A.金の雲
日本の中世の絵画に現れた「雲」「金雲」は、とくに絵巻物と屏風絵に特徴的な手法である。西洋の近代絵画のように、画家の視点が眼の高さに固定され、そこから遠近法と陰影で透視的に画面を構成するのではなく、視点はいわば高い空から対象を見下ろすように俯瞰的で、しかもそこには場面転換も含む雲が観たいものだけを出現させ、余計なものは隠してしまう超越的な視点がある。地上にいる人間は、空に雲がかかっていてもそこから眺める視線を意識することなく、目前の人と現実のなかで生きている。建物も空からは屋根があって中は見えないはずなのに、雲に区切られた画面には屋根はなく、室内まで見渡されている。
こういう絵画表現が、日本以外でもあるのかどうか、ぼくはよく知らない。ただ、これが非常に効果的に使われた画面は、おそらく平安時代以来の「源氏物語絵巻」のような絵巻と、室町戦国時代の狩野元信や永徳、あるいは岩佐又兵衛などの筆になるといわれる数種の「洛中洛外図屏風」や「江戸図屏風」などの屏風絵であることは異論はないだろう。これを、現代アートに取り込んで面白い効果を生んでいる作品がある。高階秀爾先生の紹介は以下のような文章になっている。
「濃い朱色に縁どられた金雲がのんびりと漂うなかに、堂々たるモダン建築の百貨店が聳え立つ。旗や垂れ幕で華やかに飾り立てられているのは、大売り出しの日でもあるのだろうか。入口のまわりには紅白の幕(?)まで張られて、無数の人々が吸い寄せられるようにむらがっている。日本橋の三越本店か、それならよく知っていると思って眼をこらすと、何かおかしい。すぐ近くの日本橋川には、多くの荷船や屋形船が往きかっているが、今の日本橋にはこのような光景は見られない。大勢の群衆が集っている橋詰めの広場も今はない。一方、川の下、地面の中には地下鉄の駅が見えるし、川の上には高速道路も走っている。
さらに奇妙なことに、建物のまわりには、未来都市にふさわしいような空中軌道が取り巻く。つまりここには、時代考証もなにもなく、過去と現在と未来のイメージがにぎやかに同居している。いやそれだけではない。現在の日本橋は薄汚れた高速道路の下でうらぶれた姿を見せているが、この画面では、太鼓橋のように大きく湾曲した日本橋が高速道路をまたいでおり、その上を広重の『東海道五十三次』の旅人たちがのどかに往来している。奔放と言おうか、勝手と言おうか、ともかく途方もない想像力である。
だがそれでいて、画面全体から湧き上がる華やかなお祭り気分は、かつて江戸時代に活発な商業活動の中心であったこの地区の、あるいは「今日は帝劇、明日は三越」と謳歌したハイカラ時代の賑わいを、見事に反映している。山口晃の卓越した描写力が、実際にはあり得ない情景をあたかも現実の世界でもあるかのように思わせ、見る者を画面の雰囲気のなかに引き込んでしまうのである。恐るべき表現力と言わねばならない。
はなはだ興味深いことに、山口晃はかつて学生時代にも三越を主題とした「百貨店圖(日本橋)」と題する作品を描いていた。周囲の壁を全部取り払って外から内部を覗き込むという大胆な構成で、いわば日本の伝統的な「吹抜屋台」の手法を壁に応用したものである。それから十年後、テレビ番組で山口のことを知った三越の担当者の依頼によって生まれたのが、この百貨店図であったという。とすれば、それは山口にとっても、文字通り「新三越本店」だったと言ってよいであろう。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.020-023.
ぼくもこの作品を見る前から、屏風絵の技法が面白いと思って城下町鶴岡の江戸時代の参勤交代をテーマにした絵に「金雲」を使って描いたことがある。山口晃さんの絵は、新旧過去現在を自在に取り込んだ厩を絵巻物風に描いた作品を見ていた。大画面の細密画といっても池田学さんとは違ったいき方だが、歴史というものへの相対化と現代化をよく理解して、丁寧な画面構成をしているという点で、好感が持てる人だ。
B.消費増税をきっかけに価格を決める方法を考える
ものの値段というものは、生産者なり供給者が市場で、競合する他社や「世間相場」を勘案して決めると思われている。それは自由に決めてよいが、高すぎれば売れないし安すぎれば売れるが商品価値は低く見られる。市場交換はつねに流動的で、価格は変動するのが資本主義で、市場を考慮せずに価格を政府が決める計画経済の社会主義が、柔軟性をもたずに失敗したのは当然だと20世紀末には考えられていた。しかし、AIとビッグデータが高速処理できる技術に達した現在では、無駄なく効率的に価格を常時最適に設定できるのかもしれない。すると、従来の市場経済の方が無駄が多く、たとえばコンビニで毎日売れ残り弁当を捨ててやりくりするような経済は、きわめて非効率で古臭いものになるのだろうか。
「多事奏論:価格を科学する 消費税込々の新発想:編集委員 原 真人
消費税率が10%になった。ただし8%の軽減税率あり、2%と5%のポイント還元制度ありで、買い物のレシートを見ても税額がいくらかすぐにわからない。税は簡素であるべきなのに相当ゆがんでしまった。
それでもこれが功を奏した面もある。増税前に買うのが得か、増税後がいいか。多くの消費者が分らず迷って、極端な駆け込み消費が起きなかった。
企業も合理的な行動をとった。マクドナルドや牛丼のすき屋、松屋は店内飲食と持ち帰りの税込み価格をそろえた。レジで会計のたびに税率を振りわけるのでは手間がかかりすぎる。だから本体価格を変えることで、税込み価格を一本化した。
ここからくみ取れること。それは消費税も「価格」の一要素にすぎないということだ。日本ではあまりにも消費税アレルギーが強すぎて、増税の影響を過大に見る傾向がある。ここは発想の転換が必要だろう。
増税前夜の先月末、BS-TBS「報道1930」で山本太郎れいわ新撰組代表と討論する機会があった。山本氏は「国民生活を苦しめる消費税は廃止する」と訴えた。私はそれに反論した。
たとえば消費税廃止にともなう代替財源の一つとして、山本氏は法人税の大増税をあげた。だが実は消費税だって事業者がまとめて税務署に収める一種の法人税だ。仮に消費税廃止で生じる財源の穴をすべて法人税増税で埋めたとしても、理屈の上では全事業者が収める税総額は変わらない。
事業者が払うあらゆる税は最終的に何らかの形で消費者に転嫁される。消費者だけが得をする、ということにはならない。
いま、消費の現場では消費税率アップさえ多くの価格変動要因の一つに過ぎなくしてしまう画期的な価格革命が起きている。
「ダイナミックプライシング」。人工知能を活用し、需要に合わせてアルゴリズムで弾力的に価格を変えていく手法だ。
40年ほど前、米国で航空会社が導入。その後、スポーツや音楽の分野で広がった。最近は自動車配車料金や季節ごとの衣料品価格など他分野で採用されている。
日本でもここ数年、Jリーグやプロ野球、音楽コンサートへと広がってきた。名古屋グランパスと横浜F・マリノスでは今年から全席で導入。チーム成績、対戦相手などで売れ行きも変わるから、指定席の価格は座席ごとに毎日変わっていく。
同じホールでもアイドルイベントなら前方席、クラシックコンサートなら後方席が好まれるらしい。状況次第で安くなる席もある。空席にするくらいなら格安でも売ってしまった方が全体の売上も増える。
このシステムを日本に導入したのは三井物産やヤフーなどが出資するダイナミックプラス社だ。平田英人社長は商社の駐在員時代、米国メジャーリーグ観戦でその効果を体感し、帰国して事業化に取り組んだ。
「何となく決めていた価格を科学する方法論がこれだと思った。価格が柔軟に変われば、たくさんの消費者の選択の幅が広がる。生鮮品の値を時間ごとに変えられれば廃棄ロスだって減らすことができます」
興味深いのは、ダイナミックプライシングが導入されているチケット販売は、消費増税に影響されにくいことだ。いま最適な最終価格をまず決めるから、販売した後に消費税額を逆算する。だから消費税率の変更をあまり意識しなくてすむらしい。
いわば「消費税後決め方式」。これが広く普及すれば「消費税は景気に影響する」などと決めつけられなくなるだろう。消費者物価指数ひとつでインフレだデフレだと一喜一憂しなくなるかもしれない。
企業の価格決定が科学的になってきた今、経済政策が非科学的なままでは市場の実態と遊離するばかりだ。政府や日本銀行も、与野党も、物価や価格をめぐる考え方を大きく見直すときがきたようである。」朝日新聞2019年10月9日朝刊13面、オピニオン欄。
人気芸能人のコンサートチケット販売から、このダイナミックプライシングが実現しているというのだが、それは大量の人間の行動が数量的に把握可能で、そこからかなり正確な予測ができるという想定に立っている。もしそれが多くの小売業の顧客の消費行動にも適用できるなら、商品の価格は毎日、あるいは時間ごとに変動して表示されるという事態は、現実にこの消費増税で導入されたレジのIT機器導入が一気に進展したことからも想像できる。そうなると、その先にAIと社会主義の計画経済という、すでに失敗して死んだシステムがゾンビのように復活する、のかもしれない。
「新井紀子のメディア私評:「もしも」から考える ソ連がAIを駆使したなら
歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏のインタビュー「AIが支配する世界」(9月21日付本紙オピニオン面)を読んだ。
歴史に「もしも」は禁物だ。だが、その禁をあえて犯してみたい。もし、1989年にベルリンの壁が崩壊せず、91年にソ連が踏みとどまり、今日のAI時代を迎えていたなら、どうなっていただろう、と。
ハラリ氏は、ソ連の計画経済が失敗したのは、20世紀の技術では膨大な情報を中央政府が迅速に処理できず、需給バランスをうまく調整できなかったから、と指摘する。当時は、各個人が市場経済で自己の利益を追求する「見えざる手」(アダム・スミス)を信頼する方が、最適解に達しやすかった。
一方で、「見えざる手」は公害などの外部不経済も生んだ。地球規模の環境変化は深刻だ。SDGsが叫ばれ、国連やG20等で議題に上り続け、紙面を賑わしてはいるが、解決される希望を私たちは持てずにいる。「国際協調」などという「民主的」で生ぬるい方法では、直面する大きすぎる課題に対応できないのではないか、と。
東京オリンピックや大阪万博の頃、「世界」という言葉には、高揚感を誘う夢の響きがあった。それだけ「世界」にリアリティーがなく、地球は大きかった。しかし、「見えざる手」に導かれて、人とモノが地球を高速かつ大規模に移動しながら自己の利益を追求した結果、海はマイクロプラスチックで溢れかえり、アフリカ豚コレラは蔓延した。素朴に考えたほどには、地球は大きくなかったのである。
そこで、もしも、だ。ソ連が残り、現在のインターネットよりも中央集権的なネットワークを設計し、あらゆるものにセンサーをつけ情報をAIが理解できる形式で合理的に集め、21世紀初頭からデータサイエンスを高度化していたら、どうなっていただろうと。
実は、現在のAIの基盤である確率・統計の理論の多くがソ連発だ。コルモゴロフ、ヒンチンなどキラ星のごとく名前が並ぶ。これほど確率・統計学者が多いのは、計画経済を合理的に進めるための関心の高さゆえかもしれない。適切な刺激を与えることで特定の行動を導く「パブロフの犬」の実験で知られるパブロフも、行動主義心理学に大きな影響を与えた。それらの理論は、現代の巨大テック企業のサービスの礎になっている。
その結果、ソ連を中心とした東側諸国は、経済的に西側諸国を圧倒していたかもしれない。何しろ、ソ連では西側と違って「人の配置の最適化」も厭わない。だからオリンピックも数学も強かった。子どもの行動や発達を生まれたときからモニタリングし、どんな職業に就かせるのが最適かを計算し、配置したことだろう。その徹底を前にしたら、リクルートの内定辞退率予測どころでなく、グーグルのアルゴリズムですらトイ(玩具のようなプログラム)に見えていたかもしれない。
加えて、ソ連には、科学リテラシーに欠ける人物が、単に人気取りで大統領や首相に就くリスクがある民主的な選挙は、ない。ソ連だけでなく究極的には世界中の人々を、平等に「幸せ」にするために、データサイエンスを、計画に基づき、段階的に正しく使いこなす事ができる最も有能な人物が党大会で選出されるのである。それは現グーグルの最高経営責任者であるピチャイのような人物かもしれない。
そのとき、東側陣営は西側の敗北を見下ろしてこう言っただろうか。「各人の自由な利益追求を野放しにすることで最適解にたどり着けるなど、『脳内お花畑』な資本主義は格差を拡大し、地球を危機に陥れた。次々とポピュリストが登場し、汚い言葉で罵り合っている。知的な政治からは程遠い」と。
この「もしも話」の意味は何か。
一つは、AI技術が目指していること――あらゆるデータを収集することで未来を予測するという誘惑――
は、葬り去られたはずの全体主義、計画経済のそれと驚くほど似ているということだ。自由の旗を掲げるシリコンバレーがその発祥の地であるのは皮肉だ。
もう一つは、「幸せ」のような質に関わることを、数字という量に換算できると考えることの危険性だ。かつて、蓮實重彦元東大総長は入学式の式辞で、学問研究の「質の評価を数で行うというのは、哲学的な誤り」と批判した。質を数字に置き換え、数学を用いて分析しなければ、近代科学にはならない。近代科学によりテクノロジーは発展したし、社会の矛盾は可視化された。数値化と数学には効用がある。だが、それは手段に過ぎない。手段が目的化したとき、私たちは再び全体主義の足音を聞くことになるだろう。」朝日新聞2019年10月11日朝刊13面、オピニオン欄。
なんだか、かなりぶっ飛んで面白い話にみえる。つまり、AIとビッグデータというテクノロジーによって、人間の行動と未来予測がかなり正確にできるのだ、というポジティヴなアイディアは、この世をどこまでも明っかる~く、今日より明日が進歩するという楽天的なことが好きな能天気な人に、とっても心地よくなる話だ。しかし、それは現実というもの、人間というものをごく単純な動物のような単一の欲望に動かされるものとしてしかみていない。経済という現実的な人間の行動についても、ネズミや羊のレベルの数量データで把握する集団同調行動としか考えない。これは「哲学的な誤り」だとぼくも思う。
マルクス経済学は、ヘーゲル的近代の発展論理を社会理論に応用したものだと思うが、現実の経済実態の把握を徹底した数量化データとして処理し政策化できなかったことで、失敗し衰滅した。近代経済学の新古典派総合はそれを数学的な頭の体操にして、コンピュータで分析する手法も開発した。しかしそれも、過剰に理論のエレガンスに拘ったために、地球をひとつの市場とするグローバル経済を無条件に前提にして、それに反する破綻や失敗を無視したために、説明力を疑われることになった。20世紀に起ったことは、いっけん東側の社会主義が硬直した共産主義思想のゆえに人民の失望から崩壊し、人間の多様な欲望をも吸収する西側の自由主義が勝利したと総括して21世紀を迎えた。
だがそれは資本主義の無駄の多い市場経済システムが社会主義のそれより合理的だったからではなく、たんに経済の生の動きを捉え価格変動に即座に対処する手段がなかったにすぎない、のだとすると、それが可能になった現在では、もう資本主義に優位性はないことになる、というのがここでのお話だ。
それが馬鹿げた妄想だとはいえなくなっているのは、新しい事態で、べつに昔のソ連社会主義計画経済に戻ったらとか、躍進する中国の国家統制資本主義に合理性があるとかいうつもりはない。価格という経済の重要な争点が、現在の技術によって臨機応変に操作できるということに限りない魅力を感じる人たちが、ここで一気に市場という土台を一見誰も気づかないうちに、ぜんぜん別のシステムに変えてしまうという惧れがある。それは思想でも理論でもなく、たんにテクノロジーが実現する価格決定システムという機械になってしまうのだ。それを誰が手をつけるのか?