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中学生の青年将校だった・・かな?

2013-08-22 04:13:50 | 日記
A.クー・デタとリボルーション
 中学生の頃、知的に早熟な友人ができて、社会問題に関心をもつようになり、世の中を変えるとはどういうことか、自分なりに考えてみた。それで、世の中を支配しているのは時の政府だから、政府を取り換えれば世の中は変わるはずだ。では、政府を取り換えるにはどうすればいいか?武力をもって首相官邸、国会、与党本部、新聞社などを占拠し、要人を拘束して新しい政府に取り換えてしまう。そして、法秩序を一時停止して必要な改革をすみやかに実施する。ぼくはこの空想に夢中になって、計画を細かく書いた。
 ぼくは得意になってそれを友人に見せた。彼はそれを読んでちょっと驚いたようだったが、放課後に彼の家に行くと、高校に進んだいかにも秀才の先輩がいて一緒にアイスクリームを食べた。先輩は言った。「君の計画は面白いね。でも、これは革命じゃなくてただのクー・デタに過ぎない。世の中を根本的に変える革命は、ただ武力で政府を倒すだけじゃだめなんだ。世の中を成り立たせている経済、法律、それに文化・思想の構造をひっくり返すのが革命なんだよ」
 クー・デタという言葉をぼくは初めて知った。今から思えば、ぼくは2.26事件の青年将校と同じことを考えていたのだ。この世の中は汚れて間違った政治が支配している。だから、政府は取り替えられなければならない。武力さえあれば、それは可能だ。もしぼくが軍隊の指揮官であったら、首相官邸に乗り込んで政府高官を一網打尽に拘束して、新しい国家、新しい政府を作ることができる、という幼い妄想。でもそれは、クー・デタに過ぎない。そんなことをしても社会は実は変わらない。なるほど、そうかもしれないとぼくは納得した。
 明治維新は、たんなる薩長による徳川幕府打倒のクー・デタではなかった。鳥羽伏見の武力衝突から江戸城明け渡しだけならクー・デタだが、明治初年から太政官政府が行った社会の変革は、紆余曲折で中身は多分に滑稽なものでもあったが、やっぱり革命だったと思う。



B.廃仏毀釈の帰結は冗談ではあったが・・やっぱりそれは・・・
 話を廃仏毀釈に戻します。純粋イデオロギーを追求した水戸学と国学に由来する明治新政府の宗教政策は、キリスト教を背景とする西洋列強の威圧に、とりあえず開国を余儀なくされたにしても、攘夷思想は捨てたわけではない。そこでまず、神道を純粋化して仏教との習合を拒否し、廃仏毀釈路線に走ってみたものの、これでは近代国家のインテグレーションに資する国教には到底おぼつかない。そこで、既存の素朴神道、伝統仏教、怪しげな民間宗教、そして外来のキリスト教をひっくるめて、天皇制国家に利用する妥協路線に傾く。その場合、既存宗教諸派を天皇制国教宣布の手段先兵にするか、それとも既存宗教は国家に逆らわない限りで存在を認め、勝手次第にしておき、それとは別に国家宗教を伊勢神道を核に創作して、宗教から超然とした別格のものにする、という道が官幣社と靖国神社という形ですすんでいく。

「一九七一(明治四)年七月、廃藩置県が実施され、天皇を頂点とする中央集権国家としての近代天皇制国家の歩みが軌道に乗った。旧習一洗、文明開化をかかげて殖産興業、富国強兵をめざす政府首脳の間では、直線的な神道国教化政策を見直す機運が強まった。全国的に天皇崇拝と神社崇敬を徹底させ、国民を思想的に統一することは政府にとって急務であったが、キリスト教解禁が不可避となった段階を迎えて、むき出しの反仏教、反キリスト教意識で神道家、国学者が強引に主導する神道国教化政策は、はやくも時代から取り残されようとしていた。しかも、神祇官による大教宣布運動は、宣教使に儒者が多かったこともあって、迫力に欠け、実効が挙がらなかった。政府部内でも、地位のみ高くて管掌事項が極端に少ない神祇官は、しだいに無用の長物視されるようになった。
 廃藩置県翌月の八月八日、神祇官は、とくに理由を示されないまま、太政官管下の神祇省に格下げされた。古代のイメージを追いつづけていた神道家たちは、言いようのない挫折感に襲われた。」村上重良『天皇制国家と宗教』日本評論社、1986.Pp.56-57.

 明治四年にしてすでに、古代の神さまをそのまま復活させようとした試みは、政府によって愚かな冗談に過ぎないと認識された。日本が戦うべき相手は西洋文明であって、過去の亡霊に等しい伝統仏教や儒教ではない。キリスト教の布教が始まれば、単純素朴な祖先崇拝と自然信仰のアニミズムなど、あっという間に論破され洗脳されてしまう。もっと強力な国家宗教が必要だ、という危機感は明治政府の幹部だけでなく、新しい時代を生きるべき若い世代には自明のことだったろう。

「神祇省は、神祇官の職掌を受けついだのみで、政府部内で「昼寝官」と悪口を言われるほど動きがないまま、七か月余を経た一八七二(明治五)年三月一四日に廃止され、かわって宣教をつかさどる教部省が新設された。神祇省の廃止によって、官制上の祭政一致は、わずか四年余で姿を消した。これにともない四月二日、旧神祇省の祭事祀典は太政官の式部省に移された。(中略)しかし、政府が官制上の祭政一致をなげうってまで、教部省を新設した主目的は、一元的な宗教行政官衙の設置にあるのではなかった。政府は、神道中心の大教宣布運動を一新し、神道、仏教、民間宗教を挙げての国民教化運動へと発展させるために、前年七月に設置された学校教育を担当する文部省とならぶ国民教化の中央官衙として、教部省を新設したのである。護国の仏教として地歩回復の機をうかがう仏教側も、教部省の設置をつよく要望し、政府要路と密接な浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、政府にその設置を建議していた。(中略)
 国民教化の展開をめざす教部省は、設置の翌四月、宣教使を廃して教導職を置き、同月二八日、教化の規準として、つぎの「三条の教則」を教導職に達した。
「第一条 敬神愛国の旨を体すべき事。
「第二条 天理人道を明らかにすべき事。
「第三条 皇上を奉戴し、朝旨を順守せしむべき事。」
 この教則を、神道界では「三条の教憲」と呼んだが、その主眼は、敬神愛国と天皇崇拝を全国民に教え込み、朝旨、すなわち天皇の命令への絶対服従を徹底させることにあった。」村上重良『同書』pp.57-59.

 「三条の教則」が、明治の日本人民にとって、上から下されるご託宣、しかもそれを説くのは昨日まで神社やお寺で安穏に儀式をやっていただけの神官や僧侶だったのだから、これも冗談みたいな話である。でも、神官や僧侶にとっては冗談ではない。新政府の方針に逆らうことなど考えもしないし、もはや宗教や信仰などという以前に、社会の激烈な変革を生き延びることだけが重要だったのだ。

「この間の九月、教部省は大中小教院と神宮教院の設置を決定し、仏教側の構想を斥けて、大教院を神宮教導職も参加する神仏合併の宣教機関とすることとした。一一月、麹町の大教院は開院式を行い、翌一八七二(明治六)年一月、芝の増上寺源流院に移転した。教部省は、増上寺に命じて、その大殿を下附金一〇〇〇円で大教院に献上させ、二月五日、増上寺本堂で改めて開院式の神祭が営まれた。本堂にあった本尊の阿弥陀仏は撤去され、内陣中央にアメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの造化三神と天照大神を奉斎して、三つの神鏡を安置し幣三本を立てた。山門の前には鳥居を新設し、山門正面には「大教院」と浮彫にして金箔を置いた額を掲げ、楼上の十六羅漢は倉庫に片付け、かわりに各宗の祖師の像を置いた。(中略)
神前の八足机には魚鳥野菜を盛り、神官につづいて僧侶も神饌をささげ、柏手をうって礼拝した。こうして、神官と僧侶が神勤の奉仕をし、ともに「三条の教則」を説教する神仏合併布教が全国的に行われることになり、明治維新当初の神仏分離は、わずか五年余で逆転した。」村上重良『同書』pp.61-62.

 こんなことが現実にあったことすら、ぼくらは知らない。しかし、結果から言えば、仏教はこの危機を国家護持という論理で盛り返した。何しろ日本では、仏教僧侶の勢力は物理的にも思想的にも、神官などを圧倒していたのは事実だったから。しかし、仏教にとってもこの明治維新の変革は、宗教の根幹にかかわる厳しい自覚を促したはずだ。何より仏教は、出家者の自己陶冶、修行と戒律こそブッダの道なのだから。

「こうして、神仏合併布教による各級教院の活動は、形の上では整ったが、寺院に神を祀り、円頂黒衣の僧尼が柏手をうって神を拝する光景は、不自然という以上に珍妙であった。教部省は神道が主導する神仏合併布教によって、神道、仏教、民間の諸宗教を挙げて国民教化に動員する方針であったが、神仏合併布教に内在する矛盾は、その出発点から、蔽うべくもなかった。
 一八七二(明治五)年一二月、ヨーロッパ留学中の西本願寺の僧島地黙雷は、パリから政府に建白書を送り、「三条の教則」と神仏合併布教を正面から理論的に批判した。島地は周防国(山口県)の浄土真宗寺院に生まれ、明治維新後、西本願寺の参政となり、西本願寺の第一回留学生として岩倉具視一行のアメリカ・ヨーロッパ訪問に随行して渡欧した。島地ら留学生四名は、ヨーロッパ諸国の宗教事情を視察し、信教の自由、政教分離の近代社会を実見して深い感銘を受けた。
 島地は、建白書で「三条の教則」を批判し、「敬神愛国」の敬神は万国普遍の教(宗教)であり、愛国は一国の政(政治)であって、政教を混同するものであると指摘し、政教の混同は信教の自由を脅かし、愛国心をも損なうと論じた。さらに島地は、神仏合併布教を批判し、「此の頃、政府新たに彼此(神道と仏教)を採合し、更に一宗を造製し、以て之を人民に強ゆ。顛倒の甚だしきと言うべし」と述べて、教部省による国民教化運動の本質が、新しい国教を人為的につくろうとするものであることを衝いた。
 島地の建白書は、神仏合併布教の矛盾を理論的に追及することで、仏教側の抵抗を結集する烽火となった。翌一八七三(明治六)年七月、島地は帰国し、その奔走で、一年半を経て真宗四派による大教院脱退が実現することになった。」村上重良『同書』pp.64-65.

 近代の論理である、政教分離、信仰は個人の心の問題である、という原則は、明治維新の革命を進める中で、ふらふらしながら確立していった、とすれば、これも島地をはじめとする明治の先人のお蔭というしかない。政治が宗教に介入するべきではない、という論理は西洋のキリスト教内部の血を血で洗う悲惨な闘争への反省に発する。それを、明治政府はいとも簡単に、ほとんど無節操と思える理由で、次々に革命的な布告を発していった。これが世の中を変えてしまったというのも、歴史の皮肉だな。

 「一八七二(明治五)年三月二七日には、政府はつぎの布告で、神社寺院の女人禁制を廃止した。「神社仏閣の地にて、女人結界の場所之あり候処、自今廃止せられ候条、登山参詣等、勝手たるべき事」。
 この布告は、宗教上の理由からではなく、きわめて世俗的な、外国婦人の女人禁制地への立入り問題に端を発していた。同年三月一五日、滋賀県は、大蔵省につぎのような伺いを出した。京都博覧会にあたり、京都府は外国人の入京と琵琶湖遊覧を許すことになったが、滋賀県としては、外国人が婦人同伴で眺望のよい比叡山に登山を望んだ場合、男女の区別なく許可したい。しかし、比叡山延暦寺山上は、古来、女人禁制であり、外国婦人のみに立入りを許し、日本人の婦人には許さないのでは、内外彼我を区別して公平でなくなり、さまざまな異説を生ずるであろうから、この機会に、女人禁制を廃して登山を許したいので指図をしていただきたい、云々。(中略)
 女人禁制廃止の翌四月二五日、太政官は、仏教界にとって衝撃的なつぎの布告を発した。
「自今、僧侶、肉食、妻帯、蓄髪等、勝手たるべき事。但し、法用の外は人民一般の服を着用、苦しからず候事。」
 仏教では、出家者には不淫戒があり、律令の僧尼令では、肉食とともにこれを禁じていた。江戸時代には、非僧非俗の一向宗(真宗)を除く各宗の僧侶は、表向き妻帯を許されていなかった。この布告は、同年八月の僧官廃止の布告と同じく、江戸時代の宗教法制の廃止措置という性格をもっていたが、信仰の根幹にかかわる戒律の問題に踏み込んでいただけに、その影響は深刻であった。つづいて太政官は、九月、僧侶に苗字を称することを命じたが、この布告も、本来、出家者である僧侶のあり方を無視するものとして、仏教界の反発を招き、硬骨の僧侶は「禿」「禿氏」等の苗字を選んで抵抗の意思表示をした。また教部省は、同月、僧侶の托鉢を禁止し、翌年四月には、日蓮宗徒の打鼓、喧騒、群行を禁ずるなど、政府の干渉は、ながい伝統をもつ仏教の修行じたいにも及んだ。翌一八七三(明治六)年1月二二日、太政官は。さきの肉食妻帯の布告が尼僧に触れていないことから、比丘尼の蓄髪、肉食、縁付、帰俗等を勝手たらしめるむねを達した。」村上重良『同書』pp.75-77.
 
 島地黙雷についてはよく知らなかったけれども、一向宗と称する他なかった浄土真宗の、明治初年の危機対応については、もっと調べてみたいと思う。
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