A.猥褻をめぐる作為
以前、橋爪大三郎の「猥褻という観念をもちうるのは人間だけなのはなぜか」という議論にこのブログで触れたことがあった。なぜ人のみが猥褻を恥だと感じるのか?というのは社会哲学的に興味あるテーマであるのだが、性的行為自体は、他の動物と基本的には同じ生殖行為に過ぎない。ただ人間だけが性的行為を特別なものとして隠そうとしたり、逆に見せびらかそうとしたりする。性的行為への衝動を、心理的次元も含む規範への逸脱侵犯として禁止しながら、ある閾値の範囲内では美的な価値、精神的な充足として許容する。だから、同じ生殖行為の延長としての男女のセックスが、ある場合は野蛮な暴力として糾弾され、ある場合は望ましい幸福の絶頂として祝福されさえする。
月並みな無意識からすれば、男の性的欲望を刺激する女性の身体部分を拡大するポルノやエロ、つまり物象化した性的局部をことさらに商品化するのは馬鹿げているが、男とはそういう愚劣な本質を有するのだ、という通俗的常識に陥る。他方で、女性にとっての性とは、結局子を産む生殖でしかないのかといえば、猥褻概念とは対極ではあるが、ヒトとしての女は「産む性」だけに甘んじることはできない。生命の全的解放と充足において性を男以上に味わうのか、あるいは拒否するのか、いずれにせよ自己決定権を重視するなら、権力闘争は必然だ。
そういうことを考えていたら、ある三面記事が目に入った。
「ホテルで女子高生とわいせつ行為 容疑の高校教諭逮捕/川越署
埼玉新聞 12月4日(木)23時19分配信 (http//:headlines yahooより) 川越署は4日、県青少年健全育成条例違反容疑で、越谷市、県立杉戸高校教諭の男(29)を逮捕した。男は「間違いありません」と容疑を認めている。
逮捕容疑は、10月21日午後6時ごろから同9時ごろまでの間、川越市内のホテルで、川越市、県立高校の女子生徒(17)が18歳未満と知りながら、わいせつな行為をした疑い。
同署によると、男と女子生徒は9月ごろ、ツイッターで知り合い、ラインで連絡を取り合ったり、数回会うなど交際していた。2人の関係がこじれたことから女子生徒が父親に相談。10月下旬ごろ、父親と女子生徒の2人が同署に被害を届け出た。
同高校によると、男は臨時教員を経て2011年4月に県教委に採用され、同校に国語教諭として赴任。授業や補習に積極的に取り組むなど、真面目な勤務態度だったという。
同校の益子篤行校長は「不祥事防止について日頃から職員に指導しており、事件は誠に残念。今後も学校を挙げて不祥事防止に取り組みたい」としている。」
この事件を構成する通常の論理は、青少年を健全に育成すべき高校教諭ともあろう者が、18歳未満と知りながら女子高生とホテルでわいせつ行為に及んだ、などというのはけしからぬ行為であり、逮捕され処罰されて当然である、ということになるだろう。この教師の行為は、報道の限りでみれば、金銭を介した買春ではなく、少なくとも彼にとっての主観では、恋愛の延長と思っていただろう。彼が教師であってもなくても、問われる問題は18歳未満の女性を本人の意思を無視して、「猥褻」行為を強要したかどうかにある。そのとき彼女がそれを「猥褻」行為だと感じていたとすれば、犯罪が成立する。彼はそのとき、彼女がホテルの部屋についてきた以上、これは「猥褻」行為ではなく恋愛に伴う愛情の交換だと考えていたのだろう。
法律的な判断は置いておいて、「わいせつ行為」とは具体的に彼女のどこに触ったかという事実の話ではなく、なにを「猥褻」と彼女が感じていたかという観念的人間的な問題なのだ。
B.60年安保というレジェンド
演劇の話はそろそろ終わりにしようかと思って、もう一度扇田昭彦の『日本の現代演劇』をめくり返したら、はじめの一文がひっかかった。戦前からの西洋近代演劇の伝統を引き継ぐ「新劇」は、ついに独自の方法と思想に立つ「戦後演劇」を築けなかったという。救いようもなくダメな「新劇」を否定する運動として、60年代小劇場運動が出てくる、という筋書きだ。
「一九六〇年代は、「状況劇場」「早稲田小劇場」「天井桟敷」などの小劇場系の若手劇団が数多く誕生し、新劇をはじめとする既成演劇に反旗をひるがえして、現代劇の新しいかたちを模索しはじめた時代だった。
この小劇場演劇は当時のジャーナリズムによってしばしばアンダーグラウンド演劇、略してアングラ演劇と呼ばれた。それは小劇場演劇の上演に地下の小劇場、例えば西麻布の「アンダーグラウンド自由劇場」、新宿の「アンダーグラウンド蠍座」などが使われたせいでもあるが、それ以上に小劇場演劇が当時、新劇などの正統の演劇に対する異端の演劇として見られていたためである。どこかいかがわしい芝居というニュアンスが「アングラ」という用語にはあった。だから、小劇場の演劇人たちが自分たちを「アングラ」と呼んだことはほとんどない。
それまでは日本で現代劇と言えば、「文学座」、「俳優座」、「民芸」などの大手劇団に代表される新劇のことだった。新劇は明治時代に、ヨーロッパ演劇の影響を受け、能、文楽、歌舞伎などの伝統演劇とは違う、商業演劇に属さない日本の近代演劇をめざして誕生した演劇の分野である。
左翼的なイデオロギーの影響が強かった新劇は、第二次大戦が迫るにつれて厳しく弾圧され、多くの新劇人が逮捕されて転向を強制されたり、戦争中は戦意高揚のための軍事劇に駆り出されたりした。
戦後、抑圧から解放された新劇は隆盛だった。杉村春子、中村伸郎らの文学座、千田是也、小沢栄太郎、東野英次郎らの俳優座、宇野重吉、滝沢修らの民芸、山本安英を中心とする「ぶどうの会」など、戦前からの新劇人が率いる劇団が活発な公演活動をつづけた。一九五〇年代には「青年座」、「仲間」、「新人会」、「三期会」(現・「東京アンサンブル」)などの俳優座系の衛星劇団がいくつも生まれた。一九五三年には左翼系の新劇を否定する浅利慶太の「劇団四季」も結成された。木下順二、加藤道夫、秋元松代、三島由紀夫、安倍公房をはじめとする戦後派の劇作家も活躍していた。
これらの劇作家によって、優れた劇作がいくつも生まれたことは間違いない。だが、戦前派の指導者を中心に再出発・再編成されたためもあって、戦後の新劇界は、文学における「戦後文学」に匹敵するような、「戦後演劇」の新しいかたちを総体として作り出さないまま、一九六〇年代を迎えた。
長く新劇を見続けてきた演劇評論家の森秀男が指摘する通り、「近代劇の完成、もしくは演劇を通しての近代の完成という戦前と同じモチーフで活動を再開した新劇の担い手たちは、敗戦を契機にした希有な社会的転換と、それに続く歴史の大きなうねりの中で、演劇という表現の構造を根源から問い直すことに目を向けなかった。戦後という時代に対応し、戦前と違う新しい演劇の形を作り出す課題を、新劇は置き去りにしてしまったのである」(「戦後新劇と現代演劇」)。
小劇場運動の担い手たちはこのような新劇を乗りこえることをめざし、結果として現代劇の新しい表現の領域を切り開き、わが国の現代演劇の構図を大きく転換させたのだった。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.7-9.
このあと、60年安保闘争のことが書いてある。この部分、扇田さん自身の大学入学直後の衝撃がいまも尾を引いていて、生々しい。ぼく自身は60年安保世代より10年ほど遅れて生れた世代(つまり70年全共闘世代の最後)なので、直接には知らないが、60年安保の昂揚、樺美智子の死や吉本隆明の演説、岸首相の悪玉イメージなどは、一種の輝くレジェンドとして高校生のぼくらに伝わっていた。安保改定は60年に強行され、しかし、10年経ったら見直しの交渉をすると決まっていた。だから、ぼくらは当然70年にまた激しい反対闘争が起ると思っていたし、どこかでその季節を期待してもいた。そして、実際69年からの「政治の季節」は確かにやってきた。ただし、60年とはやや違ったかたちで。
「小劇場運動の担い手たちの共通体験として見逃せないのは、彼らの多くが学生時代に参加した一九六〇年の安保闘争、正確には日米安全保障条約改定を阻止するための闘争である。一九六〇年前後の熱い「政治の季節」は、圧倒的な力で当時の演劇青年たちを激しい渦の中に巻き込んだのだ。
私自身も訳が分からないまま安保闘争のデモに参加した一人だった。都内の私立高校を出て東京大学に入ったのが六〇年四月、闘争がピークを迎えようとしていた時期だったから、入学するとたちまち闘争の熱気に包みこまれた。その時の東大教養学部自治会の委員長は西部邁で、彼の暗い情念的なアジテーションは多くの学生を日本共産党と対立する反代々木系の激しいデモに駆り立てた。政治的にはまるで無知で、闘争に徹する度胸もないまま、私はデモの周辺でうろうろしていたが、六月四日のストでは仲間の学生たちと一緒に国鉄の電車を止めるために尾久の機関区の線路に徹夜で座りこんだ。全学連主流派が南通用門から国会に突入し、警官隊との激突で東大生の樺美智子が死んだ六月十五日の夜は現場にいた。その日、私は別の市民グループのデモに加わっていたのだが、学生たちが国会に突入したという話を聞き、南通用門に駆け付けたのだった。学生たちを支援するために国会構内で演説した詩人の吉本隆明の演説が、雄弁な全学連のリーダーたちに比べ、実に不器用でとつとつとしていたのを覚えている。
およそ政治的人間ではなく、左翼でもない唐十郎でさえ、明治大学時代に出会った六〇年安保闘争では、岸首相の訪米を阻止するために羽田空港に座り込んだ。ただし、デモに参加しても、そこはいかにも唐十郎的だった。そのころ、明大の学生劇団ではイプセンの『民衆の敵』の稽古をしている最中だった。そこで唐は靴屋のペックの舞台衣装に長靴をはき、杖をつき、警官がこわいので剣道着までつけてデモに参加した。つまり、デモに演劇の遊戯性を持ち込んだわけだが、これは闘争のリーダーから「ふざけすぎてる。政治はもっとシリアスなものだ」と批判され、ストップをかけられた。
自由劇場と「黒テント」の中心的な劇作家・演出家になる佐藤信は、都立駒場高校の二年生の時に六〇年安保闘争に遭遇した。はじめは「高校生がデモに行くなんてとんでもない」と思っていた佐藤だが、ある日、国会周辺にデモを見に行き、たまたま「飛び込んだのが、反代々木系全学連にくっついていた高校生のグループだった」と佐藤は言う。彼は「その日を境にして、いっぺんに最過激派になった」。
小林秀雄と福田恆存を愛読し、まるで左翼とは無縁だった鈴木忠志も、早大在学中の一九五八年には新島ミサイル試射場反対闘争に加わって新島に渡っている。六〇年安保闘争のころ、鈴木は早大の学生劇団「自由舞台」の委員長だったが、彼の下で「自由舞台」はイデオロギー上の対立を重ねながら、それまでの代々木路線から反代々木系全学連支持へ方向を変えていった。
別役実はさらにひたむきで過激だった。彼の自筆年譜には、「六〇年安保闘争には、いわゆる「一兵卒組」で参加、デモと芝居に明け暮れていて、授業にはほとんど出ていない」(『別役実の世界』)とある。授業料不払いで早大政経学部を中退した別役は一九六一年、新島闘争に加わった。闘争の仲間として新島で出会った文芸評論家・月村敏行はそのころの別役の風貌を、「決して派手にならない、ひっそりしたたたずまい。他人にではなく、常に自分にはにかんでいるような静やかな口調、それらにはどんなラディカルな行動も辞さない潔癖な決意がみなぎっていた」(「一介の学生、一介の精神」)と書きとめている。
六〇年代の小劇場運動の背景に、濃淡の差はあっても、かなり普遍的にこうした「闘争体験」があったことは注目していい。ことにそれが、六〇年安保闘争をきっかけに、日本共産党などの既成革新政党とは絶縁して、新しい急進的な前衛組織を作ろうとした新左翼のグループが登場した時期の闘争体験だったことは重要である。鈴木や唐の例が示すように、小劇場運動の担い手たちの多くが左翼だったわけではない。しかし、彼らが新劇の大手劇団に入ろうとはせず、苦しくても自前の小劇団を結成した動きは、時代の動向としては、新左翼の諸党派の動きと確実に並行していた。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.12-15.
大学というものが、文化にとってあるいは学問にとっても、いかなる形で生産的なのか?授業に出ないでデモや芝居に明け暮れる環境が、かつて大学にあった。大学は当局や文部省が作り上げたカリキュラムや資格ではなく、それを教えようとする教師の作為でもなく、学生自身が大学という自由な場で、自分の考えを試し、お互いに思いをぶつけ合うことで成長し飛躍する場所だった。単位や試験や成績や卒業なんか、ま、ど~でもよかった。そういう時代が確かにあったとぼくも思う。しかしそれは、反面で大学生がまだ同世代の中の上位20%の恵まれた子どもたちであり、多少なりとも大学が特権的な地位と権威を持っていたから可能なことだったと思う。そして、現在の大学をみると、もはやそういう明るく長閑なキャンパスの風景は完全に失われている。学生たちは、時間に追われ試験に追われ、アルバイトに追われて、自分たちの力で新しい何かを作り出そうとしても、時間も智恵も余裕がない。なんとかしなければ。
以前、橋爪大三郎の「猥褻という観念をもちうるのは人間だけなのはなぜか」という議論にこのブログで触れたことがあった。なぜ人のみが猥褻を恥だと感じるのか?というのは社会哲学的に興味あるテーマであるのだが、性的行為自体は、他の動物と基本的には同じ生殖行為に過ぎない。ただ人間だけが性的行為を特別なものとして隠そうとしたり、逆に見せびらかそうとしたりする。性的行為への衝動を、心理的次元も含む規範への逸脱侵犯として禁止しながら、ある閾値の範囲内では美的な価値、精神的な充足として許容する。だから、同じ生殖行為の延長としての男女のセックスが、ある場合は野蛮な暴力として糾弾され、ある場合は望ましい幸福の絶頂として祝福されさえする。
月並みな無意識からすれば、男の性的欲望を刺激する女性の身体部分を拡大するポルノやエロ、つまり物象化した性的局部をことさらに商品化するのは馬鹿げているが、男とはそういう愚劣な本質を有するのだ、という通俗的常識に陥る。他方で、女性にとっての性とは、結局子を産む生殖でしかないのかといえば、猥褻概念とは対極ではあるが、ヒトとしての女は「産む性」だけに甘んじることはできない。生命の全的解放と充足において性を男以上に味わうのか、あるいは拒否するのか、いずれにせよ自己決定権を重視するなら、権力闘争は必然だ。
そういうことを考えていたら、ある三面記事が目に入った。
「ホテルで女子高生とわいせつ行為 容疑の高校教諭逮捕/川越署
埼玉新聞 12月4日(木)23時19分配信 (http//:headlines yahooより) 川越署は4日、県青少年健全育成条例違反容疑で、越谷市、県立杉戸高校教諭の男(29)を逮捕した。男は「間違いありません」と容疑を認めている。
逮捕容疑は、10月21日午後6時ごろから同9時ごろまでの間、川越市内のホテルで、川越市、県立高校の女子生徒(17)が18歳未満と知りながら、わいせつな行為をした疑い。
同署によると、男と女子生徒は9月ごろ、ツイッターで知り合い、ラインで連絡を取り合ったり、数回会うなど交際していた。2人の関係がこじれたことから女子生徒が父親に相談。10月下旬ごろ、父親と女子生徒の2人が同署に被害を届け出た。
同高校によると、男は臨時教員を経て2011年4月に県教委に採用され、同校に国語教諭として赴任。授業や補習に積極的に取り組むなど、真面目な勤務態度だったという。
同校の益子篤行校長は「不祥事防止について日頃から職員に指導しており、事件は誠に残念。今後も学校を挙げて不祥事防止に取り組みたい」としている。」
この事件を構成する通常の論理は、青少年を健全に育成すべき高校教諭ともあろう者が、18歳未満と知りながら女子高生とホテルでわいせつ行為に及んだ、などというのはけしからぬ行為であり、逮捕され処罰されて当然である、ということになるだろう。この教師の行為は、報道の限りでみれば、金銭を介した買春ではなく、少なくとも彼にとっての主観では、恋愛の延長と思っていただろう。彼が教師であってもなくても、問われる問題は18歳未満の女性を本人の意思を無視して、「猥褻」行為を強要したかどうかにある。そのとき彼女がそれを「猥褻」行為だと感じていたとすれば、犯罪が成立する。彼はそのとき、彼女がホテルの部屋についてきた以上、これは「猥褻」行為ではなく恋愛に伴う愛情の交換だと考えていたのだろう。
法律的な判断は置いておいて、「わいせつ行為」とは具体的に彼女のどこに触ったかという事実の話ではなく、なにを「猥褻」と彼女が感じていたかという観念的人間的な問題なのだ。
B.60年安保というレジェンド
演劇の話はそろそろ終わりにしようかと思って、もう一度扇田昭彦の『日本の現代演劇』をめくり返したら、はじめの一文がひっかかった。戦前からの西洋近代演劇の伝統を引き継ぐ「新劇」は、ついに独自の方法と思想に立つ「戦後演劇」を築けなかったという。救いようもなくダメな「新劇」を否定する運動として、60年代小劇場運動が出てくる、という筋書きだ。
「一九六〇年代は、「状況劇場」「早稲田小劇場」「天井桟敷」などの小劇場系の若手劇団が数多く誕生し、新劇をはじめとする既成演劇に反旗をひるがえして、現代劇の新しいかたちを模索しはじめた時代だった。
この小劇場演劇は当時のジャーナリズムによってしばしばアンダーグラウンド演劇、略してアングラ演劇と呼ばれた。それは小劇場演劇の上演に地下の小劇場、例えば西麻布の「アンダーグラウンド自由劇場」、新宿の「アンダーグラウンド蠍座」などが使われたせいでもあるが、それ以上に小劇場演劇が当時、新劇などの正統の演劇に対する異端の演劇として見られていたためである。どこかいかがわしい芝居というニュアンスが「アングラ」という用語にはあった。だから、小劇場の演劇人たちが自分たちを「アングラ」と呼んだことはほとんどない。
それまでは日本で現代劇と言えば、「文学座」、「俳優座」、「民芸」などの大手劇団に代表される新劇のことだった。新劇は明治時代に、ヨーロッパ演劇の影響を受け、能、文楽、歌舞伎などの伝統演劇とは違う、商業演劇に属さない日本の近代演劇をめざして誕生した演劇の分野である。
左翼的なイデオロギーの影響が強かった新劇は、第二次大戦が迫るにつれて厳しく弾圧され、多くの新劇人が逮捕されて転向を強制されたり、戦争中は戦意高揚のための軍事劇に駆り出されたりした。
戦後、抑圧から解放された新劇は隆盛だった。杉村春子、中村伸郎らの文学座、千田是也、小沢栄太郎、東野英次郎らの俳優座、宇野重吉、滝沢修らの民芸、山本安英を中心とする「ぶどうの会」など、戦前からの新劇人が率いる劇団が活発な公演活動をつづけた。一九五〇年代には「青年座」、「仲間」、「新人会」、「三期会」(現・「東京アンサンブル」)などの俳優座系の衛星劇団がいくつも生まれた。一九五三年には左翼系の新劇を否定する浅利慶太の「劇団四季」も結成された。木下順二、加藤道夫、秋元松代、三島由紀夫、安倍公房をはじめとする戦後派の劇作家も活躍していた。
これらの劇作家によって、優れた劇作がいくつも生まれたことは間違いない。だが、戦前派の指導者を中心に再出発・再編成されたためもあって、戦後の新劇界は、文学における「戦後文学」に匹敵するような、「戦後演劇」の新しいかたちを総体として作り出さないまま、一九六〇年代を迎えた。
長く新劇を見続けてきた演劇評論家の森秀男が指摘する通り、「近代劇の完成、もしくは演劇を通しての近代の完成という戦前と同じモチーフで活動を再開した新劇の担い手たちは、敗戦を契機にした希有な社会的転換と、それに続く歴史の大きなうねりの中で、演劇という表現の構造を根源から問い直すことに目を向けなかった。戦後という時代に対応し、戦前と違う新しい演劇の形を作り出す課題を、新劇は置き去りにしてしまったのである」(「戦後新劇と現代演劇」)。
小劇場運動の担い手たちはこのような新劇を乗りこえることをめざし、結果として現代劇の新しい表現の領域を切り開き、わが国の現代演劇の構図を大きく転換させたのだった。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.7-9.
このあと、60年安保闘争のことが書いてある。この部分、扇田さん自身の大学入学直後の衝撃がいまも尾を引いていて、生々しい。ぼく自身は60年安保世代より10年ほど遅れて生れた世代(つまり70年全共闘世代の最後)なので、直接には知らないが、60年安保の昂揚、樺美智子の死や吉本隆明の演説、岸首相の悪玉イメージなどは、一種の輝くレジェンドとして高校生のぼくらに伝わっていた。安保改定は60年に強行され、しかし、10年経ったら見直しの交渉をすると決まっていた。だから、ぼくらは当然70年にまた激しい反対闘争が起ると思っていたし、どこかでその季節を期待してもいた。そして、実際69年からの「政治の季節」は確かにやってきた。ただし、60年とはやや違ったかたちで。
「小劇場運動の担い手たちの共通体験として見逃せないのは、彼らの多くが学生時代に参加した一九六〇年の安保闘争、正確には日米安全保障条約改定を阻止するための闘争である。一九六〇年前後の熱い「政治の季節」は、圧倒的な力で当時の演劇青年たちを激しい渦の中に巻き込んだのだ。
私自身も訳が分からないまま安保闘争のデモに参加した一人だった。都内の私立高校を出て東京大学に入ったのが六〇年四月、闘争がピークを迎えようとしていた時期だったから、入学するとたちまち闘争の熱気に包みこまれた。その時の東大教養学部自治会の委員長は西部邁で、彼の暗い情念的なアジテーションは多くの学生を日本共産党と対立する反代々木系の激しいデモに駆り立てた。政治的にはまるで無知で、闘争に徹する度胸もないまま、私はデモの周辺でうろうろしていたが、六月四日のストでは仲間の学生たちと一緒に国鉄の電車を止めるために尾久の機関区の線路に徹夜で座りこんだ。全学連主流派が南通用門から国会に突入し、警官隊との激突で東大生の樺美智子が死んだ六月十五日の夜は現場にいた。その日、私は別の市民グループのデモに加わっていたのだが、学生たちが国会に突入したという話を聞き、南通用門に駆け付けたのだった。学生たちを支援するために国会構内で演説した詩人の吉本隆明の演説が、雄弁な全学連のリーダーたちに比べ、実に不器用でとつとつとしていたのを覚えている。
およそ政治的人間ではなく、左翼でもない唐十郎でさえ、明治大学時代に出会った六〇年安保闘争では、岸首相の訪米を阻止するために羽田空港に座り込んだ。ただし、デモに参加しても、そこはいかにも唐十郎的だった。そのころ、明大の学生劇団ではイプセンの『民衆の敵』の稽古をしている最中だった。そこで唐は靴屋のペックの舞台衣装に長靴をはき、杖をつき、警官がこわいので剣道着までつけてデモに参加した。つまり、デモに演劇の遊戯性を持ち込んだわけだが、これは闘争のリーダーから「ふざけすぎてる。政治はもっとシリアスなものだ」と批判され、ストップをかけられた。
自由劇場と「黒テント」の中心的な劇作家・演出家になる佐藤信は、都立駒場高校の二年生の時に六〇年安保闘争に遭遇した。はじめは「高校生がデモに行くなんてとんでもない」と思っていた佐藤だが、ある日、国会周辺にデモを見に行き、たまたま「飛び込んだのが、反代々木系全学連にくっついていた高校生のグループだった」と佐藤は言う。彼は「その日を境にして、いっぺんに最過激派になった」。
小林秀雄と福田恆存を愛読し、まるで左翼とは無縁だった鈴木忠志も、早大在学中の一九五八年には新島ミサイル試射場反対闘争に加わって新島に渡っている。六〇年安保闘争のころ、鈴木は早大の学生劇団「自由舞台」の委員長だったが、彼の下で「自由舞台」はイデオロギー上の対立を重ねながら、それまでの代々木路線から反代々木系全学連支持へ方向を変えていった。
別役実はさらにひたむきで過激だった。彼の自筆年譜には、「六〇年安保闘争には、いわゆる「一兵卒組」で参加、デモと芝居に明け暮れていて、授業にはほとんど出ていない」(『別役実の世界』)とある。授業料不払いで早大政経学部を中退した別役は一九六一年、新島闘争に加わった。闘争の仲間として新島で出会った文芸評論家・月村敏行はそのころの別役の風貌を、「決して派手にならない、ひっそりしたたたずまい。他人にではなく、常に自分にはにかんでいるような静やかな口調、それらにはどんなラディカルな行動も辞さない潔癖な決意がみなぎっていた」(「一介の学生、一介の精神」)と書きとめている。
六〇年代の小劇場運動の背景に、濃淡の差はあっても、かなり普遍的にこうした「闘争体験」があったことは注目していい。ことにそれが、六〇年安保闘争をきっかけに、日本共産党などの既成革新政党とは絶縁して、新しい急進的な前衛組織を作ろうとした新左翼のグループが登場した時期の闘争体験だったことは重要である。鈴木や唐の例が示すように、小劇場運動の担い手たちの多くが左翼だったわけではない。しかし、彼らが新劇の大手劇団に入ろうとはせず、苦しくても自前の小劇団を結成した動きは、時代の動向としては、新左翼の諸党派の動きと確実に並行していた。」扇田昭彦『日本の現代演劇』岩波新書、1995.pp.12-15.
大学というものが、文化にとってあるいは学問にとっても、いかなる形で生産的なのか?授業に出ないでデモや芝居に明け暮れる環境が、かつて大学にあった。大学は当局や文部省が作り上げたカリキュラムや資格ではなく、それを教えようとする教師の作為でもなく、学生自身が大学という自由な場で、自分の考えを試し、お互いに思いをぶつけ合うことで成長し飛躍する場所だった。単位や試験や成績や卒業なんか、ま、ど~でもよかった。そういう時代が確かにあったとぼくも思う。しかしそれは、反面で大学生がまだ同世代の中の上位20%の恵まれた子どもたちであり、多少なりとも大学が特権的な地位と権威を持っていたから可能なことだったと思う。そして、現在の大学をみると、もはやそういう明るく長閑なキャンパスの風景は完全に失われている。学生たちは、時間に追われ試験に追われ、アルバイトに追われて、自分たちの力で新しい何かを作り出そうとしても、時間も智恵も余裕がない。なんとかしなければ。
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