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1950年代チャンバラ時代劇考 12 橋本治への問い 原発は解決などしていない!

2019-07-01 01:38:37 | 日記
A.なぜ「チャンバラ」なのか?
 橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』(1986.徳間書店)を読んできて、この人が提起している命題がいまいち、うまく腑に落ちてこない。つまり、どうして50年以上前に終わっている江戸時代を舞台にした娯楽映画が、かくも昭和の人々の心をとらえることになったのか?という問いの答えが、橋本さんにはいちおう初めからあるのだが、そこがぼくの方で、すんなり咀嚼できない。この本の主題である「チャンバラ時代劇映画」というのは、映画史的には大正時代にサイレント映画で初めて出現した「チャンバラ」が、昭和に入ってトーキーになって時代劇の形ができ、戦争後で製作を禁じられたあと、1950年代に復活し、カラー大画面の東映時代劇で全盛期を迎えたあたりまでが対象となる。江戸時代も、初期の元禄時代か、中期の天明・寛政期か、天保から幕末期か、などと細かい違いもあるが、問題は歴史上の事実などではなく、「チャンバラ時代劇」があくまで大正・昭和初期の一般的日本人、とくにちょっと気取った歴史好きの大衆男子に受けるように、創作された“虚構”だということだ。昭和の初めに映画を観ていた若い世代は、半世紀前の江戸時代は見たことのない知識だけの世界である。その知識もおもに講談や講談を文字化した立川文庫といった読み物から仕入れた知識である。それが大正二年の『大菩薩峠』以降は、雑誌の小説(「大衆小説」と一括される)によって数々のヒーローが形象化し、チャンバラ映画によって映像で具象化したというわけだ。
 たんに面白いドラマを作り上げるために、現代ではなく遠い昔の時代設定を借りて芝居にする、ということならシェイクスピアをはじめ古今の歴史劇、時代劇にはよくあることだし、歌舞伎なども得意とするところである。しかし、「チャンバラ時代劇映画」はそういう歴史劇とは色合いが違うのである。ちょんまげを結い刀を振り回すサムライという男は、明治維新で消え去った幻影であり、人々はそこに何を見ようとしたのか?がここでの問題である。橋本さんの答えは、たとえば次のような言い方になる。

 「「もう、はやらない」という声がどこかから聞こえて来ると、誰に命令される訳でもなく、日本人の大多数がある方向に突進し始めるという、そういう落ち着きのなさが、明治からこちらの日本人の歴史の底流にはありました。
だから、日本人は「落ち着きたい」「のびのびとしたい」と思った時、さっさと自分の住んでる“現代”を捨てて、江戸時代へ行ったんです。そこだったら「もう、はやらない!」という声は聞こえて来る筈がありませんから。
それくらい、日本のこの百年は落ち着かない百年だったんです。だから“都会的”とか“現代的”というものは、いつも不安定で軽薄なものとしてとらえられて来たんです。日本に“都会的コメディー”というものが定着しないで、喜劇はみんな“人情喜劇”という昔ながらのものに落ち着いてしまったのはその為です。それくらい、この百年間の“現代”は面白いことが定着しにくいということは、ドラマが生まれにくいということですけれども。
ショッキングな事件が起こっても、それがドラマとして定着することはない――それ以前三百年以上も昔の元禄の事件が“忠臣蔵”というドラマになって今に残っている、にもかかわらずですよ。
この百年の間、圧倒的多数の日本人は、自分達のドラマを全部、江戸時代から持って来てたんです。「教養のない人だからそういうことをする」なんていう発言は勿論、バカのすることですね。誰に何と言われようと、“本音”というものは、存在するのなら揺るぎなく、存在するものなんですから。
 チャンバラ映画が存在していた日本というのは、実はそういう一面を持っていたんです。
 だから、昭和三十年代の日本人は“現代的な奥さんを持っている自分”というのを発見する為に、わざわざ江戸時代まで行ったんです。一心太助になって、自分の奥さんにお歯黒をやめさせたんです。
 多分、こういうことだと思います――江戸時代が明治以降もあったというのは、明治以降の日本人達が「あそこからやり直すんだとすると、自分はすごくスッキリと自分の人生に筋を通すことが出来るんだけどなァ」と思い続けていたからだ、と。言ってみれば、江戸時代というのは、もう帰ることが出来ない自分の子供時代のようなものだ、と。
 子供のまんまでいたら世の中にはついて行けないけれども、でも子供のときはそれなりに何かが満ち足りていた――あの時の状態がそのまんま素直に続いていたら自分はもう少しうまく落ち着いて何でもうまくやれていたんじゃないか、そう思わせるものが娯楽としての江戸時代、娯楽としてのチャンバラ映画だったんです。
 「たかが娯楽」と言われたってバカにしたものじゃない、そういう娯楽に接している時、日本人の圧倒的大多数は「今の自分のいる世の中はどっかおかしいところがある」と黙って言っていたということになるんですから。
 (中略)
 多くの日本人はこの百年の間、まだ、“魅力的な現代生活”“ちゃんとした自分の生き方”なんてものをつかまえられなかったから、チャンバラ映画を見て勉強していたのです。「ああすれば楽しくなる」「ああすれば正しくなれる」と!
 “通俗”ということのすごさを誰も知らないようですが、通俗こそは、そうした人達に向けての、人生の教科書ではあったのです(どうだ、チャンとした“講座”だろ!てな啖呵の一つでも切りましょうか?)。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.27. 

 そういわれると分からないではない。つまり、正面切っていえば「近代化」に晒された日本の百年を、非常にストレスフルな、いつも自分が古いファッションだと見られはしないか、時代に適応できない人間と見られはしまいかとオドオドするような精神状態を生きる日々を、江戸時代という別世界に飛ぶことで落ち着いて“学習”していた“通俗”の価値を発見するということだろう。それは成長を拒む子供の無意識の癒しみたいなものだろう。

 「明治維新になって江戸時代が終わった時――それはほとんど、進駐軍がやって来て“戦前”が終った時に等しいようなものですが――古い娯楽が駄目だということになった時、人々は“猟奇→正義”の娯楽として新聞を発見したということなんです。戦後の捕物帳ブームは、文明開化の新聞記事と同じ物語性を持っていた――つまり明治維新から昭和の三十年代まで、日本の大衆は“捕物帳的世界の完成”を待望していたということにもなるんです。
 明治維新になって江戸時代が終った時、日本人は多くのものをなくしました。歴史の本にはあんまりこんな書かれ方はしていませんが、実はそうです。明治維新になって日本人がなくした最大のものが何かというと、それは“物語”でした。これはある意味で、子供が大人になって行く時に子供時代の物語をなくして行くということに似ています――というより、おんなじです。
 明治四十三年というのは目玉の松ちゃん・尾上松之助が第一回主演作品『碁盤忠信』を撮った次の年ですが、この年、谷崎潤一郎の『刺青』が書かれています。耽美派谷崎潤一郎の名声を一躍高めた有名な作品ですが、それはこういう書き出しです――“其れはまだ人々が「愚」といふ貴い徳を持つて居て、世の中が今のやうに激しく軋み合わない時分であつた“
 谷崎潤一郎という明治生まれの青年にとって“幕末(旧幕時代)” というのはそういう時代だったのです。
“「愚」といふ貴い徳”が生きていた時代の“物語”がどんなものかということになります。一言で言ってしまいますと、これは、“武士”という自分達と関係のない人々が繰り広げる冒険物語、ファンタジー(幻想小説)でした。江戸時代(幕末)の“物語”といえば、草双紙・読本と呼ばれる小説と歌舞伎の二種類でしたが、それはどちらも同じでした。
 何某家の侍(又は若殿様)が何かの失敗をしでかして浪々の身となり、様々の体験をした結果元の身分に戻る。それに絡む町人というのも、実は元々何某家の御恩を受けたものとその血筋であるというように、様々に入り組んだ色々なエピソードが結局は“何某家の物語”という大きな枠組みに入りこんでしまうのが江戸の“物語”でした。前に出て来た弁天小僧だってそうで、彼は“小山判官”という武家の侍の行方不明になっていた息子という設定になっています。有名な『南総里見八犬伝』だって千葉の里見家の物語で、生まれも境遇も違う八犬士という若者はすべて、里見義実の息女伏姫の“息子”という訳です。
“物語”の対象は町人で、その“物語”の設定は全部自分達とは関係ない“上の方”のことで、そして“物語”の内容は現実離れのした冒険です。
 実際にあるかもしれないような事件、実際にあった事件だって、現実離れのした設定に投げ込んでしまえば、もっと華やかでワクワクしたものになる。到底ありそうもないデタラメな話だって、細部をもっともらしくして現実的に描いていけば、実際にあったように、あるように感じられる。それが江戸の“物語”でした。
‟物語”という娯楽を作り出し享受するのは町人であって、その“物語”の中にリアルな町人は出て来ても、それは絶対に自分達の“物語”ではない――それが江戸の“物語”という娯楽でした。
 関係のない物語だから、いくら深刻で暗い話になっても”娯楽”として楽しめる――それが江戸時代から続いている日本の娯楽の伝統なんです。江戸が終ってから出来上った“時代劇”という娯楽は、正に、自分達とは関係ない時代の物語ですからね。
 このことには色々と難しい社会背景というのもあるような気がします。と同時に、そういう難しい話は関係ないということもあります。
 娯楽というのは常に気軽に楽しめるものでなければならない、ということになったら、娯楽物語というのはいつだって気軽の他人事であるというのが“社会背景云々”を抜きにした、簡単な娯楽の本質です。
 難しい方の話をしますと、江戸時代、町人は生きる主体を武士に奪われていたから。自分達の“物語”を作れなかった、ということです。自分達の結局のところの人生は“町人”という枠組の中に収っていて、夢という素敵なものは“武士”という自分達とは関係のない世界にしかない――この“町人”を子供、“武士”を大人という言葉で置き換えれば、江戸の“物語”が子供の時にしか存在しない夢の物語だということがおわかりいただけると思います。
 世の中を預かるのは“武士(おとな)”です。“町人(こども)”は政治に関わることが出来ません。しかしその一点で“町人”はいくらでも無責任になれます。なにしろ、江戸時代の町人には所得税というものがなかったのですから。
 世の中は“武士(おとな)”とその使用人――つまり“農民”です――とで出来上がっていて「‟町人(こども)”は勝手に遊んでろ」というのが江戸の封建制だったのです。“封建制”というのはそもそもがヨーロッパ中世の制度ですから、それをそのまま日本に充てはめるとややこしくなりますが、領主と領民で出来上がっているのは同じです。領主が武士で、領民が農民です。当時の武士にとって世の中の構造というのはそれだけでした。士農工商という身分制度は、武士にとっての必要で上から決められて行ったもので、“工=職人”の必要性はまだ分るけれども、“商=町人”の必要性は、武士にはよく分らなかったのです。
 武士の食べ物は農民が作る。その他の生活必需品は職人が作る。それ以外の“商”というのには一体どういう意味があるのかよく分らないで町人が野放しにされていたのが江戸という時代だったのです。商業の重要性に着目した田沼意次が江戸の悪徳政治家の代表のように言われるのは、(武士から見れば)いかがわしい“商”と手を組もうとしたからなんですね。
 江戸時代の町人の扱われ方は、生活能力のない子供とおんなじです。武士が町人から金を借りていたのは、あれは正月の月給の前に懐が心細くなって子供のお年玉をあてにする大人の借金とおんなじなんです。生活能力のない町人(こども)がいくら金を持っていたって、それに税金をかけるなんてことは武士(おとな)の対面が許しません。“子供のお年玉”をあてに出来ない武士(おとな)だけが「武士は食わねど高楊枝」なんてことを言ってたんです。
 “町人(こども)”は“町人(こども)”のまんま野放しにされていたんだから、夢なんか見放題です。中には勿論“真面目な子供”だっていて「遊んじゃいけないんだよ!」と言って真面目に堅実な商いだけをして居たりもしましたが、子供のけじめなんていうのははかないものです。
 という訳で、江戸は町人文化の花盛りで、武士(おとな)はその遊びが目にあまると“おこごと”を口にして、町人(こども)は「はーい」で、当座だけおとなしくしていたというのが、「江戸のお触れは三日坊主」なんて言われるところですね。
 
 さて、それが明治になって崩れます。武士(おとな)と町人(こども)という差別がなくなったということは、子供はいつまでも子供のままでいてはいけないということです。ここでいう“子供”は勿論“江戸時代の遅れた日本人”で、“大人”とは“進んだ西洋人及び、そのことがよく分る日本人”です。文明開化とは「大人にならなくちゃいけない!」という号令でもあったのですね。文明開化が分らない人のことを「旧弊」と言ったのは「いつまでも子供っぽいのはダメだ!」ということに等しい、でもあるんです。
 という訳で日本人は“大人”になります。大人になると決定的にないのは“物語”です。それ以前の物語はみんな江戸の“「愚」といふ貴い徳”が支配していた子供の“物語”だったからです。
 何が分らないと言って、日本人は”大人の物語”が決定的に分りません。今までそんなものは日本になかったのですから。ここで言う“大人の物語”はとりあえず“夢物語ではない現実的な物語”ということにしておきましょう。
 何も分らないままとりあえず“大人”になってしまった大多数の日本人(こども)には、“大人”ということがどういうことかよく分りません。“現実的(リアル)”という言葉はまだ一般的ではありませんでしたが、その“リアル”がよく分りません。江戸の“物語”で“何某家の若殿”以外の人間が活躍する物語といったら、唯一、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の弥次さん喜多さんしかありませんでした。それが明治初めにいた唯一の“現実的(リアル)な人間”でした。
 勿論“心理”なんていうものもよく分りません。自由民権運動が始まっても、大多数の人には“自由”というのがどういうものだか分らない訳ですから、オッペケペー節なんていうものにして分りやすく歌って聞かせるということをしなければならなかったのです。
 これだけ分らないことだらけで不都合というものはなかったのかというと、実に、全くありませんでした。何故かというと、そんなこと知らなくたって、みんな“日本の大人”としてやっていけていたからです。日本の“大衆”というのが一向に物事に動じなくて、百年間ズーッと平気で時代劇に接し続けていて、インテリとか知識人に代表される“心ある人々”が日本の大衆の“無知”にイライラし続けていたのは実に、そういう訳でした。
 “大衆”とは、高級なことなんか分らなくても平気で、“大衆”が分ってしまえることにどんな高級なことが含まれていても、それが決して高くは評価されなかったというのはそういう背景があったからです。大衆は、揺るぎなく生活していて、色んなことを貪婪に分って行ってしまったんです。大衆が獲得していった教養――“通俗教養”と私が呼ぶものです――それは“面白い”という塀に囲まれた“学校”の中にありました。分りやすくいえば、「うん!」とうなずければ、それは全部“教養”として大衆の中に蓄積されて行ったということです。ここで言う”格調の高さの研究”とは、大衆が何を学んでいったのかという、そういう研究でもあります。」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.99-102. 

 西洋近代の「文明」に洗脳された明治のインテリは、日本の無知な人民大衆を啓蒙しようとして、「新しい演劇」や「新しい文芸」や「新しい芸術」をいろいろ工夫してやってみたのだが、結局それは一部の浮き上がったインテリ予備軍の愛玩物になっただけで、大多数の人民大衆は江戸時代に飛んで“通俗教養”を愉しみ揺蕩っていたという訳ね。まあ、そういわれればますます『チャンバラ時代劇』のもつ射程は広く深いことになる。しかし、本当にそうなのだろうか?「通俗娯楽論」だけでいくと、この「子供-大人」図式はどこまで妥当するのだろうか。

 「子供は夢と現実を無視して生きていますが、大人はそういう訳にいきません。現実と格闘して生きていますから、だから、現実の中にワクワク出来るようなことを発見するのなら、まず現実というものがどういうものかをはっきりさせることが必要です。
 真面目に生きることがあって、そして娯楽がある。そして真面目に生きるというのはどういうことなのかを考えなければ、いつだって現実に押し潰されてしまう危険性がある。だから、真面目に生きるというのはどういうことなのか、真面目に生きている自分はやっぱり正しい、そういうことを考えさせてくれるものは、やっぱり大人にとって娯楽なのです。大人が理屈っぽいのは、そういうことを嬉しがっているからですね。
 面倒なことはともかく、真面目に生きていることを考えさせてくれて感動させてくれる娯楽の典型を一つ挙げましょう。それが何かというと、ご存知の忠臣蔵です。これぐらい日本人にとって面白く、タメになる――勉強になる(なっていた)ものはないからです。
 忠臣蔵には、面白いという要素と、人生を考えさせてくれるからタメになるという要素と、歴史の勉強をさせてくれるから役に立つという要素の三つがあります(よく分ったようでよく分らない話です)。
 当たり前のようなこの三つの要素が、実は日本の近代の大衆というものの特殊性を説明しているのです。
 一つ、江戸時代には正式な歴史というものがありませんでした。
 二つ、大衆というものは、自分の人生に役に立たないものは面白いとは思えないという律義さを持っています。
 三つ、忠臣蔵には人生があります。
以上の三つが絡み合っているのが、明治から始まった忠臣蔵の歴史なんです。
 忠臣蔵が何かということを一言で言ってしまえば、それは“くやしさのドラマ”です。
 人間は現実生活の中で、一つや二つどころではなく“くやしさ”というものを持っています。どんなに温厚に見える人だって、その温厚さというのは“くやしさ”をごまかす技術を身につけているから可能だという訳で、決して「くやしい!」と思ったことがないという訳ではありません。人間は毎日毎日大過なく日常生活を送っていて、その中で“くやしさ”を爆発させてしまったら平穏な生活がその瞬間に破綻してしまう――だから“くやしさ”というものは我慢するしかない、というのが大人の知恵なのです。
 しかしこの忠臣蔵は違います。“くやしい”と思ったことが公然と爆発して、それが天下晴れて“義士”という形で賞め称えられたドラマだからです。
 忠臣蔵が忠君愛国のドラマだとか、日本精神の発露だとかいう御大層な話は、ほとんど全部嘘だと私は思っています。何故ならば、そういう御大層なお題目にストレートに反応する人間というのは、頭に血が上った世間知らずの“青年”(及びその延長線上にあるインテリというような人達)だけだからです。普通の人間は決してそんなものに反応しません。何故反応しないかというと、御大層な言葉というのは常に抽象的で、普通に生活している人間には一体それがなんのことだかよく分らないからです。分らない言葉に人間は反応出来ません――反応しようにも意味が分らないんですから。“滅私奉公”だの“七生報国“だの、言う方は分るんでしょうが、言われる方にはどういうことだかよく分りません。分らないから、どういうことかと訊くのです――それが大衆というものです。
」橋本治『完本チャンバラ時代劇講座』徳間書店1986、pp.104-105.

 このへんから、「大衆の原像」という、昔吉本隆明があれこれ議論されたテーマに行きそうになるが、話は「ゴッタ煮」を信条とする橋本治である。「忠臣蔵」が不滅の日本人の精神的原型であるなどという嘘はともかく、西洋文明の教科書からしか学べない優等生エリートの「俺についてこい!」路線に、「やってらんないよ」とダラける不良少年の気分が、「チャンバラ時代劇」のヒーローに紛れ込むいきさつは十分考慮に値する。



B.ほとぼりの醒める状況は6年くらいか?
 あの激烈な東日本大震災と福島原発事故の衝撃から1年ほどの間、ジャーナリズムも身近な日常生活でも、原子力のこれからを深刻に危惧する言説が巷に溢れ、原発停止を叫ぶデモは国会を取り巻いた。しかし、あれから8年。もう誰も正面切って原発の話をする人はいないし、次々再稼働する国内原発への抗議は、地元と一部野党の運動でしかないと報道も縮小している。でも、問題はなにも変わっていないどころか、深刻化している。

 「原発と人間の限界:制御できない技術 福島事故が暴いた「平和利用」の幻想 作家 高村薫
 原子力発電をめぐる平成の30年は、国内外の潮流が肯定と否定、推進と縮小もしくは撤退の二つの方向へ分かれ、ウラン濃縮や核兵器の拡散問題もはらみながら、世界に複雑なエネルギー地図を描きだした時代だった。
 1970年代の石油危機が推し進めた先進国の原発利用は、79年の米スリーマイル原発や86年の旧ソ連のチェルノブイリ原発、そして日本の東京電力福島第一原発の過酷事故を経て停滞へと転じ、安全面の不確実性とともに発電コストが大幅に上昇して、近年は新規の建設が困難になってきている。一方で、経済発展とともにエネルギー需要が高まっているアジアや中東では、原発の需要は依然として高い。
 また、原発の積極的な導入が一段落する一方で、地球温暖化の危機感が世界規模で共有され、化石燃料に代わって再生可能エネルギーの利用が飛躍的に拡大したのもこの時代だった。その結果、各国で進められる温暖化防止の取り組みが、CO2を出さない原発の位置づけをあらためて不透明にしており、将来的には廃止を目指すものの、既存の原発は当面使い続けるという国が大多数を占める。日本もそこに含まれる。
 これが2019年の世界の原発の大まかな現状である。将来的には確実に衰退すると言われる一方、撤退の難しさや、産業界の都合と国益の交錯からくる混沌とした状況は当面続くだろう。しかも、使用済核燃料の最終処分地という難題や発電コストの増大、ひとたび事故が起きた際の想像を絶する被害のリスクにもかかわらず、多くの国で原発がいまなお命脈を保ち続けている現実には、20世紀型の繁栄への拭いがたい執着も透けて見える。これは日本も同様である。
■           ■ 
 私たち日本人は、原子力については広島と長崎への原爆投下という唯一無二の歴史をもつ。その重い記憶の一方、戦後の復興期に語られた「原子力の平和利用」という言葉は、国と産業界と国民に強力な麻酔をかけ、1957年には茨木県東海村の第1号実験炉に初めて「原子の火」がともった。そうして日本は商業原発の建設へ踏み出したのだが、科学の進歩がそのまま人類の希望だった20世紀後半は、同時に大国が核実験を繰り返して核兵器が拡散した時代でもあった。そのなかで日本人がなぜ、核兵器の脅威と原発の夢をかくも都合よく切り離すことが出来たのか、私たちは今日に至るまで真剣に自問した形跡がない。
 とまれ日本の原発は、平成を迎えた89年には37基を数えるまでになった。その3年前にはチェルノブイリ原発で爆発事故が起きていたが、深刻な放射能汚染にさらされた欧州に比べて、地理的に遠い日本ではそてほど大きな騒ぎにはならなかった。
 それどころか、国は当時、日本の原発は多重防護のシステムが備わっているので、チェルノブイリのような事故は起こりえないと繰り返し説明し、日本の原発を世界一安全と信じ込んだのである。そんな安全神話が生まれた正確な過程はいまとなっては判然としないが、私たちの思考停止が、繁栄を謳歌していた社会の空気と軌を一にしていたのは確かである。
 もっとも、少し注意深く新聞を読んでいれば、定期検査での不正やデータ改ざん、ときどき発生する配管破断などの事故、地震による緊急停止など、「世界一安全」の内実に不安を覚える出来事がなかったわけではない。そこには、使う以上の燃料を生み出すとうたわれた高速増殖炉「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故や、93年の着工から一度も本格稼働していない青森県六ケ所村の核燃料再処理工場など、そもそも確かな技術的裏付けがあったのか、根本的な疑問が生じる事例も含まれる。
 原発は、設計・建設から運転まで、ある意味究極のアナログである。機械や列車と同じく人間がプログラムを組み、構造計算をし、データを検証し、一つ一つ点検・確認をして動かしてゆくのである。しかし人間がこの巨大なシステムを構築したとき、密閉された容器の中で起きる核分裂反応や、それに伴ってシステムの随所で間断なく発生する物理的・科学的反応のすべてを計算できたはずもない。「もんじゅ」の場合も、ヒューマンエラー以前に、高速中性子や液体金属ナトリウムの物理的振る舞いなど、技術者たちはそもそもいまだ完全に理解できていない世界に手を出したのではないのか。
■            ■ 
 平成の日本で、原発は当否以前の無関心にのみ込まれて日常の一部になった。そして2011年3月11日、東日本大震災が起きる。
 被災地でまさに生死のはざまに投げ込まれた数万、数十万の人々と違い、私のように遠く離れたところからテレビ中継を見つめることしかできなかった者にとっても、福島第一原発が刻々と崩壊してゆく時間は、一生消えない衝撃をこの心身に刻んだ。
 このとき私たちはそれぞれ多くのことを考えたが、とくにこの地震国で原発を利用することの無謀は間違いなく私たちの心身に刻み込まれたはずである。個々に価値観は違っても、事故直後に半径20㌔以内のすべての住民が、取るものも取りあえず退避させられた現地の映像を一目でも見たなら、人間の営みが消された風景の残酷さに悄然としないはずはない。廃墟と化した4基の原子炉と人間の消えた大地は、まさに「原子力の平和利用」の幻想の下から現れた極北の現実だと言ってよい。
 事故から8年経ったいまも汚染水の漏出は止まらず、原子炉の底から溶け落ちた核燃料はその姿をやっとカメラで確認した段階であって、取り出し作業の見通しも立っていないが、これは「想定外」の結果とは言えない。60年代に原発建設が始まったとき、国は20世紀末までに廃炉技術を確立すると約束したのだが、それがいまだ果たされていないのは、端的に技術的に困難だということだろう。小惑星に探査機を着陸させることは出来ても、高レベルの放射能に汚染された原子炉内で活動できるロボットさえ十分に実用化できないのは、原子力を前にした人間の、これが現時点での能力の限界ということなのだ。
■          ■ 
 さて、福島第一原発の事故は、世界の原発利用に一定のブレーキをかけたと同時に、太陽光や風力などの再生可能エネルギーの普及を大きく加速させた。では、当の日本はどうだったか。たとえば国のエネルギー基本計画を見てみよう。そこに定められた2030年度の電源構成は、再生可能エネルギーが22~24%、原子力が20~22%となっているが、原発の新規制基準に伴うコスト増や、40年を超えた原発の延命の困難などを考えると、原子力の比率の20%超という数字はおよそ現実味がない。一方、再エネの比率のほうは、2040年に全世界の発電量の40%に達するという国際エネルギー機関(IEA)の予測に比べて、明らかに低すぎる。
 これはもはや科学技術の問題ではなく、経済の話ですらない。電力会社を頂点とする産業界と、永田町と霞が関の利害が今なお不可分であり続けていることの帰結であり、三者がそれぞれ変革から逃げてもたれあった末の、成算のないなし崩しに過ぎない。そして国民もまた、長引く景気低迷と生活の厳しさに埋もれ、再び無関心にのみ込まれて今に至っているのである。
 とまれ、日本がこうして非常識な数字を並べている間に、世界では自然エネルギーへの投資と技術革新が飛躍的に進み、そのコストはすでに原子力の4分の1にまで下がっているとするデータもある。エネルギー分野で完全に世界の流れに乗り遅れた日本の現状は、今や人工知能(AI)や次世代通信5Gの技術が席巻する世界に日本企業の姿がないことと二重写しになる。
 この顛末は、ひとえに日本人の選択と投資の失敗の結果ではあるが、原子力の利用をめぐる不条理は日本だけの問題ではない。戦後、日本は広島と長崎の直接体験が重しとなって核兵器の保有には踏み出せなかったが、世界では核実験が地下にもぐり、さらにはコンピューター上のシミュレーションで間に合うようになって核の保有が拡大していった。現在、世界じゅうに1万4千発もある核弾頭や443基に上る原発は、原子力が人間の身体性を伴わなくなったことの帰結である。
 令和となったいま、その原子力を押しのけて、AIや5Gが人間の文明の頂点に君臨する。人間は日夜、モノとインターネットがつながったIoTやクラウドサービスを通してビッグデータと結びつき、世界中どこにいても、スマホ一台で生活のほとんどすべてのニーズが瞬時に解決する。そして、世界を覆いつくすそのサイバー空間の外に、人類がついに満足に制御することのできなかったアナログの原発と、行き場のない核のごみが取り残されているのである。これが今日私たちのたどり着いた地平である。
■          ■ 
 巨大地震が明日起きてもおかしくないこの地震国で、あえて法外なコストをかけて原発を稼働させ続ける人間の営みは、理性では説明がつかない。次に起きる過酷事故は確実に亡国の事態に直結するが、人間は最後まで自らの都合の悪い事実は見ない。冒頭に述べた世界の原発事情も、核兵器の拡散も地球温暖化も、そういう人間の不条理な本態と、度し難い欲望の写し絵であり、それだけのことだということもできる。
 仮に破滅的な事故を免れても、そう遠くない将来、使用済核燃料の一時保管すらできなくなり、廃炉の技術も費用も十分に確保できないまま、次々に耐用年数を超えた原発が各地に放置されることになるだろう。この途方もない負の遺産を、AIが片付けてくれることはない。片付ける意思を持つことができるのは人間だけだが、果たして身体性を失った人間にそんな意思がもてるだろうか。」朝日新聞2019年6月28日朝刊、15面オピニオン欄、新時代・令和。

 事故を起こした福島第一原発の最終的な安全処理には、おそらくこれから生まれて来る子どもが老齢者になるまで続く。いや、それでもこの負の遺産は解消などしないかもしれない。ぼくはこの時代に生きていた人間の責任として、この結末を見届けずにあの世に行くことを、若い人たちに申し訳ないと思う。そう言われても何の慰めにもならないが、せめてやるべきことを疎かにし続けている電力会社と日本政府に、抗議を伝えたい。
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