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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ニッポン現代美術の旗手 5 やなぎ みわ さん ITの未来

2019-10-17 01:32:27 | 日記

A.絵画+演劇+写真を創作する

 絵画という概念はもうたいして意味のないものになっているかもしれない。絵画が人や事件や風景の記録を主とした時代は、19世紀半ばまでに終わり、写真という発明はある場面、一瞬の光景を化学と光学反応でフィルムに定着してしまう。画家が見たままを絵具で時間をかけて絵にする必要はなくなった。写真の技術はどんどん進歩し、絵画や絵画以上のアートにまで成長した。しかし、写真は再び絵画のやろうとしていたことに近づいているのかもしれない。つまり視覚的表現がどのような手段を使ってなされようとも、そこに作家の表現したいものが実現していればそれはアート作品なのだということになる。しかも、それは写真ではあるが、たんなるプリントされた写真ではなく、周到に準備されひとつのコンセプトを印象づけるように創作された画像なのだ。それはほとんど演劇的と言ってもいい。やなぎみわさんの「エレベーターガール」シリーズを見たとき、ぼくはそれが意図していることを読み取ろうとして、5分間かかった。

 「宇宙船の内部を思わせるような清潔で無機的な近代的ビルの一室、その閉ざされた空間のなかで、制服姿の案内嬢たちが集まって下の方を眺めている。休憩中のひと時ででもあるのだろうか、それぞれにくつろいだ様子ながら皆一様に下の階に注意を集中している姿は、何か意味ありげに見える。われわれはその彼女たちの姿を、別の世界からいわば覗き見しているという感じで、きっちりとした制服の明るい紫と胸許の純白のネッカチーフ、白手袋に見られる爽やかな色彩配合と巧みな人物構成は、よく計算された上質な舞台の一場面を切り取ったような印象を与える。

 事実、やなぎみわは、卓越した造形感覚の持主であると同時に、また優れた演出家でもある。デパートの案内嬢を主題としたこれら一連の「エレベーターガール」シリーズの制作に先立って、やなぎは、実際のモデルを使ったパフォーマンスを二度ほど試みている。

 最初の時は、画廊の壁に本物そっくりのエレベーターの扉口をしつらえ、その前に二人の案内嬢を配置するという構成だったという。案内嬢と言っても、実際に何かをするわけではなく、ただ黙って椅子に座っているだけだったから、パフォーマンスというよりも人間を素材としたインスタレーションと言うべきかもしれない。

 次いで、やなぎみわは、この人間インスタレーションをカメラのレンズを通して定着するという大きな飛躍を見せた。それと同時に、コンピューター・グラフィックを駆使してガラス張りの壮麗な回廊や空中歩廊、エスカレーターなどが交差する舞台も整えられた。このようにして、さまざまなヴァリエーションを見せる冷たく華麗な「エレベーターガール」のシリーズが生まれて来たのである。

 現代の高度消費社会の象徴であるかのようなこれらの案内嬢たちは、同じような制服姿で、まるで人形のように見える。しかし彼女たち一人一人がそれぞれ独自の個性をもった存在であり、その胸のうちには他人のうかがい知ることのできないさまざまな思い、希望や情念が秘められていることを、やなぎはよく知っていた。それが次の「My Grandmothers」のシリーズへとつながって行くのである。

 優れた造形感覚とともに、社会に対する冷静なまなざしと人間性への鋭い洞察を備えたこの作家の活躍からは、当分眼を離すことができない。」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.pp.032-035.

 高階秀爾先生のコメントはおおいに参考になるのだが、もうひとつ現代美術の現場にいるキュレーター、長谷川祐子さんの『「なぜ?」から始める現代アート』からも引用する。これは美術館という現場がもつ特権的な空間の意味を「ホワイトキューブ」という言葉でまずおさえ、そこに作品を並べて観客が順番に見ていくという「お約束」が成立している20世紀の常識があり、それがもう硬直した構造になっているかもしれないという問題意識につながっていく。

 「みなさんは、アートと出会う場所として、どこを思い浮かべますか?

 まずは美術館でしょうか。受付でチケットを買って、白い壁に囲まれた、天井の高い展示室に入り、日常とは切り離された空間でアートを鑑賞する。それは現実社会のしがらみやタイムスケジュールから解放される、豊かで自由なひとときです。

 なぜ、多くの美術館の展示室は、そろいもそろってこんなに真っ白なのでしょう。

 アートを展示する白くてニュートラルな空間は、「ホワイトキューブ」と呼ばれています。1929年に開館したMoMA(ニューヨーク近代美術館)から始まり、その後世界中の美術館に広がっていきました。

 ただの白い空間なら、西欧のお城にも、修道院にもあるではないかと思われるかもしれません。しかし、そうした伝統的な建築ではなく、四角くて真っ白でニュートラルな空間が、「モダンアートを見せるための空間」としてつくられたということです。

 初めてホワイトキューブの空間に入った、あるイギリス人の言葉は印象的です。「月面に来たようだ」。それまでヴィクトリア朝風の、装飾的な室内空間しか知らなかった人にとっては、何もない真っ白な空間というのは、まるで別の惑星に降り立ったような、それまでの空間認識がリセットされるような体験だったということです。

 先ほど私は、「アート」ではなく、「モダンアート」を見せる場所としてホワイトキューブはつくられたといいました。

 ここで少し、モダンアートとは何かという、私なりの定義をしておきましょう。一般的にいうモダニズム(近代主義)とは、「新しさ」に価値を見出し、革新的に前に進むという概念のことです。では、モダンアート、つまり芸術におけるモダニズムとは何か。文脈によっていろいろな定義があるのですが、基本的には、アーティストが宗教や国家から離れ、個人として、自意識をもって作品をつくり始めたということです。

 そうなると、オリジナリティへのこだわりや価値づけが生まれます。ユニークであるということ、今までになかったものを自分がつくり出すという「新しさ」の生産が、モダンアートと、それ以前の宗教画や肖像画との違いであるということになります。

 教会や君主の館での展示は、その場の歴史―文脈に強く結びついていました。真っ白でニュートラルなホワイトキューブはこれらの政治的、社会的、思想的な場の関係と作品の関係を切断して、作品に自律性を与えるものでした。

 例えば、いままで部屋の壁紙や装飾にあわせてつけられていた過剰なデザインの額縁が取り払われ、壁一杯に縦横展示してあった絵が、横一線に並べられるようになったのはホワイトキューブの登場以降です。

 それは絵と自分の一対一の集中した関係をもつにはとてもよい環境でした。目に全ての感覚と思考を集中させる、有効な方法だったのです。作品は、時代順、「進化」の順に並べられました。いわゆるおなじみの美術館の展示です。白い空間は現実から切り離され、アタマの中が整理されて、とても集中できます。しかし、その集中は長い時間もたないということに、皆さん気づいていると思います。人工的で、ある種の緊張感を強いられる空間だからです。その後の美術館の歴史は、ホワイトキューブをどうカスタマイズしていくかの歴史でもありました。

 いずれにしても「個人の創造神話」、「オリジナリティ」、「誰もが価値をみとめるモダンアート」は、ホワイトキューブでせっせとつくられたのです。

 どんなことにでもよい面と悪い面があります。モダニズムは、社会思想においてもアートにおいても革新的な価値を生み出す一方で、普遍性を求めるあまりにそれ以前のものを切り捨ててしまう、という危うさも秘めています。例えば、儀礼や慣習などといった伝統的なもの、手工芸や踊りなど地元の香りの濃厚なヴァナキュラーなものの豊穣な世界観が失われていく問題を内在させていました。

 白いニュートラルな空間でモダンアートを見せられているうちに、それに対抗するように、サイト・スペシフィック(場所特有)なアートが現れてきました。1960~70年代にかけてのことです。ある一定の場所でのみ成立するアート、現場主義的なアートといってもいいでしょう。

 映画を撮るとき、いわゆるロケハンをして、撮影場所を決めますね。それと同じような感じです。普通の民家であったり、商業施設であったり、ほかのことに使われている場所で展示をするということが行われるようになります。ホワイトキューブから、もう一度、具体的な場所に戻っていく動きがあったわけです。

 特定の場所、環境は、体験や記憶と不可分です。」長谷川祐子『「なぜ?から始める現代アート』NHK出版新書、2011、pp.58-61.

 長谷川さんの問題提起は、ぼくにもわからないことはない。しかし、この本の述べる科学論と芸術論や、モダニズム批判から東洋回帰に傾く言説は、社会科学者として生きてきたぼくには正直なところ素直に受け入れる気にならない。もし現代美術アートの向かっている場所が、一方でIT先端テクノロジーへの安易な同調、他方で自然や身体を介した反知性的な精神論に行くとしたら、それは21世紀のアーティストを愚かな観念論に転落させる怖れがあると思う。だが、これについてはもう少し考えてみたい。

 

B.AI万能論の危険

 近年さかんに論じられるAIとビッグデータの可能性について、よく知りもしないでそこに何でも解決してくれるバラ色の未来を期待する言説や、逆にこの技術の浸透によって、人間が奴隷のように管理される悪夢を想像する言説も、20世紀の終わりごろに喧しかった、コンピュータが新たな権力の道具として人間を支配するという単純な世界像を焼き直しているように思える。問題は、これが民主主義という19世紀以来、人類が重要な価値としてきた社会システムのあり方を突き崩してしまうかもしれない、ということだ。

 「AIの民主化 いまこそ 「富の再配分すら不要な時代」に懸念 政治家に恩恵 米社会を管理する道具 生き抜くため リテラシー身につけて :朝日地球会議2019 

 AIと民主主義 :人工知能(AI)は、気候変動などの問題を解決できる技術革新の可能性を秘める一方、失業や教育格差、情報統制など民主主義の土台を揺るがす課題も投げかける。民主主義にとってAIを有意義なものとするには、何が必要なのか。西村陽一・朝日新聞社常務取締役をコーディネーターに日米の著名な研究者が意見を交わした。

 政治学者でジョンズ・ホプキンズ大准教授のヤシャ・モングさんは、米国のトランプ大統領やブラジルのボルソナーロ大統領、インドのモディ首相らを挙げ、「『私』だけが真の国民の代表であり、違う意見や価値観を持っていれば『悪い人』『危険な人物』と考える危険な勢力だ」とポピュリストを定義した。こうした政治の指導者が、司法など権力を制約するための民主主義的な制度、組織を攻撃することで、「個人の自由など、守るべき中核的な価値をおろそかにしている」と指摘した。

 データサイエンティストで数学者のキャシー・オニールさんは、広く活用されているAIのアルゴリズム(計算方式)について、「一般市民に関する重要な決定を下しているのに過ちがあり、アクセスもできない」と問題点を指摘した。

 オニールさんによると、米アマゾンは従業員の採用にAIを使おうとしたが、自社のテストで無意識に男性を評価するアルゴリズムになっていることが分かったという。「アルゴリズムは事実に基づくものではなく、数学に組み込まれた主観や意見。アルゴリズムを信じないでほしい」

 国立情報学研究所社会共有知研究センター長・教授の新井紀子さんは、「GAFA」に代表される少数のIT企業が、利益を独占する「デジタライゼーション」のあり方について問題提起した。「持続可能なシステムとは思えない。(貧しさに取り残された側の)怒りがポピュリズムを呼ぶ。法、経済、倫理の観点から考えていく必要がある」と話した。

 貧富の差の拡大とポピュリズムの関係も取り上げた。オニールさんは過去に、ネットで高額の買い物をする利用者だけに多様な選択肢を示すようアルゴリズムを設定する仕事をしていたと明かした。ネットの利用頻度が低い人や貧しい人には選択肢が示されないこうしたシステムが「不平等をつくっている」と批判。貧富の差の拡大がポピュリズムに結びつく社会の到来について、「回避できないとは思わない。だが、アルゴリズムは説明責任を果たすべきだ」として、今のシステムを規制する法整備の必要性を提案した。

 「エリートは何かしら見返りがあったから、民主主義を受け入れてきた。AIはその図式を覆そうとしているのか、注目しなければいけない」。モンクさんは、AIが労働者に取って代わることで、エリート層が中間層を必要としなくなり、富の再配分や市民の教育すら不要とされる社会が来る可能性を懸念した。

 デジタル技術を社会の統制や経済成長に利用する中国の動きについても話が及んだ。オニールさんは「中国の社会信用スコアなどは監視の技術も含まれ、大変な恐怖を覚える」と強調。一方で「AIが、米国でも社会を管理するツールになっている。政治家は自分たちが恩恵を受けるので、政治的に触れられない問題になっている」と指摘した。

 新井さんはAIを社会の管理に使うことについて「中国が特異なわけではなく、シリコンバレーがやろうとしていることが、そういうことだった。GAFAが傲慢にも正しく使えると思っているのが問題だ」と話した。

 会場からは「私たち市民には何ができるのか」という問いが寄せられた。新井さんは「数字を見せられたら、『そうかな』と思うことはやめる。この知識基盤社会を生き抜くために、数学におびえないリテラシーが必要だ。私が最も力を入れて取り組んでいるのは、子どもたちにそのリテラシーを身につけさせることだ」と話した。オニールさんは「数学を理解していなくても、体制に異議を申し立てることはできる。体制に疑問を持ち、われわれの権利を行使する必要がある」と強調。モンクさんは「権利を主張するだけでなく、税逃れを防ぐ課税法の改正など変化も求めていく。せっかく手にしているこの民主主義をどうしたら守れるのかについても、考える必要がある」と述べた。

 コーディネーターを務めた西村常務は「AIは使い方によっては大きなチャンスをもたらすといえる。ただ、アルゴリズムやビッグデータをめぐる課題はあまりにも多い」と総括。「今回、『AIと民主主義』というタイトルをつけたが、私たちが今考えるべきは、AIとデータの民主化なのかもしれない」と語った。」朝日新聞2019年10月16日朝刊22面。

 ものすごく頭が良くて、しかも世界を隅々まで了解し、もっとも無駄なく効率的に社会をマネジメントできると信じるエリートがいるとして、その人がITとビッグデータを自在に駆使して、世界を思うように動かしたとしたら、ぼくたち一般人民大衆は、幸福な人生を送れるのだろうか?仮にそれで経済的、軍事的、政治的な安定秩序が保たれていたとしても、ぼくたちは自分の生きている時代と社会に主体的に関わって、他人が決めたアルゴリズム、つまり誰かが決めた考え方やあるべき姿に自分が押し込められることの不自由を我慢することができるだろうか。エリートがどんなに頭が良くても、それはしょせん人間という限界のある存在に過ぎない。そこに意義申し立てすることを、社会システムは保証することが民主主義という価値だと思う。

コメント (1)
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