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写真付きで日々の思考の記録をつれづれなるままに書き綴るブログを開始いたします。読む人がいてもいなくても、それなりに書くぞ

ニッポン現代アートの旗手 2 会田 誠さん 「干す」芸能界

2019-10-08 11:52:32 | 日記

A..そんなに「わかりにくく」はない

 現代アートは一般に「わかりにくい」と言われる、と当の現代アートに関わっている人たちがそう思っているようだ。「前衛的な」音楽、舞踏、不条理劇などは、説明されてもよくわからないし、とくに美術については昔のような額縁に入って壁に架かった絵じゃなくて、わけのわからない映像が暗い部屋に映っていたㇼ、むやみに大きかったり、ただ妙なオブジェが床に転がっていたㇼするだけで、非常識を売りにしてるだけじゃないの、と言われることを気にしている。近頃はあちこちで現代アートの美術展やイヴェントが催され、ちょっと覗いてみようと行く人は少なくないが、その面白さのアートとしての価値を理解するには、そもそも現代アートが試みている課題が出てくる文脈をある程度知っている必要がある。しかし、それは美術教育のあり方まで関係してくるので、どうしても一部の専門家やマニアだけの世界のように思いこまれてしまう。

 そこで、まずは頭でなく五感で作品を体感することが始まりだ、という立場がひとつある。しかしこれも、作品を前にして人々がほんとうにそれを味わい、その作家のメッセージをちゃんと理解しているのではなく、ただ周辺的な解説情報だけで、この作品は賞を受けて高い評価とお値段の作品なんですよ、ほお~そ~なんだ」と驚いて終わりなのだ。それが気になりだすと、作家の中には何も知らない人にもインパクトを与えるような「わかりやすい」表現を工夫する人もいる。 

 「まえがき  

 本書に収められた三十点の作品は、平成十八年一月号から同二十年六月号まで、「現代アートの現場から」というタイトルのもとに、講談社発行のPR誌『本』の表紙を飾ったものである。そこに登場するのは、すでに多年にわたって充実した活動を重ねて、国際的にも広く知られた作家から、近年になって注目を集めている気鋭のの新人まで広い範囲にわたっており、その表現手段もさまざまだが、いずれも今日の日本において、新しい表現領域を切り拓くために果敢な活動を展開しているいわば最も生きのいいアーティストたちである。その新鮮な活動の一端をこのようなかたちで纏めることは、現代日本の創造的エネルギーを物語る貴重な証言となるであろう。

 現代芸術は、しばしば馴染みにくい、あるいはわかりにくいと言われる。それは、常に未知の表現世界への挑戦を試みる先鋭な芸術家たちの活動が、それ故にわれわれには見馴れない、時には異様なまでの成果をもたらしてくれるためだが、そればかりではない。現代芸術をめぐる状況が、そのわかりにくさをいっそう強めていると言ってよい。

 歴史をふり返ってみれば、かつてはそれぞれの時代に支配的な役割を演じた時代様式というものがあった。「ゴシック様式」とか「バロック様式」と呼ばれるものがそれである。だが十九世紀以降、そのような支配的枠組みは失われてしまった。印象派の達成はたしかに絵画の歴史を大きく変えたが、しかしそれ以前から続いていた伝統的なアカデミー派は、なお大きな存在であり続けた。二十世紀になって新たに生まれた多くの前衛芸術運動、フォーヴィスムやキュビスム、あるいはシュルレアリスムや抽象芸術は、それぞれ豊かな成果を残してくれたが、そのどれかひとつを二十世紀を代表する時代様式と規定するわけにはいかない。比喩的に言えば、近代以降、芸術の歴史は、一本の大河と言うよりも、さまざまの流れがからみ合い、重なり合いながら展開して来たと言ってよい。その背後には、美術館や展覧会などの新しい制度の誕生、複製手段の発達、情報化の進展など、複雑な社会的要因が働いていたに違いないが、いずれにしても、現代芸術は、その流れを受けて、豊穣な混沌とも言うべき状況と見せている。

 ここに取り上げた作家たちは、その豊穣な混沌のなかで、独自の輝きを発する星たちである。その作品は、時に見る者を戸惑わせ、反撥すら買うかもしれないが、しかし同時にわれわれの感性にゆさぶりをかけ、忘れられていた感覚を甦らせ、新しい未知の世界へと導いてくれる。何よりもそのたくましい創造的活力によって、人間存在の証となっているのである。

 本書を纏めるにあたっては、作家御本人をはじめ、画廊その他関係者の方々の絶大な御協力を得た。ここに深く謝意を表したい。また雑誌掲載時以来、実際の事務を担当された編集部にも御礼申し上げる。

                   平成二十年十月  高階秀爾 」高階秀爾『日本の現代アートをみる』講談社、2008.Pp.003-005.

 会田誠という画家は、作品によって社会にインパクトを与えたいと考え、与えられると信じている人のようだ。それには画像の視覚的イメージだけではなく何らかの観念の作用を必要とする。ここで高階先生がとりあげたのは、ゼロ戦がニューヨークを爆撃しているという屏風絵である。

 会田誠 「紐育空爆之図」(戦争画RETURNS)

 まず眼につくのは、六曲一双屏風という大画面いっぱいに大きく8の字を描いて舞い飛ぶ無数の飛行機の群れである。曲芸のような宙返りを見せながら整然と編隊飛行を続けるその翼の行列は、何かの祭りの日に催される華麗な空中パレードを思わせる。いや実際それは、きわめて非現実的な、裏返しの祝祭図と言ってよいかもしれない。一見玩具のように見える飛行機は、かつて太平洋戦争の時代、「ゼロ・ファイター」の名前でアメリカ軍を恐れさせた日本の戦闘機、通称「零戦」であり、背後で紅蓮の炎に包まれているのは、クライスラー・ビルやエンパイヤー・ステート・ビルなどの摩天楼が建ち並ぶマンハッタンの中心部である。つまりそこでは、日本空軍の爆撃によってニューヨークが火の海となるという突拍子もない光景が展開されている。しかもそのニューヨークを明治時代さながら「紐育」と表記するレトロ趣味にも欠けていない。

 そればかりではなく、この画面には過去のさまざまな記憶がいっぱいにつまっている。屏風という日本の伝統的な形式がまずそうであるし、斜め上から見下ろした俯瞰構図による都市景観図は、桃山時代から江戸期にかけて数多く描かれた洛中洛外図の手法そのままである。そう言えば、建物の間にゆらめく火焔とオレンジ色の煙は、洛中洛外図の画面にただよう金雲と重ね合わせられるであろう。

 そして何よりも「戦争画」である。戦時中、戦意高揚のために描かれた多くの戦争画は、終戦後占領軍の手で接収されアメリカに渡ったが、その後永久貸与のかたちで日本に返還された。1996年に始まる「戦争画RETURNS」のシリーズは、戦争中の熱狂とも戦後のイデオロギーとも無縁な会田誠が、徹底して醒めた眼で「帰ってきた戦争画」を受けとめ、それに触発されて生み出した痛烈壮麗なパロディである。アニメ漫画的な発想と卓越した描写力とをひとつに合体させたその達成は、驚嘆に値すると言ってよい。

 鋭い批判精神を背後に秘めながら、絶えずラディカルに新しい表現を求め続ける

会田誠は、その後も俗悪な看板絵のような「切腹女子高生」や、流麗な線描表現による奇妙な「大山椒魚」のような作品で、見る者を挑発し続けた。2005年には、大原美術館有隣荘での展覧会で、怪しい少女エロスの魅力にあふれた「愛ちゃん盆栽」で人眼を驚かせた。その異様なまでの想像力は、ましく現代美術の旗手と呼ぶにふさわしいものである。」同書、pp.008-011.

 ぼくはこの「大山椒魚」を見たのだが、どれも少女の醸し出すエロスが大きなテーマになっていて、ある意味で「わかりやすい」作品である。そこらへんが、彼の講演を聴いた女性から、セクハラ女性蔑視を表面に出して恥じない話を聞かされて不愉快だったという批判が出されたこととも関係してくる。ニューヨーク空爆が空想の遊びなのは構わないとしても、少女への男の欲望を形象化することを暴力だと思う人がいることを、アーティストはどう考えるのか?

 

B.権力の暴力の現れ方

 芸能人とか芸能界とかに、ぼくはほとんど何の興味もない。でも、多くの人たちは、テレビでしょっちゅう見ている芸能人を、まるで親しい友人のように愛着を感じ、心情的に同一化して熱心に話題にする。その魔法のような力は、現代のメディアのもつ力であり、人々の意識領野のかなりの部分を占めている。しょせん大衆的娯楽の世界であり、それがどうなろうと、その時だけの移ろう話題、文化消費財にすぎないのだが、その渦中にあるのは人間なのだ。ぼくはもう70歳という年齢を刻む人間なので、そんな馬鹿げたことに時間と頭脳を費やすのは、実にもったいないと思っているから、ど~でもいいのだが、こんな記事があった。

 「「テレビから干す」芸能界変わるか 「出演の話、なかったことに」

 実力・人気があっても、芸能界内での圧力でテレビに出られず、干されるタレントがいるーー。決定的な証拠がないものの、社会で広く認識されてきたそんな「テレビ芸能界のブラックボックス」に今、厳しい視線が注がれている。行政や政治も動き始め、業界内から告発する声も。藝能界は変われるのか。(西村綾華、真野啓太、中野浩至)

 俳優のんさん、番組0本に :俳優の「のん」さんは、2013年にNHKの連続テレビ小説「あまちゃん」でヒロインを演じ国民的人気を博したが、テレビの露出はある時期から急減した。調査会社ニホンモニターによると、NHKと在京民放5局で11年~14年は毎年数十~200近い番組に出演していたのに、18年がゼロ。15年から今年8月までの合計もわずか7番組にとどまっている。

 そこに芸能界の圧力があったと告発するのは、現在のんさんのエージェント(代理人)を務めるコンサルティング会社の福田淳社長だ。

 のんさんを巡っては15年ごろに、契約を巡って所属事務所とトラブルになり、本名の能年玲奈から改名。16年からは、「事務所に所属」という形ではなく、仕事の獲得などを依頼する、米ハリウッドなどでよくみられるエージェント契約を福田さんと結んだ。

 CM出演は次々と契約できているにもかかわらず、テレビ番組では、これまで約30件もドラマや情報番組のオファーがテレビ局からありながら、出演契約を結ぶ直前で「話はなかったことに」と連絡が入るなど、何度も話が立ち消えになったという。出演前日になって「やはり来ないでくれ」と連絡があったイベントも、。福田さんは、そんなメールや企画書を保管している。

 「大手から移籍・独立すると、輝いているタレントでも圧力で表舞台から消えることがある。芸能界はタレントの移籍の自由を認めてほしい」

 民放キー局でドラマを手がけていた元プロデューサーも「のんさんと事務所がトラブルになった当初、外部から『使わないで』と言われた。時間が経っても、局側が忖度して自主規制している」と語る。のんさんに限らず、大手から移籍したタレントを番組に起用した際も、「放送後に嫌みを言われた」と打ち明ける。

 業界の構図 社会は厳しい目  元SMAP巡り公取委注意

 タレントがテレビから干される問題は今に始まった話ではない。「遅くとも1970年代にはあった」と指摘するのは、芸能文化評論家の比留間正明さんだ。

 事務所の多くは専属マネジメント契約を結んでタレントを育て、テレビやCM出演の仕事で投資を回収し、安定的な収益を生む。予想外の独立や移籍は、育ての親を裏切る行為。破れば、半ば「見せしめ」として他のタレントの動きを封じてきたという。日本の芸能界は、テレビでの活躍がタレントの成功モデルであるため、多くのタレントは声を上げにくい状況が続いてきた。

 ただ、近年、そうした構図がほころび始めた。

 17年には芸能関係の訴訟を手がける弁護士らが、のんさんやSMAPの解散問題などを受け、芸能人の地位向上のための活動を行う「日本エンターテイナーライツ協会」を設立。事務所の移籍制限や不当契約などが芸能界で常態化している点を公正取引委員会に繰り返し訴えてきたという。

 同協会の共同代表理事を務める佐藤大和弁護士は「東京五輪までにスポーツ選手の地位向上を図る動きがある中、対象が企業に属さず個人として働く『フリーランス』全体に広がり、芸能人の権利についても見直す機運が高まった」

 実際、公取委もジャニーズ事務所から独立したSMAPの元メンバー3人(香取慎吾さん、稲垣吾郎さん、草彅剛さん)をテレビ出演させないように事務所が民放に圧力をかけた疑いがあるとして、ジャニーズ事務所に異例の注意をした。8月には、自民党の競争政策調査会で、独占禁止法上問題となりうる行為の具体例を明示した。

 佐藤弁護士は「タレントの自由な移籍が認められなければ、契約が奴隷制度のようになる。事務所側に力が偏り、タレントが搾取される」と指摘。そうしたひずみが吉本興業の場合、「闇営業」問題なども引き起こしたと指摘する。

 「優秀な人材 流出するだけ」 SNS・動画配信が影響力

 社会が芸能界を見る視線は厳しさを増しつつある。ある中堅の芸能プロダクションの代表は「公取委の動きは業界の風通しをよくする方向に向かう」と認めつつ、「移籍が一般化するとリスクを背負ってタレントの卵を育成するのにちゅうちょしてしまい、業界にとって必ずしもいいとは言えない」と不安を隠さない。「移籍が盛んになれば出演料が高騰する。テレビ・タレント・芸能事務所の共同体を安定的に維持するには『干す』文化は必然だった」と話す民放幹部もいる。

 ただ、干すことが当然の世界は、視聴者にとって不利益である点を忘れてはならないと、芸能界を取材してきたライターの松谷創一郎さんは強調する。「業界的なお作法のせいで、ドラマなどの作品に適正な配役がなされず、質の低いものを見させられている可能性を考慮する必要がある」

 松谷さんは、近年は、SNSの普及や、ユーチューブ、ネットフリックスなどのネットの動画配信サービスの台頭で、テレビを介さずに活躍できる場が増えたと指摘。デジタルコンテンツ協会によると、18年の国内の動画配信サービスの市場規模は2200億円と過去5年で1千億円も増えた。23年には2950億円に拡大すると推定している。

 松谷さんは言う。「移籍制限をする業界の体質を変えなければ、優秀な人材は今後、テレビを見捨て、他のメディアへ流出していく。テレビと芸能界が沈没していくだけだ」 」朝日新聞2019年10月7日朝刊2面総合2。

 「あまちゃん」の能年玲奈が、芸能事務所+テレビ局の共同体から「干された」のは、自分を売り出した所属事務所を飛び出して独自に活動しようとしたことへの「制裁」だったのだとすれば、これは「人権」とまでいかずとも、人材派遣の囲い込みや契約社員の労働問題と同様の枠組みで考えるのか、あるいは浮動的な大衆娯楽興行界の組織防衛的慣行に乗った利害当事者の紛争と考えるのか、そこは問題だ。しかし、こうした問題の最終的解決は、法的な正義ではなく現実的な、つまり需要者である大衆的娯楽にお金をだす圧倒的な大衆が、何をどこに求めるかの市場的構造変動によって一気に事態は大変革になる。

 思い出してみよう。1960年代、あれほど隆盛を誇った映画界は、自宅で見て楽しめるテレビの普及によって客が離れ、斜陽産業になった。いま20世紀に繁栄したメディアの王者テレビは、ついでに見るニュース以外はばかげた無用の長物、なくても困らない盲腸のような存在になりつつある。有能で魅力的な芸能タレントの活躍の場を、狭いテレビ界に依存する体制はまもなくかつての映画界のようにさっさと見捨てられるだろう。資本主義市場経済の論理は冷徹に、時代に遅れたものから価値を奪い、業界のボスを亡びさせていく。

 日本の芸能界のタブーに触れて「干された」タレントは、たんに芸能組織システムに反抗したから排除されるというほかに、もうひとつ政治イデオロギー的な要因もかつてはあったように思う。1970年代、テレビで一世を風靡した「ゲバゲバ90分」などを仕掛けた放送作家で自身も画面に露出していた大物、巨泉・前武と並び称された前田武彦は、司会者・タレント・俳優として人気を獲得していたけれど、ある時からぱったり姿を消してしまった。それは彼がテレビで左翼支持の発言をしたことが影響していると推測された。日本の芸能界で、政治的な発言をすることは絶対のタブーとなっている。とくに、芸能人が共産党や左翼的な政府批判を口にしたらテレビ画面からは抹殺される、ということは芸能界の誰もが知っている。

 おそらく今も、この唇寒しの状況は揺るぎなく、たとえば原発廃止を唱えた俳優山本太郎が、芸能界から一切の仕事を干された結果、参議院選挙に出ることで転身したこともその一例だろう。才能あるアーティストの真の存在価値は、それが自分を商品として売り出した芸能事務所の金儲けの手段ではなく、一時の宣伝や虚構のイメージ戦略に乗っかった観光資源の一例でもなく、この国のありうべき姿と人民の幸福実現にアートは、積極的に関わっていくべきだ。

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