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1950年代チャンバラ時代劇考 17 まとめその3

2019-07-16 13:11:08 | 日記
A.少年の夢と希望
 テレビでよく見るauのCMは、2015年くらいから始まったらしいが、最初は桃太郎(松田翔太)、金太郎(濱田岳)、浦島太郎(桐谷健太)の三太郎だった。これがシリーズになるにつれ、一寸法師や鬼まで出てくると同時に、女子のかぐや姫、乙姫、外人の白雪姫まで登場し、最新作は親指姫が踊っている。今の子どもたちは、これらの童話キャラクターを原作で読んだことがあるのだろうか?日本昔話のようなテレビ番組もなくなってしまったし…。
それはともかく、ある時代に子どもなら誰でも必ず知っているヒーローというものはいたはずだし、それが10年、20年と経過するうちに、変形し新しいヒーローに入れ替わってゆくのも繰り返されてきたことだと思う。ただ、1960年代以降、童話絵本にかわってテレビがそうした基礎的教育を提供するようになると、その回転速度もずいぶん早くなって、たとえば東映時代劇の系譜をひく「戦隊シリーズ」は1年で新しいヒーローに入れ替わっていまも続いている。デパートの幼児向けおもちゃ売り場では、戦隊ヒーローや仮面ライダーなどのちょっとだけ新しくなったグッズを並べている。テレビと同時にマンガもそうしたヒーロー像を提供していた。だが、マンガもテレビがもう忙しい大人やティーンエイジャーの見るものでなくなる時代がきて、子どもたちが夢中になるTVヒーローは、自分でネットに接する前の幼児しか見ないにしても、誰もがみんな知っている(このフレーズ、ぼくの中では月光仮面の「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみ~んな知っている♬」を想起させるのだが)世代の共有記憶になるヒーローはもう消えてしまうかもしれない。
 1950年代東映時代劇について今さらあれこれ見てきたが、これで打ち切るにあたって、やはりぼくの世代が幼少年期に、その上の世代から引き継いで夢中になったヒーローは、時代劇の中にいたことを確かめる。つまり、映画で見た鞍馬天狗、丹下左膳、猿飛佐助などに始まって、やがて宮本武蔵にたどりつくのだが、一方で草創期のテレビでは「月光仮面」というのに夢中になったのも事実で、鞍馬天狗が黒い頭巾で刀を差して馬に乗っていたのに対し、月光仮面は白い覆面にサングラスをかけマントをひるがえしてバイクで走って来て拳銃を撃つのである。
 いずれにしてもそれは「男の子」のヒーローであって、女の子は綺麗な服を着て王子様に憧れる別世界しかみておらず、男子と女子にはすでに接点はなかった。今はだいぶ違うんだろうなあ…。
 
 「四月山形県置賜郡小松国民学校に入学。一年生のころは、成人したら桃太郎になるつもりで、学校から帰るといつも鉢巻をしていた。二年生になったあたりで、桃太郎はお伽ばなしの中の人物と知り、こんどは鞍馬天狗を志し、年中、木刀を腰に差していた。四年生のときに、鞍馬天狗も架空の人物であると気付き、将来の志望を宮本武蔵に替えた。これは吉川英治の『宮本武蔵』を読んで感激したせいである。裏庭にとうきびを撒き、兄の滋とそれを飛び越える修業を毎日繰返したが、夏になってとうきびはわたしたちの身丈をはるかに超え、剣聖になるための修行は頓挫した。
                   (井上ひさし 自筆年譜 1941年 七歳)
 桃太郎の鬼退治は、そのまま同時代の軍国少年の思想になっており、わが国初の長編漫画映画の題名は『桃太郎の海鷲』(1943)という。鉢巻をした桃太郎が「海鷲」のパイロットして勇敢に戦う物語だ。戦争の時代に、桃太郎はプロパガンダとして流布した鬼退治の物語に利用された。この映画が公開された年に話題になっていたのが、東京宝塚劇場で上演された白井鐵造作・演出の『桃太郎』高峰秀子(桃太郎)、榎本健一(猿)、岸井明(犬)、灰田勝彦(雉)が出演していた。戦争中の吉川英治『宮本武蔵』は多くの読者に支持されていた。大佛次郎の「鞍馬天狗」シリーズもロングセラーとして読まれ続けている。
 さらに井上ひさしのもう一つの文章を引用する。「吉野作蔵と鞍馬天狗」(『國文学』2002・11)である。
 ちいさい頃に切ないほど憧れた英雄が二人いて、一人は宮本武蔵であり、もう一人が鞍馬天狗だった。七つ八つだから文字で読んだわけではなく、徳川夢声のラジオ朗読で宮本武蔵が、嵐寛寿郎の映画で鞍馬天狗が好きになったのだ。昼は、武蔵が弟子の伊織にやらせた修業を真に受けてそのへんの植木を飛び越えて歩いて向かいのおじさんに怒られたり、夜は、風呂敷の覆面頭巾に物差しを振りかざして近所中の家の中を走り抜けて隣のおじさんに叩かれたり、たいへんな熱の入れようだった。もちろん狂っていたのはわたしだけではない、町の男の子のほとんどが、夜は覆面頭巾で走り回っていたのである。覆面をしたまま床に入って母に叱られたりもした。
 
 宮本武蔵と鞍馬天狗、この二人の英雄がはるか半世紀をこえて井上ひさしの胸によみがえる。
 吉野作造教授のいる東京大学法学部政治学科に、1918(大正7)年に入学してきたのが大佛次郎、吉野の講義を聞いたはずの大佛がその六年後に鞍馬天狗のシリーズをスタートさせることになった。
 大正デモクラシーを牽引した吉野作造の思想は、一言でいえば、「憲法を武器に、議会や政府を通して、ゆっくりと民本政治を実現していこう」「憲法によって君主の権限を抑える」ということだった、と井上ひさしは要約していた。この吉野作造の民本主義は、「(鞍馬天狗に)相手に向って腕力を用いたり腰の方何物を言わせようとしたことがない」大佛次郎の思想に通じていた。ということは、吉野作造のものの見かたや考え方が、大佛次郎という名媒介者を通じて、鞍馬天狗のものの見方や考え方になっていったことになる。
 吉野作造の評伝劇の準備をするなかで、吉野と大佛の教室での出会いを知り、そこに覆面頭巾の鞍馬天狗を颯爽と登場させたくて仕方がないのだ、とこのエッセイで井上ひさしは語っていたのだった。
 吉野作造の評伝劇『兄おとうと』(鵜山仁演出)の上演は、2003年5月。吉野作造と信次は、十歳ちがいの兄おとうと。おとうとの信次は、農商務省の高級官僚で、商工大臣、戦後には大蔵大臣をつとめている。この評伝劇に新たに「カードの行方」の第四場が書き加えられて上演されたのは、2009年の三演目からである。第四場は、松本大吉と幸子という夫婦の説教強盗が吉野信次宅に押し入る場なのであって、この評伝劇には、けっきょく鞍馬天狗は登場しなかった。しかし、人を殺めたり怪我をさせたりするのは願いさげという説教強盗夫婦こそが、井上ひさしにとっての鞍馬天狗だったのにほかならない。殺さない、怪我をさせない、縛らないの三ない主義、その上、ありがたい話を聞かせてくれる人気の説教強盗なのだった。
 こまつ座とホリプロの共同制作として彩の国さいたま芸術劇場で、2009年3月4日に初日の幕を揚げたのが蜷川幸雄演出の『ムサシ』である。プログラムに掲載された、井上ひさしと堀威夫の対談を引用する。
 井上 ずいぶん前、この『ムサシ』の企画立ち上げ時に堀さんとニューヨークで会いましたね。
 堀 あれは、1985年ごろでしょう。この企画は、一度、挫折している(‥‥‥)三年くらい前に、井上先生から電話をもらって、「堀さんとのきっかけで始まった企画だから『ムサシ』を書くよ。必要だったらやってくれ、必要でなければ捨ててくれ」。(‥‥‥)
 井上 前に死ぬまでにまだ時間があると感じていました。それが、「わたしもやがて死ぬ。それが明日かもしれない、明後日かもしれない」という実感におそわれました。「『ムサシ』を書きあげないと、死んでも死に切れない。見守って下さった堀さんに申し訳ない」と思って電話したんです。
 堀 ですから、この『ムサシ』は数奇な運命をたどっている。自分の運の強さを感じますね。
 
 この『ムサシ』のニューヨーク、ロンドン公演に向けて稽古を再開したばかりのその日、2010年4月9日に井上ひさしは急逝する。
 『ムサシ』は、宮本武蔵の櫂を削った長い木刀の一振りで落命したはずの佐々木小次郎が、じつはながらえていた、という井上ひさしの着想から始まっている。
 舟島(巌流島)の決闘から六年後、小次郎が、鎌倉は源氏山の禅寺に武蔵の居所をつきとめるのだが、二人はともに人を殺めることの虚しさを知り、報復の鎖を断ち切ることになる。
 井上ひさしは、剣聖の宮本武蔵にも鞍馬天狗の反暴力の民本主義の思想のあることに改めて気づかされていたのである。別にいえば井上ひさしは、このようにして日本および日本人の戦後民主主義の決算を、宮本武蔵と鞍馬天狗に再発見するのだが、そこにいたるまでの詳細な記録として、井上ひさしの自筆年譜をもう一度読みかえしておかなければならないと思われる。」今村忠純「解説」(『井上ひさし短編中編小説集成』第10巻)2015、岩波書店、pp.555-558.
 
 東映時代劇考のまとめとして、こんなことを考えた。
 日本人(の男)は、近代という新しい世界に放り込まれて、いやでも常に移り変わる社会や時代に生き延びるために、桃太郎や金太郎と一緒に夢見て遊んでいた幼児の世界を捨てて、学校に通って勉強をまじめにやり、世の中の役に立つ人間にならなければいけないと教えられた。しかしこれは、楽なことではないし楽しい事とも思われない。それに耐えるためには、大きな物語、人生の意味を与えてくれるような子供騙しでない物語を必要とした。しかし、キリスト教のような西洋の宗教はバタくさくてどうも馴染めない。だからといって従来からの仏教や儒教では新しい事態に迷う心にあまり訴えてこない。もっとわかりやすくて、心にジンと来るヒーローの物語がほしい、と子どもから大人になる男の子たちは思ったのだろう。
 それを提供したのは時代劇だった。でもそれはやっぱり子供騙し、いや子どもから離れたくない大人のために、乙姫に見送られて帰ってきた浦島太郎が、マッチョなサムライになって悪に立ち向かう「単純な正義」に流れて行った。その先には、暴力を国家の正義にまで祀り上げた戦争があり、栄光の帝国があった。しかしそれはアメリカの圧倒的な武力に負けて、もうチャンバラでは勝てないことを思い知ったから、男の子の夢は、遠い過去の別世界で遊ぶしかない場所に後退し、もう一度時代劇に向かった。それは娯楽であり癒しであり現実を忘れる効果があった。
 それが次に来た高度経済成長で、もうそんなものは誰も必要としなくなったから、時代劇は消えて行った。そして今はもうすべてが過去の記憶ですらなく、保守すべき理念は影も形もおぼろになった。「サムライ」に憧れてチャンバラをやっていた世代は、もう完全に世の中からリタイアする。日本を「凛としたサムライの国」にもっていこうなどという時代錯誤を夢見る人たちは別として、男の子に夢の形象化を与えるものは、ネットの中のヴァーチャルな妄想世界しかないのだろうか。ダイヴァーシティを唱えるだけではその中身がよく見えない。少なくとも東映時代劇のような華やかな具体性はない。
 
 
B.パーソナライゼーションとプライヴァタイゼーション
 1980年代に、人々の心理に広がる新たな傾向として指摘されたのがプライヴァタイゼーション(「私事化」と訳されていた)である。それまでは、国家や会社組織などに所属していると思うことでアイデンティティを得ていた人々が、もうその帰属感から切り離されて、家族や友人という身近な小集団にだけ共感できるようになっていた状態も失われて、すべては自分個人のなかの出来事としてしか感じられなくなる、というのがプライヴァタイゼーションである。伝統保守派からは、それは戦後民主主義の失敗であり、地元共同体や家族すら信じられないのは悪しき個人主義の末路であり、「麗しい家族」を復権すべきと批判された。リベラルな価値を主張する立場からは、それが社会問題につながるのは日本で個人主義というものがちゃんと定着していないことの表れであって、古い家族を復活させても解決にはならないばかりか、むしろ地域も家族も孤立し脆弱になると反論した。そして、このプライヴァタイゼーションの傾向はおそらくとどまることなく浸透して21世紀になったと思う。
 そして今度は、SNS時代という状況の中でパーソナライゼーション(これは「個人化」と訳すのだろうか)という言葉が、人々の情報交換の質という点から指摘される。どういうことか?
 
 「文化繚乱時代 SNSがもたらした曖昧な不安 :新井紀子のメディア私評
 朝日新聞の文化欄の劇評、特に歌舞伎欄をこよなく愛している。人気役者の市川海老蔵を、頑なと言えるほどほめない。海老蔵が主役を張っているのに完全にスルーした時には苦笑した。意地悪。もはや執念の域に達した責任感を感じる。何としても海老蔵に「団十郎」の名跡にふさっわしい役者になってほしいのだろう。文化を支えてきた原動力は、論理や公平さなどではなく狂気にも似た愛なのかもしれない。
◎        ◎  
 建て替えられた歌舞伎座はバブル期より賑わっていることもある。書籍の発行部数は減っているものの新刊は約1万5千点、バブル絶頂の1990年の倍近くだ。しかし20世紀に「文化」と呼ばれたものが音を立てて崩壊しつつあることを誰もが感じている。
 きっかけはインターネットだった。そして、巨大IT企業が提供している無償のSNSサービスと「パーソナライゼーション」が決定打となった。ある少女が気に入ったユーチューブの動画を友達とシェアする。見終わった後に、推薦される動画は何か。それは2人の過去の視聴履歴によって異なる。
 ツイッターやフェイスブックはもっと露骨だ。誰が友達か、誰をフォローしブロックするかで、画面に表示される内容は全く変わる。AKB48の最新曲のセンターが誰かを知る国民は過半数に満たぬだろうが、自分の画面だけを眺めることで「誰もがAKB48に熱中している」と実感する人々もいる。
 パーソナライゼーションの「お陰」で、私たちは情報の洪水に溺れることなく、効率よく関心ある情報だけを収集することができるようになった。茶の間にテレビがあった時代は、水戸黄門が印籠を出す決め台詞も演歌の歌詞も、関心の有無にかかわらず脳にインプットされた。だが、家族が各自スマホを見つめる時代には「不要な情報」はシャットアウトできる。世界で100人しか関心がない「マイクロ文化」であっても、SNSさえあればコミュニティーを形成して情報交換できる。
 文化の多様性は本来望ましいことだろう。テレビが地上波しかなかった時代には想像し得なかった文化繚乱時代が到来したと言えるのかもしれない。しかし、何かしっくりこない。喜べない。その曖昧な不安が、主要紙の「文化」や「文系」をめぐる報道を迷走させている。
 朝日新聞はオピニオン面で「文系は負け組なのか」(1月16日)という特集を組み「人工知能(AI)の広がりやプログラミング教育の必修化など、『文系』には何かと肩身の狭い世の中になってきた。巨大IT企業が世界を動かす中、『理系』こそが勝ち組なのか」と書いた。論点が不明なまま、「コミュニケーション力」など文系にも「訳に立つ」面がある、という人工知能学会長の発言が載った。文化文芸面ではメディアアーティストの落合陽一氏の、令和について「僕は『命令』の『令』であり、コンピューターソフトのプログラムの意味だと捉えています」(5月24日)という発言が無批判に掲載された。なぜ、これほどまでにテクノロジーにこびるのか。何が、文化の担い手を不安にさせているのか。
◎        ◎  
 思い出して腑に落ちるのは、以前NHKの番組で耳にした喜劇役者の伊東四朗氏の発言だ。「ロミオとジュリエット」のコントで笑いがとれるのは、誰もがその筋を知っているからだ。今やシェークスピア劇を知る人は少ない。説明しながらパロディ―をやるくらいやぼなものはない、との指摘だ。「正統派教養」が権威をもっているからこそ、文化やパロディーはアンチとして花開く。「みんな自分の好きなことをそれぞれ楽しめばいいんじゃない?嫌なものは最初からブロックすればいいだけ」という時代には、正統派教養や権威に対してノーをつきつける方法論そのものが崩壊するだろう。
 そのせいだろうか。文化人が新聞やネット上で、高校国語で「文学」を教える時間を死守すべしとの声を上げ始めた。学習指導要領改訂で、近現代文学をほぼ教えない学校が現れることを懸念した動きだ。だが、今さら高校生に「こころ」や「山月記」を強要しても、文化の変質は止まりそうにない。
 2002年に「文学界」は作家や評論家に「現行の『国語』教科書をどう思うか?」というアンケートをした。金井美恵子氏は「国語教科書に載っている文章に対しては、それだけで馬鹿にしていた」、橋本治氏は「人生を教えない学校で文学を教えたってしょうがないでしょう」と回答した。今やそんな余裕は失われたということか。
 阪神ファンが、「ジャイアンツが強くなければ野球にならない」と突然巨人を応援し始めるような捻転した事態に、今「軽いめまい」を覚えている。」朝日新聞2019年7月12日朝刊13面オピニオン欄。
 
 ここで新井氏が言っているのは、情報の共有による共通対話基盤が、SNS環境では失われる可能性があるということと、個人があらゆる「私的な」意見表明を流せて、それが一瞬にして膨大な反響や影響を持つということが、同時に個人の関心や知識をタコツボ化するという危惧だろう。
 プライヴァタイゼーションが問題にしたことと、パーソナライゼーションが危惧していることは、時代も視点も別のことなのだが、社会における個人のあり方をどう捉えるかという点で、無関係ではない。社会学の入口でまず出てくることだが、人間は完全に孤立した個人として生きることはできない。他者の存在を前提にして、生存・成長もあれば教育・発展もある。しかし、個人を育み認めることは共同体や国家が個人に優先するという考え方とは対立し矛盾する。
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1950年代チャンバラ時代劇考16 旗本って? ボサノヴァ。

2019-07-13 22:35:32 | 日記
A.旗本・御家人の生活
 この春から、暇な時にペン画で幕末から明治初期に撮影された江戸の写真をもとに、モノクロの絵を描いている。江戸は徳川家康が、小田原北条氏滅亡のあと関東に移封され、天正18(1590)年八月に居城としてやってきて以来、徳川幕府の本拠として2代秀忠、3代家光の寛永13(1636)年の総構完成まで、約半世紀かかって完成した江戸城に、全国三百諸侯が集められた大都市だった。江戸城内外周辺に配置拝領された広大な大名屋敷は、参勤交代制で国許からやってくる藩士、そして徳川直属の旗本と御家人の膨大な武家人口を収容し、これを支える町人、職人をはじめ、多数の寺社に暮らす人びとも合わせ、当時でも世界一人口100万の都市だったという。
 自然に発展した都市ではなく、徳川幕藩体制の中心という政治的な目的で計画的に作られた大都市であるから、最大の城下町という以上に、全国の武士の統治機構でもあり、サムライの社交の空間でもあった。大名屋敷の実態はいろいろな資料も残っているが、旗本・御家人についてはどうなっていたのか。忠臣蔵にからめて、井上ひさしの『不忠臣蔵』に以下のような、旗本の具体例が出て来たので引用してみる。これは、殿中松の廊下の事件の時、抜刀した浅野内匠頭を抱き止めた旗本、梶川与総兵衛に仕えた隠れ赤穂浪士、岡田利右衛門のその後という話になっている。

 「ほう、今日の硯も桃河緑石の長方硯だの。刈右衛門はその硯がよほど好きとみえる。わしは知っての通り梶川家の婿でな、婿に来た当座は毎日のように、その硯の講釈を義父からうけたまわったものだ。
「この桃河緑石の長方硯は、唐渡りの絶品だぞ。桃河という川の川底から採った緑石でつくられており、この日本にも二つとない名題の硯じゃ。それからこの堆朱軸の筆だが、これも唐渡りでな、明代の作という。こちらの墨は徽墨じゃ。南唐代に徽州で製された名墨、表面が鏡の如くてろてろと光っているが、これは仕上げに漆を塗ってあるせいだ。三品とも秀忠様からわしの父が頂戴したもの、いえば梶川家の重宝である。万一、火災の際はなにはさておいてもこの三品を安全な場所へ移すこと、これが梶川家の家訓じゃぞ。それからもうひとつ、硯はとにかくとして、筆と墨とは使用を禁ずる。使えば磨り減ってしまうからな。最後にくれぐれも硯の手入れをおこたるな。よいな、肝に銘じておけよ」
 わしはいま七十三歳、そしてわしが梶川家に来たのが十七歳。あれから五十六年も経つが、義父のことばをこの通りちゃんと憶えておる。どうかね、刈右衛門、これをもってしてもどれだけくどくどと口やかましく言われておったか、おおよその察しはつくだろう。
 もっともわしは梶川家にふさわしくない婿養子であったわ。文房具には爪の垢ほども興味がもてぬからだ。刈右衛門が梶川家に物書役として雇いあげられたのはいつだったか。うーむ……そうそう、それを忘れてはいかんな。それを忘れては、梶川与惣兵衛頼照もついに老いたり、耄碌せりと嗤われてしまう。これまた十八年前じゃ。元禄十四年の巳の夏のはじめじゃ。内匠頭どのを抱き止めし臨機の措置あっぱれ至極、ということでわしは五百石御加増になり、それまでの七百石と合わせて、千二百石いただく身分となったが、あのときじゃ。当時、世間ではわしのことを、
 「片手で二百五十石掴んだ果報者」
 とか噂をしておったようだな。両手で抱き止めたから五百石の御加増、片手になおせば二百五十石を濡れ手で粟‥‥。この噂にはそういうからかいがこめられていた。ふん、愚か者めらが。わしの心のうちを知りもせず、世間は結果だけを喋々しておったわい。
 まあ、そう、睨むものではないぞ、刈右衛門。今日は取っかかりから話が横道へそれっぱなしだが、なに、そのうちに本道へ引き返すさ。『梶川氏筆記』の口述へちゃんと立ち戻る。なあ、刈右衛門、わしはこのたびのこの『梶川氏筆記』の口述を、己が最後の仕事と思い定めている。生涯最後の仕事の、今日がその最終日よ。そういう次第でわしの脳味噌は、夏場の天水桶の腐れ水のようなもの、さまざまな思いがウンカの群れよろしくわらわらと湧いてくる。しばらくそのウンカの群れとつきあってくれ。
 さて七百石と千二百石では、同じ旗本とはいっても、その暮らしぶりはずんと違ってくる。慶安の軍役規定では、七百石の旗本が責任をもって召し抱えておかねばならぬ家の子郎党は、侍四人、甲冑持ち一人、槍持二人、馬の口取二人、小荷駄二人、草履取一人、鋏箱持一人、立弓一人、鉄砲一人の計十五人となっている。このほかに用人、門番、下男、飯炊きがおる。あれこれ合せて屋敷のなかにはざっと三十人はいるといった勘定になるだろうな。ところが千二百石になると、刈右衛門も知ってのように、侍が二人ふえるほかに、槍持に甲冑持に小荷駄に鋏箱持もおのおの一名づつの増員、さらに新しく長刀持、押足軽、沓箱持、雨具持を新設して、家の子郎党は以前より十名増しの計二十五人じゃ。用人、門番、下男、下女、飯炊きの数などもそれに合わせてふくれあがる。また新しく物書役なども雇い入れねばならぬ。算盤玉を弾きながらの人探し、あおのときは目の回るような忙しい思いをした。それは高い給金を出せば人間はいくらでもおるさ。しかし交際はひろがる、ひろがれば金が要る。そこで安い給金で、しかも有能の人材を集めなくてはならない。その上、雇人志望のなかには冷やかし半分の面白半分という輩が大勢おった。
 「浅野の殿様を抱き止めたあの梶川が人集めをしているというぞ。おもしろいじゃないか。梶川は旗本第一の力持ちだという話だ。きっと仁王様みたような大男にちがいない。顔や姿を見るだけでも話の種になる。おい、行ってみようぜ」
 とまあ、この種の連中が二百人は押しかけて来たろうな。ところがそういう連中は、すぐにそれとわかるから世の中というものはよくしたものでな、わしを見て、
 「あれ、あれ」
 という表情になるのだな。わしは見ての通り小男じゃ。顔も、よく言えば美男面、有体に申せば世上の噂に言うあの大石内蔵助なみの昼行燈、ぼやーっとしたやさ男だ。」井上ひさし「不忠臣蔵」中の岡田利右衛門、(『井上ひさし短編中編小説集成』第10巻、岩波書店)pp.197-199.

 身分制社会といわれる江戸中期だが、大名旗本という幕藩社会の支配階級も、先祖が徳川家に貢献した褒美に録をたまわり、江戸市中に屋敷地を与えられ安泰のように思うが、この地位と対面を維持するには、立派な跡継ぎや頼りになる家臣を養う義務を負ってなかなか苦労していた。もはや戦で手柄を立てる機会はなく、武芸よりは文官官僚としての才知が必要になり、幕府官僚の供給源で出世が期待できた上位の旗本はともかく、無役の旗本や御家人は無為無聊の日々で「退屈」するうちに経済生活も倹約節約を迫られるのが江戸末期である。

 「近世中期以降、100万人を超える人口を抱えた都市江戸の約半数は武家であり、そして江戸の三分の二の面積を占める武家屋敷には、大名屋敷の他に、旗本・御家人の屋敷が配置されていた。本論では、江戸社会の構成要素の一端を担っていた幕臣(旗本・御家人)を対象に、彼らをとりまく社会構造の解明を試みていきたい。
 江戸の旗本たちは、知行所に陣屋を構え参勤交代を行う交代寄合三十四家を除き、江戸屋敷に永住する不在領主であった。彼らはいずれも幕府から支給された拝領屋敷に居住することを基本としている。家格や知行高・俸禄の多寡によって拝領屋敷の坪数も異なり、なかには下屋敷や、私的に百姓地を購入・借用して得た抱屋敷を持つなど、複数の屋敷を有するものもあった。また、屋敷の広さには江戸の中心部と場末、山の手と下町といった地域的特徴も反映されていた。
 現存する屋敷図面をみると、旗本屋敷は大名藩邸に比して小規模ながら、表と奥に分かれた空間構造を持ち、主屋は概ね接客・儀礼部分と、当主や家族が生活する部分、そして家臣・奉公人が詰める部分とに分かれていた。また、敷地内には門番や家臣の長屋、中庭や庭園・菜園、厩・井戸・土蔵、屋敷神の稲荷社などがあり、隣接する屋敷との境は塀や生垣によって隔てられていた。
 旗本は経済的理由から家臣や奉公人をできる限り最小限に抑える傾向にあった。たとえば、家禄1300石の三嶋家の場合、嘉永元(1848)年七月時点での屋敷内居住者は、当主政養とその正室、養母と養母付女中2名、茶の間付女中1名、用人2名、中小姓1名、小者・中間5名、扶持人医師2名の計16名で、当時持馬はないので別当を雇っておらず、他に先々代の時分家した一族数名と、御預人の大番組同心1名が住んでいた。この人数について、慶安二(1649)年に定められた幕府の軍役に照らし合わせると、三嶋家は士分6名、小者・中間は21名必要であり、同家は家計が逼迫していたこともあり、家臣の扶持米・給金をいかに最小限に抑制するかに腐心していたことがわかる。そのうえ、幕末期の三嶋家には譜代の家臣はなく、奉公人含めていずれも数カ月から三年余で他の者と交代しているのである。
 主家を転々とする武士の事例としては、曲亭馬琴が知られる。馬琴の生家滝沢家は1000石の旗本松平家に代々仕えていたが、若い頃に長兄興旨・次兄興春とともに主家を去っている。長兄興旨は旗本戸田家(7000石)、さらに山口家(2500石)に仕え、次兄興春は旗本蒔田家(7000石)の家臣高田氏に婿養子に入るが、すぐび離縁し、その後は旗本高井家(2000石)、水谷家(2200石)に仕えており、馬琴自身は兄とともに戸田家・水谷家に仕えたあと、小笠原家(5000石)・下野吹上藩有馬家に出仕後流浪生活を送っている。このような旗本の家臣・奉公人層は人宿や知人の伝手をたどって短期間で奉公先を転々とする存在であり、遅くとも十八世紀後半には旗本社会にこのような人々が循環する構造が成立していたのである。
 その点で特徴的なのが、駿河台小川町に上屋敷1700坪(ほかに馬場453坪、白山に下屋敷3600坪)を構えた5000石の旗本蜷川家である。同家に残された幕末の屋敷絵図によれば、塀に沿って一番から二五番まで番号の振られた長屋があり、いくつかは物置や空き家になっていた。参勤交代で勤番武士の入れ替わる大名家とは異なる事情を考えれば、この事例などは、長屋に入れ替わりの激しい家臣や奉公人を収容する体制が整っていたことを物語っていよう(『武家屋敷の表と裏』)。
 また、前述馬琴には叔父養子定興が御船手同心に婿入りし、馬琴が孫に御持筒同心の株を買っている事実が示唆するように、旗本の家臣と御家人層は双方の内部で流動的かつ密接な交流があったことが明らかとなっている。
 次に御家人の屋敷について検討してみよう。彼らが拝領している屋敷は100‐300坪程度と狭小だが、幕末に七〇俵五人扶持の徒を務めた山本政恒の場合は、約200坪の屋敷地に29坪の母屋の他は稲荷社と貸家が一軒あるばかりで、家臣長屋はなく、他の大部分は庭となっていた。また200石の騎馬の格を有する町奉行所与力原家では、幕末の屋敷図では、母屋に10以上の部屋があり、他に池のある庭と土蔵が四カ所みられた。ことに茶室が設けられていることと、土蔵の多さが特徴的である。また、天保10(1839)年の事例によると、通いの用人一名、下男三名、下女三名の存在が確認できる。ただし、この点については原家が代々町奉行所内で裁判を担当する掛である詮議役(吟味方)をしていて、大名家の付け届けが潤沢にあったことを考慮する必要があろう。
 御家人は旗本とは異なり、多くの場合、所属する役職ごとに組屋敷(大縄拝領屋敷)に集住していた。そして組屋敷ごとに一定の秩序が存在し、さらに困窮する彼らの経済的事情から、組屋敷単位で特定の内職に精を出すことも多く、青山の鉄砲百人組の春慶塗・提灯張り、大久保の鉄砲百人組のつつじ栽培、下谷の徒組の朝顔栽培をはじめとして、さまざまな草花の栽培や、金魚・鈴虫・コオロギの飼育などを行う組屋敷もあった。また、御家人は個人単位でも板木内職などを行っていた実態などが明らかになっており、彼らは内職を通じて江戸のさまざまな商品流通に接点を持っていたわけである。
 一方、家屋敷の一部を貸し出し、地代を収入源とする御家人も多数確認できる。そこで町奉行所の与力・同心の事例をみてみよう。彼らは八丁堀に組屋敷を与えられていたが、文久二(1862)年の尾張屋版「八丁堀細見絵図」を見ると、与力屋敷の一部に町医者・儒学者・国学者・心学者・盲人・手習師匠・剣術師匠の居住が確認できる。実際に与力原家・都築家の屋敷図面から、貸家が営まれていたことがわかるほか、前述原家の天保10(1839)年の事例では、帆原検校・岩間氏・南町奉行所同心笹間氏から地代を受け取っているのである。原家では手習師匠の小泉氏や、長唄師匠の杵屋に子女を通わせている。八丁堀は与力の加藤枝直・千蔭父子が国学者・歌人として著名であり、他の住人でも村田春海や一柳千古・井上文雄などの歌人を多く輩出した地として知られ、同心の人見周助は四代目柄井川柳を襲名している。こうしたことから、八丁堀では学者や手習い・武芸の師匠のほか、三弦・鍼灸・金貸などを行い検校・勾当を名乗る盲人を主な対象に内々で貸家経営を行い、彼らと文化的にも特有の関係を結んでいたことがうかがえるのである。
 また、御家人たちは医者・儒者・大奥女中らとともに幕府から拝領地として町屋敷を与えられる場合があった。これを拝領町屋敷といい、地面の売買・質入れは禁じられていたものの、町方の支配に属し、他は沽券地同様に扱われていた。そのため、地主となった御家人は屋敷内に長屋を建てて町屋敷経営を行い、店賃が幕府からの扶持と同等の意義をもっていた。
 一例として八丁堀地域の北島町・亀島町・岡崎町を取り上げると、ここには町奉行所の同心の組屋敷が置かれている。その実態は同心の大部分が拝領した土地の一部を住居とし、他は貸家にしている居住形態を反映しているわけで、北島町に屋敷を持つ同心大久保彦十郎は、表通りに面したところに間口二間一尺五寸の貸家を二軒、その奥に間口九尺×奥行き二間の長屋などを八軒構えており、そこには共同の井戸と雪隠、幅六尺の路地が設けられ、一番奥の約29坪の部分を大久保自身の住居としていた。このようにみていくと、八丁堀の同心の組屋敷は敷地が非常に細かく分けられており、医者や学者などを中心にやや広いスペースを貸していた与力とは異なり、貸家・長屋は町全体が大縄拝領屋敷となっていたことを指摘されている。後者は組によって地面が管理される傾向が強く、場末ではないが前述八丁堀地域の同心屋敷などはこれに該当するといえよう。」滝口正哉「幕臣屋敷と江戸社会」(吉田伸之編『江戸巻 シリーズ三都』東京大学出版会)、pp.77-81.

 なるほど、元禄期の千二百石旗本という設定の「退屈男」早乙女主水之介は、無役で暇を持て余していたが、広い屋敷に住んでいるのは独身のお殿様のほかには妹と小姓が一人と用人の爺一人(小男や下女はいるのかもしれないが)と言う少人数である。つまりこんな旗本なんかいなかったわけだな。千二百石もあれば、家来の武士が2,3名と足軽小者十名くらいは家に住まわせていたはずで、そこを節約すると家計は楽だが対面が保てなくて世間の評判はぐっと悪くなるんだろうな。といっても、よい人材はどっかの武家の次三男で遊んでる役立たずしかいなくて、リクルートは苦労したのかもしれない。



B.ボサノヴァの父の死
 ボサノヴァがアメリカから世界に流行し始めたのは1960年代、ぼくも白黒テレビでいきなり無表情でぶっきらぼうに呟くように歌うアストラッド・ジルベルトの「イパネマの娘」や「ディサフィナード」をはじめて聴いた時は、ずいぶん不思議な、でもおしゃれな香りが漂う音楽だと思った。これがブラジルなのかと思ったが、いわゆる南米ラテンの音楽とは色合いが違っていたから、ジョアン・ジルベルトとかアントニオ・カルロス・ジョビンという名前は、ポルトガル語なのだろうが、ジャズの洗練を身につけた人たちだと思った。それから半世紀。ボサノヴァは、ひとつのジャンル、あるいはリズムとして定着していることはいうまでもない。

 「生み出したボサノヴァ 普遍に:ジョアン・ジルベルトを悼む  翻訳家 国安真奈 
 ジョアン・ジルベルトこと、ジョアン・ジルベルト・ド・ブラード・ペレイラ・ジ・オリヴェイラ氏が6日、リオデジャネイロの自宅で他界した。
 ジョアンは、1950年代後半から60年代前半にかけて、アントニオ・カルロス・ジョビン、ヴィシニウス・ジ・モライスとともに、故郷ブラジルでボサノヴァという音楽ジャンルを創造した人だ。ブラジルのサンバ、アメリカのクールジャズの影響を受けつつも、ボサノヴァは全く新しいクールで洗練された音楽だった。とりわけ、ジョアンの発明によるギター奏法と、ビブラートを使わない、声量を抑えたヴォーカルは、一般の聴衆のみならず多くのプロのアーティストをして、音楽に対する考えが完全に変わったと言わしめるほどの衝撃を与えるものだった。
 64年のブラジル革命と、その後の鉛の時代を避けるように、彼を含むボサノヴァアーティストたちは、アメリカに活動拠点を移した。ジョアン自身もアメリカでアルバム「ゲッツ/ジルベルト」を発表し、誰もが知る名曲「イパネマの娘」を収録するこのLPで国際的な名声を手にした。
 しかし、彼が80年に帰国した時、祖国ではボサノヴァに完全に忘れられた存在だった。その状況は、90年にジャーナリストのルイ・カストロがボサノヴァの歴史を語る著書を上梓し、人々の耳目を再びこの音楽へ向けさせるまで続く。その後、ロンドンのクラブシーンでボサノヴァ後期の楽曲が人気を博したのをきっかけに、古い音源が次々と復刻されるようになった。そこで人々はジョアン・ジルベルトを再発見した。
 日本でもボサノヴァは、過去20年間、着実にファンを増やしてきた。この音楽がどれほど日本で愛されているかは、神経質な人と名高いがゆえに至難の業と言われていたジョアンの招聘と来日公演が、3度も実現したことに表れている。自身の音楽に対するジョアンの忠実さと完全主義。その音楽の、シンプルだが圧倒的な存在感。ただギターを奏で、歌うだけで、彼の音楽人生そのものが伝わってくるような公演だった。
 ジョアンの演奏法と歌唱法は、今や世界中の人々の間で定着していることに疑いはない。ボサノヴァがまた忘れられたとしても、彼の創造物は受け継がれていくだろう。人類に普遍的な営みとして。そんな唯一無二の音楽家を、世界は失ったのだ。 (寄稿)」朝日新聞2019年7月11日夕刊3面。
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1950年代チャンバラ時代劇考 15 まとめその2

2019-07-10 14:40:22 | 日記
A.不忠臣蔵?
 中学生になった頃だったと思う。ぼくの家は当時「産経新聞」をとっていて、夕刊に司馬遼太郎の「竜馬がゆく」が連載されていた。岩田専太郎の挿絵が素晴らしく、ぼくは毎日それを楽しみに読んでいた。ある日そこに、大宅壮一だったと思うが「日本人の忠誠心」という特集シリーズが始まった。何げなく読んでみると、まず話は「忠臣蔵」で、元禄時代の赤穂事件、のちに歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」として巷間に流布される物語のもとになった事件について、赤穂城の図録も載せて書いてあった。「忠臣蔵」がどういうものか、浅野内匠頭とか吉良上野介とか映画やテレビでいちおうは子どものぼくも知っていたが、実際の事件がどういうもので、それが日本人の忠誠心とどう結びつくのか、はじめて興味を持った。NHK大河ドラマで「赤穂浪士」が1年間放映されたのは1964年だから、この大佛次郎版忠臣蔵も見ていた。蜘蛛の陣十郎という盗賊を宇野重吉、吉良上野介を滝沢修という民芸の大御所が演じていたのと、敵方の知恵者、上杉家家老千坂兵部を関西歌舞伎の實川延若という人が演じていたのも記憶にある。売り出し中の若手歌手舟木一夫が、四十七士の最年少矢頭右衛門七を演じていたのも当時話題になったが、ニヒルな浪人堀田隼人の林与一が大石の長谷川一夫に並ぶもうひとりの主役であることは忘れられた。
 産経新聞の「日本人の忠誠心」が忠臣蔵を中心に、赤穂事件当時のさまざまな事実や背景を探りながら、これが明治以降の日本帝国の国民形成の精神的支柱のように再構成されていった、という論点は、非常に興味深かった。しかし、中学生のぼくには「竜馬がゆく」から受ける自由な若者の飛翔する変革への情熱に比して、忠臣蔵の世界はひどく古臭いもののようにも思われた。主君への忠、全体への自己犠牲、集団への気配りや同調、仇討ちという復讐の肯定、どれも負けた戦争への屈折した「日本人」を、江戸の武士道みたいなもので賦活させようという姑息な動きにみえる。それはあの戦争中に、忠臣蔵が滅私奉公、一億玉砕の宣伝に利用されたことも知った。
 こんど戦後のチャンバラ時代劇についてみてきて、たまたま井上ひさしの小説に「不忠臣蔵」というのがあることを知ったが、集英社文庫になっているというが、絶版になったか書店にはもうなかった。仕方なく図書館を検索して岩波から「井上ひさし短編中編小説集成」の第10巻に載っているのをみつけ借りてきた。いや~、これはなかなか凄い。何が凄いかというと、これを書くために作者が作った年表はじめ資料探索がハンパないのである。ちょうど江戸切絵図と幕末の江戸の写真をペン画にするという作業をしていたところなので、赤穂事件当時の関係大名屋敷や江戸市内の地理的配置がちゃんと切絵図に一致するのだ。こういうことは江戸に関する膨大な文献資料があるので調べればある程度わかるのだが、普通小説を書くのにここまでするのはちょっとない。どうしてこれが書かれたかの動機は、岩波版の「解説」に記述がある。

 「『不忠臣蔵』の世界:井上ひさしの「不忠臣蔵」の連載は、『すばる』の1980(昭和55)年5月号からはじまっている。『週刊朝日』に「忠臣蔵」を連載していた森村誠一との対談がある(『週刊朝日』1982年5月21日号)。
 そこで井上ひさしは、次のようにいっていた。「赤穂藩には当時、三百余人の家臣がいたんですが、討ち入りに参加するのは全体のわずか六分の一弱。参加しない方が圧倒的に大勢なわけです。それなら、参加しなかった人たちを徹底的に書いたほうが、「日本人」というものがハッキリ出るんじゃないかと思いましてね」「仇討ちは、江戸時代に三百件くらいあったといわれています。しかし、あれほどの数が参加したのは「忠臣蔵」だけ。殺された肉親の恨みを晴らす、という理由で行なわれることが多いんですけど、殿様のためというのは、わずか二、三件しかない。しかも、参加した人は少数派。そんな珍しいケースなのにあたかも日本の行動の手本みたいになっている。特殊な例で一般論を言ってるようなところが危険だって気がするんです。日本人はだから忠義を重んじるとかの「だから」がいやなのが「不忠臣蔵」を書いている動機ですね」。
 表紙には「すべて戦争へ」と刷られている『大衆文藝』(1943・8)の劇評(「演劇」)は、「三座三洋」の「忠臣蔵」の舞台に言及する。『仮名手本忠臣蔵』が情報局の国民演劇のレパートリーの一つであるというのが前提である。歌舞伎座は菊五郎一座の九段目、新橋演舞場は前進座の七段目、そして明治座は吉右衛門一座の大序・二段目・三段目・四段目。
 国体の護持をたかだかとうたい、挙国一致をスローガンに、『仮名手本忠臣蔵』を「日本人の行動の手本」としてその規範に仰いでいたのである。
 『仮名手本忠臣蔵』は「衆知を集めた名脚本の上に長い間の伝統によって錬磨された演出技巧の完璧」を説いていたのは大山巧である。たしかにそのとおりなのだが、さらにつづけて「主へつくす忠といふ犠牲的精神、個を殺して全体を生かす全体主義精神が力強くわれわれ日本人の感情をうつのである」と『国民演劇論』(新正堂、1943)で訴えていた。そしてこれはなにも一人大山功にかぎったことではなかったのである。
 播州赤穂浅野家の家臣三百八人のうち、討ち入りに加わったのは、わずか四十七人でしかない。吉良上野介の首級をあげ、屠腹してはてたのは、あくる年元禄16年2月4日、寺坂吉右衛門信行をのぞいての四十六人だった。のこりの二百六十余人の家臣は、その夜朱引き外の本所松坂町の吉良屋敷に行かなかった。
 かれらは、一体何を考えていたのか。しかしなによりもまずかれらが「不」忠臣というところにたくらみがあった。そもそもなにゆえにかれらは「不」忠臣なのか。四十七人だけが忠臣だったのか。忠臣すらが井上ひさしに疑われている。そこがたいへんおもしろい。
 もっとも「忠臣蔵」における不忠臣(悪臣)といえば『仮名手本忠臣蔵』の斧九太夫をすぐに思い出せるはずで、このモデルが赤穂藩の金庫番として知られた城代家老大野九郎兵衛だった。嗣子と決まっていた浅野内匠頭長矩の弟浅野大学長広の閉門により、もはや赤穂藩再興かなわぬものとなったその大本も、けっきょくは、吝嗇で癇癪だった浅野内匠頭の短慮ゆえのことだった、というのが大野九郎兵衛の退去の理由だった。この大野九郎兵衛についてならば、例えば直木三十五の好短編「大野九郎兵衛の思想」(1931)がある。この大野九郎兵衛のことは、短編長編を問わず多くの小説にもその名前を発見できるはずだ。
 井上ひさしによって召喚されたのは二百六十余名のうちの十六人である。全十九話ということになる。かれらのそれぞれの事情がうちあけられる。
 いや、より正確にいうと喚問されるのは、その被告人(吉良屋敷に行かなかった人、もしくは行けなかった人)ばかりではなかった。証言者(吉良屋敷に行かなかった人、もしくは行けなかった人の身近にいた人、あるいは何らかのかたちでかれらの消息を知る人)、弁護人、補佐人(吉良屋敷に行かなかった人、行けなかった人を不忠者、卑怯者、人でなしとなじる心ない巷の雀の矢おもてにたってかれらの行状をかばう人、あるいはかばわない人)などなど、じつにさまざまである。
 したがってこの『不忠臣蔵』の読者は、選ばれて陪審席についた陪審員というおもむきで、かれらの口上に対して、虚心にもらさず耳をかたむけなければならない。
 吉良屋敷に行かなかった、もしくは行けなかったのには、それぞれやむにやまれぬ事情があったとなれば、喚問されたかれらの口上が、四十七士のそれよりもはるかに波瀾に富み、変化にみちみちたものであったのは道理だった。かれらの「不」忠をいいつのる分子を説きふせ、あるいは犒(ねぎら)い、労り、庇い、かとみえると面くらうような「不」忠が、あらわれたりするのである。
 討ち入りの失敗に備え第二陣にまわったのはかたちばかりで、じつは念友。義兄弟の遺志を継ぐための脱落。浅野長矩の刃傷を未然にふせごうとしたが果たせず他家に仕官。瑶泉院への懸想。忠より孝。人ちがいから、別の仇討ちにまきこまれ、同志の討ち入りをかくすための止むを得ずの陽動。いわれなき事情での軟禁、また取り調べ。癇癪、気まぐれ、いやになるようなお人柄の長矩への愛想づかし、とみえたが、ほんとうは衆道。浅野家の元家中のもののゆくすえ、先行きへの慮り。御家断絶の後始末のはてに『葉隠』に大回心。お初徳兵衛の心中の一年半前、赤穂の浪人と、同じ名前のお初との相対死という奇縁。吉良屋敷の抜け穴をさぐり、生き埋めの不運……。
 まことにはかりがたく数奇、奇妙な、そしてごもっともな事情が次々と明らかにされていく。
 くわうるに、一話ごとに語りの方法、または聞き手を自在に取り換えることによって、太平元禄の時代を思いがけない角度からうかびあがらせる。
 赤穂塩の製法、切腹の作法、介錯のつかまつり方、その仕置きの手順と運び方、長屋住いの寄り合いのもよう、髪結い職人の生活、豆腐の拵(こさ)え方、蕎麦饅頭のつくり方、蕎麦切の津(つ)汁(ゆ)の出しのつくり方、一膳めしやの煮物の中身、三汁七菜三菓子つきのメニュウ、そのしなじなー。
当時のライフスタイル、その豊かな情報が、生き生きと伝えられる。
こうして『不忠臣蔵』の巻末にある「不忠臣蔵年表」、この「年表」には、肥前は佐賀藩主鍋島光茂が殉死を禁じた寛文元(1661)年にはじまり、寛延元(1748)年の『仮名手本忠臣蔵』初演にいたるまでの、『不忠臣蔵』に登場した十九人の「不」忠臣たちの動静を追い、いわゆる元禄赤穂事件とかれらとのかかわりが一目で見わたせることになる。
井上ひさしは『不忠臣蔵』のために十九枚の(十九人の「不」忠臣の)、いやもっとたくさんの井上式年表をつくっていた。「不忠臣蔵四十七景」というのが『すばる』断続連載時の総題だった。」『井上ひさし短編中編小説集成』第10巻「解説」、2015.岩波書店、pp.563-566.

 作者井上ひさしは、1969年戯曲「日本人のへそ」を書いて、それまでの放送作家、そして小説家から劇作家への本格的な飛躍を遂げるのだが、この「不忠臣蔵」は80年代はじめ、話題を呼んだ「吉里吉里人」や「四千万歩の男」と並んで小説家としての多産な活動期の作品である。こまつ座の立ち上げも1980年代半ばだから、寝る間も惜しんで創作に没頭していたと思われるが、この年表作りはすさまじく、仙台にある文学館で実物を見たら細かい独特の文字で詳細に書き込まれている。はじめは、赤穂藩士で討ち入りに参加しなかった人物を主人公に四十人以上を書くつもりだったのだろうが、結果的には十九人になった。しかし、そのどれもまったくユニークで単なるエピソードを超えたドラマになっている。
 「忠臣蔵」がどうして日本人の精神的バックボーンだなどと言われるようになったのか、橋本治氏も述べているがそれは「くやしさのドラマ」であり浅野家という集団の物語であり、その中で大石内蔵助という人物の理想化が起る。大石をリーダーとする強力な同志的結合や主君への忠誠心というスローガンが、「武士の鑑」として賞賛されるのは、江戸時代よりむしろ明治以降の近代化の中で構築されたともいえる。幕藩制下の大名家臣としての武士は、元禄期にもはや戦士でも求道者でもなく藩や幕府という統治組織の官僚として生きる存在だったのだから、ほとんどの武士は主君に殉じるとか仇を討つとかいう観念はあったにしても、お上の威光を忖度して実際にそれを行動に移すような者はなかった。いわば社長の失敗で会社が倒産した事態に社員は次の就職先を探すか、とりあえず親類縁者に頼るしかないのは、元禄時代も似たようなもので、であるからこそ、赤穂浪士の討ち入りは世間を驚かす衝撃的な(ある意味では時代錯誤的な)事件になったのだ。浪士たちがあわよくば、これで世間の喝采を浴びて自分は処罰を受けても、残った親類縁者の再就職を期待しなかったともいえない。また、当時赤穂浪士の行為を絶賛する意見ばかりだったともいえない。幕府の決定を不満として、高家筆頭の邸に集団乱入して首を取るという狼藉は、幕閣批判以外の何物でもないわけだから。
 それにしても、「忠臣蔵」への熱狂的喝采が高まるのは、昭和になって映画化されるようになってからだと考えられる。江戸以来の「仮名手本忠臣蔵」はあくまで町人向けの娯楽芝居のひとつでしかなく、内容的にも実際の赤穂事件とはあまり関係のないお軽勘平とか、一力茶屋とか脇の話でできている。それが四十七士の英雄物語になるのは明治の末ぐらいからで、国家への献身を煽る戦争の時代に高まりを見せ、敗戦でGHQに禁止されながら、その反動のように1950年代チャンバラ時代劇で毎年の超大作として大ヒットする。どうしてそんなに受けたのか?これも橋本治流にみれば、明治以降敗戦までの踏ん張り続けた近代日本が、人民大衆にとってあまり楽しい時代ではなかったから、ということになろうか。安倍晋三氏のような明治以降の日本が「輝かしい栄光の時代」を歩んだという視点とは真逆のネガティヴ近代に、「忠臣蔵」の再構築は関係している。そもそも赤穂浪士の忠誠心とは、5万石ほどの小さな藩の、300人くらいの武士集団の中での主君への忠誠であって、それも結局吉良邸討入りに参加したのは50人に満たなかった。だから、井上ひさしの見方は、47士を武士道の代表、そして「日本人」の代表に押し上げて讃美するのではなく、そこに加わらなかった、もしくは加われなかった多数派のリアルを見ることの方が意味があることになる。赤穂事件は確かに現実にあった事件なのだが、そこから作り上げられた物語の大半はフィクションだろうと。「不忠臣蔵」ももちろん井上ひさしが作り上げたフィクションなのだが、それを大文字の「忠臣蔵」に対抗させるには、元禄の江戸の細部をきっちり描かなければならない。



B.消費税増税について
 参議院選挙の結果次第では、秋に予定の消費税10%は撤回されるのか?野党はそれも可能だと言っているが、この選挙の争点として自民党が言っているのは、消費税ではなく憲法を変えるという話である。安倍首相はいつもそうだが、ほんとうにやりたいことを正面から提起するのが世論の反発を招くような問題は外し、選挙ではアベノミクスの実績と民主党前政権への罵倒軽蔑の言葉を並べてきたのだが、今回はさすがに改憲を表に掲げている。そのぶん消費税はもう決まってるんだから何もいうな、二千万円の老後という話も大丈夫だから任せておけというわけか。野党がみな消費税増税反対を唱えているけれども、ぼくは消費税10%は仕方ないと思っている。安倍政権は早く倒れてほしいと思っているし、改憲勢力に投票する気は毛頭ないけれど、5年先10年先、そして将来世代が社会を支える時代のために、税制・財政の現状をこのままやり過ごすことは、すでに危機的な状況を回復不可能にすると恐れるからだ。

 「「福祉と税」根本議論せよ:野口悠紀雄さん 早稲田大学ビジネス・ファイナンス研究センター顧問
 戦後の日本の税制や財政構造は、戦時中につくられた「1940年体制」を引き継いでいます。消費税が選挙で「鬼門」になってしまうのは、日本人の意識と社会構造が、いまだに1940年体制のままだからです。
 戦前の日本の税制は、直接税ではなく間接税が中心で、欧州型に近かったと言えます。しかし、1940年代体制では直接税、特に所得税と法人税が中心で、所得税の源泉徴収も導入しました。戦争遂行のために、歳入を確保する必要があったからです。歳出面では、社会保障が想定されていませんでした。勤めている企業が一生を保証するという発想だったのです。
 その財政構造は、高度成長期の60年代までは機能しましたが、徐々に社会保障への要求が強まってきます。政府は「福祉元年」と言われた73年ごろから、財政構造を「福祉型」へと転換させました。歳出面では年金や医療など社会保障費が巨大化し、税制では消費税など間接税の比重を高めようとしたのです。
 それにもかかわらず、日本社会の構造も、人々の考え方も、変わりませんでした。消費税と年金に代表される福祉型の財政構造は、日本人のメンタリティーに合わないのかもしれません。だから常に選挙の「鬼門」になるのです。
 今回の参院選でも、野党は「年金の100年安心を守れ」といいながら、消費税を上げるのには反対しています。大企業や高額所得者に負担させればいいというのは、まさに1940年体制の発想そのものです。
 これからの日本には、二つの選択肢があります。一つは、消費税率をこれ以上引き上げずに、定年延長や、健康が許す限り働き続けることで老後の保障を実現する方法。いわば1940年体制を維持するやり方です。
 もう一つは、消費税を北欧諸国並みに引き上げ、社会保障で一生の面倒を見る福祉国家をつくる。つまり、1940年体制からの脱却です。
 この二つのどちらを取るのかという根本的な議論はされてきませんでした。本来なら2千万円問題を契機に、参院選でその議論をすべきなのですが、与党も野党も見当はずれの議論しかしていません。
 一方で、国民は現実を冷静に見ていると思います。6月にネットでアンケートをしたのですが、「金融庁の報告書をどう評価しますか」という問いに、8割近くが「老後資金に関する適切な注意だ」と答えた。年金だけで生活できないことは多くの人が理解しています。そうした国民の健全な感覚を政治に反映させることができれば、戦後の日本を縛ってきた1940年体制から脱し、消費税と年金が鬼門でなくなる日がくるかもしれません。 (聞き手・尾沢智史)」朝日新聞2019年7月9日朝刊、9面オピニオン欄、耕論「嫌われ者の消費税」。

 国の借金が1000兆円を超えて積み上がり、国民の資産が底をつく前に、税だけでなく市場に投資でカネを回せというような貧血衰弱路線をやめる必要があることは随分前から言われているのに、昔ながらの「福祉国家」を増税なしで維持できるというのは信じられる話ではない。政治が何かをするには財源が要るから、どっかを削りひねり出すしかないという方策をへたにやったから民主党政権は失敗したのだとすると、安倍政権のやっていることは日本企業を励まして利益が増えれば税収も増え、国民所得も改善されるという見通しのもとに、金融政策でうまくいったかのような宣伝をしても、実質的に足りない分は将来世代への借金でやりくりしているだけだ。これでは、野口氏の言う1940年体制(これがずっと続いているというのはちょっと言い過ぎだと思うが)を根本からいじる気はない。

 「歳出も見直し 納得感を:小谷野敬子さん 戸越銀座商栄会商店街振興組合理事長 
 消費税って税金の中でも「取られた感」が強いんですよね。買い物をするたびにレシートに記載される。100円でも8円。見えるだけに厭になっちゃう。お客さんに請求書を書く時も、1万円で800円は大きいなあとつくづく感じます。だから選挙でも嫌われるんじゃないですか。
 5年前に消費税が5%から8%に上がった時は、戸越銀座でも影響が出ました。たかが3%、されど3%。増税直前は消耗品を買いためるお客さんがいっぱい来ましたが、増税後は買い控えで商店街がしーんとなりました。
 今回はまだ客足に現れてはいませんが、飲食関係のお店は大変そうです。店内で食べれば税率10%なのに、もち返ると8%。じゃあテイクアウトで買った食品をやっぱり店で食べたら……?ややこしいことになっています。ここは食べ歩きの街ですからね。
 増税のタイミングでキャッシュレス決済を導入すれば「消費税に増税分がポイント還元され、店も面倒じゃない」と、安倍晋三首相や小池百合子知事が戸越銀座にPRに来ました。でも年配の地元客にはハードルが高いです。
 店にとっても同じです。中高年が営む小さな商店はずっと現金払いでやって来たので、今さらスマートフォンでピッと決済というわけにはなかなかいきません。地方の商店も同じ悩みを抱えていると思いますよ。増税により、消費者の間でも商店の間でも格差が広がりそうです。
 誰だって消費税を取られるのは嫌なものです。でも本当に必要なら、国民の義務でもあり、仕方ないとも思います。だから今まで30年間、流されるままに払い続けてきました。納得感はずーっとないままで。
 そう、問題は納得感だと思います。国は消費増税をする一方で、陸上イージスの配備やら戦闘機の大量購入やらを進める。でも無駄な歳出をカットする方が先ですよね。それに、そういう防衛費に消費税は使われていないのでしょうか。「社会保障に使う予算」とか国は言っているけど、消費税を実際何に使ったかは国民にはよく分かりません。「これに使われたなら、まあいいか」と思えるように明細を出してほしいです。
 電気屋を苦労して立ち上げた大正生まれの父は、税金を「血税」と呼んでいました。その分、政治に厳しくて、晩酌しながらよく管を巻いていたわね。私も含めて今の人にそんな意識はなくなりました。消費税の使途も恩恵も見えず、自分たちとのつながりも見いだせず、ただ漫然と取られている感じです。
 税金は本来は、社会や自分たちの生活を支えるべきもののはずです。取るならば、とにかく適切に使ってほしい。それ以外にありません。  (聞き手・藤田さつき)」朝日新聞2019年7月9日朝刊、9面オピニオン欄、耕論「嫌われ者の消費税」。 

 政治の80%はこれまでの制度や過去の蓄積の上に立って、それを改善維持するだけでなんとかもっている。あとの20%の領域で、優先的にやるべき新たな政策や時代遅れの制度や機構を廃止して、将来を見越した適切な改革を行うのがベストだと思う。問題は、その財政的基盤が縮小を続けていて、借金を返す負担にどんどん侵食されてしまう(余力が20%から15%になる?)ことと、可能な政策の選択肢のうち何を優先して何を後回しにするかの判断こそが、選挙で国民に明示され、国民はそれを選択したと実感できるかどうかだろう。たとえば、自衛隊に使う防衛予算と、年金や健康保険の公費負担をどう配分するかは、別々の問題であっても、どちらにどのように税収を配分するかは明白にしてほしい。それぞれ必要だというのなら、優先順位こそ問題になる。その配分の意思決定はどこでやっているのか?その情報は公開され明示され説明されているのか?財務省なのか、官邸なのか、自民党政権は、選挙での広報を見ると、それをはっきりさせたくないように見える。
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1950年代チャンバラ時代劇考 14 まとめその1

2019-07-07 22:00:23 | 日記
A.時代劇ヒーローの4類型・3要素 
 1950年代東映チャンバラ映画をテーマに、多くは橋本治氏の『完本チャンバラ時代劇講座』を手がかりに読んできたのですが、最後にぼくなりのまとめを書いておきたい。中心となる焦点は、1950年代から1964年までの時代劇映画ヒーローたちが、どのような人間像として造形され、それが当時の男の子、その後成長して青年、おじさん・オヤジ、そして爺さんになり果てるまでの人格にどのような影響を与えたか、ということです。いままであまり考えたことがなかったんですが、子ども時代にチャンバラごっこで覆面して棒をもって塀から飛び降りていた自分がいたことを思い出すと、やっぱりあそこで何かが刷り込まれていたのだと思います。端的にいえば、「男」とはどういうものか、「男らしく生きる」というのは具体的にどういうことなのか、という問題にチャンバラは繋がっていた。それを、ぼくなりに考えてみます。
「男」の問題にしぼるのは、当時の時代劇映画は女性も見ていたし、錦之助や橋蔵の女性ファンはたくさんいたのですが、それはいつの時代にもいたイケメン・ファンの女の子たちで、今のジャニーズ系や韓流追っかけと大して変わらないからです。彼女たちはそのうち大人になってファンを卒業し、時代劇ヒーローが精神的思想的意味を持って自分のなかに沈殿するようなことは起きません。とくに、昭和の時代劇がもつ特殊なメッセージは、明らかに女にではなく、男に向けて発せられていたのです。その源流は、明治の講談や大正期の大衆小説、そして新派や新国劇の描き出した世界にあり、戦後の大衆娯楽としての映画最盛期に、時代劇として花開いたわけです。
 東映以外の映画大手各社は、ときの流れを意識して時代劇も作ったけれど、現代劇に力を入れたので、女性観客を想定したホームドラマやサラリーマンもの、あるいは青春ラブストーリーや日活無国籍アクションのような作品が人気を得ていました。しかし、少なくとも1950年代に、日本映画で一番観客を集めた娯楽映画は東映時代劇だったことは疑いない。満員の映画館は男の子やオヤジたちで熱気に満ちていました。まもなく高度経済成長という忙しい時代がきて、誰もが生活に夢中でなにかを深く考える余裕をなくしたので、時代劇は役割を終えて消えてしまったし、映画自体がテレビに駆逐されて、テレビではやらないポルノやヤクザ映画に潜り込んでしまいます。テレビはといえば、軽薄な日常性のお手軽を追求しましたから、まさに人気タレントを並べた「トレンディ連続ドラマ」と、毎週同じような「2時間ミステリー」と、残り滓のような定番時代劇シリーズでお茶を濁しました。
橋本治の「チャンバラ時代劇は早く終わりすぎた」という言葉は、いまになって納得するものがあります。でも、あの最盛期の時代劇はなにを描き、(男子)観客はそこからなにを受け取ったのだろうか。それを見たこともない今の50代以下の人にとっては無意味な問いに思えるでしょうが、彼らにとってもお父さん、お爺ちゃんが何を考えていたのかのヒントぐらいにはなるだろうと思います。
今それを、時代劇ヒーローの4つの類型をつくって考えてみましょう。4つの類型というのは、図のような2つの軸の交点に分類されます。横軸を「私的自由―公的義理」とし、縦軸を「明朗快活(明)―陰鬱屈折(暗)」としてみると、
 A:明朗な自由人(代表として「旗本退屈男」早乙女主水之介)、B:快活な公的義人(代表として「忠臣蔵」大石内蔵助)、C:屈折した自由人(代表として「大菩薩峠」机龍之介)、D:陰鬱な公的義人(代表として国定忠治)ということになります。
 早乙女主水之介と机龍之介は小説中の架空の人物ですが、大石内蔵助と国定忠治は実在した人物です。ただし、歴史上実在した人物だからといって、時代劇映画のなかの大石や忠治はあくまで後世の作家が造形したヒーローと考えておきます。横軸の基準は、その人物ががっちりした身分社会である江戸時代に生きていながら、なんらかの意味で身分や制度の枠を免れて遊ぶ自由人か、それともその身分や立場ゆえに人の上に立つ役割を負って立派に義務を果たす人か、の判断です。‟退屈男”主水之介は、千二百石の旗本として生活の安定を得て妻子はなく、派手な着流しで退屈しのぎに悪人と戦う自由人。赤穂浅野家城代家老の大石内蔵助は、お家断絶で浪人になりますが手堅く同志をまとめて討ち入りを成功させる義士の頭目。観客にとっては初めから文句なしにポジティヴなヒーローです。一方、縦軸の基準は、悩んだり迷ったりする暗い男、机龍之介は剣術道場主の息子でしたがいろんないきさつで妻を斬り殺し、江戸から上方へ攘夷運動に加わって放浪する危険な精神病者。国定忠治は、上州の博徒ヤクザの親分で、司直に追われ捕らえられて磔になったアウトローです。こっちの方は、どうみてもネガティヴな闇の世界のヒーロー。
 こうした系列で、他の時代劇キャラクターも分類してみると、こんな連中です。

Aタイプ(明るい自由人)は、大川橋蔵の若さま侍とか葵新吾、中村錦之助の一心太助や弟とコンビの殿様弥次喜多、そして嵐寛寿郎の鞍馬天狗のおぢさん、などが並びます。実は将軍の御落胤とか、大名の世を忍ぶ姿とかになっている場合もありますが、軽く扱われていて、そういう殻を脱ぎ捨てた無頼の浪人や遊び人です。
Bタイプ(快活な公人)は、天下の副将軍水戸黄門の印籠に始まって、実は町奉行の幕府高官遠山金四郎や大岡越前守忠相、もっと下っ端は銭形平次など。極めつけの暴れん坊将軍はテレビの創作ですが、ヤクザの世界でも清水次郎長は天に代わって悪を懲らしめる正義の味方、勧善懲悪の見本みたいなヒーローは繰り返し描かれます。
Cタイプ(屈折した自由人)は、机龍之介をもっと通俗化した円月殺法の眠狂四郎をはじめ、「天保水滸伝」の用心棒平手造酒といった痩せ浪人や、ヤクザでは沓掛時次郎とか座頭市、木枯し紋次郎とか、自分は世の拗ね者とイジけつつあれこれ理屈をつぶやくクサレ一匹狼。これが前面に出てくるのは東映時代劇が終ったあとですが。
Dタイプ(陰鬱な公人)は、千姫を手放して滅ぶ豊臣秀頼、伊達家安泰のためすべてを引っかぶって死ぬ原田甲斐とか、幕府転覆を企んで自滅する由比正雪や、平田神道の理想を追って結局維新の中で狂人として死ぬ青山半蔵とか、函館で戦死する新選組の土方歳三あたりもここ。悲劇の色合いを帯びた反逆者や滅びゆく英雄です。
 ほかにもいろんな主人公がいますが、だいたいこの4類型のどれかになるだろうと思います。

 さてそれで、この人たちに明と暗、陰と陽の違いはあるとしても、(多くの男の)観客が惹かれる共通要素とはなんでしょうか?それが通常決まり文句になっている「男の生きざま」とか、「義理と人情の意気地」とか、「弱気を助け強きを挫く」とかいった言葉で喚起される「気分」が、チャンバラ時代劇から由来している可能性がかなり強い、というのが僕の仮説です。それは日本の明治以来の「近代化」という圧倒的な社会変動と、その中で消え去った江戸時代の人間生活を、西洋文明を価値とする国家エリートに対して、「なんとなく」近代文明についていくのはシンドいなと疑問を投げる時のネガ・フィルムとして作り出されたイメージでした。それは現実に存在した江戸時代とは別のものだったけれど、なんか俺たちが生きている世界に、男たちが疲労や抵抗を感じた時、チャンバラ時代劇のヒーローたちの姿は、別の選択肢を暗示していたのかもしれないのです。とくに、近代的武器暴力で組織された軍隊に取られ、世界を相手に戦った大戦争に、みじめというほど敗北して生き残った痛い体験を、1950年代に映画館に詰めかけてチャンバラを見ていた30歳以上の男たちにとって、大きな影響を与えないはずはなかったと思います。

 次に上記4類型にあげた時代劇ヒーローたちにほぼ共通する特徴をあげてみましょう。1950年代の明朗版を東映で代表させ、1960年代後半からの陰鬱版を大映で代表させてみますと、3点になります。
 1)自由人(フリーター)であること・・藩や組織に属さぬ浪人や無宿人で、したがって袴をはかない着流し姿、妻子はもちません。ときどき好きな所にふらっと旅をしたりします。公人類型の場合も、ただガチガチの組織人ではなく、どこか庶民的で親しみを感じさせる人物になります。ただ机龍之介系列は、孤独を好む奇人変人に傾きますが・・。【東映《陽》(旗本退屈男・金さん)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 自由人であることは東映の場合は、生活に困らず面倒にものを考えなくてすむお気楽な遊び人の条件です。だが大映の場合は、生まれついての無頼の徒であり世間に受け容れられない境遇を宿命づけられている人間になります。
 2)剣の達人であること・・チャンバラである以上、必ず剣をふるって相手を倒すクライマックスの立ち回りが用意されます。強力な敵ほど戦いは盛り上がる訳で、敵役は憎たらしく権力や組織力を駆使する悪人であればあるほどクライマックスが映える法則です。「音なしの構え」、「諸刃流正眼崩し」など、技に名前がついているのも特徴です。【東映《陽》(旗本退屈男・宮本武蔵)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 「剣の達人」という特殊能力をもつことが東映の場合は、邪悪な敵と対決して必ず勝つことで、すべてが正当化され浄化されますが、大映の場合は、人を切ることが本人にとっての正義の達成でもなくカタストロフでもなくむしろストレスだ、というあたりが屈折してる訳です。
 3)歪んだ女性観をもっていること・・時代劇は基本的に「男のドラマ」なんですが、映画だから美女がサポートで登場します。彼女はほぼ例外なく、男が期待する理想の美女です。するとヒーローはある種の無理な態度を貫きます。【東映《陽》(旗本退屈男・宮本武蔵)/大映《陰》(眠狂四郎・座頭市)】
 妻や恋人をもたず、女を寄せつけない独身男に設定されたヒーローは、なぜかその美女にどこまでも慕われ追いかけられる。これもほぼ共通したパターンですが、東映の場合は、退屈や求道という自分の追求に女は邪魔だと考えつつ、実は美女に慕われるのは内心嬉しい。でも手は出さない禁欲です。これはお子様も見る大衆娯楽映画として、恋愛や性はタブーだったということもあります。しかし、そうして拒否していたはずが、机龍之介系の大映眠狂四郎の場合は違いました。基本的には女を邪悪なものと聖女の二種類に分けておいて、悪に染まった女はどんどんレイプして捨てるくせに、聖女だけは大事にして手を触れないのです。これも女性というものへの歪んだ蔑視と考えられます。


 眠狂四郎については後回しにして、最後に先の4類型を東映時代劇では、新選組以外はあまり取り上げられなかった幕末維新ものにあてはめてみると、戦後時代小説の流行を改変したともいえる司馬遼太郎の作り出した主人公にも、適用できると気がつきました。つまり、Aタイプ(明るい自由人)は「竜馬がゆく」の坂本龍馬。これはあまり説明しなくてもいいかと思います。司馬遼太郎の竜馬は、きわめて明朗闊達な人物設定で最後は暗殺されますが、暗い悲劇には思えない。Bタイプ(快活な公人)は「飛ぶが如く」の西郷隆盛です。司馬が描く西郷は、茫洋として器が大きく、維新という大事を成し遂げて最後は鹿児島で倒れますが、基本的に強く明るい人物になっています。Cタイプ(屈折した自由人)は、「竜馬がゆく」などに登場する土佐藩足軽の人斬り岡田以蔵です。剣で人を殺すだけの暗い人間ですが、政治に巻き込まれて処刑されてしまう男です。そしてDタイプ(陰鬱な公人)はあえて言えば「王城の守護者」の会津藩主松平容保でしょうか。京都守護職という重い役を引き受けて、滅ぶ幕府のために働きながら会津は朝敵の汚名を着て落城するのです。悲劇の殿さまです。
 でも、坂本龍馬も西郷も東映時代劇ではちょっと出の脇役でしか登場していません。松平容保も岡田以蔵もほとんど出て来ません。それは1950年代の東映時代劇の頃はまだ司馬遼太郎は小説家ではなく、文化担当の新聞記者だったわけで、「竜馬がゆく」は登場していなかったからです。ということは、竜馬などの幕末ヒーローがテレビや映画で人気になったのは、1970年代からだということです。そして、「竜馬がゆく」以後の司馬遼太郎のヒーロー像は、チャンバラ時代劇とは別種の、つまりそれまでの戦前からの時代劇とは異なる「歴史の真相」的な「戦後的な」視線を含んでいたことにもなりますが、同時に、その司馬遼太郎も時代小説を書くにあたって、チャンバラ時代劇を意識してはじめは「剣豪小説」的なものを考えていたこともうかがわれます。
 司馬遼太郎にあるのは戦前からの「男のドラマ」としてのチャンバラ時代劇と、戦争の最前線で兵士として戦車に乗って死に損なった体験から、従来の時代劇ではないなにかを、つまり歴史の再解釈を踏んでおく必要があると思ったからでしょう。でも、それはぼくの4類型に収まってしまうような、やっぱり戦後的に新しい要素で組みなおしてあるけれども、「日本の男」はいかにあるべきかという大仰な構えを前提に、国民大衆(つまり男性に)にヒーローとはどういう人間かを提示しようとしたのだと思われます。
 21世紀に生きているぼくたちには、もうチャンバラ時代劇も司馬遼太郎も、なんだか遠い過去の幻影のようになってしまって、時代小説はただ江戸時代の話に借りて、現代に置いてけぼりを喰った中流幻想勤労者や、縮みゆく高齢者の懐古的相贋物になっているような気がします。でも、「男のロマン」などということを今も口にするオヤジがいて、なぜか平成生まれの若者のなかにすら、「日本男児の生きざま」とかなんとかに共鳴する子がいるらしい、というので、ぼくはこれをもう少し考えてみようかと思うのです。

B.草刈正雄のおかあさん、いやおふくろ。
 母を語る、という記事がときどき新聞に載るのですが、今日はこれに目が留まったので読みます。
 「時代劇好き 一緒に映画に :かあさんのせなか   俳優 草刈正雄さん
 北九州にいたころは怖い母でした。悪さをすると「あんた何しよんね!」と、バットを持って追いかけてきました。よそで「親か警察か先生、どれを呼ぶか」と聞かれて「おふくろだけはやめてください」と言ったくらいです。
 ぼくの父親はアメリカ兵で、僕が生まれる前に朝鮮戦争で戦死しました。母一人子一人なもんですから、おふくろはめちゃめちゃ厳しかった。僕は愛情をかけられてないなと思っていました。
 早く自立したくて、中学で新聞配達をして、欲しいものは自分で買いました。定時制高校に通いながら雑誌の訪問販売をしたり、スナックでスルメを焼いたり。そこのマスターにモデルを勧められ、おふくろに言うと、「あんたの好きにしていいよ」って。17歳で上京しました。
 ところが離れてみると、やっぱり、親なんです。母一人じゃかわいそうだとか、九州にいる時はひとつもなかった感情がわいた。2年くらいして呼び寄せました。おふくろは「今さら東京に行ってもね」とか言ってましたけど、うれしかったんじゃないかな。雑貨の卸会社を辞めて来てくれました。
 それから売れてきましてね、僕は。おふくろが来て運が向いた。少し離れた時期もあるけど、僕が結婚したころおふくろが大病をしたので、また一緒に住もうって、うちの子どもたちの誕生を喜び、かわいがってくれました。
 おふくろは9年前、自宅で突然亡くなりました。脳梗塞でした。すがりついて号泣しました。ごめんなさい、こめんなさいって。同居していたけど、もっと優しい言葉をかけてやればよかった。九州にいた方がおふくろは幸せだったんじゃないか、って。
 何も欲しがらない、どこにも行きたがらない人でした。ものすごく苦労したと思うんです。おふくろがきばって、父親の役をしてくれたのかもしれません。
 おふくろは時代劇が好きでね。昔、よく映画館に連れて行ってくれました。当時の俳優さんはすごくインパクトがあった。いま自分の演技を見て、ふと「中村錦之助のセリフ回しに似てねえか」「これは丹波(哲郎)さんだな」とか思ったりします。僕はモデル出身で演技の勉強をしたことがない。考えてみれば、おふくろのおかげで今がある。本当にありがたいことです。  (聞き手・渡辺純子)」朝日新聞2019年7月7日朝刊33面、教育欄。

 草刈正雄さんは、1952(昭和27)年、北九州市生まれ。70年に男性化粧品CMでデビュー。特異な風貌のイケメン俳優としてブームを呼び、TVや映画で活躍し現在もNHK朝ドラでヒロインの祖父役を演じていることは周知の人ですが、ぼくはこの記事を読むまで米兵として朝鮮で戦死した父をもつ人だったことは知りませんでした。朝鮮戦争は1953年7月に休戦協定が結ばれるまでの約3年続いたから、おそらく草刈さんは父の顔も見ていないか記憶にないでしょう。北九州は米軍の最前線補給基地だったから、こういう境遇の母子家庭は珍しくはなかったのかもしれませんが、若い母と幼い男の子のその後の生活が厳しいものだったことは想像できます。映画館で東映時代劇を見たおそらく最後の世代ではないでしょうか。
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1950年代チャンバラ時代劇考 13 自由のわな

2019-07-04 01:19:40 | 日記
A.時代劇の終焉はいつ?
 改めて言うが、橋本治著『完本チャンバラ時代劇講座』という本は、1986年に世に出ている。今から33年前のこの年は、4月に当時まだソ連だったチェルノブイリ原発で事故が起こったことが記憶されるが、10月にはアメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長がレイキャビクで会談し、東欧社会主義国が崩壊の兆しを見せた時期。日本は6月に中曽根首相が「寝たふり解散」という衆参同日選挙をやって自民党300議席を獲得、4年を超える政権維持を固めた。そんなことはもう忘れられているが、このへんからいわゆる狂乱の「バブル経済」が進行したわけで、日本企業の株は高騰し、戦後日本が最も浮かれて「俺たちは世界第2の経済大国で、アメリカだって買ってしまうぞ」とうぬぼれた時代だ。それよりさらに20年以上昔、東映チャンバラ映画が最盛期だった1960年頃までに、毎週のように映画館に行ってチャンバラ映画を見ていた人は数多く、どこの町にも映画館があった時代を体験していた人は、日本人のマジョリティといってよかった。子ども時代にチャンバラごっこで遊んだ記憶のある世代は、第1次ベビーブーマー「団塊の世代」までで、その後は「ウルトラマン」や「戦隊シリーズ」などで「チャンバラ的名残り」が続いてはいたものの、時代劇特有の世界はテレビ時代劇というマンネリに移行し衰弱していった。
 その転換点を橋本さんは、東京オリンピックの年(1964年)にNHK大河ドラマとして放映された『赤穂浪士』が、チャンバラ時代劇の最後の完成形で、翌年の『太閤記』でもはや時代劇とは違ったものになったとしている。大佛次郎原作の『赤穂浪士』は、歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」をなぞるのではなく、明治以後の近代日本への視線で描いた「新講談」「大衆小説」として定着した時代劇映像の決定版と考え、それが役割を終えて、高度成長時代の現代人のために背景設定だけ過去にした現代劇になったとみる。しかし、これはテレビドラマの話なので、映画の方ではどうかというと、これはまた、もはや誰も覚えていないある作品をもってくる。

 「時代劇の終焉を語る時が来ました。それは昭和三十八年(1963年)――東京オリンピックの前年の東映沢島忠監督作品『ひばりチエミのおしどり千両傘』です。ヘンなところでヘンな風な終り方をするんです、このチャンバラ映画というヤツは。
 時代劇の始まりが、近代になって「やっぱり今っていう時代は面白くない。だから“理想の江戸時代”を作ってしまおう」であるのなら、“今っていう時代が遂に面白い”ということになったら時代劇の“江戸時代”は終わるでしょう?そういうことなんです。
 
 『ひばりチエミのおしどり千両傘』は前の『ひばりチエミの弥次喜多道中』に続く“ひばりチエミ物”の第二弾ですが、もうこの二人は“町娘”ではありません。一方は大名のお姫様、一方は町育ちのその腰元です。おしとやかなお姫様が勿論美空ひばり、お転婆な腰元が勿論江利チエミです。お姫様は自分の日常に退屈している。そして、そのお姫様は御婚儀整って、お輿入れの旅に出る。ある宿場に泊って、そこではお祭りの日。江利チエミから町のお祭りのよさを聞かされていたお姫様は町へ忍び出る。勿論これは東映版の‟ローマの休日”です。美空ひばりがオードリー・ヘップバーンだけど、勿論ウィリアム・ワイラーの『ローマの休日』には江利チエミなんか出て来ない。『--おしどり千両傘』はじゃァどうなるのか?ここから先はマーク・トウェインの『王子と乞食』との二本立てになって、江利チエミは身代りのお姫様。江利チエミの腰元には、好き合った仲の(でも喧嘩ばっかりしている)料理番の侍・安井昌二がいて、美空ひばりの方はどうなるのかなァ……と思っていると、股旅姿の水原弘が(それは勿論、彼が『黒い花びら』のオミズだから)自分は材木問屋の息子で山の木を仕入れる為に旅に出ているなんて言っているけれども、それは真っ赤な嘘で、実は彼こそが美空ひばり扮する“姫君様”の許婚の若殿であるに決まっている――ということになる(筈)。互いに相手が自分の許婚だということを知らないお姫様と若殿は、互いに身分を隠したまま恋仲になる。なったところへ、若君姫君の留守をいいことにお家乗っ取りを狙う一味が……、ということになる筈なんだけどもこれがそうはならないというところが、もう時代劇は終わってしまうという東京オリンピックの前の年。
 水原弘は、やっぱりただの材木問屋の若旦那だった。という訳で、美空ひばりのオードリー・ヘップバーンは泣く泣く“お城”へ帰って行く――。
 一方身替りとなってお姫様になっている江利チエミの腰元“おトシ”の方にはなんと、刺客がやって来る。やって来たのはどこからかというと、自分のところの大藩の若君とお前のところのような小藩の姫君とでは釣り合いが取れない、だによってお命頂戴という、お輿入れ先のハネ上がり分子が襲って来る。“危うし姫君!”で本当だったら大立ち回りになるところがそうはならないのは何故かというと、姫君付きの御家老が「ここでおトシが殺されれば姫君が偽物だということがバレなくてすむ。お家安泰だからいっそ殺してしまえ」とメチャクチャなことを言うから。それを聞いて頭に来たおトシの恋人の料理番の侍、「こんな非人間的な世界はまっぴらだ」と、おトシを助けた後、サッサと侍をやめてしまう。そうなった以上、おトシの方も腰元だのお姫様の身替りだのをやっている理由がない。本物のお姫様がお戻りになったのをいい汐に、彼女もサッサと奉公をやめてしまう。一人残された美空ひばりのお姫様はどうするのか?これもサッサとお姫様をやめてしまう(!)。
 ラストシーンは、深川木場の通りを挟んで立っている魚屋と材木屋。魚屋のカミさん、江利チエミは天秤棒を肩に威勢がいい。材木屋のカミさん、美空ひばりは道に水を撒いて甲斐甲斐しい。その水が江利チエミに引っかかった。「何しやがんでェ」と江利チエミ。「ベラ棒めェ!」と、こちらは元お姫様の美空ひばり。
 昔、庶民の幸福とは、出世することだった。お姫様になったり若殿様になることが庶民の夢だった。そして、そのかなわぬ夢のひっくり返しが、庶民の暮らしに憧れる不自由な若殿様であり、お姫様だった。でも今やそれはなくなった。お姫様は公然と、町の材木問屋のおカミさんになってしまうからというのが、この『ひばりチエミのおしどり千両傘』のラスト。
 勿論この映画は“ひばりチエミ”だから、二人の唄って踊るシーンはふんだんにある。彼女たちは唄えるから唄っているし、踊れるから踊っている。この映画の二人はもう「どうなるんだろう……」と現実を悲観して〽バラ色の青春は私たちで開くのよォ♬という、つかの間の夢を見る少女たちではないんですね。いつでも勝手に夢を見ることが出来て、その中ではいつでも唄って踊っていられる。だからこそ、いっそ不自由な金持ちの生活がいやだと思える。つまりもう、普通の人間は、架空の世界を必要としなくなってしまった。そんなものもういらないと言われたら、そんなつまらないものの乗っ取りを画策する悪人たちの存在理由もない。悪人がいなければ正義もない。ただ自由な自分達の現実があればいい――そのことが一番重要ということになってしまっていた。それが昭和の三十八年(1963年)。もう、“理想の時代である江戸時代”はいらないんです。いらないから時代劇は終った。それが今から二十二年前。
 じゃァその後、わたしたちは幸福になったのか?
 『ひばりチエミのおしどり千両傘』で、すましたお姫様をやっている美空ひばりはともかく、本当に水を得た魚のようにのびのびと唄い踊ってアッカンベェをしている江利チエミ。こんなに明るくこんなに魅力的だった人が、どうして二十年後にあんなにも寂しい孤独の死を迎えなければいけなかったのだろうか?そんなことがフッと思われて来る。
 この頃、江利チエミは既にあの東映ヤクザ映画最大のヒーロー、高倉健夫人ではあった。女は「もういい」と、さっさとドラマから降りた。男はやっと、道を踏みはずした自分のドラマ――ヤクザ映画に曙光を見出した。なんとも皮肉な二人でした。
 世の中は斯くして、一億総中流のスタートラインへつき、映画館は、その日常生活からはみ出してしまったものの個人的感慨を発散する場所となって行くのが、それから続く昭和の四十年代。
 さて、それではその昭和四十年代のヤクザ映画では何が描かれるのか?人間と人間の関係ですね――世の中からはみ出してしまって、ヤクザというところに身を置くより他になくなってしまった人間同士の。実に、昭和も四十年代になって初めて、人間というものはなかなか“みんな一緒に”はうまくなれないという重要なことがスクリーンで描かれるようになって来る。一緒になって走っていたその“みんな”が劇場から遠ざかって、みんなが一斉にそれぞれのバラバラな“タコ壺”の中にしかゴールを見出せないような――そんなことがまだ全然分れないような時期に、実は“みんな一緒に”というのは“夢”だったんだということが明らかになって来る。
 実は昭和十二年の『血煙高田馬場』で、息せき切って走っていたのは、阪東妻三郎の中山安兵衛だけではなかった。その後を、応援の旗指し物を掲げた長屋の連中も追っかけていた。追っかけていたのは騒々しい長屋の連中だけではなかった。「お父様、私がお慕いするのはあの方です」という、堀部弥兵衛の娘も、父や乳母と一緒になって走っていた。昭和三十年代の“みんな”は、既にここにいた。ただ違うのは、昭和三十年代の“みんな”は、まるで電車ごっこの子供達のように、一かたまりになって走っていた。そして、昭和三十年代のように“みんな”がまるでデモクラシーのダンスパーティーのように、手に手に得物を持って「このやろう!」とそれぞれに大立ち回りを繰り広げていたのとは違って、昭和十二年の“みんな”は、ただ一かたまりになって「安さん、頑張れ!」と遠巻きにして応援しているだけだった。昭和十二年の中山安兵衛は、昭和四十年代のヤクザ映画の主人公のように、単身、複数の敵に立ち向かって行った。ただ違うのは、ヤクザ映画の主人公には「わたしも御一緒に」という助っ人はいなかった、と。
チャンバラ映画は多分、あまりにも早く終わりすぎてしまったのだと、私は思います。
昭和十二年に飛び上がり躍り上がり跳ね上って刀を振り回す『血煙高田馬場』ノバンツマを見た子供達は、どれほどこの真似をしたかったでしょう。でも、それは無理だったんですね。チャンバラ映画で鍛えられたバンツマには、スイングジャズをバックにして刀を振り回すことが出来た。そしてそれを別にジャズというBGMを使わない、現実音しかない野原で再現することは出来ましたけれども、当時、それだけのリズム感を持っていた人間なんかはまだどこにもいなかった。それを自分で演じてみせたマキノ雅弘監督とバンツマがいても、なんでもごった煮になりうる映画界という新しい世界の中にしか、そういうリズム感はなかった。当時の日本で一番リズム感の発達していた人間は、ダンサーなんかではなくてバンツマだったんですね。ラジオからジャズという新しいリズムを持った音楽が毎日のように流れて来るようになるのは、進駐軍がやって来る戦後のことですね。その音をバックに使って、人間というものがどのように動きうるのかということが日常的に分るようになるのは、テレビが日本全国に普及する1960年代からですね。そのことによって日本の子供、若者のリズム感が“欧米並み”になった時、既にそのリズム感を生かして動けるような背景――チャンバラ映画というものはなくなっているんですね。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.399-402.

 美空ひばりと東映時代劇というテーマも、かなり重要かもしれないのだが、それは橋本さんもこういう形以外ではあまり触れていない。東映時代劇にはいわゆる「東映城のお姫様たち」と呼ばれた美人女優がいろいろいた(例えば花園ひろみ、丘さとみ、桜町弘子、大川恵子、長谷川裕美子などなど)のだが、どうもみな類型的な添え物的役柄しか与えられないので、ぼくらの印象は他社の個性的な人気女優に比べてみんな同じに凡庸に(“妖艶”を誇った小暮美千代さんは別として)映っている。その中で唯一、別格の主役や準主役を演じていたのが、若い女優・美空ひばりなのだった。彼女は常に、女優としてよりは少女の頃から偉大な歌手として世間に遇されたために、時代劇映画でのこの大活躍はあまり語られることが少ない。それはつまり、時代劇は男たちのヒーローを描くために作られて、女はあくまで主役にはならないものだったゆえに、若い美空ひばりは一方で「お姫様」を演じながら、他方で「男もどき」のべらんめえの「お転婆」として派手な立回りも演じていた。それができたのは東映では美空ひばりだけだったと思う。
盟友ともいうべき江利チエミも素晴らしいヴォーカリストであると同時に、演技者としても際立った才を示した人だった(三人娘として売り出したもうひとりの雪村いずみさんも飛び抜けた歌手・女優だったが、ここでは措く)が、やはり映画女優として語られることは少ない。東映時代劇は、基本的に男中心の世界であって、女はヒーローを陰で支え、ひそかに慕い申し上げるだけの役なのだった。その女子コンビが、男を蹴飛ばし乗り越える主役を務めた沢島忠監督のただならぬ作品、『ひばりチエミのおしどり千両傘』が、時代劇の終焉を告げる作品だとした橋本治の慧眼はなるほど、と思う。時代劇はここで終った。終わるべくして終ったのだが、早く終わりすぎた?のだろうか。



B.時代がどんどん不快な方向に流れている?
 「自由」は英語ではfreedomとliberalという2つの言葉の翻訳語だろう。Freedomも Liberalもそれぞれ歴史的に重い意味のある言葉だ。しかし、今の日本では必ずしももとの意味で理解されているとは言えないと思う。それは日本だけでのことではないが、翻訳を通すことでさらに怪しげな誤解が入り込む。「自由主義」ということになると、行為主体の自由意思を社会や国家が認めるかわりに、それによって生じる結果について「自己責任」という概念が出てくる。つまり、「あんたの好きなようにしても構わないけど、その結果は全部あんたのせいだから、自分で引き受けてね。おれたちは助けてあげないよ」という突き放しがひとつ。経済的行為の場合、どのような事業・活動をしてもいいが、そのリスクや失敗の責任はすべてあなたにあり、誰かに頼ってはいけないという論理になる。「新自由主義」というのは、それを徹底させて、利益を求める企業活動に法的な規制や介入を排する考えとすれば、弱肉強食の競争原理であり「勝者の優位」を肯定するといってもいい。
 しかし、政治的自由や思想的自由としてのリベラリズムは、人が何を価値とし、人生の意味をどのようなものと考えるかということにおいて、他者や国家に縛られないという自由であって、これは自分とは違った意見を認め、対話を通じて交流し理解する努力の上に実現すると考える点で、「競争原理」や「勝者の論理」を超えるものだ。だとすれば、今の日本で人々を息苦しくさせている底流にある「気分」は、どのように生きても「自由」だという言葉の裏に、その結果どんな境遇に陥って脱落しても、それはお前の無能、おまえの失敗であって、人のせいにはできないんだよ、という脅しであり、だから時代に適応して少しでも金を稼げるように努力するのが、当然だという理不尽な「自由主義」が疑われることなく浸透している。とすれば、人々は声をあげる気力も余裕も奪われて、未来に何の希望ももてない沈滞と衰弱のなかに置き去りにされる。競争の中で勝者になることのできる人間は、つねに少数であって、それは本人の能力や努力の結果ではなく、ほとんど生まれた境遇の禍福と偶然によるのかもしれない。

 「老後不安で投資をあおる不快さ:時代を読む  内山節
 政治の世界から流れてきた、老後は年金プラス二千万円が必要という報告書は、多くの人たちに不快感を与えたことだろう。本当に二千万円必要かどうかが問題なのではない。年金といっても受けとれる額はさまざまだし、住んでいる場所や暮らし方によっても、老後に必要な資金は変わる。そんなことは誰もが知っていることであり、自分の場合どうなのかは、それぞれ考えていることだろう。
 問題は老後の生活資金について、国が国民に指示を出すこと自体にある。しかも二千万円をためるために、貯金ではなく投資をせよというのだから、そういうことを指示して平気でいられる精神構造にはあきれてしまう。現在投資をしている人たちの約半数が、損失を出していることは無視するとしても、投資をするかどうかはそれぞれの考え方であり、国が指示することではない。
 私たちは誰もが自分たちの生きる世界をもっている。高齢になってからの生きる世界は、それまでの何十年間かによってつくりあげられた、かけがえのないものだ。そういうものに対する、最近の流行語で言えばリスペクト(敬意、尊重)がないのである。
 それはいまの政治に温かさがないことと結びついている。仮に年金だけでは多くの人たちが暮らせないのであれば、それでも何とかできるように、高齢者が働きやすい環境を整えたり、支え合える社会や社会保障のかたちを考えるのが政治の役割だろう。そうではなく、「年金だけでは足りないから投資をしろ」と言うだけなら、政治はいらない。
 この報告書の不快なもうひとつの理由は、人間をお金のために働き、お金をためる動物として扱っていることだ。若いうちから老後のために貯蓄をし、投資をおこなう。この発想からみえてくるのは、現役の人間も、老後を迎えた人々も、国民はお金だけで生きている動物だと見下す態度である。それぞれの人々が築き上げてきたかけがえのない人生に対するリスペクトが、あまりにも欠けている。
今日の日本の政治を覆っている最大の問題点は、尊重する精神の欠如なのである。何十年も生きてきた人間に対する敬意や尊重の欠落が、今回の報告書を生んだ。さまざまな規制を緩和して非正規雇用をふやしたのも、人間や労働に対する尊重のなさだった。沖縄の辺野古の基地建設では、沖縄の人たちの意思を尊重することなく、力で押し切る政治をすすめている。
現在の政府から、自然に対する尊敬の言葉を聞いたことはないし、原発事故が起きても原子力発電を推進しようとする姿勢からは、この社会で生きているすべてのものへの尊敬が感じられない。
日韓関係でも、韓国政府の対応の問題点はあるとしても、植民地化されることによって発生した韓国の人々の気持ちを、もう少し尊重する精神があったら、ここまで深刻化しなかったかもしれない。あるいはロシアの現実を尊重する精神がなかったから、北方四島をめぐる領土帰属交渉も、ロシアに冷たく拒否される結果を招いたのではなかったか。
国民一人一人の人生を尊重する精神をもたずに、老後不安を投資の活性化に利用しようとする。そのことに表れている国民や他者に対する尊重、敬意の欠如が、今日の傲慢な政治を生みだしている。私には、そう思えてならない。  (哲学者)」東京新聞2019年6月30日朝刊、5面社説・意見欄。

 これは実にまともな議論だと思う。しかし、自分は強者の側にいると思いこんでいる傲慢な人たちは、このような話を弱者を甘やかす空想的な議論だと一笑に附す可能性が高い。どっちが最終的に人間を幸福な未来に導くか?彼らは未来になど期待していない。いまどれだけ満足のいく快適な状態を得られるか、金銭と名誉で自分を飾ることには熱心でも、惨めな失敗者、愚かな敗残者など構っているひまはない。歴史を振り返れば、こういう自由主義が権力を握った場合、次に来る事態は悲劇的なものになる。
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