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1950年代チャンバラ時代劇考 17 まとめその3

2019-07-16 13:11:08 | 日記
A.少年の夢と希望
 テレビでよく見るauのCMは、2015年くらいから始まったらしいが、最初は桃太郎(松田翔太)、金太郎(濱田岳)、浦島太郎(桐谷健太)の三太郎だった。これがシリーズになるにつれ、一寸法師や鬼まで出てくると同時に、女子のかぐや姫、乙姫、外人の白雪姫まで登場し、最新作は親指姫が踊っている。今の子どもたちは、これらの童話キャラクターを原作で読んだことがあるのだろうか?日本昔話のようなテレビ番組もなくなってしまったし…。
それはともかく、ある時代に子どもなら誰でも必ず知っているヒーローというものはいたはずだし、それが10年、20年と経過するうちに、変形し新しいヒーローに入れ替わってゆくのも繰り返されてきたことだと思う。ただ、1960年代以降、童話絵本にかわってテレビがそうした基礎的教育を提供するようになると、その回転速度もずいぶん早くなって、たとえば東映時代劇の系譜をひく「戦隊シリーズ」は1年で新しいヒーローに入れ替わっていまも続いている。デパートの幼児向けおもちゃ売り場では、戦隊ヒーローや仮面ライダーなどのちょっとだけ新しくなったグッズを並べている。テレビと同時にマンガもそうしたヒーロー像を提供していた。だが、マンガもテレビがもう忙しい大人やティーンエイジャーの見るものでなくなる時代がきて、子どもたちが夢中になるTVヒーローは、自分でネットに接する前の幼児しか見ないにしても、誰もがみんな知っている(このフレーズ、ぼくの中では月光仮面の「どこの誰かは知らないけれど、誰もがみ~んな知っている♬」を想起させるのだが)世代の共有記憶になるヒーローはもう消えてしまうかもしれない。
 1950年代東映時代劇について今さらあれこれ見てきたが、これで打ち切るにあたって、やはりぼくの世代が幼少年期に、その上の世代から引き継いで夢中になったヒーローは、時代劇の中にいたことを確かめる。つまり、映画で見た鞍馬天狗、丹下左膳、猿飛佐助などに始まって、やがて宮本武蔵にたどりつくのだが、一方で草創期のテレビでは「月光仮面」というのに夢中になったのも事実で、鞍馬天狗が黒い頭巾で刀を差して馬に乗っていたのに対し、月光仮面は白い覆面にサングラスをかけマントをひるがえしてバイクで走って来て拳銃を撃つのである。
 いずれにしてもそれは「男の子」のヒーローであって、女の子は綺麗な服を着て王子様に憧れる別世界しかみておらず、男子と女子にはすでに接点はなかった。今はだいぶ違うんだろうなあ…。
 
 「四月山形県置賜郡小松国民学校に入学。一年生のころは、成人したら桃太郎になるつもりで、学校から帰るといつも鉢巻をしていた。二年生になったあたりで、桃太郎はお伽ばなしの中の人物と知り、こんどは鞍馬天狗を志し、年中、木刀を腰に差していた。四年生のときに、鞍馬天狗も架空の人物であると気付き、将来の志望を宮本武蔵に替えた。これは吉川英治の『宮本武蔵』を読んで感激したせいである。裏庭にとうきびを撒き、兄の滋とそれを飛び越える修業を毎日繰返したが、夏になってとうきびはわたしたちの身丈をはるかに超え、剣聖になるための修行は頓挫した。
                   (井上ひさし 自筆年譜 1941年 七歳)
 桃太郎の鬼退治は、そのまま同時代の軍国少年の思想になっており、わが国初の長編漫画映画の題名は『桃太郎の海鷲』(1943)という。鉢巻をした桃太郎が「海鷲」のパイロットして勇敢に戦う物語だ。戦争の時代に、桃太郎はプロパガンダとして流布した鬼退治の物語に利用された。この映画が公開された年に話題になっていたのが、東京宝塚劇場で上演された白井鐵造作・演出の『桃太郎』高峰秀子(桃太郎)、榎本健一(猿)、岸井明(犬)、灰田勝彦(雉)が出演していた。戦争中の吉川英治『宮本武蔵』は多くの読者に支持されていた。大佛次郎の「鞍馬天狗」シリーズもロングセラーとして読まれ続けている。
 さらに井上ひさしのもう一つの文章を引用する。「吉野作蔵と鞍馬天狗」(『國文学』2002・11)である。
 ちいさい頃に切ないほど憧れた英雄が二人いて、一人は宮本武蔵であり、もう一人が鞍馬天狗だった。七つ八つだから文字で読んだわけではなく、徳川夢声のラジオ朗読で宮本武蔵が、嵐寛寿郎の映画で鞍馬天狗が好きになったのだ。昼は、武蔵が弟子の伊織にやらせた修業を真に受けてそのへんの植木を飛び越えて歩いて向かいのおじさんに怒られたり、夜は、風呂敷の覆面頭巾に物差しを振りかざして近所中の家の中を走り抜けて隣のおじさんに叩かれたり、たいへんな熱の入れようだった。もちろん狂っていたのはわたしだけではない、町の男の子のほとんどが、夜は覆面頭巾で走り回っていたのである。覆面をしたまま床に入って母に叱られたりもした。
 
 宮本武蔵と鞍馬天狗、この二人の英雄がはるか半世紀をこえて井上ひさしの胸によみがえる。
 吉野作造教授のいる東京大学法学部政治学科に、1918(大正7)年に入学してきたのが大佛次郎、吉野の講義を聞いたはずの大佛がその六年後に鞍馬天狗のシリーズをスタートさせることになった。
 大正デモクラシーを牽引した吉野作造の思想は、一言でいえば、「憲法を武器に、議会や政府を通して、ゆっくりと民本政治を実現していこう」「憲法によって君主の権限を抑える」ということだった、と井上ひさしは要約していた。この吉野作造の民本主義は、「(鞍馬天狗に)相手に向って腕力を用いたり腰の方何物を言わせようとしたことがない」大佛次郎の思想に通じていた。ということは、吉野作造のものの見かたや考え方が、大佛次郎という名媒介者を通じて、鞍馬天狗のものの見方や考え方になっていったことになる。
 吉野作造の評伝劇の準備をするなかで、吉野と大佛の教室での出会いを知り、そこに覆面頭巾の鞍馬天狗を颯爽と登場させたくて仕方がないのだ、とこのエッセイで井上ひさしは語っていたのだった。
 吉野作造の評伝劇『兄おとうと』(鵜山仁演出)の上演は、2003年5月。吉野作造と信次は、十歳ちがいの兄おとうと。おとうとの信次は、農商務省の高級官僚で、商工大臣、戦後には大蔵大臣をつとめている。この評伝劇に新たに「カードの行方」の第四場が書き加えられて上演されたのは、2009年の三演目からである。第四場は、松本大吉と幸子という夫婦の説教強盗が吉野信次宅に押し入る場なのであって、この評伝劇には、けっきょく鞍馬天狗は登場しなかった。しかし、人を殺めたり怪我をさせたりするのは願いさげという説教強盗夫婦こそが、井上ひさしにとっての鞍馬天狗だったのにほかならない。殺さない、怪我をさせない、縛らないの三ない主義、その上、ありがたい話を聞かせてくれる人気の説教強盗なのだった。
 こまつ座とホリプロの共同制作として彩の国さいたま芸術劇場で、2009年3月4日に初日の幕を揚げたのが蜷川幸雄演出の『ムサシ』である。プログラムに掲載された、井上ひさしと堀威夫の対談を引用する。
 井上 ずいぶん前、この『ムサシ』の企画立ち上げ時に堀さんとニューヨークで会いましたね。
 堀 あれは、1985年ごろでしょう。この企画は、一度、挫折している(‥‥‥)三年くらい前に、井上先生から電話をもらって、「堀さんとのきっかけで始まった企画だから『ムサシ』を書くよ。必要だったらやってくれ、必要でなければ捨ててくれ」。(‥‥‥)
 井上 前に死ぬまでにまだ時間があると感じていました。それが、「わたしもやがて死ぬ。それが明日かもしれない、明後日かもしれない」という実感におそわれました。「『ムサシ』を書きあげないと、死んでも死に切れない。見守って下さった堀さんに申し訳ない」と思って電話したんです。
 堀 ですから、この『ムサシ』は数奇な運命をたどっている。自分の運の強さを感じますね。
 
 この『ムサシ』のニューヨーク、ロンドン公演に向けて稽古を再開したばかりのその日、2010年4月9日に井上ひさしは急逝する。
 『ムサシ』は、宮本武蔵の櫂を削った長い木刀の一振りで落命したはずの佐々木小次郎が、じつはながらえていた、という井上ひさしの着想から始まっている。
 舟島(巌流島)の決闘から六年後、小次郎が、鎌倉は源氏山の禅寺に武蔵の居所をつきとめるのだが、二人はともに人を殺めることの虚しさを知り、報復の鎖を断ち切ることになる。
 井上ひさしは、剣聖の宮本武蔵にも鞍馬天狗の反暴力の民本主義の思想のあることに改めて気づかされていたのである。別にいえば井上ひさしは、このようにして日本および日本人の戦後民主主義の決算を、宮本武蔵と鞍馬天狗に再発見するのだが、そこにいたるまでの詳細な記録として、井上ひさしの自筆年譜をもう一度読みかえしておかなければならないと思われる。」今村忠純「解説」(『井上ひさし短編中編小説集成』第10巻)2015、岩波書店、pp.555-558.
 
 東映時代劇考のまとめとして、こんなことを考えた。
 日本人(の男)は、近代という新しい世界に放り込まれて、いやでも常に移り変わる社会や時代に生き延びるために、桃太郎や金太郎と一緒に夢見て遊んでいた幼児の世界を捨てて、学校に通って勉強をまじめにやり、世の中の役に立つ人間にならなければいけないと教えられた。しかしこれは、楽なことではないし楽しい事とも思われない。それに耐えるためには、大きな物語、人生の意味を与えてくれるような子供騙しでない物語を必要とした。しかし、キリスト教のような西洋の宗教はバタくさくてどうも馴染めない。だからといって従来からの仏教や儒教では新しい事態に迷う心にあまり訴えてこない。もっとわかりやすくて、心にジンと来るヒーローの物語がほしい、と子どもから大人になる男の子たちは思ったのだろう。
 それを提供したのは時代劇だった。でもそれはやっぱり子供騙し、いや子どもから離れたくない大人のために、乙姫に見送られて帰ってきた浦島太郎が、マッチョなサムライになって悪に立ち向かう「単純な正義」に流れて行った。その先には、暴力を国家の正義にまで祀り上げた戦争があり、栄光の帝国があった。しかしそれはアメリカの圧倒的な武力に負けて、もうチャンバラでは勝てないことを思い知ったから、男の子の夢は、遠い過去の別世界で遊ぶしかない場所に後退し、もう一度時代劇に向かった。それは娯楽であり癒しであり現実を忘れる効果があった。
 それが次に来た高度経済成長で、もうそんなものは誰も必要としなくなったから、時代劇は消えて行った。そして今はもうすべてが過去の記憶ですらなく、保守すべき理念は影も形もおぼろになった。「サムライ」に憧れてチャンバラをやっていた世代は、もう完全に世の中からリタイアする。日本を「凛としたサムライの国」にもっていこうなどという時代錯誤を夢見る人たちは別として、男の子に夢の形象化を与えるものは、ネットの中のヴァーチャルな妄想世界しかないのだろうか。ダイヴァーシティを唱えるだけではその中身がよく見えない。少なくとも東映時代劇のような華やかな具体性はない。
 
 
B.パーソナライゼーションとプライヴァタイゼーション
 1980年代に、人々の心理に広がる新たな傾向として指摘されたのがプライヴァタイゼーション(「私事化」と訳されていた)である。それまでは、国家や会社組織などに所属していると思うことでアイデンティティを得ていた人々が、もうその帰属感から切り離されて、家族や友人という身近な小集団にだけ共感できるようになっていた状態も失われて、すべては自分個人のなかの出来事としてしか感じられなくなる、というのがプライヴァタイゼーションである。伝統保守派からは、それは戦後民主主義の失敗であり、地元共同体や家族すら信じられないのは悪しき個人主義の末路であり、「麗しい家族」を復権すべきと批判された。リベラルな価値を主張する立場からは、それが社会問題につながるのは日本で個人主義というものがちゃんと定着していないことの表れであって、古い家族を復活させても解決にはならないばかりか、むしろ地域も家族も孤立し脆弱になると反論した。そして、このプライヴァタイゼーションの傾向はおそらくとどまることなく浸透して21世紀になったと思う。
 そして今度は、SNS時代という状況の中でパーソナライゼーション(これは「個人化」と訳すのだろうか)という言葉が、人々の情報交換の質という点から指摘される。どういうことか?
 
 「文化繚乱時代 SNSがもたらした曖昧な不安 :新井紀子のメディア私評
 朝日新聞の文化欄の劇評、特に歌舞伎欄をこよなく愛している。人気役者の市川海老蔵を、頑なと言えるほどほめない。海老蔵が主役を張っているのに完全にスルーした時には苦笑した。意地悪。もはや執念の域に達した責任感を感じる。何としても海老蔵に「団十郎」の名跡にふさっわしい役者になってほしいのだろう。文化を支えてきた原動力は、論理や公平さなどではなく狂気にも似た愛なのかもしれない。
◎        ◎  
 建て替えられた歌舞伎座はバブル期より賑わっていることもある。書籍の発行部数は減っているものの新刊は約1万5千点、バブル絶頂の1990年の倍近くだ。しかし20世紀に「文化」と呼ばれたものが音を立てて崩壊しつつあることを誰もが感じている。
 きっかけはインターネットだった。そして、巨大IT企業が提供している無償のSNSサービスと「パーソナライゼーション」が決定打となった。ある少女が気に入ったユーチューブの動画を友達とシェアする。見終わった後に、推薦される動画は何か。それは2人の過去の視聴履歴によって異なる。
 ツイッターやフェイスブックはもっと露骨だ。誰が友達か、誰をフォローしブロックするかで、画面に表示される内容は全く変わる。AKB48の最新曲のセンターが誰かを知る国民は過半数に満たぬだろうが、自分の画面だけを眺めることで「誰もがAKB48に熱中している」と実感する人々もいる。
 パーソナライゼーションの「お陰」で、私たちは情報の洪水に溺れることなく、効率よく関心ある情報だけを収集することができるようになった。茶の間にテレビがあった時代は、水戸黄門が印籠を出す決め台詞も演歌の歌詞も、関心の有無にかかわらず脳にインプットされた。だが、家族が各自スマホを見つめる時代には「不要な情報」はシャットアウトできる。世界で100人しか関心がない「マイクロ文化」であっても、SNSさえあればコミュニティーを形成して情報交換できる。
 文化の多様性は本来望ましいことだろう。テレビが地上波しかなかった時代には想像し得なかった文化繚乱時代が到来したと言えるのかもしれない。しかし、何かしっくりこない。喜べない。その曖昧な不安が、主要紙の「文化」や「文系」をめぐる報道を迷走させている。
 朝日新聞はオピニオン面で「文系は負け組なのか」(1月16日)という特集を組み「人工知能(AI)の広がりやプログラミング教育の必修化など、『文系』には何かと肩身の狭い世の中になってきた。巨大IT企業が世界を動かす中、『理系』こそが勝ち組なのか」と書いた。論点が不明なまま、「コミュニケーション力」など文系にも「訳に立つ」面がある、という人工知能学会長の発言が載った。文化文芸面ではメディアアーティストの落合陽一氏の、令和について「僕は『命令』の『令』であり、コンピューターソフトのプログラムの意味だと捉えています」(5月24日)という発言が無批判に掲載された。なぜ、これほどまでにテクノロジーにこびるのか。何が、文化の担い手を不安にさせているのか。
◎        ◎  
 思い出して腑に落ちるのは、以前NHKの番組で耳にした喜劇役者の伊東四朗氏の発言だ。「ロミオとジュリエット」のコントで笑いがとれるのは、誰もがその筋を知っているからだ。今やシェークスピア劇を知る人は少ない。説明しながらパロディ―をやるくらいやぼなものはない、との指摘だ。「正統派教養」が権威をもっているからこそ、文化やパロディーはアンチとして花開く。「みんな自分の好きなことをそれぞれ楽しめばいいんじゃない?嫌なものは最初からブロックすればいいだけ」という時代には、正統派教養や権威に対してノーをつきつける方法論そのものが崩壊するだろう。
 そのせいだろうか。文化人が新聞やネット上で、高校国語で「文学」を教える時間を死守すべしとの声を上げ始めた。学習指導要領改訂で、近現代文学をほぼ教えない学校が現れることを懸念した動きだ。だが、今さら高校生に「こころ」や「山月記」を強要しても、文化の変質は止まりそうにない。
 2002年に「文学界」は作家や評論家に「現行の『国語』教科書をどう思うか?」というアンケートをした。金井美恵子氏は「国語教科書に載っている文章に対しては、それだけで馬鹿にしていた」、橋本治氏は「人生を教えない学校で文学を教えたってしょうがないでしょう」と回答した。今やそんな余裕は失われたということか。
 阪神ファンが、「ジャイアンツが強くなければ野球にならない」と突然巨人を応援し始めるような捻転した事態に、今「軽いめまい」を覚えている。」朝日新聞2019年7月12日朝刊13面オピニオン欄。
 
 ここで新井氏が言っているのは、情報の共有による共通対話基盤が、SNS環境では失われる可能性があるということと、個人があらゆる「私的な」意見表明を流せて、それが一瞬にして膨大な反響や影響を持つということが、同時に個人の関心や知識をタコツボ化するという危惧だろう。
 プライヴァタイゼーションが問題にしたことと、パーソナライゼーションが危惧していることは、時代も視点も別のことなのだが、社会における個人のあり方をどう捉えるかという点で、無関係ではない。社会学の入口でまず出てくることだが、人間は完全に孤立した個人として生きることはできない。他者の存在を前提にして、生存・成長もあれば教育・発展もある。しかし、個人を育み認めることは共同体や国家が個人に優先するという考え方とは対立し矛盾する。
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