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男優列伝Ⅳ 加藤剛2  森と友?安倍と友?

2017-03-17 14:22:56 | 日記
A.男優列伝Ⅳ 加藤剛2
 私事から始めてしまうのだが、ぼくの父は1945年8月に戦争が終わった時、陸軍一等兵として本土決戦のために前橋で砲兵隊にいた人である。いわゆるポツダム上等兵。つまり、満州や中国には行かなかったが戦争末期の日本陸軍を知識としてではなく身体で知っていた。その父が、やっと自宅にも購入さればかりのテレビで、1962年10月から半年間放映された『人間の條件』という連続ドラマを毎週、母と欠かさず見ていた。まだモノクロ画像だが、冒頭にロダンの彫刻「接吻」が回ってタイトルが出るので、小学生のぼくは裸体の男女がキスしているというだけでやけに刺戟的だったのを覚えている。主人公の梶という男を演じていたのは、無名の俳優、加藤剛だった。父と母が熱心に見ていたのは、これが「あの戦争」を描いていたからだ、ということは分かったが、軍隊の中のいじめや体罰はひどく残酷で父はただ黙って見ていた。母は中国や満州で日本がこんなことをやっていたなんて、全然知らなかったと繰り返していた。
  子どものぼくには戦争時代の話はよくわからず、夜10時からのシリアスなドラマを、子どもはもう寝なさいと言われながら、ひとつの部屋しかなかったので寝たふりをして最後まで見ていた。中学生になって映画版の『人間の條件』(小林正樹監督)を連続上映で観たときは、歴史の知識が少しはついたので非常に刺激的な物語が、現実の歴史だったことを知って衝撃を受けた。そういえば、家の洋服ダンスの上に五味川純平著『人間の條件』が全巻並んでいるのに気がついた。手に取ってみたが、難しそうで読まなかった。もっと後で、やはりテレビでもう一回『人間の條件』が連続ドラマになったときは、大学生くらいになっていたから、全部見ていた。主人公梶は松平健で、女優陣は当時日活ロマンポルノに出ていた人が多かったように思う。
  『人間の條件』は、戦争の記憶がある人にとってはあの時代の再確認、そして戦後に生まれ育った人にとってはあの戦争とは何であったかを、具体的なドラマとして知る最大の機会だったと思う。戦争文学といわれるものは戦後さまざま書かれたが、左翼的な反戦小説は日本軍と天皇制は批判してもソ連や中国は批判せず、逆に右翼的な戦争小説はただ単純に特攻隊を英雄視したり、戦争を美化したりして、戦争でひどい目に遭ったと思った大多数の人々の共感は得られなかった。それらに対して、五味川純平『人間の條件』が広く国民の心に響いたとすれば、それは梶という国家と軍隊に個人として徹底的に抗うやや超人的な主人公を通じて、あの戦争の本質を描き出したからだと思う。とくに、日本陸軍の内務班の日常は栄光の皇軍とは名ばかりの、人間のエゴイズムと権威主義と集団同調圧力の修羅場だったことを、軍隊を知らない戦後の人々に強く印象付けた。
  加藤剛のTV版『人間の條件』はいま見ることが難しいらしく、それより先に製作された映画版『人間の條件』はぼくは5回は通しで見ているので、やはり主人公の梶のイメージは、なにより仲代達也という俳優と重なって見える。しかし、ここでは加藤剛さんの話なので、仲代版『人間の條件』はお預けにする。知らない人もあるだろうから、この話の概要を書いておく。
   日本が中国大陸で戦争をしていた時代、大学を出て愛する恋人と結婚した青年梶は、この戦争に疑問を持ち、妻を愛するが故に、招集免除を条件とする満州の鉱山の労務係に就職する。そこは反日運動の嫌疑で囚われた中国人を隔離して労働者として働かせる職場だった。彼の仕事は、その中国人の労務管理なのだが、中国人を人間として扱い労働条件の改善を求める梶に、会社や陸軍は反抗的な不良左翼とみて彼を軍隊に送り込む。満州の陸軍に入隊した梶は、初年兵として過酷ないじめに晒されるが、抜群の体力と不屈の意志でこれを乗り越えるが、やがて戦争は米英との世界戦争になり、梶は最前線に送られて後輩の初年兵の面倒を見る立場になる。昭和20年夏、ソ連と向き合う戦場で、ついに日本軍はソ連の戦車に踏みにじられ、軍は崩壊するなかで、難民化した日本人たちと一緒に梶とその部下は南へ向かうが、ある村で住民を助けようとして逆にソ連軍につかまり、シベリア送りになる。極寒のシベリアの収容所で、過酷な労働を強いられて仲間が死んでいく中で、梶は独り脱走を試み、妻の元へ帰ろうと果てしない雪の荒野を歩く。そしてついに力尽きて倒れ、彼の上に雪が降り積もる。

 「一九六〇年。私の「俳優ゼロ歳」の年号だから忘れられない。安保反対の怒涛が国会議事堂の円柱を激しく叩く中での安保自然承認。どこか深いところで日本の地すべりがはじまっていた。私は叫びたかった。セリフがなくても、若者はいつも叫べるのだ。
この翌年である。やはり何か叫ばずにはいられない熱い心の人たちと出会ったのは。テレビ映画の草分けとなった『人間の條件』全二十六時間のフィルムのスタッフである。
国民的規模で愛読された全六冊の普及版、五味川純平先生の、あの原作。もちろん私も学生時代、読破に夜を徹した。戦争という極限状態の中で、自己の良心と生命を守るために一生を苦しみ続けた男の魂の遍歴の記録である。
 「歴史の事実はフィクションよりも遥かに複雑で、ドラマチックである。それはそのわけなのだ、無数の人間が長い時間をかけて織りなす壮大な社会劇なのだから。そういう歴史を前にしては、虚構という手法に拠らなければ、とても真実の門口に近づくことができるものではない」
と、五味川先生は一九五六年、この作品の「まえがき」に書かれた。
 一九六一年。この優れた大いなる「虚構」は、もう一つの虚構、レンズと重なり、さらに演ずる人間、という虚構と重なりあうべく、クランクインの日を待っていた。
苦しむことなしには銃をとりえなかった男たちすべてを仮に主人公「梶」の名で呼ぶなら、「梶」に顔を与えることは大きな冒険であっただろう。だからまだ「顔」を持たぬ男を求めてスタッフは足を棒にしていたのだ。既成スターでない俳優人選が熱心に進められていた。
  この作品のもう一つの柱となる主要な役、梶の学友「影山」。反戦の思い胸に深くたたみ、あえて士官候補生の道を選ぶ。かたや二等兵として徴兵される梶。二人はやがて戦場で指揮官と一兵士として再会、最後の戦闘を前に永訣の握手を交わすのだ。「この二人はぜひ新人で」と、阿部毅監督は構想を示されたという。
 そして同じ俳優座の中野誠也と私が最終候補に残った。さてどちらを梶にどちらを影山に、か。正直いって私は結果はどちらでもよかった。初仕事で、中野と親友役ができることが無性に嬉しかった。おそらく彼も同じだったろう。早稲田の演劇科でともに机を並べ、学内劇団「自由舞台」にも同時に参加した間柄である。
  プロ俳優を志す決心を私より早く固めた彼は、すっぱりと大学を捨てたので、残った私だけがモタモタと卒業した。だから遅れて入った俳優座養成所では彼は二年上の十期生で、兵隊の位でいえば二階級上官となる。その彼を、入所試験にやっとパスしたばかりの新参の私が交差点のこちらから「おい、中野!」と大声で呼んだので、上級生がびっくりして目をむいたらしい。彼が「おう!」と答えて破顔一笑、私たちのつきあいはまた始まった。「梶」と「影山」の関係は、もう役の外で始まっていたのである。若いという以外何の手だてもない丸腰素手の俳優志願兵たちによって、社会への怒りも一つの武器であった。私たちは見えない武器を心にたずさえて、撮影所の門をくぐることになる。ともかくも私の梶役でカメラはまわり始め、酷暑極寒をついて一年間まわり続けた。

  梶の三年をぼくは一年で生きねばならぬ。もし、できることがあるとすればたぶんぼくという裸身の素材にこの男の一生を忠実に刻みこんでゆくことであった。それは自分の肉体の上に、一種ドキュメント的な作業を試みることだったかもしれない。
梶が入営するとき、ぼくも髪を切ったし、梶が敗残兵として密林をさまようとき、ぼくの顔も髭におおわれた。      (『海と薔薇と猫と』より)

  新兵日課の開始。撮影は即「軍事教練」でもある。スタッフ、キャストの結束は炎のようであった。敗戦の日を幼子で迎え、戦争責任を追及されるには幼すぎた私の「戦争体験」が始まる。この年が私の「俳優元年」となった。」加藤剛『こんな美しい夜明け』岩波現代文庫、2008.pp.96-99.

 1962年10月から翌年4月まで毎週月曜、26回連続で放映された『人間の條件』で、主人公梶の妻美千子を演じた藤由紀子は、この作品への出演を強く希望して所属先の松竹との関係がこじれ、一時は五社協定を盾に松竹が藤を芸能界から追放する動きまで出たが、なんとか円満に1962年4月に退社、大映に入社し出演にこぎつけたという。後に藤由紀子は大映で田宮二郎と出会い引退、結婚。「今までの常識にはなかった余裕のある製作時日、製作費が惜しみなく投入されたのは目をみはる事件だった。また、阿部毅演出には、映画の小林正樹演出に対置するテレビ手法を心がけようとする意欲と冷静さが見られた。それは、梶の人間像をあくまでも生活的に捉えようとした今日性に表れている。もっとも、構成の計算の狂い、ズームの乱用、ロダンのベーゼの扱いの甘さ、脇役キャストの弱さ、は大いに不満である。【この項、ソノレコード刊「テレビドラマ」1963/05月号掲載「国産テレビフィルムの諸問題」(文・山下盛市)よりの引用】」
  このドラマは斜陽期に入りつつあった映画界がテレビ映画制作に活路を開こうとしたドラマでもあった。大映テレビ室は放送局が決まらない段階でパイロット版として第1回および第2回の一部を自発的に制作し、フジテレビとTBSに見せて、双方で受注額を競争させ、結果的に220万円という、当時としては破格の受注額でTBSに落札された。このドラマの放送権はTBSからさらに欧州にも売られたという。小林正樹監督・仲代達也主演の劇場映画版は、1959年の第1部・2部から1959年の第3部・4部、1961年の第5部・6部の三本で完結していたから、このテレビ版は当然映画を意識しつつ、1時間×26回という映画3本分より3倍近い時間を使えることと、経験の浅い無名の俳優を使って違いを出そうとしたのだろう。
 敗戦から15年以上が経ち、大人たちはみな戦争を体験していたし、生活が落ち着いてもう一度あの戦争がどういうものだったか、考える余裕が出てきた時期だったともいえる。たった一人で理不尽な国家や軍隊に決して屈しようとしない梶のような人間が、ほんとうにいたのか?作者の経験をもとにしているとはいっても、これはやはり理想化されたフィクションではないか?そう思いつつも、あの時代にこんな日本人がいたと思うことは、イデオロギーや歴史観を超えて、戦争の犠牲を癒し過去をとらえ直す作品として、人々は『人間の條件』を観ていたのだろうと思う。
  若い加藤剛がこれを演じたことは、俳優として何の実績もない彼が、一気に世間に知られただけでなく、60年安保闘争から一転し高度経済成長へまい進する日本の変化に、きまじめな「正義漢」像を演じていく出発点になった。
 


B.このスキャンダルは、どこへ行くのか?
 「森友学園」問題は、大阪の幼稚園が安倍首相夫人を名誉園長にいただき、幼児に「教育勅語」を暗記させる変な学校法人があることは一部に知られていて、最初はそこが小学校を開設するという所から、その建設地が国有地の払い下げ、いや借地という破格の優遇を受けている、という疑惑だった。それだけなら、なにやら怪しい理事長が、安倍晋三の名を利用して学校を作ろうとした三面記事で終るはずだった。ところが、勝手に名前を使われて迷惑だと被害者のような言い訳で、事が済むと思ったら、値下げした土地の金額は莫大だし、どうやら大阪府や財務省や、関係省庁の幹部が関与している可能性が出てきて、なんと現職防衛大臣もこの件に弁護士として関与していたらしい、という疑惑が出てくる。さらに、当の理事長が自分だけ「とかげのしっぽ切り」に遭うのは許せんとブチ切れて、洗いざらい真相をばらせば内閣は吹っ飛ぶと言い始めた。

 「籠池理事長を最も怒らせているのが、稲田朋美防衛相だ。ブチ切れるのも無理はない。
「10年前から会っていない」「法律相談は受けていない」「裁判に出廷したことはない」――。弁護士時代の籠池氏との関係について、息を吐くように噓をつき続け、証拠を突き付けられると、「夫の代わりに出廷したことを確認できた」「記憶に基づいて答弁をしたものであって、虚偽の答弁をした認識はない」とこの期に及んで居直る。
 菅野氏は「人として美しくない」とバッサリだったが、この稲田の言い訳も限りなく「大噓」に近い。
 弁護士の小口幸人氏がこう言う。
「『夫の代わり』というのは疑問です。夫の龍示氏が本来の担当なら、第1回の口頭弁論に本人が出廷しないのは不可解です。なぜなら第1回の期日は、裁判所が必ず原告の訴訟代理人と日程を調整して決まります。原告の代理人が日程が合わずに出廷できないなんて通常あり得ません。しかも、04年に森友学園と顧問契約を結んで最初の訴訟です。他の弁護士に任せるような失礼なことをするでしょうか」
 しかも籠池氏は、稲田とは父親の代から家族ぐるみの付き合いのようだ。父親の椿原康夫氏(昨年10月に死去)は元高校教諭で、京都のヘイト団体「頑張れ日本!全国行動委員会」の代表も務めた根っからの極右思想の持ち主。関西保守系では有名人だった。12日に動画サイトに公開された菅野氏とのインタビューで、籠池氏はこう語っていた。
「教育関係の人間ですから、お嬢さん(稲田大臣)より、椿原泰夫先生の方が昵懇だった。ある時期までは」
 籠池氏に「お嬢さん」と呼ばれる稲田。弁護士や政治家としてやってこられたのも、父親や籠池氏の“助け”があってこそではないのか。まるで汚物を振り払うかのように‟旧恩の人”を突き放す卑劣な態度は、大臣の資質ウンヌン以前に、人間失格だ。」日刊ゲンダイ2017年3月17日2面。

「もう一人の‟黒幕“も忘れてはいけない。菅野氏に「森友問題の発端をつくったのは、この男」と名指しされた迫田英典国税庁長官である。昨年3月、籠池氏が国有地の買い入れ要望を提出した当時、財務省理財局長として、国有財産の売買を決済する重要ポストに就いていた。
 近畿財務局が問題の国有地を8億円引きのディスカウント価格で、森友側に売却したのは昨年6月20日。迫田氏が国税庁長官に“栄転”したのは、その3日前だ。国有地売却の事実上の決裁者は、迫田氏と見なすのが妥当である。
 迫田氏は一昨年の人事で、82年入省同期の福田淳一氏が次期事務次官最有力ポストの主計局長に就くまで、福田氏と次期次官レースを争っていた。国有地払い下げの手続きが着々と進められた時期とちょうど重なる。
 また、消費税増税が宿願の財務省にとって、手続きが進んだ2014~16年は過去に例がないほど“惨敗”続き。安倍首相はこの間、増税時期を2度延期した。
「経産省出身の今井尚哉首相秘書官が、菅官房長官と一緒に官邸を牛耳る安倍政権は“経産相政権”と揶揄されるほど。当初、売却額さえ非公開にし、破格の激安価格で国有地を払い下げた過程は異例続き。前例踏襲が習性の官僚機構としては、あまりにも不自然なプロセスは、“財務省の組織をあげた巻き返し”と考えれば腑に落ちます。首相夫人が名誉校長を務める学校法人に便宜を図って、政権に恩を売る意思が働いた可能性は十分にあり得ます」(五十嵐仁氏=前出)
 真相究明には松井知事と迫田氏、黒幕二人の参考人招致が不可欠だ。」日刊ゲンダイ、2017年3月17日2面。

 ことの真相はまだ闇の中にあるが、ぼくたちがこの騒動を知れば知るほど、この国の政治が、表向き目指してきた「日本を立て直す」「美しい国」、既成緩和や金融政策で経済成長を達成すれば、貧困も格差も克服する豊かさが取り戻せるという言葉の中身が、どういうものなのかを気づきはじめたということだろう。日本に限らず、いろいろな政策手段を尽くしても成長率は高まらず、消費は伸びず、過大な債務や脆弱な金融システムのリスクは高まり、世界は行き詰っている。多くの国が保護主義に走り、移民や特定の外国人に敵意を向ける排外主義もはびこる。国民の多くは、将来への不安と日々の生活の緊張に疲れ、政治への不満はなにかきっかけがあれば噴き出す。
 森友問題は、もしかすると安倍政権が親密にしていた極右勢力の人脈から、墓穴を掘るのかもしれない。これは、予想外の事態だったが、韓国の大統領罷免を笑ってはいられなくなった。
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