、原子炉建屋の近くもバスを降りて歩けるようになった。爆発で飛び散っていたがれきも大半が片付けられ、工事用車両が行き交う。取材や見学で目に付くところは、随分すっきりした。

 だが、目につかない建屋の地下には、約1万5千㌧の高濃度汚染水が残る。放射性物質の濃度はタンクにたまる処理済汚染水の一億倍といわれる。

 初めて高濃度汚染水発生が見つかったのは事故発生から2週間後、3号機の建屋地下だった。なぜそこに汚染水があるのか戸惑う記者たちに、東電も原因がわからず説明できなかった。さらに1週間後には、想定していなかった地下の坑道から海に流れ出し、国際問題や食の安全につながる問題に発展した。それでも、当時の説明では、地下からくみ出せば長引かないという楽観的な見通しがあった。

 溶けた核燃料を冷やし、放射性物質を含むほこりを閉じ込めておくため、原子炉に水を注ぎ続けなければならない。地下水も毎日大量に入り込んでくる。発生しつづける高濃度汚染水をなくす道筋はいまも立たない。それは、問題を甘く見てきたつけではないか。

 原発の5㌔ほど南には「東京電力廃炉資料館」が建てられ、事故の経過や廃炉の取り組みが映像や模型などで整理された形で紹介されている。汚染水対策も取り上げられているが、解決の難しさに踏み込んだ説明はほとんどない。責任を問われるべき旧経営陣についても何一つ語られていなかった。

 廃炉の作業は何十年も続く。時間がたって人々の事故当時の記憶が薄れ、きれいに整えられた姿ばかりが残されたとき、事故の教訓は本当に受け継がれているといえるのだろうか。目につかないところに潜む困難な課題に立ち向かうことができるのだろうか。」朝日新聞2019年10月1日夕刊7面、news+α。

 汚染水がここまで深刻な事態になることを、東電も国もマスメディアも、当初まったく想定できていなかったというのは考え込んでしまうしかない。そしていまも溜まり続ける放射性物質の高濃度の汚染水を、どうやって処理解決するのかについても、ほとんど見通しが立たないらしいと聞けば、さらに恐ろしくなる。

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