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ファシズム・トータリタリアニズム・ミリタリズム? 「苦海浄土」

2018-04-07 00:46:31 | 日記
A.ファシズム、トタリタリアニズム、ミリタリズム・・の分析
 第二次大戦が、枢軸国側の壊滅的敗戦で終ったあと、ヨーロッパの人びとはこの悲惨な戦争をもたらした元凶であるヒトラーやムッソリーニが、どうして強大な権力を握ってしまったのか、いったいあれは何だったのか、をうまく説明してくれる理論を必要としていた。しかし、それは本格的戦争になる前に書かれたノイマンの『ビヒモス』やサルヴェーミニの『ファシズムの斧の下で』くらいしかなく、実際それはよく読まれたのだが、ナチスやファシスト党が滅んだ後で出てきたさまざまな事実や記録が反映されておらず、たんに感情的体験的な言説ではなく、もっと本質を突いた社会科学的分析が現われることが期待された。
 「ファシズム」はイタリアのファシスト党からくるのだが、ナチスに対してもファシズムとして規定された。しかし、やがて東西冷戦が厳しい緊張対立になると、「全体主義」の名で、ナチスの独裁もスターリンのソ連も同じ専制体制としてみるようになる。そこで登場したのが、ハンナ・アーレントの『全体主義の起源』The Origines of Totalitarianism(New York, 1951)になる。

「第二次大戦が終わってから半世代の経過の間には、ファシズムに関する総論的ないしは比較研究の著作で重要なものは――かつてのファシズム諸国でもアングロ=アメリカ世界でも――一冊も現れなかった。だが同時に、1945年から1960年の時期には、サルヴェーミニやノイマンが推定にとどめざるをえなかったさまざまな仮定を裏付けたり訂正したりする大量の記録が発掘され、またそれに応じて、イタリアやドイツの経験の個々の局面に関する多くのモノグラフや論文が発表された。実際、この資料の量はあまりに夥しいものであったので、学者たちは新しい総合を試みるのをしり込みするほどであった――ノイマンが『ビヒモス』を改訂することも計画した独裁制に関する研究を書くこともできなかったのが、それをよく示している。こういう総合がなされないままに、「ファシズム」という言葉それ自体は効力を失いはじめた。そして、今日、歴史家や政治学者の間でもジャーナリストや公共政策の立案者の間でも通用している言葉は、「全体(トタリタリア)主義(ニズム)」である。
 今から考えると、「全体主義」という視点からの諸論議の流行は、とくにアメリカ合衆国においては、冷戦の副産物であった。1940年代末から1950年代初めにかけて、この言葉は、一つの敵を打ち破ったばかりのアメリカ人ないしイギリス人――また亡命者たち――が、その政府によってもう一つの敵と対峙するように求められて、これに情緒的に再適応する際のショックを和らげるのに役立ったものであった。ナチズムとコミュニズムがほとんど全く同じものだということを明らかにできれば、かつての連合国の一国に対する冷戦を、かつての敵国に対してきわめて効果的であったことが証明されているレトリックで正当化しえよう。そして、その証拠には、ファシズム・イタリアにはもうあまり関心が向けられなくなった。今肝心の点がナチ・ドイツとソヴィエト連邦の対比であれば、ムッソリーニのよりゆるい統治は、論理必然的に、全体主義以前的専制のすでによく知られた現象のドラマティクな一表出にすぎないものとして、片付けることができた。そこでまた、『ビヒモス』のような著作は、そういう新しい知的体制順応主義にはあわなかった。その分析のラインは、最高潮に達した冷戦のいい気な確信とは衝突するものであった。ノイマンは、たしかに「全体主義的」という言葉を使った。しかし、かれはこの言葉を控え目に、ただコンテクストが明瞭である場合にだけ用いた。かれは、冷戦のアポロジストたちがしたようにファシズム社会と共産主義社会の区別をぼかすように勝手に利用したりは、決してしなかった。このことがまた、1945年以降かれの著作が忘れ去られることになったもう一つの理由であった。

  新しい段階に入って書かれた著作のなかで、もっとも該博で最も心に響く書は、冷戦が頂点に達した1951年初めにあらわれたハナ・アーレントの『全体主義の起源』であった。その数週間前には、アメリカ軍と南朝鮮軍は、中共軍によって鴨緑江から押し戻されていた。スターリンは、のちにアレクサンドル・ソルジェニツィンが『第一の輪』で心も凍るように描き出した殺人癖の狂気にとりつかれていた。そして、それまでになかったほど――またその後もなかったほど――アメリカとソ連は戦争の瀬戸際にきているようにみえた。『全体主義の起源』が対決したのは、そのような緊迫したイデオロギー的雰囲気に対してであった。そのころまでは無名であった著者は、たちまち高名な知識人となった。1906年に生れ、哲学者カール・ヤスパースの愛弟子であったハナ・アーレントは、二〇世紀の専制政治の研究に、実存主義の用語を多用しながら、先行者の誰よりもきびしい倫理的判断への転換をもたらした。
彼女の攻撃方法は、三重のものだった。一九世紀末に、表面は相互に無関係な三つの運動が一つに収斂して、やがて第一次世界大戦後になって全体主義にまで発展した心的態度と政治活動のタイプをつくり上げた、と彼女は論じた。それらの運動に共通していたものは、ヨーロッパの階級構造と国民国家の観念の崩壊を反映し――かつ促進し――ていたことであった。階級と国民国家とは、人権に内実を与えていたものであった。それらがなくなると、人権は単なる抽象になった。ヨーロッパ社会の基本的諸制度が解体するとともに、「今世紀の災厄となったもの」に対する障壁がなくなった。というのも、「この呪うべき災厄は、恐怖をふりまきつつ妨げとなるものを取り除いたのだから」である。
  この下地となった運動の第一のものは、反ユダヤ主義であった。ユダヤ人は無法なデマゴギー的煽動のためのスケープゴーツにされたというありきたりの説明を斥けて、アーレントは、ユダヤ人が必然的に標的になった理由をみつけようとした。そして彼女は、ユダヤ人が有害だと目をつけられたのは、かれらが国民国家と密接に結びついていたからだと考えた。ヨーロッパ諸国の政府の金主として、かれらは、国家のうちに打倒すべき敵をみる諸々の政治運動の憎しみを受けたのである。だが、その場合皮肉なことに、反ユダヤ主義が実際に大きくなったのは、ユダヤ人が影響力をもたなくなってからであった。一九世紀末の滔々たる帝国主義の潮流のなかで、かれらは国家の事業をほとんど独占するような地位を失った。ヨーロッパのユダヤ人は、「その役に立たなくなった富のゆえにすべてのものの憎悪の対象となり、また権力に欠けるがゆえに軽侮の対象となった」のだと、アーレントは考えた。
  一方、第二の運動である海外帝国主義は、国民国家の基礎を掘り崩していた。「膨張のための膨張」の原理としての帝国主義は、後進地域を国民国家の支配下においたが、それはヨーロッパの政治的枠組みには統合されえないものであった。さらに、「未開人」や全く異質の人間の膨大な群に出会うという新奇な経験は、ヨーロッパ人に良心の痛みを忘れさせ、何のやましさもなく大量殺戮や言語に絶する野蛮をほしいままにさせた。歴史上はじめて、人種主義が自覚的な理論となり実践となった。そして、まさに人種主義が、「労働の蔑視、領土制限への憎悪、全般的な根無し草化、そして……自らへの選民性への行動的な信仰」を伴って、来るべき運動をもっとも深いところで特徴づけているものであった。
  海外帝国主義は、一つのとりえがあった。それは少なくとも、植民方策と国内政策との間に鋭い一線を引いていた。だが、第三の運動――アーレントが「種族的ナショナリズム」と呼んだもの――とともに、この一線も消滅した。汎ゲルマン主義と汎スラヴ主義においては、「統合的膨張の考え方」が「植民地での方策や制度と国内のそれとの間の地理的隔たりを許さ」なかった。この新しい形のナショナリズムは、共通の言語を話すすべての個々人を一つに統一するという表向きの目的の下で、実際には主人たるべき人種の世界支配を唱道していたのである。それは、国民的な、また個人的な野望を満たされないでいるものたちに、自分たちが優越しているという自慰的な確信を与えた。
  以上のような三つの運動から、全体主義が生じたと、アーレントは結論した――それは、世紀の転換期に、社会的特権を失った知識人のリーダーシップの下に一体となった、「モッブ」の前例のない狂気と「一切の階級の拒斥」であった。その後に続いた社会構成員のあらゆる類別の解体は、「モッブ」を「マス」に解消した。大衆(マス)――時代の「余計者」――は、失うべき何ものも持たず、リーダーに追随して全く非合理でやみくもな投機的冒険に走った。かれらが求めたものは、なにかかれらよりも大きなものに合体すること、無力な個人性を、セシル・ローズの言葉でいえば「諸大陸にまたがって考え、世紀をこえて感ずる」ような運動に委ねることであった。そして、かれらのリーダーたちは、すでに常識〔共通感覚〕が通用しなくなった現実世界に自分流の狂気じみた一貫性をもちこんで、「乱暴に常識を蔑視」するような虚構の世界をかれら大衆に与える用意ができていたのである。 

 気負った文章で資料をこえた大胆な意図的解釈を展開する『全体主義の起源』は、歴史解釈のアマチュア性と衝撃的効果をねらう点で、ボルゲーゼの『ゴリアテ』を思わせた。しかし、それがつきつける知的要請はもっときびしいものであった。ハナ・アーレントは、読者に対して譲歩しなかった。読者は、彼女の考えの曲折しているが一貫した筋道に最後まで従うか、それともその努力をまったく放棄するか、いずれかせざるをえなかった。
 彼女の著作を悪戦苦闘して読んだものたちは、どれくらい疑わしい、また実証的には誤っている見方を受入れたのか気づかずにいる場合がありえた。たとえば、冒頭から彼女は、何の証拠もなしに、大金融業者がヨーロッパのユダヤ人社会のリーダーともなりシンボルともなったと読者に断言して、この不確かな基礎の上にその反ユダヤ主義の解釈のすべてを基かせた。また同じように、二〇世紀のイギリスが、海外においても「いたるところ狂気の行為にみちているなかで穏健さ」を代表していたことを進んで認めた場合にも、イギリス帝国主義についてその論拠を決してくわしくは説明していなかった。だが、何よりも重大なことは、「全体主義的」現象のナチ的形態とソヴィエト的形態の違いを見のがし、ないしは軽視して、この二つを「本質的に同じもの」として論ずる主張であった。
 アーレントは、いうまでもなくロシアよりもドイツをよく知っていた。そこで、しばしば彼女は、ヒトラーの経験をソヴィエトの経験に外挿しているようであった。ナチズムに関しては、イデオロギー的背景を十分に明らかにしたが、ボルシェビズムの場合については、四半世紀を飛びこえた、汎スラヴ主義者の煽動からスターリンの制覇に短絡した。そして、ソヴィエト共産主義をナチズムとイデオロギー的に同工のものとしながら、どのようにそうなったかについては、適切な説明を与えていなかった。ロシアにおける古典的マルクス主義の運命や、汎スラヴ主義的要素がスターリン主義の教条にまじりこんでいった複雑な過程――これらについては、彼女はわずかの文章で片付けた。それだけでなく、彼女が基本的に全体主義を狂気だとしていたことは、共産主義のもつ経済的合理性について目をふさがせることになった。ソヴェトの現実は、ナチ方式よりもずっと合理的であるとともにより全体主義的でもある点で、彼女の一般的定式とは喰違っていた。こうして、彼女の説くところはロシア共産主義にいっそう大きな弾力性と持続性を与えていたこの二つの体制の間の差異を、何ら説明しえていなかった。
 いうまでもなく、基本的な相違は、経済組織とそこから来る権力関係にあり、サルヴェーミニとノイマンはそれをあれほど強調したのであった。ハナ・アーレントの論議は、彼女が受けてきた学問上の訓練の性質から、経済学にはほとんど全く無知なものであった――だから彼女は、ソヴェトの工業計画を「狂気」の例証として片付けたのである。このことは、その他彼女の書中の多くの点とともに、この書が刊行された時代の刻印を帯びていた。そして、全く面白いことに、この書は、あのファシズムという出来事により近い時点で書かれた分析よりも、急速に時代遅れのものになったのである。」スチュアート・ヒューズ『大変貌 社会思想の大移動 1930-1965』荒川幾男・生松敬三訳、みすず書房、1978.pp.90-94.

確かにヒトラーのナチス体制と、スターリンのソ連邦は独裁的権力としては共通する面があるとしても、社会体制や経済への取り組み方は大きな違いがあり、アーレントはそこを見ていない、というのは確かだろう。戦争や軍国主義への反省という点で、日本の場合を考えてみると、戦後間もなくから丸山眞男が展開した大日本帝国の政治体制分析では、「日本ファシズム」と呼ばれていた。もちろんそれは「日本型ファシズム」であって、イタリアやドイツとは違う側面が多々あることは丸山は自覚していた。なにより日本のファシズムは、右翼政党という形で権力を握ったのではなく、軍部という別の組織が天皇制を利用する形で独裁的権力を握った点に特徴がある。それは全体主義的でナショナリズムを強調したのも共通してはいるが、カリスマ的指導者として東条英機をもってくるわけにはいかないから、欧米目線ではヒトラー、ムッソリーニと並べるとすればヒロヒトになってしまうが、日本人からすればこれも違うだろ・・になる。



B.「苦海浄土」のひと
 石牟礼道子といえば、水俣病の患者に寄り添い、その声を言葉にして大きなうねりにした作家として知られる。その石牟礼さんの死は、不知火海と天草の風景に投影される痛みの記憶のようなものか。

「終わりと始まり/石牟礼道子の影:「病」を引き受ける  池澤夏樹
 石牟礼道子さんがこの二月の十日にお果てになった後、どうも心に力が入らない。とりわけ石牟礼さんに関わることをする気になれない。短い追悼の文を書いて、あとは黙然としていた。
 それではならじと、四十九日の後で熊本に行った。この間、魂は中有に留まり、然る後に次のステージに進む。この日数が残された者が死別の辛さから仮の恢復をするに必要な期間、と古代の仏教信者は考えたのだろう。生者は悲傷に身を任せてばかりではいけないのだ。

 残された者たちの心を慰める方法の一つに故人について語るということがある。だからぼくは熊本でまず渡辺京二さんを訪ねた。五十年に亘って石牟礼道子の文業を支えた協力者である。その一方でご自身の著作として立派な本をたくさん書かれた。
 気落ちした同士が逝った人のことを話して元気の回復を図る。ぼくはもっぱら聞き役に回った。あの人がいかに奔放で、ワガママで、精力に満ちて、周囲の人々を振り回したか。いかにしてその場その場でなすべきことを思いつき、その実行を周囲に求めたか。
 ぼくは渡辺さんが語るエピソードの数々を聞きながら、石牟礼道子はいわば異界から送られる叡智の蛇口だったのではないかと思った。そういう役割を担わされた者として水俣病の患者たちに添った。結果お上に楯突く闘争があれだけ幅広く長く展開された。
 渡辺邸を辞して、近くの真宗寺に赴く。ここには熊本時代の石牟礼さんの資料がすべて収められ、有志の人々の手で整理と保存の作業が進められている。まず驚いたのは膨大な蔵書である。石牟礼道子はどんな時にもインテリを装わず、水俣の一介の主婦のような顔を保っていた。しかし自力であれだけの著作ができたはずはない。島原の乱を書いた『春の城』に関わると思われる本だけでもとんでもない量。
 さらには多数のノート、日記、メモの類がある。ぼくは日記の一部、「苦海浄土」が講談社から刊行されると決まったとの通知を受けた時の喜びを綴った一節を見て、この人にまた一歩だけ近づいた気がした。

 翌日、水俣に行った。
 この町で石牟礼さんに縁の深いところを一人で勝手に歩き、不知火海を望むことで墓参の代わりとするつもりだった(いや、前の日に真宗寺でお骨を前にして「釋尼夢劫」というご自身が生前に決めておかれた戒名に手を併せはしたのだが)。
 思いもかけず、道子さんの妹の妙子さんが迎えて下さった。かつて道子さんの夫の弘さんが退職金で建てた家にあがり、石牟礼さんの執筆部屋兼書庫にしばらく座る。
 たまたま机上にあった原稿用紙に、下書きなのか短い文章があった。挨拶文の草稿だろうが、のびのびとしたいい字だ――「さきの頃は御高著二冊と御丁重なお手紙を頂戴いたしまして、たいそう恐縮に存じ、ありがたく存じました。」とこれだけで先がないのだが、なんとも味が深い。
 この家でも逝った人の思い出の話ばかり。それが際限もなくあふれ出る。
 その後、湯の児まで行って不知火海と向き合った。この日は春らしく暖かい日射しで、海には霞がかかっていた。対岸に天草の御所浦島がぼんやりと見える。この景色を前に以前から思っていたことを改めて考えた。
 石牟礼さんは十五年ほど前からパーキンソン病を背負っておられた。向き合って話していても首が左右にわずかに揺れる。辛い時とまだしもましな時がある。お訪ねして、症状が穏やかになるまで少し待ったこともあった。
 この十年の間、ぼくはこの病気を石牟礼さん個人に属するものと思ってきた。一般に病気はその人のものとされるが、その常識に従って疑いもしなかった。快癒は無理としても日々がなるべく楽なようにと願うだけだった。
 その一方、『苦海浄土』にはこういう一節があるのも知っていた――
「チッソの病を替って病んでやっているので、患者たちはそんな風に言った。(中略)。――お前たちが病まんけん、俺たちが病むとぞ」
 身体が不随意に動く神経系の病気という点でパーキンソン病は水俣病に似ているが、原因と結果の関係は異なる。パーキンソン病の罹患はただ不運といえるだろう。
 それでも、ぼくは何回もお目に掛かりながら、石牟礼さんがぼくの替りにこの病を引き受けてくれるのだ、という考えは一度も浮かばなかった。もしもそう言ったら何と仰ったか、春の海を前にしてそれが気になってならない。魂の共感能力が自分には不足しているとしみじみ思った。
 すべての病いは万物の病い、それを誰かが引き受けてくれるとは考えられないだろうか。アニミズムの世界観とはそういうものではないか。」朝日新聞2018年4月4日夕刊、3面文化欄。

 ひとの痛みや苦しみを自分のものとして感じる能力は、ある種の霊媒とかアニミズムの根にあるのかもしれないが、ぼくらはふつう自分の痛みをできたら誰かに替わってほしいとは思っても、人の痛みを替わって苦しんであげようとは思わないし、そんな能力があるとは思っていない。しかし、石牟礼さんの本を読んでいると、そういうことをこの人は感じていたのかもしれないと思う。
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